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獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
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第五章

 第五章



 人間たちのアジトは、ビル街の高層ビル群に紛れ、地上三十二階建ての建物として屹立していた。

 ポポの案内で到達した、大将を先頭にした動物たちの集団は、その巨大なビルを囲う低い塀のギリギリの高さに、いずれも這いつくばうように隠れていた。闇に紛れたカラスたちの報告で、入り口に見張りと思しき男が四人ほど、手に物持って佇んでいるのが確認されたためだ。

 本来は円川町を代表する大会社であるそこは、時間のためにほとんど全体が濃い宵闇に覆われている黒い塊なのだが、ただ一箇所だけ、後ろに浮かぶそれと寸分違わぬ大きさと形の月があしらわれている部分がある。

 動物たちは忙しなく首を回転させ、左右対称に流れていく雲で隠されたり現れたりする二つの月を見比べては、不思議そうに顔を歪めていた。これまでの人生とここまでの道程で、どちらが本物であるかの見極めはついているが、分裂している原因まではわからないのだ。

「ミラービルなんだ」

 ポポは偽物の月の描かれた塊をそう言い表した。大将を始め、多くの動物たちには馴染みのない単語であり、それを見越して解説を加える。

「ミラービルっていうのは、外側が普通のビルと違って鏡みたいになってるビルのことさ。あんな風に景色が反射してるだろう? よく見ないとどっちが本物でどっちが偽物か見分けがつかなくなる。僕らの仲間も空と間違えて窓にぶつかって怪我をすることがある。偵察隊が見つけられなかったのも無理はない」

「それを見つけちゃうなんて、さっすがお兄ちゃんだね!」

 ロロがあまり状況にそぐわない口調で言った。ポポは返事をする代わりにしみじみと続ける。

「やっぱり人間は侮れないね。ここが僕らのアジトから近いというわけではないし、もっと大きな建物は他にもある。きっと僕らに見つけられないようにするために、ここをアジトにしたんだろう」

 ポポの推測は的中していた。

 ミラービルは外面がマジックミラーになっており、内側からなら個々人の視力と遮蔽物の兼ね合いの分だけ外が見えるが、対照的に外からではいくら睨み付けたところで反射している周りの風景を目にするだけで、少しも内部を見通すことはできないものである。

 その特性を活かしてここをアジトにすることを決めたのは瑠香だ。

 人間たちを説得するときに用いた材料も、外からでは内部がわからないという利点と、それがために動物たちに見つけられないだろうという確信に近い蓋然性に依拠していたのである。

 現状では正否を確かめることのできないポポの憶測はともあれ、建物の構造とこれまでここを発見できなかった理由は理解した。大将は鷹揚に頷いてポポに尋ねる。

「エレベーターはあると思うか」

「僕らのアジトより二倍は大きい。ないはずないと思うよ」

「操作は可能か」

 見ずして大将がそれと感じられる時間首を捻ってから、ポポは答えた。

「やってやれないことはないと思う」

「よし」

 大将は頷いて反転する。すぐ真後ろに左右の肩にポポとロロを乗せた四つん這いのタクローが、そしてその後ろにその他諸々がいるのを確認し、もう一度頷く。

「作戦を話す。一度しか言わんぞ」

 前置きに動物たちが身構えたのを見計らい、大将は一つ一つを噛み締めるように告げていく。

「俺とタクローとポポでエレベーターを使い、建物の中間ぐらいまで登る。俺はそこから上の階を担う。お前はそこから下へ向かって人間たちを追い立てろ」

 あごで示されたタクローは神妙な顔を黙って頷かせた。

「それ以外のうち、足に自信のある半分は一階から順に登って攻め込んでいけ。もう半分は一階で待ち構え、逃げ出そうとする人間を待ち伏せしろ」

 チーター、トラ、オオカミなどが前半で頷き、ワニ、サイ、ゴリラたちが後半に頷いた。

「偵察隊は純平とサラの捜索に当たれ。お前もエレベーターの操作の後は捜索に参加しろ」

「任しといて」

「了解」

 ロロが胸を翼で叩き、大将に目線を送られたポポも小さく答える。

「くれぐれも言っておくが」

 与えられた任務に全ての意識を取られかけた動物たちをその言葉で引き戻し、大将は釘を刺す。

「人間を殺すな。できるだけ傷付けず、絶対に生かせ。ただしあの子供だけは例外とする」

 純平を思い浮かべて返事や反応をしようとしたところで、その姿がマシンガンを乱発させる瑠香の不気味な笑顔に入れ替わり、動物たちは口をつぐんで身を強張らせる。

「何をしても構わん。見つけ次第確実に仕留めろ。手に負えないと思うのならば俺を呼べ。行くぞ」

 大将は仲間の萎縮に構うことなく続けていき、自分を賭してでも瑠香の制止を遂げる決意をさりげなく明かして動物たちを内心で驚嘆させると、簡潔な呼び掛けを最後に体勢を戻すなり稲光の如く駆け出した。

 見張りの男たちは、塀から飛び出した何かに、それぞれわずかな時間差を要して気がつく。

 それがライオンだと認識したときには、一人は大将の頭突きを鳩尾に食らって失神しており、残りの三人は絶叫していて、そのうちの一人は後ろ足で立ち上がった大将の右前足の拳を頭に振り下ろされて膝から崩れ落ち、ようやくその場から離れることを思い立って実行に移そうとした残り二人は、追い付いたタクローに揃って背中を殴られ同時に転倒した。

 一連の間に開いた自動ドアから大将を先頭にした動物たちが内部へ侵入すると、そこは各所で無数の蛍光灯が煌々と照り輝いていて、さながら日中だった。

 思わず目を閉じ顔を伏せてやり過ごそうとするが、ちょうど各々の用のために遠近にいた人間十数人が、絶叫や悲鳴や怒号を交錯させて逃げ出したり襲い掛かってきたりしたため、痛む瞳を堪えて攻撃し応戦しなければならなかった。もっとも力の差は歴然としており、ほとんどの喚声は立ち昇った直後に途絶え、異変に気がついた人間たちは様々な場所から出現しては、退くことも向かうこともできずに昏倒させられていった。

「大将! タクロー! こっちこっち!」

 やがて光に目が慣れてきた頃、階段の傍らにエレベーターを発見したポポが、大将とタクローに呼び掛けながらそこに向かって飛んでいった。大将は背中に覆い被さった女を、タクローは脇を抱えた男を、すでに意識を喪失させているそれぞれを怪我しない程度に床に放って走り出す。

 そこには自分たちの姿を、二本足で立っているタクローの全身までをも反射する銀色の扉があった。アジトのものと似て非なる形状と大きさを持ち、圧倒的に異なった色合いを有しているそれは、壁に埋め込まれて三つ並んでおり、それらにそれぞれ挟まれた二箇所に、上下に対になった上と下を向いた三角のボタンがあった。到着とともにポポは左側の上を向いたボタンを突付いた。三角が光り、少し経って右端の扉が開いた。

 押されたボタンより一番離れている扉が開いたことに三人は三様に首を傾げた。ボタンが押された階に一番近い所のものが作動したのだという仕組みまではわかっていないのである。

 兎にも角にもとばかりに大将がそこへ駆け込み、その頭上をポポが翔け、その後にタクローが続く。

 中はさしずめ直方体の箱だった。タクローが二本足で立っていても、試しに背伸びをしても、天井に頭がつかないほど高い。奥行きもポポがデパートの外から見ていたものより広かった。

 ポポは感心するのを止めて真後ろに向き直り、ボタンを確認した。

 扉の右に据え付けられた、一見すると無数にあるボタン。実際は地下二階から三十二階までの三十四個の四角いボタンが、奇数を左に偶数を右に二列ずつ横に並んで、それが縦に十七個ずつ連なっているのである。

 密集しているそれらから距離をとって低いところに並んでいる、向かい合った矢印と離れ合った矢印のボタンと、対照的にずっと高いところにある、円くて電話の絵があしらわれているボタンは、明らかな位置的な差があるので別物だと判断したが、数字までは読めない。

 そこで上と下から数えてちょうど真ん中、九列目の左のボタンをくちばしで突いた。

 十五の数字の周りが肌色に光る。

 直後にドアが閉まった。

 どこからともなく鳴り響く小さな重低音、そして何者かに上から押さえつけられるような感触を薄気味悪く思い、それらはしかし三人が慣れる前に終了する。

 扉が開いて現れた景色は、乗り込んでから閉まっていくまでの扉の向こうにあったはずのそれではなかった。

 床は大理石からグレーのカーペットに変わり、三メートルほど前方には、二階以上の全ての階にある、吹き抜けと通路を隔てる背の高い透明のアクリル板の仕切り。大将とポポが駆け寄ると、十五階下に仲間たちと人間たちの戦闘が見受けられた。摩訶不思議な箱の性能を思い知らされる結果だった。

 大将はため息をついた。

「悔しいが…こいつはやはり便利だな…」

「そうだね…」

「動かせないのに腹が立ったとはいえ…つい壊しちまったのは失敗だったな…すまなかった…」

「そんなこと…こんなときにこんなところで謝らなくても…」

 潰れるような変な音が背後からした。

 振り返ると、頭頂部をこちらに向けた具合に、タクローが銀色の扉に首を挟まれていた。頭を突き出して周りをきょろきょろ見渡していた矢先に、閉まってくるドアに気付かず蒙った災難である。

 あっと思う間も駆け寄る間もなく、ドアは異物を吐き出すように再び開き、タクローが両手で首から異常な音を立てさせながら、のそのそと出てきた。背後ではドアがすっきりした様子で閉まっていく。

「使えなくて良かったよ…」

 タクローが身を持って示してくれた弊害に、二人は再び考え方を変えて頷いた。

「やはり俺たちには向いてない代物だ」

 そう残して大将は階段を駆け上がっていき、ポポは吹き抜けに飛び出る。

「何か俺こんなのばっか…」

 タクローは首を傾げつつ、同時にもう少しだけ首を気にしながら、十五階を徘徊していった。


 チーターは正面に数人の人間たちを逃げ惑わせて四階を疾走していた。

 人間たちは恐慌のままに、あるいは計算をした上で、時折分裂して部屋に入ったり角を曲がったりすることで塊を小さくし、偶然にしても必然にしても逃げ延びる確率を増やしていたが、チーターの足では行き止まりに逃げ込んだものを制圧して駆逐を再開させるまでの時間があまりにも短すぎた。いつしか集団はたったの五人、男三人女二人という内訳になっていた。

 階段に差し掛かった彼らのうち、一人の男が一人の女の手を取って駆け上がっていき、残りの三人のうちの女は上へ、男の一人は下へ、最後の男は即断しかねて左右を見回し、とはいえほんの一秒足らずの後に上に向かったが、踊り場までも行き着けずにチーターの一撃で気絶した。

 下に逃げた男は上階からの悲鳴で一時の安全を確信したのも束の間、その悲鳴が終えるか終えないかのうちにチーターに背中に飛び掛かられて仕留められた。

 一気に六階に到達した男女は、どうやら自分たちがチーターからの生還者だということを理解して息をつこうとしたが、遠方で暴れているトラを発見するや、そばに停まっていたエレベーターに駆け込んだ。開扉の際の音で存在に気がついたトラが目の色変えて迫ってきたが、一番手近なボタンを叩き付けたことで、ドアはトラが分け入ってくる寸前で閉じられた。その拍子になぞる程度触れた数字の一のランプも点灯する。

 遅れて六階にたどり着いた女は、閉まってしまった鉄扉の隙間に鉤爪を差し込んでこじ開けようとしたり無闇に叩いたり体当たりするなど、機械相手に不毛な格闘をしているトラに気がつくと、鋭い索敵能力に見つからないように忍び足でそそくさと上へ向かっていった。

 エレベーター内の男女は、寄り添い合って一階までの道中を過ごした。そして扉が開く寸前、待ち伏せを恐れて硬直させた体をさらにくっつけ合った。

 わずかな時間で視野が広まっていくエレベーターホールには、動物の姿は見られず、人影もなかった。

 二人は胸を撫で下ろし、男が先に外に出る。女が男に手を引かれて扉の溝をまたいだそのとき、不気味な喚声で足元が躍動した。床に伏して潜んでいたワニが楔を打ち込む絶妙なタイミングで口を開いたのだ。

 ぬめる舌と無数の牙とグロテスクに照る鱗を目にした女は、その後の運命を悪い形に考え、声も上げられずに卒倒した。

 滑り落ちるように女の手が離れてしまった男は、自身もワニの姿に戦慄したあまり、女の救出などそっちのけで全力で走り出していた。

 広大なエントランスのあちらこちらでは大勢の動物たちが人間を相手に一方的に立ち回っていたが、男は脇目も振らず外に向かって一直線に走り抜け、頭上の夜空の迎えられ、敷地の外まで飛び出した。瞬間、塀の陰で待ち構えていたサイの体当たりを左の脇腹に食らい、吹っ飛ばされ、反対側の塀の陰に同様の手口で意識を喪失させられてできた負傷者の山の一つに埋もれた。

 ちょうどその頃、チーターから逃れトラを避けて十階までたどり着いたところだった女は、オオカミと対峙することになっていた。

 笑っているかのように口元の歪んだ、陰湿なその姿に、恐怖と恐慌の連続で疲弊しきり、常態から遠くかけ離れていた女の頭脳は、ただ手っ取り早く目の前の危機から逃れるためだけに、吹き抜けを隔てる強化プラスチックの透明の板と鉄製の手すりから女自身を乗り越えさせた。

 オオカミはここに来て初めて表情を焦らせ、身投げになる結果を防ごうと女に駆け寄ったが、女の動きはより迅速になって地上十階の中空に浮かび、程なく落下していく。

 整然とした大理石の床に向かって頭から滑空していく女は、しかし頭が砕け散る少し前に停止し、仰向けになる。ヒトに似た顔に覗き込まれ、安心したように笑って、失神した。

 ゴリラは女に応えるように笑んでから、上に向かって手を振り、抱き止めてやって無事だということを示した。

「ちょっと、気をつけなさいよ」

 一連を見届けつつ吹き抜けを上昇していくロロは若干スピードを緩め、同じように下の状況を眺めて安堵で息をついたオオカミに注意してから、その一つ上の階に到着したところで声を張った。

「タクロー後ろ!」

 金属バットを振り回す屈強な男を武器ごと壁に突き飛ばして気を失わせたところだった、吹き抜けに対して横を向いていたタクローは、その絶叫で咄嗟に膝を折った。

 直後に薙ぎ払われたナイフはタクローを後ろから裂くという思惑を遂げられずにその頭上の中空を切り裂き、それを操っていた細身の男は作戦の頓挫に困惑した表情のままタクローの肘鉄を腹に受け、真横に切り払うはずだった毛むくじゃらの背中に突っ伏した。

 タクローは男を丁寧に床に下ろしてから、吹き抜けのほうへ顔を向ける。

「速いな、もう上がってきたのか」

 しかしロロはすでにそこにはおらず、十三階の天井と十四階の床のちょうど中間の辺りで、降下してきていたポポと出会ったところだった。

「今見てきた限りでは上にはいないな」

「おかしいなあ、ちゃんと一階から見てきたよ?」

 簡潔なやり取りでロロは首を傾げてから、それでも上昇を続けていく。ポポはやはり首を傾げて、しかししばらくそのまま考え込んだ後で、ああそうだと頷いた。

「地下があったじゃないか」

 そしてくちばしを下に向けて一気に急降下していった。

 十五階でエレベーターを降りるなり、上へ向かっていた大将は、予想外の人影の乏しさと戦闘の少なさに拍子抜けしつつ、ついに最上階まで到達した。

 そこには部屋は一つしかないらしく、パソコンや電話の置かれた湾曲した机が置かれている先に、磨りガラスでできた巨大な自動ドアがあるだけだった。

 前に立つと、外見にそぐわぬ繊細な音でそれは開き、大将は体をよじりながら引き返して机の陰に隠れた。直後に辺りは銃声とガラスの砕ける騒音に包まれ、無関係な音でドアが閉まっていく。

 それ以上の銃撃は無駄と察したらしく、たちまち静寂が戻ってきた。大将はその気になればすぐに引っ込められる分だけ顔を出す。

 退避が一歩遅かった場合の自分を射殺するための必要最低限の大きさに割られたガラス扉の向こうに、横長の豪奢な机があり、その上に仁王立ちになった瑠香がマシンガンを構えているのが確認できた。その果ては一面のガラス窓で星のちりばめられた夜空が埋まっている。ドアが開き始めたわずかな隙間から見えた光景と寸分の差もない。

「君たちは本当に愚かだな。なぜ人間に歯向かう」

 瑠香は大将を見据え、問いかけた。銃口が離れているのを確認しつつ、大将は応じる。

「歯向かう? おかしなことを言うな。人間も俺たちと同じ動物の一つだ。それと牙を交えることに上も下もない」

「君たちが戦えば戦うほど、君たちの立場は悪くなるんだぞ。人間に憎まれるようになったら動物は生きていけない。なぜそれがわからないんだ。君たちは人間に生きることを許されているだけの生き物に過ぎないんだぞ」

「許されるだと?」

 聞き返した直後、大将は唐突に笑い出した。

 あまりにも状況と乖離しまた常軌すらも逸したそれに、瑠香は一瞬の戸惑いの後は怒気が鬱積していくだけだった。

「何がおかしいんだ!」

 その怒りに支配されて思わず問いただすと、哄笑はスイッチが切れるように止んだ。大将は瑠香を睨み付け、理由を聞かせてやる。

「食われるために飼われ、殺されるために生かされることを、生きるとは言わん!」

 瑠香はぐっと押し黙ると、苦しげに歯軋りし、歯軋りしたまま言った。

「人間に勝てると思っているのか…!」

「お前一人でこれだけてこずるのだ…苦しいかもしれんな…」

 大将は正直な気持ちを前置きし、しかし力強く締めた。

「だが生身の人間になら、俺たちにも勝機はある!」

「大将!」

 そこへ別の声が羽ばたきの音に混じって響いてきた。

 大将は机に身を隠してから視線をずらしてロロを認め、瑠香はその声で頭に突進してきた二匹目のハトだと察した。

 ロロは大将の傍らに滑空してくるなり興奮冷めやらぬ様子で報告する。

「人間全部捕獲したよ!」

「よーしよくやった!」

 大将もいつになく嬉々とした返事をすると、次なる目的を明確にして身構える。それからロロを見遣った。

「お前を撃った奴が向こうにいる。そこから動くなよ」

「え? う、うん」

「すぐに仇を取ってやるからな」

 そこまで言ったとき、部屋の方角からガラスの割れる破裂音がした。ほとんど同時に高層特有の凄まじい風が吹き込んでくる。大将は身を縮め、ロロは机をなぞって流れてきた空気の波に飛ばされて悲鳴を上げ、大将の横腹に激突して留まった。

 大将が不審そうに顔を覗かせると、瑠香の姿は部屋から消えており、首をもごうとするような強風にたてがみがばたばたとあおられた。

 気を抜くと飛ばされそうな風に抗って部屋の中へ侵入したが、やはり瑠香の姿はない。突き当たりの壁一面のガラス窓に、身を屈めた子供一人なら抜け出られそうな穴が開いているだけだった。

「逃げられたか」

「逃げるって、これじゃあ死んじゃうよ」

 大将が忌々しそうに呟き、風の直撃を受けないように大将の後方をとぼとぼ歩いてきたロロが言った。

「どうせなら俺の手で殺したかったがな」

 大将は悔しげに言うと、「まあいい」と振り返った。

「二人を探すぞ」

 圧倒的な強風を追い風にして、大将とロロは転げるように、階段を駆け下りていった。


「お腹すいた」

 サラが呟いた。

 スイッチが入っているにもかかわらず、電気系統の故障によって真っ暗なままの地下二階の一室には、他に音も光もない。

「お腹すいた」

「うるせえな」

「だってえ…」

 純平が文句を言うと、サラは不服そうに身をよじって反駁する。

「今日は朝と昼しか食べてないんだよ? 二人でおにぎり一個、一人で半分、それが二回だけ。晩ごはん食べる前に捕まっちゃったし、つまみ食いだってほんのちょっとだし」

「俺はそれすらしてないんだ」

 純平は強い口調でのその発言を反動に立ち上がり、ライターを取り出し火をつけた。淡く居場所を主張するドアを確認し、そこへ向かって歩き出す。

「トイレ?」

「ああ」

「ごはんまだなのか聞いておいてね」

 純平は無言でノブを押して外へ出た。

 ドアはゆっくり閉まっていき、バタンと音をさせて枠に収まる。直後に再び開き、それができるだけの隙間から純平が顔を覗かせた。

「サラ、ちょっと来てみろ」

 部屋の外では、細長く伸びた通路をくまなく照らすための数基の蛍光灯が全力で役目を果たしていた。

 暗闇に慣れてしまった二人にとっては、星一つない夜空をずっと眺めていて、あるとき瞬きしたその間に、突如太陽がワープしてきたようなギャップがある。瞳が潰れるような激痛を覚え、サラはドアを開け放った瞬間に部屋のほうへ顔を背け、一足先にその痛みを味わっていた純平も手を中央に皺の寄った額にかざし、目をぱちぱちさせているところだった。

 しかし、眩しいぐらいの光度を明るいという知覚に視覚が順応していく時間を待つまでもなく、さっきまでいたはずの見張りの男がいなくなっていることは、牢から出たにもかかわらず、声をかけてこられないことからもわかる。誰かのいる気配すら感じない。意識的にまばたきしないで済むようになって、それを再確認する。通路には自分たち二人しかいなかった。

 大して考えもせずにサラはその理由をすぐに理解する。

「ごはんだよ。取りに行ってくれてるんだよ」

 サラのそれは誤りだった。しかし異変に感付いた見張りの男が様子を見に一階まで駆け付けて、そこで動物たちに昏倒させられた場面を見ていない純平も、それを正す術を持っていない。瑠香の言葉を思い返して首を傾げるだけだ。

「持ってくるって言ってたはずだけどな」

 受け取りにでも行くつもりなのか、純平が見解を述べ終わったときにはもうすでに、サラはその横を通り過ぎてスキップにも似た軽い足取りでその前を進んでいた。用を足す場所を求め、純平も後についていく形となる。

 サラが左折して壁の中に消える。浮き足立って階段を一段一段踏み締め遠ざかっていく音を、純平が鼓膜に目が生えたような心地で聞くともなしに聞いていると、それが途絶えた次の瞬間、それより速く甲高い音が近づきながら戻ってきた。

 壁から飛び出し、文字どおり純平の目と鼻の先に現れたサラは、帽子のてっぺんを片手で鷲掴みしていて、その下にある顔は、頬は引きつり目は剥かれ口は真一文字に結ばれているという具合に、狼狽の色で染まっていた。

「ポポが、ポポがいた」

 サラは問われるより早く返事をし、同時に帽子を剥ぎ取った。黒い耳と黒い髪を揺らして頭が現れる。帽子を握ったままの手で襟を伸ばし、もう片方の手で懐に手を突っ込み、ずっとそこに隠していたウサギの耳のついたカチューシャの耳の部分を握り締め「純平もこれつけて」と引っ張る。しかしウサギの耳の部分が襟から飛び出したところで止まってしまった。カチューシャが襟に引っかかったのだ。

 それだけで今にも泣き出しそうに焦り、慌ててしまう。急いで手を上下させるが、同じところが同じところに引っかかるだけだ。

 目元に涙が膨らむほどにますます慌て、慌てれば慌てるほど取れなくなっているのに、

「サラ! 何で逃げるのさ!」

 とポポの声が後ろから響いたものだから、サラの焦りは加速度的に増大する。押し殺した泣き声がきつく結ばれた口の端から漏れ、上下する手の動きも機械工場のプレス機の如く速くなる。

 依然カチューシャは取れず、ウサギの耳が伸縮するように襟から頭を出したり引っ込めたりするだけであった。力任せに物をあおぐようなばたばたという音がその数だけ響く。

 ポポに見つかったら人間だということが露見し、これまでやってきたこともこれからやろうとしていることも全てが水泡に帰すことにとっくに気がついていた純平も、いてもたってもいられずサラを手伝うため、きっちり襟元まで留められたボタンを外してやろうとサラの胸に手を伸ばしたが、両手の指が薄い化繊の感触とプラスチックのボタンの感触とそれとは根本的に異なる柔らかい感触に触れた直後、「どこ触ってるの!」とサラの平手を食らって尻餅をついた。

 そのためにサラは手を放してしまったわけである。カチューシャは襟の外に全身を出していたウサギの耳ごと服の内側を伝い落ちていき、止める間もなくするすると腰まで落ちてしまった。

 もどかしそうに湿った声を唸らせ襟から腕を突っ込んだが、狭い隙間からでは手首までしか入らず指さえそこには届かない。とうとう癇癪を起こしたような悲鳴が飛び出た。

「もおおお…!」

「落ち着け、下から出せ」

 純平は屈んだままそう言うと、かすかに赤く腫れた頬をいたわる条件反射までをも抑止し、サラの腰に手を伸ばした。

 トレーナーの結び目を持ち上げ、ズボンの中に入れられている上着を引っ張り上げると、めくれた裾からカチューシャがウサギの耳を横にしてぼとりと床に落ちた。階段から飛び出したポポが叫んだのはその一瞬後のことだ。

「サラ!」

「ポポ!」

 サラはさも呼び掛けに応じた振りをして叫び返し、会いたかったとでも言うように振り返り様に両手を大きく広げた。当然、人間の姿の純平を隠匿することが目的だ。後ろに向けた耳と腰の真裏が、素早い動作で耳を拾い上げるかすかな音と気配を感じる。

 ポポは悠然と翼を上下させて宙に留まったまま、寂しそうに顔を歪めた。

「どうして逃げちゃったの?」

「ほら、人間に変装してたでしょ? 人間に間違われたら大変だと思ったから」

「仲間じゃないか!」

 ポポは怒ったように強く言い、サラの身をすくめさせ耳を伏せさせ尻尾を逆立てさせてから、打って変わって笑ってみせる。

「どんな格好してたって、君たちの顔は忘れないよ」

 サラが気恥ずかしそうに微笑むのを見て、ポポの表情は一層緩んだ。

「純平は?」

「純平? もちろんいるよ」

「ちょ待てバカまだ早い!」

 純平が声を裏返らせ、サラは下ろしかけた腕を慌てて戻した。ポポは目をぱちぱちさせてから、おもむろに翼を動かし、サラの肩越しに声のしたほうを見ようと、斜めに昇る。

「ポポポポポポポポポ!」

 サラは背伸びと同時に首を伸ばし、血相の変わった顔でその視界を遮った。ポポは身じろぐように止まって頭の中で数える。

「なんか多いよ。なに?」

「えっとね…」

 考え始めた次の瞬間に浮かんだ質問がサラの口をつんざく。

「ごはん! もう食べた?」

「いや…まだだけど…」

 純平は、サラの体を隔てて背中を向けているにもかかわらず、ポポの怪訝そうな顔が見えたような気がした。他に聞くことはないのか。

「お腹すいちゃったね」

「……うん」

 ないらしい。ポポの返事も上の空だ。

「今日からまたごはん減っちゃったしね」

「……そうだね」

 サラの口調はこれ以上ない時間稼ぎとばかりに得意に満ちた実に滑らかなものだが、純平とポポの気持ちは一致していた。緊急時の話題じゃない。

「タクローはどうした?」

「タクロー?」

「ああ、あいつは生きてるのか」

 見かねた純平がようやく口を開く。

 ポポは体と首を伸ばしてみたが、純平の姿を確認しかけたところで跳ねるように現れたサラの笑顔が視界一杯に溢れ、さすがに妙な気分になる。だが、ひとまず問いに答えることにした。

「うん、元気に戦ってる。僕は見てなかったけど、自分で包帯巻いたらしいよ」

「ホントに? 良かった。ねえ純平、タクロー無事だって。良かったね」

「ああ、たいした奴だ」

 サラはおざなりに同意を求め、純平は惰性で受け答える。結局はそれを含めた一連の無駄話が功を奏した。

 純平はタクローの無事と作業を終えた安堵から息をつき、反転しながら立ち上がって笑顔で手を上げた。

「よっ、ポポ」

 ポポは、その一瞬で表情を凍て付かせ、それからようやく呟いた。

「……純平?」

 ただならぬ異変を察知して振り返ったサラも、はっきり周りに聞こえる音で息を呑み、昏倒を辛うじて堪えたというように後ろによろけ、目だけを眼球が飛び出しそうになるほど剥いて、消え入りそうな声で叫んだ。

「逆…!」

 純平の頭に乗せられたウサギの耳は、ピンク色に窪んだ部分が後ろを向き、白く膨らんだ部分が前を向いていたのである。

 頭上に手を伸ばしてそれに気がついた純平も、顔面から血の気を引かせる代わりに全身に冷や汗を噴き出させつつ、急いで屈んでそれを直し、精一杯の笑顔で再び立ち上がり、何事もないように続きの言葉を口にした。

「よく来てく――」

 だが言い終える前に咄嗟に頭を下げていた。少し遅れていたら片目を潰されていただろう、ポポがくちばしを突き出すようにして飛び掛かってきていたのだ。

 ポポは純平の瞳を貫けなかった代わりにウサギの耳の狭い隙間に突入した。耳は限界まで広げられた翼によって純平の頭上からもぎ取られて床に落ちる。

 素早く旋回して体勢を戻したポポは、急いで駆けてきてウサギの耳を拾い上げた、耳を失った純平、いや、大敵の一人と目が合った。

「君は人間だったのか」

 その人間は焦り顔の上に作り物の耳を乗せ、純平に変身してから、両方の手のひらを突き出して語りかけてきた。

「ちょっと待ってくれ、ポポ」

「僕らを騙してたのか!」

「これには訳があるんだ!」

「訳だって?」

 ポポは鼻で笑って促した。

「いいだろう、話してみなよ」

「………」

 しかし純平は苦い表情を伏せて押し黙った。言いくるめられる訳なんていうもの、初めからない。ポポにだって耳を傾けてやるつもりなんか、初めからない。

「人間を人質にしろだなんて、おかしなことを言うものだとは思ってたよ。そりゃそうだよな。人間を殺せるはずがないよな。君は人間なんだからな! 道理でペットが君を助けたわけだ。君は人間なんだからな! 道理でペットに食べ物を与えさせたわけだ。君は人間なんだからな!」

 ポポは一方的にまくし立ててから、再び純平目掛けて滑空した。純平は反射的に膝を曲げ、ポポはウサギの耳のてっぺんをかすめるようにしてその頭上を通り過ぎ、サラの前で停止する。

「サラ、早く逃げよう、このままじゃあいつにやられるぞ」

 純平が身を縮めたまま振り返ったとき、ポポはサラを見上げてそう言い立てたところだった。ポポを見つめているらしく、項垂れているサラの表情は、ここからでは窺えず、歪みなく一直線に真横に刻まれた口が、辛うじて見えるだけだった。

「サラ!」

 ポポが絶叫で催促した次の瞬間、サラの手が動いた。

 左手がポポの腹を下から鷲掴みし、右手はポポの首を覆って拳を握り締めるや否や、間髪入れず真向かいに倒れたのである。ボキリともゴキリとも聞こえる固いものが折れる音と、短い吐息のような潰れた声が同時に出て、サラの両手が開かれる。

 全ては一秒にも満たない時間の中で行われた。

 ポポはサラの手と手の間をなぞるように擦り抜け、落下していく形で現れると、飛翔するときと変わらず広がったままの翼を一度も動かすことなく、錐揉み状態で舞い落ちていく。そして横顔から床に差し掛かると、そこを起点にリノリウムの上に円を描くように小さく滑走し、直に停止した。

 ポポを追っていた純平の視線は、自然とそこで留まった。

 腹這いになっているポポは、ちょうどこちらを見上げる具合に、首だけが直角に真上を向いていた。

 呆然と見下ろしている自分を映す、驚きに満ちた瞳を中央に据えた目が、痙攣のように力なく震え、くちばしがわずかに動いたが、そこに乗せられた言葉はおろか、漏れ出る息さえも、純平には聞き取れなかった。

 そこで純平の視界は黒く閉ざされる。ニット帽がウサギの耳をまるでそんなもの存在しないが如く、つっかえることなく左右の穴にくぐり抜けさせ、目元までをも包み込んで、頭にかぶさってきたのだ。

 純平の体は意識下から外れたところで反応し、身が縮まり、首がすくみ、腕が浮かび、その手首を握り締められ走らされ、自分のものなのかサラのものなのかもわからない、高く速い足音を聞きながら、暗闇の中の階段を駆け上っていった。


 大将とロロは、純平とサラ、そして人間の残党を探しながら、最上階から下を一階一階しらみつぶしに走破していた。

 たたでさえ上階に行くにつれて人間と遭遇する回数は少なくなっていたのである。少し前の戦闘の名残が仰向いていたり突っ伏していたりする以外には異常はなく、半分を過ぎるぐらいのときにはチーターとトラとオオカミと鉢合わせし、タクローに言われて打っちゃったままの人間の捕捉を任されたことを聞くとともに、そこより下の階の制圧と安全を保証された。

 純平とサラについては情報が錯綜しているらしく、オオカミは助かったと言うものの、チーターとトラは聞いていないと否定し、オオカミ自身も直接見たわけではなく、偵察隊の誰かが二人がいたと伝達しているのを偶然聞きつけたのだとトーンダウンし、その誰かについて詳しく聞かれると、ロロの声だと思ったと自信なさげに答え、えーっ私聞いてないよとロロを困惑させた。

 ともあれ危険がなくなったことは確かのようなので、大将は三人をねぎらうと同時に上階の人間たちの連行を任せると、ロロを伴って一気に階段を駆け下りて一階まで戻ってきた。

 ちょうどゴリラがサイの背中に仰向けにさせた人間数人を縦横斜めにパズルのように積み上げ、仕上げにワニを腹這いに乗せてバランスを取らせてから、自信満々に頷いて送り出したところだった。

 サイが慎重に鈍重に歩いているわけでもないのに、微動だにしない人間たちとワニと、自身も両肩に二人ずつの人間を担いで歩いていくゴリラの後ろ姿に思わず見とれ、思わず感心の視線を送っていると、彼らが入り口を後にするところで、閉まらないように自動ドアの一方に手をかけたままのタクローが視界に入ってきた。大将はそこへ歩み寄り声をかける。

「二人は見つかったか?」

「ああ…大将か…」

 振り返ったタクローは覇気乏しく呟き、ロロが肩に飛んでくると顔を曇らせて答えた。

「地下から逃げてきたところを保護した…今は自力でアジトに向かってるところだ…」

「上出来だね」

「あの子供を俺の手で殺せなかったのは不満だがな」

「ただ…」

「ただ?」

 嬉しそうに顔を覗き込んでくるロロを一瞥して、タクローは目を伏せた。

「たった今…ポポが見つかったんだ…」

 そしてさらに、その目を固く閉じる。

「偵察隊のメンバーに連れられてな…」

「連れられて?」

「連れられて?」

 大将とロロはほとんど同時に聞き返した。大将は即座に駆け出し、アジトへ向かう。残されたロロは大将の行動とタクローの言葉の意味がつかめずに目を丸くし、体の限界まで前屈みになった。

「連れられてって? お兄ちゃん一人で飛べるじゃない」

「………」

 歯を食いしばったまま答えようとしないタクローの顔を眺めているうちに、ロロは唐突に気がついた。はっと息を呑む声を漏らし、瞬時に青ざめ、「お兄ちゃん」と呟くや否や、猛烈な勢いで飛び立っていった。


 大将と呼ばれていた例のライオンに続き、ロロという名を持つらしい一羽のハトが翔け抜けていってからしばらくして、あたかも罹災者を搬送するレスキュー犬のように、チーターとトラとオオカミがそれぞれ一人ずつの人間を背中に乗せて、建物から去っていった。

 ガラスを割って窓から飛び降りアスファルトで固められた地面に着地したときには、大将との戦闘中に現れたハトの報告どおり、すでに捕虜となった人間たちが連れて行かれていくところだった。それから数え始めた人間の数は、当然実数より少なく、攻め込んできた動物の数が把握できていないために、どれだけ待てば彼らの撤退が完了するのかもわからなかった。

 動物だけで立ち去るものが一匹としていないために攻撃を仕掛けることもできず、悶々とした気持ちで敗北に歯を軋ませていると、先の三頭の猛獣を追うように、両脇に二人の人間を担いだシロクマが早足で出て行った。一瞬目を疑った。シロクマの背中の広い範囲に包帯が巻かれていたのである。それによってそれがさっき撃ち抜いてやったシロクマだと判断したが、一体誰が包帯を巻いたんだ。

 ますます歯を軋ませながら入り口近くを眺めていたが、かなりの時間が過ぎても後に続く動物の姿はない。どうやらあのシロクマがしんがりだったらしい。

 瑠香はビルの陰から現れ、自動ドアと敷地の外とのちょうど中間の辺りで立ち止まると、おもむろにズボンのポケットから携帯電話を取り出し二、三操作して耳に当てた。

「マスター、申し訳ありません」

 一言の謝辞とともに、傍から見れば会釈によってとも落胆によってとも受け取れる仕草で頭を垂れ、瑠香は続ける。

「先ほどご報告したように、人質の救出には成功しました。しかし、たった今動物たちの襲撃を受け、人々は再び捕らえられてしまいました。はい…そのとおりです…どうやら全員が捕まった模様です…申し訳ありません、全て僕の責任です、彼らの力をあまりにも過小に見ていました。情けないことですが、もう僕一人の手には負えそうにありません。どうか力をお貸しください。お願いします」

 ほんの少しの沈黙の後で、瑠香は思わず小さく声を漏らした。その目は次第に大きく見開かれていき、動揺によって激動し始めた瞳はその振幅を狭めることがなかった。

「待ってください! それでは人質はどうなるのですか! は…はい…申し訳ありません…続けてください…」

 意外のあまりについに叫んだ瑠香だが、すぐに正気を取り戻して恐縮し、口をつぐむ。そしてそれから先は一言の意見も挟まず、ただ耳に流れてくる言葉を聞いていた。

「わかりました…それでは失礼します…」

 やがて辞去の言葉で通話を終えた瑠香は、携帯電話を元の場所にしまった。

 相変わらず項垂れ足元を見つめているその顔は、怒り以外の全ての感情を忘却したそれのように強張っており、その歯はみしみしと音を立て、今にも欠けて砕け散ってしまいそうなほどに、強く軋んでいた。

「瑠香あ」

 緊迫感の欠落した間延びした呼び声に、瑠香は心底驚いた顔で振り返る。そして本当にほんの少しだけ、透き通るほどに薄い安堵の色でその顔を染めた。てっきり全滅したと思った人間が、自動ドアをくぐり抜けたところに、仲間の無事に安堵する表情で四人も佇んでいたのである。

「無事だったんだね…」

「当然じゃない」

 そう誇らしげに言って胸を張ったのは、セミロングだった。

「ここは私の庭よ? 私しか知らない秘密の場所があるの」

「あそこでしょっちゅうサボってんだろ。お前の仕事ぶりが窺えたよ」

 眼鏡の嫌味に悪びれることなく、というより通じていないみたいに、セミロングは得意な微笑を崩さない。

「さあて、これからどうする?」

 後ろから呼び掛けてきたのと同様に真剣さのない声で白い顔が歩み寄り、肩に手を置いてきた。瑠香は首を立て、今一つ状況にそぐわない表情に言い放つ。

「避難してくれ」

 さすがの軽薄な顔面も予想外の言葉に眉をひそめた。

「もう十分だ、後は僕がやる、怪我をしているのにここまで協力してくれて本当に感謝するよ。ありがとう」

 瑠香は一方的に言い立てながら四人に背を向け、敷地の外に歩み去っていく。しかしその前に颯爽と何者かが立ちはだかり、思わず足を止めた。見上げるより早く眼鏡が言ってくる。

「君一人に任せるわけにはいかない、俺たちも手伝うぞ」

 瑠香は噴き出すように眼鏡に笑いかけた。

「正気で言ってるのか?」

 微笑を返そうとした眼鏡は、その一言で自分に向けられた笑みが嘲罵のそれであったことを知り、顔とともに全身を強張らせる。瑠香はぎりっと音をさせて歯軋りするや、目を剥いて叫び立てた。

「こそこそ隠れてただけの奴らに何ができるんだ! はっきり言って君たちがいると邪魔になるんだよ! もう足手まといはごめんなんだ! とっととこの町から出て行け!」

 拒もうものなら銃器で掃射されかねない気迫に圧倒されて、正面の眼鏡も後ろの三人も、何も言い返せない。瑠香は長い時間を深呼吸に費やして、落ち着きを取り戻す。

「心配しないでいい、必ず僕がみんなを助けるから」

 そう言って眼鏡のそばを通り過ぎた瑠香は、四人に背中を向けたまま、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。

「絶対に助けるから…」

 そして、人間離れしたスピードで走り出し、あっという間に敷地から飛び出した。

 静寂はしばらくの間果てがないように続き、訪れたときと同じように不意に終わった。

「あんな子供にこんな危険なことばかりやらせて…俺は教師失格だな…」

「なーに、任せておこうぜ」

 ため息混じりに漏らして項垂れた眼鏡に寄り添い、白い顔が背中を叩いた。

「何だかんだであいつ、たった一人で人質みんな救出してきてくれたんだからさ」

「そうね、さすがにもう戻らないとヤバイかもよ」

 二人が振り返ると、セミロングが肩を抱くようにして帽子を支えていた。帽子は左目を軽く押さえたまま、三分の一ほども隠れている顔でもそれとわかるほど憔悴しているのだった。

「おいおい、大丈夫か?」

「無理するなって言ったろう」

「あたしたちに言う資格ないよ。帰ったらみんなで仲良く入院」

 白い顔と眼鏡の気遣いをセミロングが代弁してたしなめ、帽子はくすりと笑みをこぼす。

「退院したら、パーティーやり直してね」

 帽子は周りを見回しながらそう言うと、無傷の右目を一回だけ閉じた。三人は返事や動作で了解を示し、ビルに背を向けて歩き出す。

「五人でな」

「純平にまたあの格好させてな」

「この口紅でね」

 四人は軽口で、しかしもう一人の大切な友人の無事を祈願しながら、一塊になって町の外れを目指し、無人と化したアジトを後にした。


 デパートのエントランスには、それぞれが小さな弧となった動物たちが、巨大な円を造るように集まっていた。

 誰もが祈るように見つめている大きな輪の中心では、前屈みにあぐらをかいた純平が両手で包み込むようにポポを触診しており、大将とロロはそのすぐそばで、周りの動物たちと変わらず、その強弱によって奇跡が達成されるか頓挫するとでもいうような、力強い視線を純平に送っていた。

 ポポの体は、背中の右側に一つ、左側に四つ、血が滲むほど食い込んだ傷が残っていた。下から人間の左手で鷲掴みされた爪の痕だということは、ちょっと見てから少し考えれば誰にでもわかる。しかし、実際はそれがヒトのものではないということを知っているのは、目の前でそれを見ることになったから知っているという、純平だけだ。

 改めて触るとよくわかる。ポポの首はありえない形に、生きる上では絶対にあってはならない形に折れ曲がっている。それを内側から証明するように、くちばしから漏れてくる風はなく、胸を触る指先に体当たりしてくる震動もない。温もりも薄れているようだ。

 純平はため息とともにポポを床に下ろし、力なく首を振る。そこでようやく動物たちにとって、ポポは死者となる。だがそれを簡単に認められるほど、血の繫がりは冷淡ではない。

「嘘よお!」

 まるで悲鳴を反動にしたように、ロロが純平の前に躍り出た。困惑顔で身じろいでいる純平の胸に頭から飛びつき、なおも喚く。

「私のことだって助けてくれたじゃない! 何とかしてよ純平! お兄ちゃん助けてよ! 私…何でもするから…何でもするからあ…」

 最後のほうの声は嗚咽に変わり、一番近い純平にすら、もうほとんど聞き取れない。

 純平はロロを両手で持ち上げ、こちらを仰いだロロと目を合わせないようにうつむいて、もう一度、機械的に首を振った。

「死んだ奴を生き返らせることはできない…俺にはどうすることもできない…」

 純平はロロをポポのそばへ下ろし、一撫でだけして手を離した。

 ポポのまぶたは、眠っているだけみたいに閉じられていた。しかし純平がそうしてやる前の、その下にある焦点のない瞳を、ロロは知っている。他の動物たちもまた。およそ安らかなそれとは程遠い苦悶の死に顔に、それでもロロは縋り付いて泣いた。

 慟哭と、それと交互につんざかれる、かろうじてお兄ちゃんと聞き取れる悲鳴は、小さな体から発せられているものではないほどに、辺りを支配し周りの動物たちを締め付ける。しかめた顔を背け、つむった目を逸らし、黙ってロロの苦しみを聞き流そうとする彼らの中から、それに耐え切れなくなったように吐き捨てたものが現れた。

「こんなことになっちまうんじゃ、ポポの言ったとおり、人間なんて助けないほうがよかったんだ」

 純平が見遣ると、タクローが横にどっかと腰を落としたところだった。

 タクローは純平を自分のほうに向かせてそのまま両肩を押さえ付ける。

 純平は鼻と鼻が密着するほど顔を近付けられ、冷たい怒りが滲み出ている眼差しをとても直視できずに顔を逸らした。

「今からでも遅くない、人質みんな、殺しちまったほうが」

「人質は生かす」

 タクローは純平の後ろを見、純平は振り返る。大将ははっきり詰問とわかるそれと、あえて意味付けをするならば意外という、二対の双眸を見据えて、平然と続きを放つ。

「これまでどおりにな」

 思わず力を入れたタクローの拳が肩口に食い込み、純平は顔をしかめた。タクローはそれに気がつかずに大将に怒鳴りつける。

「どうしてそこまで人質をかばう!」

「俺だって許せねえんだ!」

 一喝というより咆哮を返してタクローを黙らせた大将は、大きく息を吐き出して落ち着きを取り戻そうと努める。

「だが…その場の感情で流されてもロクなことはない。俺たちの目的はもっと高いところにある。これから先に誰がどれだけ死んでも、人質は同じように扱う。人質といえどもいずれ殺すんだ。そのときにこの恨みを晴らせばいい」

「じゃあせめて…明日からのあいつらの世話は他の奴にやらせてくれ…」

 純平の肩を軽く揺すってから、タクローの腕は滑り落ちる。純平が向き直るとタクローは項垂れたところだった。

「俺はもう…あいつらに愛想振りまくのはゴメンだ…ポポを殺した奴が…この建物のどこかにいるってのに…」

「……そうだな」

 言葉で了承してやったその上に、純平は視覚を持たない白い頭頂部にまで確認させるように、それじゃあ明日から誰にやらせようなんていう、さして重要ではない問題で占められた頭を、縦に大きく何度となく振り下ろしてから持ち上げた。タクローの後継が浮かんでいたとしてもそうしていたことだろう、そうしてやることしかできなかった。

 また純平だけは、疲れちゃったからという理由でこの愁嘆場から逃れた人物を思い浮かべ、どうしようもない怒りに打ち震えるあまり、腰を上げて歩き出していた。


 程なくして、純平は十四階の自室に戻ってきた。

 真っ暗なので電気をつける。ソファーは無人で事務机の近くにも人気はない。

 給湯室に行ってみると、その隅っこにサラがいた。事務所の電気が点いているのでようやくそれがわかるというぐらい暗かったので、こちらの電気もつける。

 サラはトレーナーを襟に戻していた。いつものように尻をつけて正座して、両手を膝と膝の間について、それだけで前屈みになっているその上にうつむいていた。自分が戻ってきたことは自慢の聴覚で聞こえていただろうに、耳そのものは頭の上にぺたりと伏している。

 正面に立ちはだかり、影に覆われてもなお、サラはこれっぽっちも視線を向けようとしない。かえって腹立たしくなり、黒い毛皮に覆われた耳の裏側を貫こうとする、鋭く冷たい口調に乗った声が、純平の口をつんざいた。

「なぜポポを殺した」

 氷柱のようなそれを受けたサラは、しかしながら痛みも冷気も感じていないように、ぴくりともせずにゆっくり顔を上げる。そして答えた。

「純平を助けたかったの」

 首の上には、安息がもたらした穏やかな笑みだけがあり、それ以外には何もなかった。

「もしあのままポポが逃げてたら、純平が人間だってこと、大将に言いつけられてたでしょう? そんなことになったら、いくら大将でも、純平のことを許してなかったはず」

 そこで急に焦った顔になる。

「そうしたらきっと、純平は殺されてた」

 語気もそれに伴い早くなる。

「純平の言ったとおりにする必要なんてどこにもないってことになって、人質の人たちもみんな殺されちゃってた。これから先の戦いでも、人間は誰一人として捕まえられずに殺されるようになっちゃってた。違う?」

「ああ、そう思う」

「でしょ?」

「ああ」

 微笑を取り戻そうとしたサラに純平は続ける。

「それにお前も殺されてた」

 サラの顔が一瞬で強張り、その表情のまま目線が下がっていく。

 純平は肩を上下させ、鼻から長い息をついてから、声を荒くする。

「俺が死んだら俺の役目は全てお前に回ってくる。だがお前は俺の代わりをこなせるほど賢くない。そうなったらお前はただの役立たずだ。遅かれ早かれ殺される」

 サラは返事も反論もせずに、うつむいたままじっとしていた。ただ耳だけが、ためらいがちに純平を仰いでいる。

「一人で生きていけないってのは、そういうことだったんだな」

 サラはちらりと上目を送り、咎めるような純平の視線とぶつかると、それは困ったみたいに細くなった。

「やっぱり純平は頭いいね」

 サラは感嘆気味に言って、指を絡ませた両手をうんと高く上げて伸びをした。漏れ出てしまう唸り声は緊張の糸が解けたように、心の底から気持ち良さそうだ。

「あっちに甘えて…こっちに擦り寄って…」

 そこまで言って、サラは純平を見遣る。顔を背け、手の甲で唇を一拭きし、自嘲にも嘆息にも聞こえるため息をつく。

「あんなことまでさせて…大変だった…」

「………」

「でも…人間でも動物でもない私は…そうでもしないと生きていけなかった…」

「………」

「人間でもない…動物でもない…帰るところもない…そんな私が生き延びる方法はそれしかなかった…何をしてでも助けてもらうしかなかった…」

「………」

「だけど純平」

 目線を逸らしかけた純平は、据わった声に呼ばれて顔を戻す。そして自分を睨み付ける、今までに見たことのないサラの表情を知る。

 崖っぷちで居直る生き物は、どんなに強い相手にでも、こんな風に威嚇するのかもしれない。見上げられているのだということを錯覚する、見下ろされているのと変わらない威圧感が、まるで喉笛を絞め付けるように立ち昇っている。純平は細く縮んだ食道にわずかばかりの唾を流す。

「私が純平みたいに頭よくないってこと、大将に言わないほうがいいよ。そうしたら私も純平が人間だってこと、大将に言っちゃうよ。純平が騙してたってこと、みんなに言っちゃうよ。そうしたら純平はもちろん、人質もみんな、みんなみんな殺されちゃうんだからね。人間を助けることなんて、絶対にできなくなっちゃうんだからね」

 言いながら、どんどん語気を強めていき、どんどん目を剥いていたサラは、そこで打って変わってにっこり微笑んだ。

「わかってるよね?」

「………」

「純平は頭いいもんね?」

「………」

「私なんかよりもずーっと」

「サラ」

「――なあに?」

「………」

 とりあえず名を呼んだものの、純平はそれから先を紡げない。子供にされるように、促すように小首を傾げられると、いたたまれずにうつむき、少ししてから意を決したように顔を上げて、声を大きくして尋ねた。

「お前にとって、俺は何なんだ」

「何でもないよ」

 サラは真顔で即答すると、純平に反応をさせる暇すら与えずに続ける。

「何かだと思ってたの? 私は人間でも動物でもない。どっちのことも嫌いじゃないけど、どっちのことも好きじゃない。だから、人間を助けたいとか動物を助けたいとか、ホントはそんなのないの。私は私が生きていられればそれでいいの。だから純平のことだって何とも思ってないの。強いて言えば生き延びる手段かな。守ってくれるなら誰でもよかった。別に純平じゃなくたって」

 サラはそれ以上言葉を継ぐのを止めた。歯を食いしばった純平が、かすかに震える拳を握り締め、うつむかせた顔の奥から鋭利な睥睨を突き刺しているのに気がついたからだ。

 今にも殴り掛かってきそうな感情が伝わってきて恐くなった。だが、何としてでも生き延びようという、言うなれば自分の策略の成功の証明であるその姿は、憐れにも滑稽にも映る。危害を加えることなんて、できるわけがないと確信もしている。サラはその目を悠然と睨み返し、口元に薄く笑みを浮かべてやった。

「人間を助けたいなら、これからも私のこと、守ってね」

 純平は無言で目線を下げ、ふと顔を上げて尋ねた。

「ポポを殺して、良かったと思ってるか?」

 途端にサラは眉根をひそめる。

「いけないの? 純平を助けるにはああするしかなかったんだよ? 私が生きるためにはああするしか」

「そうだ。お前はそれで死なずに済んだ。だったらどうしてもっと喜ばない」

「仕方なかったんだよ…? 純平がちゃんと耳つけてれば、あんなことにはならなかったんだよ…? 悪いのは純平よ! 純平があんなことするから私がああしたんじゃない!」

「だがそうしなければ俺たちは死んでいた」

「そうよ、それの何がいけないのよ! 生きていきたいっていうのがそんなにいけないことなの?」

「………」

「答えてよ!」

「………」

「私だって…あんなことしたくなかった…」

 サラはうつむくと、少しの間そのまま動かなくなる。鼻を啜り、軽く握った手の甲で目元を拭いながら、懺悔みたいに紡いでいく。

「みんなで一緒にいられればいいなって思ったのは…ウソじゃないよ…? それだけは信じて…」

「………」

「私のこと…失敗作だなんて言わないで…優しく迎えてくれたのは…ここにいるみんなだけだから…」

「………」

「だけど…私が生きていられなくちゃしょうがないの…」

「………」

「他の誰かが生きてたってしょうがないの…純平もそうでしょう…?」

「………」

「悪いことしたと思うよ…ポポは許してくれないと思う…だけど…」

「………」

「私…死にたくなかった…」

「………」

「仕方ないじゃない…」

 最後の呟きを受け、純平が口を開く。

「仕方ないなんて言葉で片付けられるほど、俺は簡単にポポの死を済ませられない」

「勝手なことばっか言わないでよ!」

 サラはわずかに濡れた鋭い視線を浴びせながら叫んだ。なおも困惑する純平に続ける。

「私がああしなきゃ、今頃純平は殺されてたんだよ? ううん純平だけじゃない、他の人間たちもみんなそうなってた! どうしてそんなに私のこと責められるのよ…!」

「責めてるわけじゃないだろう…」

「うそつき! 自分のこと棚に上げて! 私だけ悪者扱いして!」

「………」

「ホントだったら純平がやるべきだったのよ! 人間を助けるために! それを私が純平の代わりにやってあげただけじゃない! 純平を生かしてあげるために、人間を生かしてあげるために、私が殺してあげただけじゃない!」

「………」

「ううん…私だけが殺したんじゃない…」

 サラは、もう怒鳴る気力もなくなって、首を振りながらうつむいた。うつむきながら首を振ったといってもよかった。それでもまだ言いたいことが残っている。鼻を啜る合間にそれを伝えようとする。

「今純平がこうして生きてるんだから…純平だってポポを殺したようなものよ…人間たちだってそうよ…」

「………」

 純平はしかめた眉の下、目を閉じてサラの言葉を噛み締める。そして、これから先には絶対にそうはなりえない、仮定の状況に身を投じる。

 もしも、ポポの症状が思いの外軽く、動物たちの目の前でポポを蘇生させることができていたとしたら、どうしていただろうか。どうするべきだったろうか。

 それが可能だったとしても、見捨てていただろう。だろう、ではない、見捨てるべきだった。自分とサラと大勢の人間の安全を放棄するという選択は、たとえそこにあったとしても、看過しなければならなかった。

 結局は手を下さずに済んだことに、どこかで安堵しているだけだという、これっぽっちも反論の資格を持たない、卑小極まりない自分を思い知って、純平は緩慢に、しかし永遠に果てが訪れないほど何度も頷いた。

「そうだな…悪かった…」

 そしてそれを見てもらえていないことに気がつくと、手を下に伸ばしてサラに触れ、隣に腰を下ろした。

「お前のおかげで…俺は生きてる…人質も生きてる…ありがとな…」

 純平は動きでわかってもらおうとするように、サラを抱き寄せ、続けて何度となく頷きながら、頭を、髪を、耳を、同時に撫でてやり続けた。

 直前に嫌な思いをさせられた相手でも、謝意の込められた手付きが優しく動き回るのは、ネコにとっては心地好く感じるものらしい。嗚咽が収まってきて、鼻を啜る回数も減ってきた頃に、ふと顔を上げて呟いたサラの声も、乾き始めていた。

「誰か来る…」

 目を閉じて耳を外のほうに向けたサラは、「タクローかな…」と呟いた。

 程なくしてサラの予言どおり現れたタクローは、やはり泣き腫らした顔で二人の前に立ち、こちらも生乾きの声で言ってきた。

「大将が呼んでる…ポポとお別れをするから来いってさ…」

「ああ…今行くよ…」

 純平はしんどそうに立ち上がり、事務所のほうに向かう。しかしサラは伏せた顔を力なく振るだけだった。

「私はいい…」

「何言ってんだ…」

 タクローは思わずサラに歩み寄り、肩に手を置いて前後に揺らした。

「これで最後なんだぞ…? もう二度と会えないんだぞ…?」

「疲れてるの…」

「疲れてるったって…お前…」

「放っておいてやれ」

 タクローは不審そうに振り返った。純平はサラをあごで示しながら言う。

「向こうで色々あったんだよ」

「だからって…これでポポとお別れなんだぞ…」

「いいから…!」

「………」

 純平は少しばかりの苛立ちを滲ませてタクローを制すると、すまなさそうに続けた。

「そっとしておいてやってくれ…」

「………」

 こうまで頼まれては無理やり連れて行くわけにもいかず、タクローは黙って頷き、一足先に部屋を後にした。

 再び二人きりになると、純平はサラを見遣り、小さく告げた。

「行ってくる…」

 サラはあごを引く程度に頷くことで返事とし、純平はのろのろと歩き出して出て行った。


 一人ぼっちになったサラは、そのまま布団の上に身を伏して、濃密な一日の疲労を癒そうとした。ポポの死骸や、何も知らずに怨嗟を轟かせる動物たちと同じ場所にいたくないのが実情だったが、疲れていたというのも本音だった。昨日は昨日でずっと純平の心配をしていたのだ。もちろん、純平がいなくなることよりも、純平がいなくなることによって危うくなる自分の身を心配していたのだけれども…。

 何だか頭が痛むような気がした。耳と耳の間をさすり、違和感を覚えながらもしばらく続けてから、ポポの不在に気がついた。頭が軽かったのは今日の朝からなのにと自嘲気味に思い、手を下ろした。痛みは止まない。

 何か別のことを考えようとする。あるいは何も考えないようにしようとする。すればするほど悲嘆に耽る動物たちの声が聞こえてくるような気がしてくる。その中ではロロが一番辛いだろう。それでもポポよりはマシかもしれない。今まだ生きていられるのだから。

 悪いことをしたと改めて思う。可哀想なことをしたとも思う。出会ってから今日の朝まで、大将に見張りの任を命じられそれを解かれるまで、起きたときから寝るときまで、毎日毎日そばにいて、いっぱい話していっぱい笑い合って、けれども本当のことなんて何も知らないで、大切な仲間で大切な友達だと思っていた自分に殺されていったのだ。一番辛いのはポポに違いない。

「ごめんね…」

 そう呟いたサラは、鼻の奥が熱くなってきて、ぐすぐす泣き始める。そして急に冷めた。別にいいじゃない。

 流れ出かかった鼻水を啜り、落ち着いて考えてみる。私がしたことはそんなにいけないことだった?

 すぐに首を振る。私は生きていきたかっただけだもん。そのために誰かを殺して何が悪いの? みんなそうしてるじゃない。大将たちだって、ポポだってそうだったはず。純平だってそうしてきてるはず。マスターだって…。

 同じようなことを、思いつく限りの色んな立場と色んな状況に置き換えて考えてみても、一度得た正当性は毛ほども揺るがなかった。揺るぐはずもないのだ。それが生きるということなのだから。

 やがて考えるのに倦んだサラは、まるで自分に言い聞かせるように、口に出して結論付けた。

「私は悪くない。純平も悪くない。私たちは誰も、悪くなんてない」


 サラはふと、ドアの開く音と純平の匂いでその帰りを知り、うたた寝していた自分にも気がついた。体を半分起こしてあくびをしつつ目元を拭っていると、行きよりは力強い足取りで純平がやってきて、隣に腰を下ろしてきた。

 コートのポケットに両手を突っ込んだままだった純平は、そこで片方からライターを取り出した。サラは露骨に眉間に皺を寄せて背を向ける。

「あっちで吸って」

「タバコじゃない。今日の晩飯だ」

 サラは体を戻して身を乗り出した。点火されたライターを見つめる顔にはいつもの元気がほんのちょっぴり戻っている。

 純平はもう片方のポケットから取り出した、長方形で厚みのない、親指ほどの小さな赤い肉片の端っこをつまみ、ライターでその反対側をあぶり始めた。あっという間に表面の色は肌色に変わり、焼き色が付き、香ばしい肉の香りが漂う。純平は火から離した肉を軽く振って熱を逃がしてから、持つ位置を変えてもう片方を焼いていく。人間が用意してくれるはずだった夕飯を食べられずに空腹だったサラは、眺めているだけで口の中に肉の味が満ちてくる。わくわくして尻尾が突き立った。

 調理が済んだところで純平はライターをポケットにしまい、おおよそ半分ほどを食いちぎり、残りをサラに差し出す。サラは肉汁にも似たよだれを飲み干すことで、喉から大きな音を立てさせてから、引っ手繰るようにそれを受け取った。

 そして舌なめずりした口に近づけて、食べずに、歯形目掛けてふーっと息を吹きかけた。時間をかけてゆっくりあごを上下させている純平の顔が怪訝そうに向く。

「ネコ舌なの。知ってるでしょ?」

 そう答えてから、サラは大きく息を吸い込んだ。と、顔色が変わった。肉片を鼻の下に持ってきて、音がするほど嗅ぎ回す。何度も何度も。まるでそうすることでしか酸素を取り入れられない生き物みたいに。そして一つの確信を胸に純平を仰ぐ。

 純平は口の中の物を全て飲み込んで息をつき、それを反動のようにして壁にもたれたところだった。その体勢のまま数回頷く。

「ハト料理ってのがあるぐらいだから…食えないことはねえな…」

「何で…? 何でこんなことするの…?」

 問いかけるサラの声は上擦り、今にも途切れそうに震えていた。

「生きるためだ」

 一方の純平は、落ち着き払った声でそれに答え、顛末を話し始める。


 ――タクローとともにエントランスまで戻ってくると、動物たちの輪は先ほどよりも大きく膨らんでいて、一見して欠けているのがサラだけだとわかった。

 怪訝そうな仲間たちを分け入って中央に行って腰を下ろし、やはりこちらを見るなり眉をひそめる大将に、あいつはそっとしておいてくれと告げると、誰も何も聞いてこようとしなかった。

「始めよう」

 大将はそう言って、今なおポポの亡骸に縋り付いているロロの向かいに到達すると、頬をロロの顔に押し付けた。

「どけ」

 とっくに涙の枯れ果てた泣き腫らした顔を上げたロロは、小さく頷いて離れた。

 ポポに最後の別れを告げようということなのだろうと、大将と向き合う形になっている純平とタクローを始め、周りを囲む動物たちの、その誰もが信じて疑わなかった。ロロも同じである。それ以外のことなど考えもしていない。

 大将は首を下に曲げていき、ポポの胴体に顔を寄せながら、口を開いて口を閉じた。押し付けられた負荷でポポの両端が、まるで逃げ出そうとするようにわずかに浮く。大将は両前足で顔と尾羽を押さえ付けて口の開閉を続行する。灰色の羽根が舞い少量の血が飛沫となって噴き出してくる。

「お兄ちゃん!」

 ロロが断末魔のそれにも似た絶叫で大将の前足の片方に飛び付き、両方の翼を絡めて持ち上げようとしたが、即座に撥ね退けられて悲鳴を上げた。

 そのために手放してしまった尾羽を再び押さえつけた大将は、直後に豪快な音で頬を殴り付けられて吹っ飛び背中から倒れた。

 タクローはそうしてポポを解放したものの、それだけでは収まらず、大将の腹にまたがりその喉笛を両前足で締め付けた。ポポだけのものか本人のものが混じっているのかわからない、血で赤く汚れた口元を目にし、困惑の表情は怒りを通り越した悲しみの色を増した。

「気でも狂ったか。ここまで一緒に戦ってきた仲間に、何てことしやがるんだ!」

 大将は無念そうに顔を歪めたが、次の瞬間に巨大に目を見開き、両前足でタクローの腹の傷口を、いびつに巻かれた包帯の上から遠慮なしに突き上げる。

 ぐぇっと嘔吐するような声を漏らして体勢を崩したタクローは、顔面から床に激突してから身をよじり、片方の前足で傷口を押さえて横臥する形になって静止した。

 その姿を視界に入れようともせずに悠然と起き上がった大将の前足に、またロロが引っ付いてきた。ロロは今にも泣きそうに首を振る。

「どうしてお兄ちゃんのこと食べちゃうのよお!」

 ふと見回すと周りの全員が不信や憤慨を宿した睥睨を向けてきていた。大将は悲しい音色に聞こえるため息をつき、忌々しげに呟いた。

「どこまでお前たちはめでたいんだ…!」

 そして前足を振り上げると、何の躊躇も見せずにロロをタクローの傷口目掛けて投げ付けた。甲高い悲鳴とくぐもったそれが短く折り重り、無数の息を呑む気配が後に続いた。

「今のポポは、仲間ではない」

 大将は説き聞かせるように一語一語を大事に言う。そして薄っすらと開いたまぶたから覗く、その言葉の真意を問いただそうと熱を帯びた四つの瞳を見遣り、静かに続ける。

「生きていたポポは仲間だが、こうして死んだ今、ポポは食糧だ。俺たちが生きるための大事な食い物だ」

 二対の視線は何か、聞き間違いを懇願するような、恐れに満ちた色に変わった。大将は問われる前に言い立てる。

「だが、ポポは俺たちだけのものだ。人間にはこれっぽっちもくれてやらん。ポポを今日の俺たちの晩飯とする。次に誰かが死んだら同じようにする。それが俺だったとしても同じようにしろ」

 二人と周りの反応や返答を待たずに、大将はポポの元へ戻ってくると、赤くえぐれた横っ腹に牙を突き立て食いちぎった。咀嚼をしながら首を普段の高さまで持ち上げ、最後の最後まで味わうようにゆっくり飲み込む。

「一口。いや一舐めでもいい。必ず全員口にしろ」

 大将はもう一度ポポをすくい取ると、血が滾々と湧き出ているそれをまたいだ。

 それまでの間ただただ呆然と一部始終を眺めていただけの純平は、不意に大将が目の前に現れたことで身じろいだ。大将は首を下に曲げて口を開けた。あぐらをかいた足のすぐ前にぼとりと肉片が落ちてきた。

「お前たちの分だ。お前たちは体が大きいからな」

 大将は返事の言葉を持たずに黙ってそれを見下ろしているだけの純平に言い渡し、踵を返してその牙によって元より二口分減ってしまったポポの遺骸を再びまたいで輪の最前列へ向かう。

 正面の動物たちは潮が引くように道を空けていき、そのそばから振り返って大将を見遣った。純平もポポの一部から視線を移してからは、同じようにしていた。

 垂れたままで離れていく大将の尻尾を見届ける他のみんなが、どんな表情でどんな目線をその後ろ姿に投げ掛けているのか。きっと自分と同じで、目の当たりにした衝撃を消化できていないがための行き場のない不信を溢れんばかりに宿しているのだろうが、揃ってこっちを向いた後頭部からは、それを確かめることはできない。

 大将は自分たちから少し離れていったところに腰を下ろし、こちらに背中を向けたまま顔を洗い始めた。目を擦ってから足を舐めた。

 純平ははっと、目を見開いた。

 今から確かめようとしても、同じ所作を繰り返している今は、どちらが先だったのかを判別することはできない。

 しかし間違いなく、目が先だった。足はその後だった。

 大将は前足で目を擦ってから、その前足を舐めたのだ。前足で目を擦ってからその前足を舐めたのだ。

 もちろん偶然に決まっている。ネコ科の動物にそんな習性はない。本当に溢れ出る涙を拭っているわけではないだろう。

 だがその仕草は、想像の中で平然とポポを殺して食えたライオンの姿ではなかった。強さだけで世を渡っていくことができるわけではないと知っている苦渋の凝固に他ならなかった。それだけで純平は救われた心地がした。

「食おうぜ」

 大将に向けられていた不信の目が、弾むように一斉に純平に移ってきた。ロロは悲嘆の度合いの強い失望を、タクローは憤怒に彩られた落胆を、それぞれそこに混ぜていた。大将までもが意外そうな顔でこちらを顧みている。まるで無理をするなと言わんばかりに。憎まれるのは俺だけでいいのだと訴えるように。だが純平の意志は揺るがない。

「そうすれば俺たちの中でポポを生かしてやれる。俺たちが生きてる限りポポも生きていける。俺はそう信じる」

 それを最後に、長い静寂が訪れた。

 否定もされず、肯定もされず、それでも純平はポポの亡骸を眺めていた。まだまだこいつを生かしてやれる。そう思いながら。

 けして大きくはない羽音が静かな場を潰して、誰かが純平の視界に入ってきた。

 ポポのそばに降り立ったロロは、くちばしを下に首を曲げて、小声で呼び掛けた。

「お兄ちゃん、これからもよろしくね」

 線ほどの小さな舌がポポの傷口を満たす血を一回だけ舐めた。ロロは目を閉じてゆっくり嚥下すると、少し離れたところまで歩いていき、そこで飛翔して次の誰かのために場所を空けた。

 すかさずそこへ駆け寄ってきたのはタクローだった。タクローは四つん這いのままポポを見下ろし、慟哭の一部のような言葉にならない涙声で何事かを叫びながら、顔を弾ませるようにしてポポを食んで、固く閉じた口の端から数本の羽根をぶら下げて、どこかへ走り去った。

 その後は他の動物たちが、誰ともなくポポを中心に集まっては、速やかに散っていった。いずれも大将の命令への恭順に苦痛を抱えながら、純平の意見によってそれらを希釈させ、あるいは意義を見出しているらしかった。

 そのため純平は義務を果たし権利を行使するように、誰の目にも入るようにその場に留まって動物たちの緩衝を務めつつ、ポポが減っていくのを見届けることにした。

 水音と破砕音と咀嚼音とが混じり合い、友が友に食い尽くされていく光景は、通常ならば顔を逸らし目を背け、また逃げ出してでもやり過ごす惨劇の具象だが、その本質を悟った今、それはけして苦行ではない。愛とか友情とかいう美しい絆で結ばれていなくても、この世に生が現れ生が消えていくまで、片時も薄れることなく続く儀式だ。自分も生まれてから今日まで何度となく行ってきて、そしてまたいつか死ぬときまで幾度も繰り広げていく、命を存続させるための不可欠な営みだ。けして美麗ではなくても、ただ残酷なだけであっても、尊い行為だ。

 やがてポポは一かけらの骨も一滴の血も一本の羽根さえも残さずに消えていった。リノリウムの床には何もない。初めからそこに何もなかったかのように。

 だが、実際は違う。ポポを消していった動物たちの体の中に、ポポはずっと残る。

 次にまた誰かがこうなったとしても、大将やタクローやロロが息絶え残されたものたちが再び共食いを余儀なくされても、ポポはその誰かとともに、それを糧にした動物たちの中で在り続ける。

 今まで意識してこなかっただけのことだ。これまでも世界のあちらこちらでは、何の変哲もない日々の日常の只中で、全ての生き物がそれを繰り返していたのである。

 そうして生き物は繫がってきたはずであり、これからもそれはその形式によって、ただ一度の破綻に見舞われることなく連鎖していくはずである。

 それが命というものなのだ。きっと…。

「早く持っていってやれ」

 純平は大将の呼び掛けで、誰もいなくなった輪の中心で未だにじっとして、不思議に微笑すら浮かべている自分に気がついた。

「サラも腹を空かしているだろう」

 思い出したように頷くと、床に置かれた長方形に近い形の薄い肉片をそっと摘み上げて、コートのポケットにしまい込んだ。そしておもむろに立ち上がる――


「そうやってみんな食ったんだ。俺も大将もタクローも、生きるために食ったんだ。肉食じゃないロロでさえ、たった一舐めだが確かに食った。ポポが俺たちを生かす。俺たちがポポを生かす。そういうつもりでな」

 純平の話が終わり、サラはずっと手に持っていたその一片に目を落とした。人肌に冷めてきたそれは、さっき握り潰したポポの体温と変わらなくなっている。

 サラは純平の手を膝の上に認めると、それを開かせて肉片を置いた。純平は舌打ちしてしかめっ面を投げ付けたが、そこには体ごと視線を逸らしたサラの背中があるだけだった。もう一度顔の横にそれを突き出すと、首を斜めに傾けてなおも視界から外そうとした。

「お前の分だ」

「いらない」

「腹減ってんだろ」

「食欲ない。純平が食べて」

「だめだ。これはお前の分だ。お前が食わなきゃいけないんだ」

「………」

 サラは無言で横目を流す。純平の人差し指と親指に挟まれてしまうほど小さく、そして茶色くなったポポがそこにいる。死してなお、焼けてもなお、そこには友の匂いがある。

 サラは両手で床を叩き付けた反動で立ち上がり走り出した。しかしすかさず純平に尻尾を握り締められるや悲鳴を上げ、腰から背中を通じて電流のように全身を貫く激痛に耐えられずに膝から崩れ落ちる。床を握り締めようとして必死に抵抗するが、ヒトの爪では滑らかなリノリウムに跡さえつかず、四つん這いの体勢のまま強引に引き寄せられた。

 純平は尻尾をつかんだまま腰を抱き抱えてサラを起き上がらせると、羽交い絞めにして胸板に抱き込み、何かにしがみつこうと宙を掻く両腕を一本ずつ後ろに回し、身動きが取れないようにしてやった。何としてでも脱出しようともがかせる腕に腹をえぐられる感覚に耐えながら、輪郭を囲う具合に頭を押さえ付け、サラの唇にポポを押し付ける。

 サラは地鳴りのような唸り声と渾身の力で首を曲げた。とはいえ少し逸らすことができたというぐらいのもので、肉汁は、唇から頬へ、その軌道を細く刻んだ。とうとう純平が怒鳴りつける。

「食え!」

 耳を伏せ、尻尾を逆立て、体をびくりと震わせて、サラは涙を飛ばして首を振る。

「いや、食べたくない、そんなひどいことできない」

「お前が望んだことだ!」

「ポポを食べたいなんて思ってない! 死にたくなかっただけだよ! 殺したかったわけでもない! それだけだもん! 本当にそれだけだもん…! それだけなのに…それだけなのにどうして食べなきゃいけないのよ!」

「生きていきたいって言っただろうが!」

「………」

「なあ! 生きていきたいって!」

「………」

「どうなんだ!」

「……言ったけど」

「だったら食うんだ!」

「………」

「ほら…! 口開けろ!」

「……!」

 サラは再び唇にポポを押し当てられ、わずかな隙間から流れ込んでくる肉汁を感じた。それから逃れようと精一杯首を曲げ、曲がった首を戻される。

 純平はなおもサラの口をこじ開けようと前後からサラを押し込み、伏せた耳の耳元で叫んだ。

「殺したところで終わりじゃねえぞ! 食ったとこから始まるんだ!」

 嗚咽のような声が漏れ、純平はそのためにほんの少しだけ広がった隙間から、すぼめた指とともに、サラの唇の内側にポポを押し込んだ。

 指は熱い液体と粘膜に迎えられたすぐ後に、防壁のような硬いものに突き当たる。構うことなく力任せにへし折らんばかりに爪を押し付けていくと、本当に突き破られるのを恐れたのか、前歯は上下に開いていった。

 さらに奥へと進んだところで指を開こうとしたが、柔らかく生温かいぬめりがざらざらを擦り付けて必死に手を追い出そうとしてきた。しかし、みーこのそれに慣れている純平には何の効果もなく、程なくポポはサラの舌の上に移る。そのまま断末魔のそれになりそうな声量の悲鳴が、純平の指の隙間から漏れ出た。

 指だけをそこから一気に引き抜いた純平は、手のひらでサラの口を閉ざしてポポが吐き出されるのを阻止し、口と喉が真上と真下に来るように首を直角に曲げさせて固定したところで顔を揺さぶって催促した。

 とうとう、サラは観念した。

 何もかもを諦めたような、力尽きた顔の下で、一瞬喉が膨らみ、嚥下の音がする。

 純平はねぎらうように何度も頷きながら、ようやく口を自由にしてやった。げほげほと咳き込んだので、いたわりの愛撫を施す手を頭に一つだけ残して、サラから離れた。

 サラは自由になった手を二つとも胸にあてて、少しずつ呼吸を整えながら、

「ねえ純平…」 

 と呼び掛けた。

 そして、まだ安らげていない、荒い息遣いを堪えながら、そうなったところで何にもならないけれど、それでも否定してもらえることを望んで、この短時間の間に湧いてきた疑問を口にするのだった。

「ホントにこうしなきゃ…私たち生きていけなかったのかなあ…? 他に方法なかったのかなあ…?」

「なかったんだよ」

「………」

 まるでサラを絶望させることのみを目的にしていたみたいに冷淡に言い放ってから、純平は悔しそうに続けた。

「生きるためには食わなきゃいけない…そのためには殺さなきゃいけない…そのためには戦わなきゃいけない…それが生きることなんだって…ポポがそう言ってたからな…」

 純平はため息と舌打ちを連続で行って片手で顔を覆った。首を振って鼻を啜り、もう一度ため息と舌打ちをしてからクソッと呟いてむしり取るように髪をかき上げ、力を抜いた腕を床に落下させ、いたわろうともしない。

「みんなで一緒になんて…最初から無理な話なんだよ…」

 純平がそう言うと、サラは、納得なのか、それとも自分自身への言い聞かせなのかはわからないが、とにかく頷きまくってから、ネコが顔を洗うみたいに、両手の甲で忙しなく目を擦り始め、そしてやがて、誰にともなく呟いた。

「生きていくって…難しいね…」

 純平は何も答えずに、すすり泣くサラの頭に手を置いていた。もはや停止していて何の意味も成していないその手は、やがて思い立ったように動き、目元を行き来するサラの腕をつかんだ。


 二人は純平がサラを引く形で階段を降りていき、程なくして六階に入っていった。

 このフロアは半分が本屋でもう半分がCD・ビデオ販売店という形に区切られているが、純平は音声や映像の媒体には目もくれずに本屋の領域に足を踏み入れた。

 天井から吊るされた看板に記された本の種類や実際に棚に並べられている本を逐一確かめながら通路を行ったり来たりする、それまでの漠然とした行程と違って何か明確な目的があるらしい純平の後を歩きながら、サラは尋ねた。

「何探してるの?」

「子供向けの本とか、絵本とかをな」

「そんなの読むの?」

「俺がじゃねえよ。お前が読むんだ」

「どうして?」

「勉強するからだ」

 サラが思い切り踏ん張った。

 腕が伸び切ったところで立ち止まった純平はそこで振り返り、悄然とうつむいているサラを見る。

「勉強なんてしたくない」

 問うより早くサラに答えられ、純平はサラをつかんだままの腕を力一杯手前に引いた。

 踏み止まるのが遅れて純平のそばに引き寄せられたサラは、少しでも下がって純平との距離を取る。

「勉強なんかしたって何にもならない」

「文字を教えてやるからそれを読めるようになれ」

「文字なんか読めたって何にもならない」

「そうすれば本だって読めるようになる」

「本が読めても何にもならない」

「そうすれば書いてあることが理解できるようになる」

「理解できても何にもならない」

「そうすれば知識がついていく」

「知識がついても何にもならない」

「そうすれば賢くなる」

「賢くなっても何にもならない」

「そうすれば動物たちの中で必要な奴として生きていける」

「………」

「耳と尻尾を隠せば人間たちの中でも人間として生きていける」

「………」

「そうすればいつ俺がいなくなっても平気になれる」

「………」

「この戦いが終わった後だって、いやいや俺と暮らさなくたってよくなる」

「………」

「俺はお前がいいって言うまでお前のこと守ってやる。行くぞ」

「ねえ…」

 再び歩き出そうとした純平を、サラが慌てて呼び止めた。振り返ったのを気配で感じ取り、尋ねる。

「どうしてそこまでしてくれるの…?」

 しかし、返事はない。

 怪訝そうに上目を送り、質問の意図が通じていないみたいに要領を得ないで首を傾げている姿を確認すると、また目線を下げて問い直す。

「純平にとって…私は何なの…?」

「大将たちや人間たちと同じだ」

 純平は即答した。そして言い換える。

「死なせたくない大切な奴だ」

「私なんかが…?」

「なんかなんて言葉使うな」

 少し強められた語気にサラは首をすくめ、怯えた視線を送る。純平はサラの頭に軽く叩くように手を置いて、力強く宣告する。

「この世に現れた以上、お前は立派な生き物だ」

「………」

 愛と愛の交錯による自然の営みの結晶として誕生したのではなく、人為的な目論見による想像もつかない工程を経て命を与えられただけの、人間でも動物でもない、失敗作と蔑まれた挙句に処分という名目で殺される寸前だった生き物には、どこにどんな根拠があるのかよくわからない言い分だった。

 それでも、だからこそだろうか、ただここにいることを許容してくれるその言い分を、その生き物は信じることにした。

 サラは頷いて、手を前に伸ばして純平に歩み寄る。純平は胸元に手のひらをあてられたところでサラの意図を察し、抱き着こうとしてきたサラをそっと押し退けた。

「もうそんなことするな」

 面食らった表情に優しい微笑みを見せてやってから、純平は背中を向けた。

 はっと気がついて首を振ったときには、サラはもう腕を引かれて歩いていた。

 急いで口を開いたが、すぐに思い至って言葉を出すのはやめた。そうじゃないと伝えたかったが、信じてもらえないことが恐かった。

 こんなにも感謝しているその気持ちをわかってもらえないことを辛いと感じて、騙していたことを心の底から後悔して、それを憎まれないことが実はとても悲しいことなのだと思い知って、しょんぼりとうつむく。

 それでもサラは手の位置をずらし、純平の手を握れるところまで動かすと、まるで抱擁の代わりとばかりにそこに力を込めて、力強い足取りで純平の後に着いていった。

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