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獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
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第四章

 第四章



 動物たちが立て籠もるカラム百貨店から、入り組んだ街中へ入ってしばらく進んだ所。円川町の大多数の住民の取った行動に反して、動物たちを追い出すために避難をせずに町に残った人々のアジトがある。

 満月の夜、動物たちが動物園から脱走し、町中で暴れ回ってカラム百貨店に立て籠もった後、辛うじて無事だった住民たちは例外なく自分たちの置かれた状況に改めて愕然とした。

 彼らの一部は路傍に伏した人々に目もくれず、着の身着のままで逃げ出すか、そこに身の回りのものを追加していくかだったが、残りの多くは襲撃による被害者を連れて町を脱出した。

 深夜には、初めから一歩も出ずに留まっていた人々と、怪我人を運び出してから戻ってきた人々が、町に集結していた。大多数が男で、全員が大人だった。

 とは言え彼らに共通していたのは、動物たちに攻撃されたという不具合に我慢がならなかったか、親しい人を傷付けた連中に対しての復讐のためか、あるいはその両方かという意識の部分だけで、一つの統率を有していたわけではない。それでも一つの集団として行動するほうが効率が良いということも、共通認識ではあった。

 そこへどこからともなく現れた少年の助言によってアジトが決定し、一同はそこに拠点を置くことにしたのである。

 その後も少年は、外見を理由に軽んじたり心配したりする周囲の大人たちを凌駕する、強いイニシアチブと理に適った一言一句によって一人一人の役割を決めていき、背に腹はかえられないという大人たちの苦渋の選択によってリーダー格に据えられ、翌日には挟み撃ちによる襲撃という作戦を実行させる運びにまでさせた。

 しかし作戦は失敗し、まんまと人質を取られてしまう。人員は当初より減り、人質の出現のせいで政府の会議は一層膠着化したわけである。

 ところが人間にも種々いるもので、怖気づいて退散する者がいる一方、危険を承知で彼らと戦いを共にするために、この状態を維持するためだけに町を封鎖している自衛隊と悶着を起こしてまで舞い戻ってきた人々や、そんな人々を手引きした上に免職を覚悟で任務を放棄した自衛隊員などがごく少数だが加わっており、意外や士気は低くない。

 だがそれからの日々の間、打開策を見出せないで苛立ちを鬱積させていたのは動物たちと同様であり、その動物たちが町のあちこちから食糧の調達に勤しんでいるのを知るや、彼らの忍耐も臨界点に到達するかそこを超過するかで、それを阻止するためと意気込んでのパトロールで動物たちと遭遇しては、戦力を減らしてしまっているのである。

 動物たちがそれによって活気付くのに対し、彼らは萎縮していく。もう諦めて残った自分たちだけでも避難をしたほうがいいのではないかという意見が日に日に多数を占めていく。

 動物たちの頭脳を仕留めたと言って、意気揚々と少年が凱旋してきたのは、そんな最中でのことだった。


 少年は人間たち全員を集めると、嬉々とした口振りで、まるで練りに練ったイタズラを成功させたように、橋を破壊した瞬間の一部始終を報告して聞かせた。だが現場に居合わせた連中のように、このあどけない少年がたった一人でどこからともなく取り出したバズーカ砲を炸裂させたという事実に慄然とするものも少なくなく、また直接の解決に繋がるわけではないのだから、人々の士気が快復するわけではなかった。

 それでも少年はすでに次の一手を考えており、話の最後に高らかに宣言した。

「人質を救出する」

「どうやって」

 すぐに一人の男が突っ掛かった。

「お前が壊したせいで、橋はあと一つしかないんだぞ。そこを守ることぐらい奴らにもできるだろう」

「その分他のところは手薄だ」

「他のところってのはどこだ。あそこは川に囲まれてるんだぞ。流れが急だとか寒いだとか言ってたのはお前だろう」

「僕泳ぐの得意だから」

 人々はほとんど全員が絶句するかざわめくか、あるいはそこに顔を見合わせることを加えるかで、口を挟んだ男だけが義務のように聞き返した。

「泳ぐのか…?」

 少年は力強く頷いて、それからちゃんと言っておいた。

「心配しなくても僕一人で行くよ。救出っていうのは少人数でやるほうが成功しやすいからね」

 相変わらず虚空や互いの顔や少年自身の表情に言葉を探している人々を尻目に、少年は続ける。「で、ここからが重要なんだけど」

「君たちのうちの何人かには動物を引き付けておくために囮になってもらう。具体的には残った橋に結集して攻め込むフリをしてくれればいい。前の作戦のときみたいにね。その隙に僕が侵入して、みんなを連れて脱出するから。じゃあおとりになってもらう人だけど」

「瑠香」

 名を呼ばれ、少年は話を中断させた。

「お前一体何者なんだ」

 目をぱちぱちさせてから、答える。

「人間を守るための」

 そこでにこりと微笑んだ。

「ものだよ」

 そして話を再開させた。


 実行は橋を壊した翌日、すなわち今日にした。

 一刻も早いほうがいいということが最大の理由であり、しかし当日にしなかったのは、頭脳を失った動物たちがその捜索という悪あがきをしていることを、ハトやスズメやカラスや他のトリたちがあちこち飛び回っているのを見て感付いたためである。侵入するところを発見されたら元も子もない。

 場合によっては今日も見送るつもりで朝からずっと空を見上げていたが、どうやらウサギの耳の男のことは諦めたらしい。偵察の役目と思しきトリは、澄み渡った空の中に青い布地を汚す虫のように動いているのをちらほら見かけるものの、昨日みたいに一面を覆い尽くすほどではない。今こうして青空が漆黒に染まる直前の茜に色を変えても、そこに変化はなかった。

 もう待つ理由はない。

 瑠香は仲間たちに作戦の開始を告げてアジトを飛び出した。


 前日の瑠香の指示に従い、ある程度の時間を置いてから出撃した人々は、以前の襲撃のときと同じように武器になるものを手にした姿で、残った橋の袂に繁華街から集結すると、今にも攻め込もうとするように喚声を上げて、動物たちを建物の中からおびき出すことに成功した。

 一方その頃、瑠香は一人、前日に壊した橋の袂にビル街から到着していた。対岸の袂にも建物の中にも、見える限りで動物の姿はない。首尾よく川を渡って建物のそばまでやってくることもできた。しかし、「泳ぐ」と言った体に濡れた跡はなかった。

 入り口の前に佇み、デパートを見上げてみる。レンガ調の壁面と赤い光を反射する窓によって、空は半分ほども閉ざされてしまっており、自分たちのアジトほどではないにしても大きな建物だと実感する。

 この中のどこかに人質がいるはずなのだが、見た目もさることながら十五階建てという予備知識が瑠香を困らせた。地下も入れれば十七階分のスペースがあるのだ。その上内部は色んな店が入り組んでいるという話だ。どこからどう探したらいいものだろう。とりあえず下に来てしまったが、上から下に行くほうが効率がいいだろうか。

「こら! 何してる!」

 不意に怒鳴りつけられ、びっくりした弾みで瑠香の顔は元の位置を取り戻した。図らずも正面を向いた目線は、建物の奥から気難しげに表情を歪めた一頭のライオンがこちらに近付いてくるところを認めた。瑠香はその顔を覚えていた。確かこの間の襲撃のとき、大将と呼ばれていた奴だ。

 瑠香は歯軋りした。こんなにすぐに見つかるなんて予想していなかった。不運に似た偶然かただの油断かはわからないが、どちらにしても失策には違いない。これで作戦にひびが生じてしまった。

 しかし、そろそろと辺りを見回して、他に誰もいないことを確かめると、一発で仕留めればいいと思い直した。

 どうせ人質を救出した後で殺すんだ。この程度のミスならカバーできる。作戦には何の影響もない。

 そう念じながら腰を低く落とし、そっと後ろに手をやり、ピストルを構えた。何も知らないで飛び掛ってくるその瞬間に噛み付こうとしてバカみたいに開く口の中にぶち込んでやる。

 大将は建物から外へと出てきて、少年を前方数十センチに見据えるところで歩みを止めた。

 瑠香も大将を睨み返し、引き金に指を添えてグリップを握り締める。

 大将は少年から視線を外さないまま、おもむろに後ろ足を折り曲げて、腰を下ろす。そしてため息をついて項垂れた。

 それを勢いにして飛び掛かってくるという予想と異なる展開に瑠香が目を丸くする間もなく、大将は上目遣いに言ってきた。

「便所は誰かに付き添ってもらえと言ってるだろう」

「え…? ああ…ごめんなさい」

「お前たちは大事な人質なんだ。勝手なことをするな。ほら、乗れ」

 言い終えないうちに大将はその場で半回転し、尻尾を振った。先端の黒い房が促すように足首を薙いでくる。

 度が過ぎるほど無防備な背中に、今ならもっと簡単に仕留められるだろうと、表情には出さないように心掛けながらも、瑠香は半ば呆れ、もう半分は嘲った。しかし、銃口を向けたい衝動を必死に抑え、その代わりに尋ねることにした。

「どこに行くの?」

「みんなのところだ」

「みんな? みんないるの?」

「そうだ早く乗れ。もう晩飯だぞ」

「ねえ、みんなって捕まってるみんな?」

「そうだ、お前と一緒に人質になってるみんなだ」

 いちいち聞き返すだけで動こうとしないのに業を煮やし、大将は少年の後ろに回り込んだ。寸前に後ろ手にしたままの手からピストルが消えていたことには気付く術もなく、足と足の間にうつむき気味に下げた頭を差し込んで首を起こす。

 体の浮いた瑠香は直前までピストルを握っていた手でとっさにたてがみをつかみ、落下を防いだ。

 大将は首を後ろに傾け、少年がどうにかまたがっているのを確認すると、頷いて歩き出して自動ドアをくぐった。

 当初の予定とは大分異なる形であるが、無事に建物の中に侵入したところで、瑠香はもう一つだけ聞いておいた。

「ねえ、みんな同じところにいるの? 他にはどこにもいないの?」

「そうだ。今お前らの仲間が橋に集まってきて攻め込んでこようとしているからな、みんなでおとなしくしてろ」

「うん、わかった」

 前を向いた大将の耳は子供らしい返事を聞くことはできたが、前を向いたその目は、子供らしくない陰険な笑みを見ることはできなかった。


 地下一階の食料品フロアの一角に、後ろ足で直立し、ヒトが拳を握るようにすぼめた両前足に、赤い塗装のプラスチックのカゴを一つずつ提げたタクローがいた。

 片方のカゴには食パンの袋が今にも崩れんばかりの雪山のように詰まっていて、もう片方の空のカゴには、隣で膝立ちになった純平が、陳列棚から次から次へとミニサイズのオレンジジュースの缶を指差し確認しながら入れていっているところだった。

 途中で重量に耐え切れず、タクローは腰を曲げて床にカゴを置き、前足を振ってしびれる痛みをいたわった。純平は見向きもせずに黙々と作業を続ける。

 やがて陳列棚が空になると同時に、食パンの枚数の倍の数のジュースがカゴに詰め込まれた。純平はよしと頷いて手を払う。

「じゃあ行ってきてくれ。ジュースは一人一本。パンは朝昼と同じで一人半分だぞ」

「ああ…」

 タクローは気乗りしない返事で膝を曲げて、パンのカゴをジュースのカゴの上に重ねてから、ジュースのカゴの下のところを抱き上げる形でそれらを持ち上げた。

 人質の増加に伴い、与える食料の量も毎日のように重くなって、この分だと明日からは三つに分けないといけなさそうなほどだ。滅入るような気分が足にも伝染し、よろけてしまったところで脇腹を純平に押さえられ無事に止まった。タクローは体勢を整えながら泣き出しそうに言う。

「何で毎回俺一人でやるんだよ」

「お前が一番力持ちだからだよ」

「純平も手伝ってくれよ」

「だめだ」

 にべもなく返されて、タクローは恨めしそうに純平を睨みつける。純平は申し訳なさそうに顔を歪めて釈明した。

「俺は人間に近いからさ、人質に見られると困ることもあるんだよ」

「何だそりゃ…」

 タクローは釈然とせずに首をかしげ、それでも体の向きを変えて出口へ、時折カゴを持ち直して缶の音をガシャガシャ響かせながら、歩いていった。

「知り合いがいると困るんだよ」

「そこから人間だってことがばれたら大変だもんね」

 絶対にタクローに聞こえないよう気をつけて呟くと、後ろから、やはりタクローの耳に届かないように小声でその理由を言い当てながら、倉庫に行かせていたサラが戻ってきた。


 人質に見られると困ることって何だよ、俺にばっかり貧乏クジ引かせて、と、脳裏に思い浮かべた純平に問い掛けまた文句を言いながらタクローが出口に到達すると、エレベーターの手前で、人質の見張りのチーターとゴリラとワニが、上りの階段のほうに一様に首を垂れているのが、ガラス扉の内側から見えた。

 訝りながら横に向いて肩で扉を押し開けたところで、「しっかり仕事しろ!」という怒声が、地下のコンクリートの壁に複雑に跳ね返って実際の声量よりも巨大になって響き、身をすくませた見張りだけでなく関係のない自分まで怯んでしまった。

 落としそうになったカゴを慌てて持ち直して振り返ると、見張り三人の前に、一人の少年を背にまたがらせた大将がいた。死角になっていて中からはその姿を確認できなかったのだ。

「なーに怒ってんだ」

 とばっちりを警戒しつつ、恐る恐るという気持ちを押し込んでおどけて声をかけると、大将は不愉快な目を真横に馳せてタクローを認めてから、首を後ろに向けて背中をあごで示した。

「こいつが一人で外を出歩いてたんだ」

 少年はというと、これも大将の激昂に驚いたのだろう、人相が変わるほど目を固くつむった渋い顔で耳を押さえており、そろそろと視界を取り戻していくところだった。大将は見張りのほうへ顔を戻す。

「お前たち、一体何をしていた」

「私たちはずっとここにいたけど…」

 先頭のチーターが上目遣いに大将を見遣り、弁解を続ける。

「誰も出て行かなかったはずよ…」

 ゴリラとワニも顔を見合わせて頷いたが、

「現にこいつは外にいたんだぞ!」

 そう言われてしまうと返す言葉がなく、押し黙るしかなかった。

「まあいい、人間たちが橋に集まってきている。ここはいいから橋を固めろ。一人として侵入させるな」

 三人はほっとして二つ返事で了解すると、チーターは風の如き勢いで、ゴリラはワニを抱き抱えて、大将の怒りが再燃しないうちにそれぞれ逃げるように階段を駆け上がっていった。他人事であるはずのタクローも心持ち早足で階段を降りていく。


 大将の背中では、瑠香が首だけを振り返らせて、遠ざかっていく三匹の動物たちの後ろ姿を見つめていた。

 命令に必要以上に忠実に従った見張りの三人は、後ろを見ずに踊り場を曲がって一階までを駆け抜けていき、地下二階へ向かうタクローもそれに続く大将も正面を見据えたままだったので、一人ほくそ笑んでいる表情を目にすることはなかった。


「あーあ」

 サラは純平の隣にいかにも不愉快なため息と一緒に膝をつき、いつもの正座を崩した姿勢になる。

 目を瞬かせ、首を傾げた純平は、なだめてやるつもりで頭を撫でてやろうとした。が、指先が触れただけでサラは首を振ってそれを拒んだ。

 すぐに消えてしまった耳の感触を指先に見つめ、そういう気分ではないのだなと悄然としたが納得もして、報告を促した。

「残りは?」

「ないよ」

 冷淡にぶっきらぼうに答えられ、さすがに純平も鼻白む。それでも続きを尋ねた。

「ジュースは」

「あとちょっとだけ」

「そうか」

「もう一食分もない」

「じゃあ明日はまた違うものにしないとな」

 純平は頷いて腕を組み、首を持ち上げて正面の陳列棚を眺めた。ここも二、三日前から空のままだ。

「あと何が残ってたかな? 缶詰は終わっちまったよな。スナック菓子ももうないし。もう生のままでいけるものはないよな………あ、あれだ。コーンフレークがあったか」

「足りるの?」

「さあな」

「また調達しなきゃいけないんじゃない?」

「そうだな」

「また人質が増えちゃうよ?」

「そろそろ諦めてくれりゃいいのにな」

「純平がペットなんかにまで食べ物分けちゃうからだよ?」

「助けてもらった恩返しだ」

「またごはんが減っちゃったんだよ!」

 突然荒くなった声に、純平は驚いて横目をなげうつ。サラは真正面を向いて目をつむったぶすったれた頭を背後の棚にもたれさせており、純平は、結局そこを言いたかったのだなと理解した。

「今日なんて、私と純平でおにぎり半分ずつだよ? 朝ごはんと昼ごはん合わせても一個分しか食べてないんだよ? もうお腹ペコペコなんだよ…?」

「我慢しろ、人質もパン半分なんだ」

「私は人質じゃないもん」

 体ごとこっちを向いて反駁してきたサラを、純平は軽く笑んでから抱き寄せた。サラは小さい声を短く出して目を丸くする。

「ペットたちが助けてくれなかったら俺は死んでた。俺がいないと生きていけないって言ったのは誰だ?」

「………」

 純平は無言でうつむくサラの頭と耳をあごの下で押さえつけ、後頭部を、そしてトレーナー越しの背中を、尻尾と一緒に愛撫してやった。

 サラはこれという抵抗はしなかった。かといって同調して純平の背中に腕を回すという素振りを見せることもなく、ただただされるがままでいて、胸元に密着しているために純平には見えていない表情は、どことなく誇らしげな純平とは対照的に、あらゆる気力を喪失してしまったような、浮かないものだった。


 タクローに続く形で大将が階段を降り切って、瑠香は地下二階に到達した。

 誰かが来たことによる条件反射で視線を向けた人質たちは、自然と大将の背にまたがる人影を見、その正体を認めるや例外なく目を見開いた。

 当然そこからどよめきが起きかけたが、瑠香は瞬時に怒りにも近い真剣な顔付きを示し、その一番下にある真一文字の唇に人差し指を当てた。人質たちはすぐに静まり返り、同じポーズをしながら他の人質たちへと瑠香の到来を伝達していく。

 瑠香の迅速な対処が功を奏し、動物二人は人質の異変には気付かないらしかった。

 タクローは階段の右隣のエレベーターの前に陣取ってどさっとカゴを置くと、ほっと息をついて両前足を振った。

 大将は首を曲げて降りるように少年に言った。素直ないい返事をして従った少年につられて大将も微笑み、一言加えた。

「おとなしくしてるんだぞ」

「うん、ありがとう」

 そして少年が奥に駆けていくのを満足そうに見送った。

 あっという間に人質たちに囲まれて、そこで表情を気難しいそれに変えた瑠香は、騒ぐな黙っておけという姿勢をもう一度見せた。

 もちろん後ろからはそんなことまで悟れない。大将とタクローは少年の背中も含めた人質たちを眺めながら、簡潔に事務的なやり取りを取り交わすだけだ。

「そういや人間がやってきてるって?」

「ああ」

「ここの見張りはどうする?」

「しばらくお前に任せる。なに、橋の向こうから無闇に攻めてくることもないだろう」

「それもそうだな」

 二人の会話の様子とそれを終えた大将が階段に消えていくのを肩越しに見つめ、向こうからはね、と瑠香は口元に笑みを漏らした。

 タクローはパンのカゴを持ち上げて自分の左隣に下ろすと、ジュースのカゴを右隣に移して二つのカゴに挟まれる位置を確保する。こうすると効率がいいので、人質に食料を与える役目を任されてから早い段階で考案した工夫である。これ以上人質が増えたら正面にもう一つカゴを置かなくてはならないかもしれないななどと思いつつ、口元に両前足を添えた。

「晩飯だぞー。一列に並べよー」

 フロア中に反響する声に、人質たちは瑠香の表情を伺った。

「どうせだから食糧を減らしてやるか。僕は脱出場所を探しておくよ」

 瑠香はちょっと考える素振りを見せてから頷き、タクローの前に列を作っていく人質たちの流れに逆らってフロアの奥へと進んでいった。


 しばらくの間暖かな温もりと柔らかな感触を味わって、不意に違和感を感じた純平は、ふと首をかしげてサラを離した。

「何かいつもと違うな」

 サラははっと嬉しそうな顔をして純平を見上げた。

「そう? やっぱり? 何が違う? どこが違う?」

 サラは宝石みたいに瞳を輝かせて問い掛けながら、答えを催促してぐいぐい迫っていく。純平は急の接近の驚きに身じろぎながらも、しばらくサラを見つめ返し、やがて気がついて頷いた。

「ああそうか、ポポがいないんだ」

「今頃気付いたの?」サラは呆れて目を見開いてから、今度は線のようにそれを細めた。「ポポがかわいそうだよ」

 そういえば明け方に帰ってきてからのほんの二、三時間の眠りを終了させたのは、ここのところずっとそうだったポポのくちばしではなく、自分の名を呼びながら優しく体を揺すってくれたサラの手だったっけ。普段からそんなところに集中を注いでいないので気にも留めなかったのだが。

「で? ポポはどうした」

「大将がもう私たちのことを見張ってなくていいって言うから、ロロと一緒に偵察隊に戻ったの」

 純平は「そうか…」と呟くとそれきり黙ってしまい、サラはとても嬉しそうに加えた。「大将も信用してくれたんだよ、私たちのこと」

 純平の返事はない。サラは怪訝そうに首を曲げ、心なしか落ち込んでいる純平の顔を覗き込んだ。

「嬉しくないの?」

「嬉しくなくはないけど…」

 純平はサラを見返し、悲しげに笑んだ。

「何か…悪いことしてるみたいだからな…」

 それからウサギの耳とニット帽を取った。風通しの悪かった額から髪の毛にかけてが、薄っすらと汗で湿っていた。それをコートの袖で拭いながら、床に置いた耳と帽子を眺め、細々と言葉を紡いでいく。

「言ってみりゃあ…信じてくれてる奴を…欺いてるわけだからな…嫌な奴だよな…」

「そうだね…ずるいかもしれないね…」

 サラもようやく純平の気持ちを理解し、その立場を自分にも当てはめて小刻みに頷き、動きを止めた。

「…でも、本当のこと言えないでしょ? そんなことしたらきっと純平は殺されちゃうし、人質だって」

「そうだ…そうなんだけどな…」

 そうなのだ。恩返しという名目で食べ物を分けてやることにしたから、みーこたちはこれから先に食糧の調達に行く必要はないし、共食いという悲劇を繰り返す必要もない。これでペットたちは守れる。あとは人間と動物たちをどう守るかなのだ。戦略が完全に固まったとはいえ、それを成功させるためには、自分はまだまだ擬態を続けなければならないのだ。そんなこと誰よりもわかっているつもりなのだ。

 純平はやがて決意するように頷いた。

「まあいい、ここが踏ん張りどころだ」

「うん…そうだね…」

 純平が耳と帽子を頭に戻すのを見届けて、サラは頷く。そして思い出したように首を振る。

「そうじゃなくて、私は?」

「何か違うか?」

「ちゃんと見てよ」

 サラはむくれた顔を突き出し、特に、実は今朝純平を起こす前からそうだった、真っ赤に染まった唇をぐいっと突き上げた。純平はそれをまじまじと見つめてから、おもむろに顔をしかめた。

「ああ」

「わかった?」

 期待に満ちた声を嬉しそうに漏らしたサラは、純平に乱暴に耳をめくられ、中を覗き込まれ、うわあと唸られた。

「まーた耳アカ溜まってやがる。きったねぇなあ、ちょっと待ってろ」

 純平はそう言うなり立ち上がり、駆け足で出口へ向かった。

「………そうじゃないってのに…」

 あまりにも惨めな形で期待を裏切られた衝撃で、呼び止めることもできず置き去りにされたサラは、急に引っ張られて痛くなった耳を摘むように撫でながら忌々しく呻くと、手の甲で唇を力任せに擦った。

 離してみると、甲は血を拭いたみたいに真っ赤に染まっていた。

 サラは一瞬小さい悲鳴でおののいてから、それがそういうものなのだということを悟って、ほっとするとともに憔悴して大きなため息をついた。


 カラム百貨店の地下二階はゴミ置き場となっている。食料品の加工の際に出る生ゴミだとか、商品の入れられていた段ボール箱だとかが、毎日早朝に町外れの収集場に送られるまで居座るところだ。

 客が入ることを前提としていないので、エスカレーターはここまで伸びておらず、真上にエスカレーターを擁する中央部分にそびえ立つ太い柱を始め、十数箇所に円柱の柱が林立していて、一つの場所からフロア全体を見渡すことはできない。そうでなくても全ての蛍光灯が作動しているにもかかわらず常に薄暗い、一面コンクリートの垢抜けない空間である。

 エスカレーターが伸びていないのと同じ理由で、四箇所ある階段は地下一階の食料品売り場のところで「従業員以外立入禁止」の但し書きの添えられたロープを張られて常時封鎖されている。

 併設されているエレベーターもやはり厳重で、地下一階からここへ降りるときには、上を指すボタンが孤立している下にある鍵穴に専用の鍵を差し込んでパネルを開き、その中にある下を指し示すボタンでエレベーターを呼ばなければならない。他の階からここに行くときにも、エレベーター内の各階を示すボタンから少しばかり離れたところにあるパネルを同様の方法で開き、その中に埋まっている地下二階のボタンを選択しないといけない。当然、事実上の最下階である地下二階には上を示すボタンだけが据えられている。

 しかしそれらは全て平時の話であり、人質の収容場所となっている現在の状況下では、それらはことごとく当てはまらない。

 臨時休業の当日、ここに満杯になっていたゴミは全て片付けられ、動物たちが建物を占領したときには空っぽの室内に饐えた臭いが若干残っている程度だったのだが、人質が収容されてからは、純平の指示によって人数分の毛布と布団が柱を縫うようにコンクリートの床に直接敷かれることになり、今に至っている。

 エレベーターは使えなくなっていて、ボタンを押しても通常のように明かりが灯ることはない。

 階段を封鎖するロープも食いちぎられており、そこから食料品売り場の地下一階までは出られるが、一階に通じる踊り場は売り物と思しき家具や電化製品で封鎖されている。

 それらの状況は、大将が闇雲に操作しようとして壊してしまったことや、食糧を略奪する輩を防ぐためだという事情を知らない瑠香に、たかが動物のくせになかなかやるじゃないかと敵を買い被らせ、舌を巻かせたり軽く歯軋りさせたりした。

 物理的にはエレベーターを修理したり障害物を取り除いたりすることも可能だが、それだと無闇に時間がかかるだろうし、下手に動くことによって動物たちに気付かれないとも限らない。

 となると脱出に使える場所は元の道だけということになりそうだ。しかし瑠香は考え方をいい方向へ変えることにした。

 当初の見張りだったチーターやゴリラやワニは、それが自分の作戦による囮だなどということは知らずに、迫ってきている仲間たちの警備にあてがわれた。代わりに夕食係のシロクマがたった一人で見張りを兼任させられたのだから、それ以上の人質への警戒はされていないと考えるのが妥当だ。シロクマさえ始末すれば何でもできるということだ。

 瑠香は来た道を引き返す経路での脱出を決定し、その具体的な計画をとりあえず自分の頭の中で固めると、まず最初の段階として、シロクマから食べ物を受け取る列の最後尾に並んだ。


 大将が階段を登って地下一階に達すると、ちょうどガラス扉を押し開けて食料品売り場から出てきた純平と鉢合わせした。

「どこに行く」

「綿棒取りに薬局に。サラの耳掃除してやろうと思ってさ」

 純平はそれぞれの手で綿棒と耳を摘んで前後に操る仕草をしながら答え、大将と並んで一階への階段に足をかけた。そこでふと他愛のないことを思い付き、それが今日まで一度も見せたことのない、しかし需給ともそれに気付かないほど自然な笑顔を浮かべさせた。

「後でやってやろうか? ライオンもネコ科だしな」

 大将は噴き出すように笑んで首を振った。「冗談だろ」

 純平としてもどちらに取られても構わないつもりで言ったのである。口元を緩めたまま、見えない耳を摘む手を広げ、大きいそれを手全体で挟むように持って、自分の顔より広大な軌道で綿棒を動かした。

 純平の様を眺めて「そこまででかくねえよ」と笑って正した大将の表情が、突然強張って真剣そのものになる。

「しかし、あまり外には出るなよ」

 理由がわからず、純平は眉をひそめて手を下ろした。大将は残った橋の方角へあごをしゃくる。

「橋の向こうにな、人間たちがやってきてるんだ」

 純平は途端に曇らせた顔で、誘われるようにその方向を見上げた。

「銃は」

「ないらしい。あれば使うだろう」

 もっともだと思う間もなく、純平の歩が緩まった。

「妙だな」

「何が」

「あそこはガッチリ固めてるんだぞ。生身でやってくるなんて自殺行為だ」

 大将はふむ…と自分にも聞こえないほどの声で相槌を打った。やはり歩調が遅くなり、先にそうなっていた純平にさえ追い抜かれ、そこで思い付いたことを口にしてみた。

「壊された橋のほうから、川を泳いで侵入してくる、なんてことはないか?」

「バカ言えそれこそただの自殺だ」

 純平の体が冷水の感触を思い出して身震いさせる。

「ポポやロロみたいに空でも飛べなきゃ、あんなとこからやって来れねえよ」

「それもそうだな」

 純平は、身を縮めて首をすくめて、全身に染みた経験と考えられうる限りの発想でそれを否定した。大将も納得したらしく、自嘲気味に笑って頷くだけで反論しない。それ以上考える時間は得られずに、二人は揃って一階を踏み締めた。

「まあいい、こっちには人質がいるんだ、そう簡単に手は出せまい」

「あ、大将!」

 橋へ駆け出したところで呼び止められ、大将は首だけを振り向かせた。

 純平は、その後を促して不思議そうに開かれた大将の眼差しをじっと見つめ、続けた。

「俺がいいって言うまで、絶対に戦いに行くなよ。勝手なことするなよ」

「ああ…それはいいが…」

 大将は目をぱちぱちさせてから、体勢を戻して純平に向き直り、腰を落とした。

「お前らしくないな。急に改まって、何だ?」

「いや、その…何だって言われてもよ…」お前こそ改まって面と向かってンなこと聞くなよ。

 純平は人差し指で頬をぽりぽり掻きながら、脈絡のない方向に目線を逸らして呟いた。

「まあ簡単に言やあ…お前らも死なせたくないんだよ…」

「お前らも、ってのはなんだ。お前らを、じゃないのか」

「…あ? ああ…そうだな。ははっ、間違えちった、悪い悪い、お前らを、だ」

 純平は慌てた様子で笑ってごまかそうとする。大将はまんまとごまかされて微笑んだ。

「それじゃあ行ってくる」

 大将は振り返り様に駆け出し、すぐに見えなくなった。

 純平はぼろを出さずに済んだことにほっとする一方、生身で攻め込もうという人間たちの行動に改めて不可解さを感じつつ、上階へ続く階段を進んでいった。


 右にジュースの詰まったカゴ、左にパンの積まれたカゴに挟まれ、ヒトで言うなら片膝をついた格好で、タクローは正面に縦一列に並んだ人質に夕飯を配っていた。

 まず右前足でジュースを一本手渡してから、食パンの袋を破り、一枚取り出して、縦から半分に裂き、その片割れを差し出す。受け取った人質は左右いずれかに退き、代わりに次の人質が現れるので、左前足のもう半分のパンを渡し、ジュースを渡す。その次の人質にはジュース、それからパン半分。次はパン、ジュースという具合に、機械的に一定の手順を繰り返し、袋の中のパンが尽きたら次の袋に移る。食品は違えど毎食ごとの作業なので大分手慣れてきた。

 配給を受け取る人質の反応は様々なもので、礼を言ったり言わなかったりするし、毎回欠かさず睨み付けてくる殺気剥き出しの者もいれば、見てるこっちが恥ずかしくなるほど卑屈に頭を下げてくる者もいる。どちらとも、自分が殴り付けるなどして気絶させた者だったり、自分ではない誰かによってそうさせられた者だったりする。何にしてもタクローには関係のないことである。力持ちだからという理由だけで貧乏くじを引かされた役目を淡々とこなすだけだ。

 だからといって純平の意向をないがしろにはしておらず、漫然と食べ物と飲み物を与えるだけではなく、一人一人に「トイレは平気か?」と尋ねるのを忘れない。

 憎々しげにいらねぇよと吐き捨てる者がいれば、おどおどしながらありがとうございます今は結構ですすいませんを連呼する者もいる。もちろん彼らだって時によって変わり、悔しそうなため息や舌打ちを交えた首肯を返答とするか、やはりおどおどしながらありがとうございますいませんを連発することもある。

 後の場合、いつもは男女で分けておき、階上の見張りを呼び寄せてそれぞれに付き添わせるのだが、今はその見張りがいないので、返事を聞くより早く「今は俺しかいないから少し我慢してくれな」と断りを入れておくことにしておいた。

 それに対する反応もやはり様々で、しかしこれまでとは違っていた。

 具体的に示すと、勝ち誇った眼差しで見下してきながら唇を片方釣り上げるか、憐れむようにじっと見つめてきてからふと思い出して後ろの者に場を空けるか、その二つに大別できた。それまで挑戦的だった者が前者で、卑屈だった者が後者であるとも限らず、逆転現象も珍しくなかった。他にも、量が少ないだの外に出せだのと毎回悪態をついていた、前に自分の手で捕虜にした眼鏡の男が初めて礼を言ってきたりもしたが、一人としておどおどと頭を下げてくる者はいなかった。だから当然、卑屈が横柄に変化することのほうが多かった。

 何よりタクローが不思議だったのは、誰一人として用を足しに行きたいと言う者がいなかったことだ。我慢してくれという断りに対して構わないという旨を全員が口にした。

 もちろん、人質たちの中に催していた者がいなかったわけではない。しかし一時の安堵のために脱出の機会を引き換えにすることはできないと、肉体の欲求を耐えていただけである。

 タクローはそんなことを知る由も無いので、それ以上深くは考えなかった。早く作業を済ませ、見張りに集中することのほうが大事だった。

 やがて、ついさっき大将の背中に乗っていた少年が現れた。背丈が低いので、彼の後ろにはもう誰もいないのがよくわかる。

 やれやれやっと終わりかと、タクローは左前足をカゴの中に落とした。手応えがない。そのまま前後左右に動かし回転させたが、やはりパンの感触はなく、視線を下げてみると潰れた袋が攪拌されているだけだった。右に焦点を移せばカゴの中にはジュース一本もない。ほとんど無意識に手を入れてみたが、やはり透明の缶をつかむことはできない。

 純平が数を間違えたのかなと首を傾げたが、とりあえず立ち上がって、無言で食事をしている人間たちに向かって両前足で口の周りを囲った。

「おい、誰か多く持っていってないか? 一人半分だぞ。ジュースは一本」

「あ、いいのいいの。僕いなかったんだから」

 タクローは少年を見下ろした。少年もこちらを見上げていた。

 大柄なシロクマの顔は、屈んでいても瑠香の頭の上にあったので、立ち上がられてしまうとその表情など見えないぐらい遠くに離れる。しかし、瑠香は首を鈍角に反らして、シロクマに見えるように、にこりと微笑んだ。

 ほぼ同時に、タクローは腹の辺りに小さく冷たい硬質なものを押し付けられる感触を得る。


「よし…これで終わりだ」

 息をつきつつ、純平は黒っぽく汚れた綿棒を床に置いた。それとは別に四本が、やはり両端を汚して転がっている。サラは嬉しそうに耳を揉みしだいた。

「よく聞こえる…気持ちいい…」

「ネコの耳掃除ってのは定期的にやらないといけないからな。耳アカが溜まると細菌だとか真菌だとかが湧くし、そうすると病気の原因になる」

 純平はふと気がついてサラの手を取った。こちらは耳と違い、毛皮もなければ肉球もなく、女にしては大きめということを除けばヒトのものとさほど変わらない。しかしながら五指の先からくすんだ透明が、鉤状に湾曲しているわけではないが鋭く伸びているのは、職業以前のところで目に付いた。先端を指先でなぞりながら言う。

「後で爪切りもしておくか」

「爪はイヤ…」

 サラは指を見つめてうつむいた。下から覗き込むと、さらに顔を逸らして続ける。

「何だか痛そう…」

 純平は噴き出すように微笑んで、サラの手を叩くように撫でてやった。

「大丈夫、俺はプロなんだから」

 耳掃除のときと同じである。爪切りでみーこを痛がらせるのはしょっちゅうだが、こうして意思の疎通が取れれば尚更。そもそも耳掃除をしてやるのと違ってネコの爪を切るわけではないのだから、プロもアマもない。何ならサラ自身にやらせたほうがいいぐらいだ。でもまあやってやろうと思った。むしろそっちのほうがいい。

 サラの手の上を動く純平の手付きが、擦ったり揉んだりする具合に変わっていく。


 階段を背にした瑠香の前に、人質たちが集まっていた。その先頭に、一番初めの作戦で捕まってしまった仲間のうちの二人の男がおり、瑠香は彼らを指差しながら言った。

「君と君に殿を頼む。いいかな」

「任せろ」

「一人も残しちゃ駄目だよ」

「わかった」

 二人はそれぞれ返事をして頷いた。瑠香も頷き、颯爽と振り返った。地下一階とここの中間にあたる踊り場が、蛍光灯に煌々と照らされてそこにある。

「よし。それじゃあみんな、行くよ!」


「やめて」

 不意に手が引っ込み、釈然としない舌打ちが響く。

「何だよさっきから冷てえな」

 純平は心底不愉快そうに吐き捨て、その反動を利用したみたいに体ごと顔を向こうに逸らす。サラはそんな姿を上目遣いに一瞥し、慌てて弁解する。

「ごめんね、そういうのじゃないの」

「じゃあどういうのなんだよ」

 サラは項垂れた。反省の姿勢なのかと純平に勘違いさせる間もなく説明する。

「何か今ね…音が聞こえたの」

「音?」

「うん…下のほうから…なんか…パンっ…て音が…」

「パン?」

 純平はサラを映す鏡みたいに首を曲げた。あぐらをかいた自分のまたぐらと床のほかには何も見えず、ましてや聞こえるはずもない。しかしサラは頷く。

「うん…パンっ…て…あれ…?」

 そこでサラは両手を耳の後ろに添えた。そういう耳の持ち主ではない純平には、それでどれだけ聞き漏れないようになるのか想像もつかない。ニット帽の上から真似をしてみたが、やはり何も聞き取れない。しかしサラは呟く。

「凄い…足音いっぱい…下のほうから…こっちに…上に…」

 言いながら、サラはゆっくり首を起こしていき、それに伴って少しずつ目線が上がっていき、ちょうど首が垂直になって、視界の半分以上を天井が占めたところで、止まった。

 純平もサラに倣ってすっと天井を仰ぐ。そこでは何の滞りもなく蛍光灯が照っている。その先に何があるのか、見えないし聞こえないが、想像することはできる。さっきからの異変が悪い予感を働かせ、程なくして導かれた事態を、さらに揺るぎない確信に変えていくのに時間はいらない。

 純平は跳ねるように立ち上がり、出口に向かって駆け出した。

 身をすくませるほど驚いたサラも、何事かわからないままだが従おうとして急いで腰を上げたが、焦るあまり同時に走ろうとしてしまい、床に突っ掛かって転びそうになり、それでもようやく二本の足で純平の後を走り始めた。


 純平がいかに熱心なカラム百貨店のリピーターといえども、従業員以外立入禁止となっている地下二階には足を踏み入れたことがない。

 人間が捕まってからは客の頃より遠い場所となり、人質の身を案じるときに必然的に思い描くぐらいしか縁がなくなった。それすら元がどんな役割を担っているのかを想像を抜きに行うことは不可能だったし、この何日かでそれがどう変貌したのかだって、自分の指示を追加して想像を膨らませていくことしかできなかった。

 もどかしそうに跳躍し、最後の数段を一息に飛び越えて地下二階に降り立った純平の視界に広がった光景は、災害時の避難所さながら無駄なく布団や毛布が敷き詰められ、それらと同じ数の人間がそれらの一部分と化したようにそれぞれの居場所からはみ出ず、所在無く座ったり寝そべったりしているというような、かつて考え、ほんの少し前まで的中していたものではなかった。

 布団や毛布は上から踏まれ上を走られ、無数の靴の跡を帯び、めくれていたり破けてしまっていたりと乱れたい放題になっており、人質となっているはずの人間は忽然と消えていて、足元右には、食パンの空き袋の詰まったカゴと何も入っていないカゴとに挟まれて、タクローが血を流した背中を上に向けて伏せっているという具合で、直前に脳裏に浮かんだ情景と大差がなかった。

 だがタクローの実際は、どこかで希望が働いていたのか直感に勝ってひどく、純平をその場に立ち尽くさせるのに十分だった。腹の真後ろから始まった緩やかな赤い流れは、さながら神話かなにかに登場する大蛇のようになって、豊かな白い毛並みに阻まれながらも幾方向に伸び続けていき、確実にその体長を凶悪で不気味なものにしているのである。生死も定かでない。

 実際よりも長く感じられるほんの少しの時間、赤大蛇の狼藉を呆然と見つめてから、純平ははっと我に返った。向こうを向いたタクローの顔のそばに回って膝をつき、声をかけながら軽めだが素早く三回頬を叩く。

 苦しみに呻きながらそれでも懸命に、タクローの目は薄く開かれた。焦点のずれていそうな虚ろな瞳がウサギの耳に注がれたところで、それをする前以上にまぶたが強く落ちた。

「すまん…人質に逃げられた…」

「そんなことどうでもいい、お前はどうした」

「それがよくわからない…」

「わかんねえこたねえだろ!」

「人間にやられたんだ…気づいたらこうだった…」

「だから! 何されたんだよ!」

「そんなことまでわかるか…!」

「純平…!」

 わずかに遅れてやってきて、手負いのタクローを発見するなり、息を呑んで立ちすくんでいたサラが、消え入りそうな悲鳴で呼び掛けることでその返答とした。

 純平だけでなく、タクローも重たげに首を持ち上げて振り向く。

 極寒にいるように小刻みに震えるサラの、伸ばし切れずに曲がった人差し指の長い爪の先、タクローの後ろ足の先のエレベーターの扉の真下で、赤い戦功をまとった銃弾が任務を終えて安らいでいた。丸く尖った先端からその一部が粘っこく滴り落ちて、小さな水溜りを作り、その量の分だけ金属の姿が露になっているらしかった。

「クソお…」呟きに引き戻されるように、タクローの首が元の位置へ帰り、そこで留まらずに床へと近づいて、「気をつけろ…まだどこかにいるはずだ…」言い終わると同時に力が消え失せたように、顔面からコンクリートに激突した。

 純平はとっさに腹の底から絞り出した大声でタクローの名を叫んだ。「タクロー!」と次の瞬間、

「まだ誰かいるのか!」

 部屋の奥から男の声で、内容からして明らかに人質と思われる呼び掛けが聞こえた。

「どこだ! どこにいる!」

 続いて別の男の声が響く。

「しまった」口から言葉が勝手に出て、ほとんど反射で純平は立ち上がった。狼狽の極みだったとはいえ忠告を顧みなかったことを瞬時に詰る。こんなところで見つかるわけにはいかないのに。

 そんな風に「しまった」顔のまま固まっている純平の頭上に、サラの手が伸びた。

 サラはウサギの耳の根元を握り潰して乱暴なまでに全力で引っ張り、純平は思わず首をすくめた。

 純平の条件反射が図らずも手助けをし、耳は帽子ごと取れ、サラは汗ばんだ毛糸の中に手を突っ込んでカチューシャを引っ張る。帽子が純平の頭を離れたときと似た音をさせて、耳が抜ける。

 サラはウサギの耳と帽子を握ったままの手でトレーナーの結び目を乱暴に緩め、帽子のほうの手でブラウスの襟を前に広げた。

 純平が頭に両手をやり、耳のあった場所を押さえて問いただしたのは、そのときになってようやくのことだった。

「何のつもりだ」

「人間になるの」

 言い始めたときにブラウスの隙間から懐へとウサギの耳を詰め込んだサラは、言い終わるときにはニット帽の穴の位置を確認して頭の上にかぶせていた。

「いたか!」

「いない!」

 それらの二色の怒鳴り声は帽子から解放されて剥き出しになった純平の耳にはもちろん、毛糸に遮られたサラの耳にも、二人が鉢合わせしたことまで同時に聞こえていた。声のしたほうを見つめたまま、極点を更新させてますます狼狽するあまり凍結している純平と裏腹に、サラは事態の好転を感じていた。

「純平、時間稼いで」

「なに?」

「いいから少し足止めしてきて」

「足止め?」

「とにかく行ってきて!」

 サラは緩まった結び目からトレーナーを力任せに解くのと同時に袖を放し、まだ何のことかわかっていない純平の背中を勢いよく突き飛ばした。腰の高さに舞い落ちたトレーナーをすかさず後ろ手にキャッチする。

 一方の純平は小さく声を上げ、前のめりになり、壁に沿って円形のフロアを右回りに進む形で、不規則に交替するコンクリートの床と敷き布団と掛け布団と毛布と枕を踏み付けながら、それらに足を取られることで、さらに前に傾いて、踏み止まれずに走っていった。走らされていったというほうがより正確な状況で、だからこそ止まるのが難しかった。

 そうして数メートルほど進んだ所で敷き布団につま先が突っ掛かり、敷き布団と掛け布団と毛布と枕が重なったものの上にうつ伏せにすっ転んで、ようやく停止した。

「いたぞ!」

 背中というより前を向いた頭頂部にその声が届いた。よろよろ顔を上げるのとほぼ同時にむくっと体が起きた。両側に駆け寄ってきた二人の男に腕を抱えられて持ち上げられたのだ。

「これで全員か?」

「もう他にいないか?」

 左右から立て続けに尋ねられた純平は、サラの頭の中を覗き見たように、サラの意図を悟った。何に起因した事態かは未だにわからないが、この騒動に乗じて人質と一緒に逃げ出そうということだ。そうすれば自分たちも人質も助かる。しかしサラは自分と違って人間に成り済ます時間が必要なのだ。自分が動物たちに取り入るためにウサギの耳をつけていたのと同様の行為を、サラは逆のプロセスで完遂しなければならない。

 そこで、純平はサラに言われた通りにしようと努める。唐突に問われたので、内容が理解できていないかのようにおどおど二人を見回し、痺れを切らした男たちがもう一度聞こうと口を開きかけたぐらいのときに、やっと飲み込めたとばかりに頷いてやる。

「もう一人、いる」

「どこに」

 その一人を探すように辺りを見回し、ついでに振り向いたが、柱と湾曲した壁がうまい具合に死角になってサラの姿は見えない。前を向き様に走り出した。

「こっちだ!」

 まんまと騙されて後を追ってくる二人を先導して、純平は怪しまれない程度の緩やかさで急いだ。自分の意思で進んでいるので、もう足を取られても転びそうになることはない。心なし温もっている寝具を踏みしめつつ、家具や家電で封鎖された階段と、初めから使い物にならないエレベーターを右手に通過し、ちょうどその二箇所目に差し掛かったところで、

「純平!」

 サラの声がした。準備ができたということなのだろう。

 純平は左に曲がり、対角線上の中央の柱を、今度は全力疾走で目指す。姿は見えないが、その先に唯一生かされている階段とサラが待っている。男たちも速度を上げて続いてくる。

 柱を幾つか縫うように横切って到達した階段の寸前で、純平はサラと鉢合わせした。迎えに来るつもりだったのか、サラがこっちへ走り出してきていたこともあって避け切れず、思わず抱き留める形になって、結果としてそれが衝撃を和らげることになった。

 純平がサラを離してみると、サラは、一見して人間だった。頭の上の二つの耳が中でどんな風に折れ曲がっているのか、外から眺めるだけではようとして知れないが、とにかく黒いニット帽にすっぽり覆われている。前後にある、ウサギの耳を出すためだった穴も髪と保護色になって、そこに穴が開いているということは、ちょっと見たぐらいではわからない。尻尾も腰に巻き付けたトレーナーの内側で小さく縮こまっているので、前からそれを確認することはできないし、また後ろからも難しいだろうし、そんなものを生やしているとは考えもしない先入観も手伝って、見つけられることはまずないだろう。純平だって抱き止めた際の手がトレーナーの上からそれに触れていなかったら、その存在をほんのしばらくでも忘れてしまっていたはずだ。

 純平は、異様な生き物の面影が完全に消えて、サラがどこにでもいる人間の少女になっていることを認め、太鼓判を押すように力強く頷いた。

 真後ろまでやってきていた男たちが立て続けに大声を上げたのはそのときだ。驚いて振り向き、つられて二人の視線の先を見遣った純平は、たちまち目を剥いて声を失った。

 さっきと同じ場所にタクローが仰臥していて、赤い大蛇は、どうやら獲物を食い尽くしたらしく、ただでさえ広い背中の上で、はみ出るほどの巨大なとぐろを巻いて、休息していたのだ。

 後ろで男の一人が呟いた。

「死んでる…よな」

 首をかしげたもう一人が警戒を緩めずにそろそろと近付こうとする。すかさずサラが叫んだ。

「そんなのどうでもいいよ、早く行こう」

「それもそうだ。早く」

 我に帰って、二人の男は純平とサラを押して走り出した。純平の視界は真っ赤な背中から灰色の壁に移ろって上っていき、けして元の位置には戻らなかった。


 橋の袂では、生来獰猛であったり腕に覚えのあったりする動物たちが、一つの固まりになって佇んでいた。

 彼らは対岸に迫ってきている人間たちを睨みつけ、表記のしようのない雄叫びを上げて、威嚇しているのである。人語を用いていない分その迫力は凄まじく、人間たちはそのたびに顔をしかめたり身をすくませたりして、怯えを隠せないでいる。

 彼らもときには「とっとと失せろ」だとか「人質がどうなってもいいのか」などという言葉を投げ掛けてやるのだが、人間たちから返答はない。かと言っておとなしく引き下がっていくというわけでもなく、ただこちらを見据えたままでじっとしている。まるで自分たちをここに釘付けしておくように、である。

 以前挟み撃ちをしようとしてきたときとほとんど同じ情景だったが、身をもって人間の知恵を学習した動物たちに油断はない。しかしもう一方の橋が壊されたことによる好影響がもたらした、ここさえ守れば防衛できるという心理は、かえって慢心を生み出していた。それは一辺倒な雄叫びや呼び掛けの合間に、息抜きのように口々に嘲笑をさせる様として如実に表れていた。

「あいつら、一体何しに来たんだろうな」

「怖じ気付いてんだろ。どうせあれじゃ何にもできないんだから」

「なんというのか…薄情な連中だねえ…」

「そのくせ力をわきまえてない。俺たちに勝てるか勝てないか判断できそうなものだ」

「要するにアホってことだ」

 トラとワニが今にも噴き出しそうに言葉を交わし、サイの見下した呟きにゴリラがにやにやと続く。最後にオオカミが大真面目に締めるや、自分から率先して品のない高笑いを響かせた。周りの連中も馬鹿みたいに声を上げ、あるいは敢えて笑うのを堪えようとした。

 一人じっと耳を傾けていたチーターは、高慢に微笑んでからおもむろに振り向く。

「そろそろ迎え撃ってやらない?」

 他のメンバーも笑いを留め、同じ位置に顔を向けて賛同を示した。彼らの先には大将が腰を下ろしており、くすりともせずに対岸の集団を見つめていた。

「やっぱり銃とか持ってないのよ。持ってたらとっくに使うでしょ。使ってこないんだから持ってないのよ。今なら一人残らず捕まえられるわよ」

「駄目だ」

「強情ね…もう」

 チーターはため息をつきつつ肩をすくめ、大将は眉間に皺を寄せて繰り返す。「駄目だ」

「これも罠かもしれん。俺たちが出て行ったらあのときみたいに逃げ出して、銃器のあるところまでおびき寄せようという腹かもしれん」

「大将、何か純平に似てきたね」

「バカ言うな」

 大将はチーターのからかいに、言葉とは裏腹に満更でもなさそうに微笑んでから、すぐに真面目な表情を取り戻した。

「とにかく、純平がいいと言うまで待て」

 動物たちは満足と不平が半分ずつ入り混じった気分で了解し、倦怠のせいでトーンダウンしてしまった威嚇と、反動で熱が入ってきた嘲りを再開させた。

 だが大将だけは胸の中で純平の言葉が引っ掛かっており、どちらにも参加することができずにいる。

 あそこはガッチリ固めてるんだぞ。生身でやってくるなんて自殺行為だ。

 まったくそのとおりだ。ここをこうして固めている以上、そう簡単に踏み込まれる心配はない。踏み込まれたところで、生身か、せいぜい白兵戦ができる程度の武器しか持たない人間になら負ける気がしない。だがそんなことはいくらなんでも人間だってわかっているはずなのだ。それならなぜこうして今にも攻め込もうという素振りを見せているのだ。やはり何か別の意図が潜んでいるのか。

「ちょっとどいて」

 後ろから、それそのものは幼いものの、命令口調で冷淡な声がした。

 誰の声だろうとか言われた内容だとかを慮る前に、大将たちは反射で振り返る。そして顔から足の先までの全身の筋肉を緊張させ、反転して身構えた。

 入り口を出てすぐの所、大将たちから見ればほんの五、六メートル先に、人間の少年が一人、仁王立ちになっていたのだ。彼の手には、小柄な体格の当人とのギャップのために、実物以上に巨大で悪辣な様相のマシンガンが、右にグリップ左に銃身という具合で携えられている。そしてその、今の声の持ち主に相応しい幼い顔立ちは、大将と見張りをしていた動物たちには見覚えがあった。

「お前、さっきの」

 大将がそこまで言ったところで、マシンガンに映える夕日が跳ねるように動いた。斜め下に向いていた銃口が動物たちの眼前に現れる。

 大将以下全員が示し合わせたように左右に飛び退き、数発分の銃声が響いたのはその直後だ。弾丸は獣肉や毛皮や皮膚を貫通する代わりに分厚いコンクリートに激突し、橋の袂が黒くえぐれて焼け焦げた。

 作戦は最終段階に入った。対岸でぶっ放されたマシンガンによって瑠香を認めた人間たちは、滞りなく役目を果たした安堵に浸るのも束の間、人質の無事と帰還を祈りながら踵を返し、繁華街へと駆け出していく。

 一方で瑠香は銃口を上空に向け、流れ弾で仲間を傷付ける危惧がほぼ完全になくなったので、そのまま二度と戻らなくても構わないぐらい遠慮なしに引き金を真下に引いた。

 マシンガン全体が激しく振動する。銃口は極めて短い間隔で鳴き声を連発し、それと同じ数の空薬莢が瑠香の足元に飛び散る。後者の金属音は前者の破裂音にほとんど全て掻き消される。

 つい今し方まで威嚇に用いていた咆哮とは程遠い、聞いているほうが気の毒になるような悲鳴や絶叫を交えながら、動物たちは地面を這うように建物の外壁を回り込んで駐輪場や駐車場のほうへ急いで退散していく。

 袂からもその近くからも動物が消え、橋上の視界が開けたところで、引き金から指が離れた。発砲が停止しために空薬莢の雨音が際立つがそれもすぐに終わり、瑠香は振り向き様に叫んだ。

「今だ!」

 その声をきっかけに建物の中から人質だった人間たちが怒濤の勢いで喚声を上げて飛び出してきた。体をなぞるように数人が周りを横切っていき、瑠香は再び引き金を下に押し込み演奏を開始する。

 超至近距離での銃声に人々は思わず頭を押さえたり耳を塞いだり体を縮めたりし、あるいは足がすくみかけたが、誰一人として完全に留まることなく走り続けて橋を駆け抜けた。万が一の巻き添えを恐れてむしろ速度が増したほどだった。

 建物の陰に退避した動物たちは、人質たちと似た恐怖に満ちた表情で、震える首をどうにか伸ばしてマシンガンの動向を注視しているか、全身を縮めさせて息を潜めているか、橋からずっと離れたところまで下がって今にも少年が登場するものだと決め付けているみたいに身構えて警戒しているか、いずれにしても支配者の面影を失った惨めな姿に成り下がっていた。だがただ一人大将だけは、普段より目を見開いた真顔を顔面に湛え、危ないぞとかちゃんと隠れろとかいう仲間たちの忠告も聞かず、銃撃の安全圏を少しはみ出るぐらいのところに体半分を突き出し、危険を代償に広い視界を確保していた。

 大将の焦点は、脱走する人質と、まるでそこに恨みがあるかのように夕焼け空を掃射し続ける銃口から、少しもぶれることがなかった。長い銃身の先端でありながら、操縦者の背丈のせいで低い位置にあるため人間たちの頭や顔でしばしば遮られ、いつそれがこちらを向くかを注意するあまりそうさせるのだ。

 大将の少し後ろで大将と同じものを見ているチーターは、発砲の反動で銃身がわずかに傾き銃口の位置が自分たちのほうにほんのちょっと近づいただけで、慌てて首を引っ込めまたそろそろと伸ばすというカメさながらの動作を繰り返しているが、大将は微動だにしなかった。それどころではなかった。人質が目の前を走っていっても阻止できない、身動きできないまま人質が逃げていくのを見送るしかない、そのもどかしさに狂いそうだった。

 そのとき視線に気がついたのか、不意に少年がこちらを向いた。チーターは顔色を変えた上に小さい悲鳴まで発して首を体ごと後ろに下げたが、大将はかえって身を乗り出して睨み付けた。しかし少年は何事でもないように銃口を空に向けたまま、しかし不敵に、そして嘲弄するように、唇の片方を吊り上げてから顔を戻した。

 たてがみを逆立てんばかりの怒りに一瞬で包まれた大将は、光の如く体を引っ込めたその勢いで反転して走り去った。

 やがて、黒いコート姿の男とニット帽をかぶって腰にトレーナーを巻いた女が、それぞれ頭を低くして、殿を任せた男の一人に押し遣られるようにそばを通り過ぎて橋を越えていった。それを最後に人波は途絶え、殿を任せたもう一人が少し遅れて建物の中から現れる。

「これで全部だ!」

 男は銃声に負けないように大声を張り上げながら、そのまま通り過ぎずに急ブレーキをかけて真横で止まった。瑠香は頷きつつ引き金から指を離す。

「よし、それじゃひとまず帰ろう。そしてすぐに戦闘の準備だ」

「させるかあ!」

 建物の中から叫び声が轟いた。見ると大将がもうほんのすぐそこというところまで近づいてきている。外周を半周し、一階フロアを真っ直ぐ突っ切ってきたのだ。

 思わず立ちすくんだ男を尻目に、瑠香はちょっとした車並みの速度を緩めずに迫ってくる大将を十分引き付けておいてから、ここぞというタイミングで銃口を向けて掃射した。

 回避の実益も込めてすかさず男のほうへと飛び退いた大将は、着地と方向転換と再度の跳躍を同時にやってのけた。マシンガンを無効にしながら襲い掛かる算段である。

 弾丸が無駄撃ちに終わった時点で狙撃を諦めて身構えていた瑠香も、大将の一度目の跳躍で着地点を悟るや建物側の男の横へ移っており、大将とは別の事情で大口を開けた男の横っ腹を無遠慮に突き飛ばした。潰れるような声を最後に絶叫が止み、自らも屈んで牙をやり過ごす。

 大将は少年の頭上を飛び越える形で、前足だけに力を入れて着地し、その反動を利用して反転した。男が脇腹を押さえて突っ掛かりながらも橋の上を走り抜けようとしており、少年がその後に続いていくところだった。

 大将は二人に、特に手前の少年のほうに狙いを定めて駆け出した。速度は抑えた。振り向き様に銃弾を放たれることを警戒しているのではない。むしろそれを待ち望んでいた。その動作のために左右どちらかに向いた背後に飛び掛かるつもりだった。いつでもスピードを上げる準備を心身に控えていた。

 走りながら肩越しにこちらを確認してきた少年は、橋の中央まで来た所で、左足で力強く踏ん張り、それを軸に右回りに回転を始めた。わずかに遅れて銃口が上流を見る。

 大将はしめたとばかりに跳ねるように少年の左側に走り込んだ。華奢な背中が下流に向いたのと同時に、大将はその無防備な背後に到達した。と同時に、勝利を確信して卑しく歪んだ顔面に激痛を伴った重厚な衝撃を受けた。少年の右の脇の下から真後ろに伸びたマシンガンのグリップが、大将の鼻っ柱のど真ん中に突き刺さったのだ。

 大将は短い呻き声のような小さな悲鳴とともに、受け身を取ることもままならずうつ伏せに倒れる。腹を中心に全身へと伝わるコンクリートの冷感に呆気ないまでの一騎打ちの敗北を理解するまでを含め、全ては一瞬の出来事だった。

「大将!」

 思わず他の動物たちが駆け寄ろうとした。が、右回りにもう四分の一回転した瑠香に伴って建物のほうに向いたマシンガンと目が合い再び飛び退いて建物の左右に退避した。

 あっという間もなく入り口付近に無数の窪みができ自動ドアが音を立てて割れたが、今回の被害はその程度で収まる。

 瑠香は左に持ち替えたマシンガンの銃口を建物の陰に潜んでいるであろう動物たちに向けたまま、右手でピストルを取り出して大将を見下ろした。苦しそうな呼吸で不可思議に睨みつけてくる上目遣いと目が合う。

「人質からは危険な物を全て取り除いておいたはずだ…お前…どこにそんなものを隠していた…」

「バッカだなあ、まだわかってないの?」

「……何ぃ?」

 瑠香は見下した笑みを浮かべて呆れて息をつき、大将は眉をひそめる。

「僕は人質を救出するために侵入したのさ、君たちなんかに捕まるもんか。そうそう、お礼言っておかなきゃね。わざわざみんなのところに連れてってくれて、どうもありがとう」

 瑠香は無知な子供が精一杯の感謝を体現するように、姿勢を正し、とても礼儀正しく、ぺこりと頭を下げた。

 身の程を知った上での悪辣な揶揄と、自分の失態でこの状況を招いたことに、大将は強い恥辱と激昂を覚え、今すぐこのクソガキを殺してやりたい衝動に駆られた。

 体勢を戻した瑠香の顔からはとっくに子供らしさは消えていた。

「人質の顔ぐらい把握しておくんだったね。まあ、君たちの知能にそこまで望むのは、いくらなんでも酷かな」

 それらの感情の爆発によって全身の筋肉までもが跳ね起きた大将はしかし、牙や爪が少年の体から遥かに離れた場所で、ピストル本体に頭を殴り付けられた。

 再び低い悲鳴とともに地面に突っ伏した大将のたてがみの中、毛皮と皮膚と弛緩した筋肉の抵抗によってそれ以上の侵入を阻まれるところまで、瑠香はピストルの銃口を深々と埋め込む。

「人間をなめるな」

 水が凍るような声でそう告げて、引き金に指を添えた。そのとき前方から何かが飛んでくるのが見えたような気がした。と、額に勢いのある強い衝撃が襲ってきた。反射的に手放さないように銃を握り締めた弾みで一瞬遅れて引き金が引かれる。上ずった叫び声と銃声と弾丸の混交したものが宙を切り裂き、瑠香は踏ん張れずに背中から倒れ込む。

「大将! 今のうちに逃げて!」

 男の子のような声がした。

 二挺の銃を手にしたまま飛び上がるように背中を起こすと、一羽のハトが頭上高くに羽ばたいていた。視線の先には不満そうな顔をこちらに向かせたままで建物のほうへと駆けていく大将がいる。

 昨日のハトだということはすぐにわかった。思えばこいつのせいで動物たちの頭脳を木っ端微塵にできなかったのだ。

 瑠香は歯軋りして、腰を浮かせ様にマシンガンとピストルの銃口を、それぞれ二人のケモノに向けた。しかし次の瞬間今度は後頭部に衝撃を振り下ろされた。やはりとっさに銃を握り締めたため顔面から地面に激突した。

「この間のお返しよ」

 女の子の弾んだ声に這いつくばったままで歪めた顔を上げると、この間撃ち抜いてやったはずのハトが自慢げな笑みで羽ばたいていた。

 さらに歯軋りして起き上がるとともに、瑠香は怒りを口から吐き出し銃を乱射した。

 絶叫をバックにマシンガンとピストルが豪雨とその合間を切り裂く雷鳴のように轟く。音の数だけ放たれた銃弾は延長線上の建物や橋上や欄干や道路を限界まで貫いていく。コンクリートをえぐり壁面を削りガラスを打ち破り店内の壁に突き刺さりすぐに空気に溶ける淀んだ音や瑞々しく響き渡る甲高い音を立たせ何層にもそこへ重なっていく。まるで際限がないようにいつまでも行われるようにそのまま建物を崩壊させようとしているかのように嵐は続き、前触れもなく止んだ。

 声を出し切るとともに引き金から指を離した瑠香は、大きく肩を上下させて息をつきながら、落ち着いて目の前を眺めた。

 塵埃と煙で霞んでいたが、それでも建物、橋、道路のいずれにも、まるで自然の営みが長い年月をかけて織り成した岩礁のように、無数の黒い穴が穿たれているのがわかった。見える範囲に至るまでは、建物の上階の窓ガラスもほとんど全て撃破されており、自動ドアはガラスをはめ込む前のように枠組みだけを残して跡形もなく消えて、粉状になって地面に堆積したガラスが茜色の光を乱反射させていた。しかし動物たちの死体は、ただの一つも見当たらない。

 瑠香はさらにさらに歯を軋ませて再び引き金に指をかけたが、ふっと笑みを漏らして銃を下ろした。

「まあいい、これで人質は全て返してもらった。次に僕がここに来るときは、君たちが絶滅するときだ!」

 瑠香は首を左右に振り回しながら、建物の中、そしてその陰に潜んでいるであろう動物たちに声を張り上げると、おもむろに振り返って橋を渡り、繁華街の中へと姿を消した。

 少しの時間が経ってから、橋の下に避難していたポポとロロが、示し合わせたみたいに同じタイミングでそれぞれ左右からひょっこり顔を出した。残りの動物たちも恐る恐るという具合に、建物の左右から顔を覗かせる。

 すでに少年の姿はなく、とっくに銃声も収まっている。それでも少年がどこからともなく再び現れ、銃火を浴びせながら突進してくるような気がするあまり、向かいの店舗の陰や繁華街に入ってすぐの路地など、見えないところまで見ようと首を伸ばし、風で舞ってきたゴミをそれと見間違えては、顔を引っ込めさせるなどした。

 大将は臆病な仲間たちを尻目に、もし未だに少年が潜んでいたら格好の的となるであろうこともいとわず、建物の中から現れた。

 足を裂かれる危惧が不要なほど砕かれたガラスを踏み締め、転がっている銃弾をまたぐ。か細い煙を昇らせて熱を残す黒い弾痕がそこから始まり、橋の袂まで続く。平坦なコンクリートをほんの少しだけ隔てて、橋の中程にたどり着く。そこには飛び散った空薬莢が味気ない山をなしていた。どこにも自分の功績は見当たらない。思わず前足を一閃させた。山が崩れ、空しさが増した。

 ため息をついて戦跡に腰を下ろすと、顔面と頭に絶えず低い電力が流れているような疼痛を強く感じるようになった。何一つ残せない代わりに多くのものを刻まれてしまった結果を改めて突きつけられ、銃器の有無以前に勝負にならなかった決闘の様相を嫌でも思い返させられた。音もなく項垂れる。

 しばらくそうしたままでいてから、言い聞かせるように頷いて振り返った。視界は薄っすらと晴れてきており、建物の左右から動物たちが心配そうな顔を伸ばしこちらを見つめているのが確認できた。怒っているかのような眼差しを向けつつ、いたわりの言葉をかける。

「みんな、怪我はないか?」

「うん…へーきだよ…どこも痛くない…」

 ようやく橋まで羽ばたいてきたロロを始め、動物たちは肯定の内容の短い返事をする。忍び足ではあるがようやくこちらに歩み出てきたものもいれば、未だに隠れているものもいた。ポポは返答しない代わりに大将のたてがみに宿り、悔しそうに呟いた。

「だけど逃げられたね…」

「後をつけろ」

 ポポは見下ろした。大将の上目遣いと視線がぶつかる。

「どうするの?」

「奴らの居場所を見つけ出してこい。人質がいなくなった以上、ここでじっとしていても仕方ない。すぐに攻め落とす」

 ポポは頷いて羽ばたいていき、入れ替わるようにロロがそばに降り立った。

「お兄ちゃんだけで平気かなあ…途中で見つかったりしないかな…」

「伊達に偵察隊の隊長じゃない、心配いらんだろう」

「それもそうか」

 ロロはなるほどと言わんばかりに頷いて、ぱっと笑って不安な表情を解消させる。

「それよりタクローのほうが気がかりだ。あいつに一人で見張りを任せたばかりだからな」

 大将は踵を返し、急いで建物の中へ戻っていった。すぐにロロが後を追い、動物たちも続いていく。


 前を走っていく人々に続き、繁華街に入って繁華街を抜けて、息つく間もなく一度も足を止めることなく全力疾走を続け、ようやくたどり着いたゴールは、どこかの会社のビルだった。

 カラム百貨店のそれより巨大な自動ドアを二枚もくぐると、大理石の敷き詰められただだっ広いエントランスが出迎える。正面に受付の長い机があって、天井はない。というのも頭上にあるのは広い吹き抜けで、屋根は夕焼け空と同じ高さにあるのだ。

 純平とサラは倒れ込むように腰を下ろし、ようやく休息を迎える。体を前後させて激しく息を切らしたが、その吐息が自分たちの耳に聞こえないぐらい、辺りはうるさかった。

 すでにそこは自分たちより前に到達した人質だった人々と、それを迎えるどれだけいたのかわからない人々でごった返しており、動物たちから解放されたという安堵と無事を、歓喜し祝福していたのだ。その表現の仕方は様々で、両手を突き上げたり握手を交わしたり抱き合ったり名を呼び合ったり泣いたり笑ったりし、そして例外なく大量の大声で占領されていたのだ。

 真後ろで、それだけではそれとわからない絶叫が起こった。びっくりして振り返ると、地下二階で出会った二人の男が抱き合う瞬間を目撃することができた。

 一人は病的な馬鹿笑いをして相手の背中を叩きまくっているが、もう一人はくしゃくしゃに歪めた顔からぼろぼろ涙をこぼして相手にしがみついている。とても同じ感情を共有しているとは思えない姿だが、事情を知っている者にはけして滑稽なものではない。サラにも安堵が伝染したらしく、自然と顔がほころんだ。

「みんな嬉しそうだね…」

「俺のときもロロのときもそうだったろ…大切な奴が助かるってのは嬉しいもんさ…」

 抑揚のない返事を見遣ると、純平は場違いに暗い顔を重たそうに持ち上げたところだった。うつむき気味に人気のない隅っこのほうへ退散していく背中に追い縋り、サラは問いかける。

「純平は嬉しくないの?」

 純平は振り返って壁にもたれ、ずり落ちるように床に座った。

「私たち助かったんだよ。人間も」

 サラはその隣に純平のほうを向いて、正座を崩す。

「ほっとはしてるさ…だけど…タクローが気になる…あんなに血が出てたんじゃ…あいつ…きっともう手遅れだ…助けてやりたいって…そう思った矢先なのに…」

 純平は深いため息をついて、片手で両目を覆う。すぐに肩を叩かれた。

 顔を向けて手をどけると、サラの手によって一本の口紅が潤みかけた瞳の真ん前に突き立てられていた。まともな使い方をしていないのが滲みかけた焦点でもわかる。半分以上、減っているというより削れており、岩山のように角張っているのだ。何より奇妙なのは一面真紅のはずのそこに、白い毛がびっしりへばりついていることである。しかしそれを見ても純平は首をかしげることしかできない。白い毛の正体は元より、口紅がある理由すら。

「…何だそりゃ?」

「純平ってホンっトに鈍感だね」

 まだ理解できていない純平にほとほとうんざりしながら、サラは縮めた口紅に蓋をしてポケットにしまう。

「しょうがないか。私が塗ってたのにも気付かないんだもんね」

 そして悲しそうに一人ごちた。


 人質がいなくなった地下二階で、タクローの治療が行なわれた。

 まずタクローを横向きに寝そべらせ、腹と背中の傷口をそれぞれ動物たちが舐めてやった。その間にロロをたてがみに従えて大将が薬局へ走り、しばらくして包帯と薬の箱を一つ、口にくわえて運んできた。

 包帯は独特の形状をしているのですぐにわかったが、薬に関しては自信がなかった。一応売り場で中身を確かめたのだが、それがロロに用いたものだったのかどうなのか、自分に用いられたものだったのかどうなのか、そうだと言われればそんな気がするし、そうでないと言われればそんな気もする、二人ともそれぐらい定かでなかった。加えるならロロはそのとき気を失っていた。薬を塗られていたことだって覚えていないのに、その入れ物なんてわかるはずもないのだ。

 大将は商品名のロゴの入った白いプラスチックのボトルを箱の中から取り出し、タクローにも見せた。タクローも頷きかけてやめて、顔をしかめて首をかしげる。それは確かに純平がロロに使っていたのと同じ傷薬だったのだが、やはりはっきりとしたことは覚えていなかった。

 そこで大将はボトルのキャップを爪でこじ開けた。

「タクロー、口開けろ」

 大して考えもせず、言われるがままにタクローは口を開いた。

 大将は傷薬のボトルを横からくわえ、首を振ってボトルを放した。ボトルは中の薬液を滴らせながら、タクローの牙と牙に阻まれることもなく、紅色の舌の奥に着地する。

 撃たれたときにも出なかった悲鳴がコンクリートの室内によく反響する。霊長類はヒトのように手で耳を押さえ、それができないものたちも耳を伏せるなどした。

 結局それという確証のない薬は塗らずに、包帯だけ巻いておくことにした。タクローはあぐらをかいた体勢で、自分だけで孤独にそれをこなす。患者であったものの気を失っていたロロを含め、他の連中は純平のやり方を見ていないし、また何をされるかわからないので、大将の手伝いは断固拒絶した。背を向けているのはその意思表示でもある。

「すまん、味でわかると思ったんだ」

 意思表示の延長で弁解に反駁する気もない。

 生まれて初めての作業なので、どうしても雑になってしまうらしく、傷口から離れた箇所にも包帯が巻かれてしまう。そのために背中に大きく広がった赤い部分はどんどん白く塗り潰され、やがて消えた。大将のたてがみからそれを眺めていたロロが、心配そうに尋ねる。

「いっぱい血が出てたけど、大丈夫なの?」

「いや、それは血じゃない」

 タクローは手傷を負う前と変わらない口調で答えた。

「じっとしててねって、サラが何かごちゃごちゃやってたから、それで人間も俺が死んでるって勘違いしたんだろう。トドメ刺されてもおかしくなかったもんな」

 タクローはサラがしたように包帯を噛み切り、純平がしたように両端を結び合わせた。胴体全てが包帯にくるまれてしまったが、どうやらうまくいったらしい。体色が変わらなかったことにもほっとした。

 大将が周りを見渡し、動物たちに告げる。

「お前たち、純平とサラを探してきてくれ」

 ロロは思い出したように辺りを見回した。他の動物たちもざわめき出して首を動かす。

「そういえばいないね」

「人質に混じって、二人によく似た奴らが連れ出されるのが見えたんだ。顔は見えなかったし耳も確認できなかったが、後ろ姿がそっくりだった。気のせいならいいが、もしかしたら捕まったのかもしれん」

「いや、きっと二人だ」

 それは個人的な軋轢とは別物なので、そう振り返ってタクローは続ける。

「サラが確か…人間になる…とか言ってたから…」

「人間になる…」

「逃げ切れないって思ったんだろう。だから人間に成り済まして、人間のフリをして、人質にまぎれて人間たちのアジトへ行った…そんなところじゃないのかな。何せあいつらは人間に近い。うまくやれば人間の目だって欺けるはずだ」

「じゃあ…もし人間じゃないってことがばれちゃったら…」

 ロロの言葉を最後に動物たちは沈黙する。大将はうつむき、タクローも所在無く床を見る。

「行ってくる」

 やがて思い出したようにロロが飛び立ち、階段の上空を登っていく。他の動物たちも後に続いていき、大将とタクローだけがその場に残ることになった。

 タクローがため息をつき、呟く。

「生きててくれよ…」

「………」

 無言のまま、大将も頷く。


 血に見せかけるようにタクローの背中に冬の新色を塗りたくっておいたのだとサラから聞かされた途端、純平は思い切りサラを抱き締め、頭を撫でてやっていた。

「よかった、よくやった、大したもんだ」

 歓喜と称賛を両立させた抱擁と愛撫、何よりそれが突然のことだったので、サラは戸惑いのあまり受容も抵抗もできず、されるがままでいた。構うことなく純平はサラをより強く抱き締める。

「シロクマなんて専門外だからよくわからないが…それなら助かるかもしれん…いやきっと助かる、あいつは頑丈なはずだ、きっと…」

 ようやくサラが動いた。眉をひそめ、首をかしげる。

「変な純平…タクローは人間の敵なのに…」

 純平自身、自分の考え方が当初と比べて随分変わってしまったことに改めて気付かされた。一昨日より前にこれと同じことが起こっていたら、今頃はタクローの負傷を何よりも喜び、それをぬか喜びにさせたサラを叱責していただろう。しかしそれを否むつもりはない。人間にとって敵でも俺にとって敵ではない。そんなことを言われ、むっとしたぐらいだ。

「それならどうしてタクローを助けようとした? そんな必要はなかったはずだろう」

「私は純平とは違うもん…」

 サラの反論に意外そうな顔をして、純平はサラから離れた。サラはうつむいたまま続ける。

「私は初めから…できることならみんなで一緒にいられればいいなって思ってたから…」

「俺だってそうだ、今はそうだ」

 純平は満足そうに頷いてもう一度サラを抱き締める。

「とにかくよかった…本当によくやった…」

「………」

「ずっと綺麗だとは思ってたんだぞ」

「………」

 これだけ褒めてもらって撫でてもらえば悪い気はしない。最後の言葉に、お世辞だとわかっているのに、迂闊にも笑んでしまう。

 二人の姿は周りからは、再会か互いの無事を喜び合うカップルとして映ったことだろう、それだけ辺りに溶け込んだ自然なもので、無遠慮に頭上で手を叩く音がしたのもそのためだった。

「ほらほら、お前らも持ち場に戻れ」

 揃って顔を上げると、いつの間にそこにいたのか、一人の男が気のない拍手を止めたところだった。

「持ち場?」

 聞き返しながら純平が辺りを見ると、たった今までごった返していた人々は数えられるほどしかいなくなっていて、それすら何方向かへ散っていた。あの喧騒が何だったのかというぐらい、静かになっている。

「持ち場…って?」

「お前らが捕まる前に働いてた所だ」

 当たり前のことだが、この男は自分たちのことを人質だったと思っているようだ。そんなものはないとも言えず、純平は口ごもる。代わりにサラが男に告げた。

「ここに来るのは初めてなの」

「どういうことだ?」

「私たちは別のときに別のところで捕まってたから。ねっ」

「あ、ああ」

 サラに首をかしげられ、純平は歯切れの悪い返事とともにほとんど反射的に頷いた。特に不自然だとは思われなかったらしい。

「それじゃあお前らにも働いてもらうぞ」

 男は軽く背を曲げるなり、サラの手首の辺りをつかんで身を起こした。

 サラは立たされる直前に慌てて純平の腕を握り締め、サラによって立たされた純平は男に引かれるサラに引かれ、少し遅れて歩き出した。

 振り返って三人が連結していることを認めた男は、しかし大股で進むのは続けながら口を出した。

「一人でいい」

「でも…」

 サラは不安そうに言葉を淀ませ、助けを求める視線を後ろに送った。真正面からそれを受けた純平は、すぐに前に向き直ったためにこちらに向けられた男の後頭部を、今にもつかみかかっていきそうな具合に睨んで問いただした。

「勝手に連れて行くな。そもそも何させるつもりだ」

「晩飯の支度だ」

 サラは純平の手を放した。

 今にもつかみかかっていきそうな具合に前傾になっていたため、純平は見事なまでにバランスを崩してつんのめり、声を上げる間もなく豪快にすっ転んだ。肩口から床に触れるやそこを起点に一回転し、弾みで半身が起き上がったのだ。

 純平が床に尻をつけて上半身だけを立てた格好で、自分の身に何が起こってどうしてこんなことになったのかを呆然とする頭を働かせて理解しようとしていると、サラが随分先のほうでスキップにも似た足取りで男の前を歩いているのが見えた。すでに立場を逆転させ、男を前のめりの小走りにさせていたサラは、闇雲に前進を続けたために道を違えたらしく、途中で思い切り引っ張り返され、くの字になった体が横から吸い込まれるように壁の中へ消えた。そこに部屋か道が続いているらしかった。

 時同じくして純平は降りかかった状況を理解する。

「あの野郎…俺よりメシか…」

 苦々しく呟いて立ち上がると、不意に声がした。

「純平じゃないか」


 呼び掛けというより独り言に近かった。

 それでも自分を表す音を耳にすれば、それが自分を指し示していなくても体は反応するものである。

 純平は男の声に乗って自分の名前が発生した方向を向く。そして心臓が止まるほどの驚きのあまり身じろいだ。視線の先に、驚喜した顔が三つと、今の自分もそんな顔をしているだろうという愕然とした顔が一つあった。いずれの顔もそれ自体は長い付き合いだが、表情はどれも初めて目にするような気がした。それらが近い所に固まっていたのだ。

 酒が入っていないので人一倍白い顔をした男、茶色いセミロングの女、相変わらずの眼鏡の男、そして金の紙製の帽子をかぶっていた女は、今は黄色のニット帽を、左目を覆わせるように不自然に斜めに傾けてかぶっていた。服装はいずれも動きやすいラフな格好で、ただ一人セミロングだけは、ちょっとでもめかし込もうとしているらしく、無駄に唇が赤かった。ただし、直前のサラとの会話がなければ、そこには目も行かなかったし行ったところで気付かなかったろう。

「よかった…無事だったんだ」

 そう言って冬の新色を緩やかな上向きにカーブさせたセミロングを先頭に、三人が嬉しそうに歩み寄ってくる。それを押し退けるようにして後ろから眼鏡が走り込んできた。一人だけ喜びとは異なる顔をまだ保っており、こちらを見下ろす眼鏡の奥の目は大きく見開かれている。

「生きて…るんだよな…?」

「そりゃ俺の台詞だ…」

 まさか先を越されるとは思わず、呆れ顔になって答えると、肩を引っ張って眼鏡をどけて、白い顔が白い顔を出した。舐め回すように呆れ顔を見回して、よしよしと何度も頷く。

「これで最悪の状況は免れた。この一連での死者はゼロだ」

「――そうなのか?」

「んにゃ」

 びっくりしたあまり聞き返すまでに間が空いた。シャツの胸ポケットに手を突っ込んでいた白い顔は胸をまさぐりながら頷く。

 純平は相手の人柄だけではなく、経験からもその情報の信憑性を疑った。自分は大通りにあれだけの人が倒れているのを見たし、タクローが何人も切り裂いていくのを背中越しに感じていたのだ。いくらこいつでもそんな重大なことで冗談を挟みはしないだろうとも思ったが、一方ではやりかねんとも思った。

「唯一の安否不明者がお前だったんだ」

 不審を感じ取ったわけではないだろうが、白い顔は取り出した携帯電話を開いて言った。

「もう何度もニュースで見たぞ? 榊純平さんの安否は未だ不明ですって。この写真、提供しておいたから」

 言葉を紡ぎながら白い顔は携帯電話を四、五操作しており、最後にそう続けてそれを純平に見せ付けた。

 純平は目を剥いて絶句した。もぎ取ったウサギの耳を遠慮なしに叩き付けた瞬間の自分の顔が、ディスプレーいっぱいに拡大されていたのである。不幸中の幸いで首から上しか映ってないが、不幸中の不幸で口紅が赤いことだけはよくわかる。むしろよくわかる。自己主張の強い色なのでそこだけ妙に目立っている。

 思わず手を伸ばしたが、携帯電話は奪われまいと急いで閉じられ、指は簡単な罠の餌食のように挟まれた。純平は「イッテエ!」という声を叫び、白い顔は腹を抱え、セミロングは手を叩いて笑い出す。

 むかっ腹が立ったので引っ込めた手を振りながら聞こえよがしに舌打ちしたが、それ以上は追わないことにしてやった。もっと知りたいことがある。

「本当か? 本当に誰も死んでないのか? 冗談だなんて言ったらお前らぶん殴るぞ」

「お前らってあたし何にも言ってないじゃない」

「いいから答えろ。殺された奴がいるのかいないのか、どうなんだ」

「怪我人はいっぱいいるよ」

 セミロングの代わりに帽子が頷いて答える。純平は視線を移して念を押した。

「死人はいないんだな?」

 帽子は目を伏せて続ける。

「軽傷で済んだ人もいるけど、何ヵ月もかかる重傷を負った人も山ほどいる」

「俺が知りたいのは死人がいるのかいないのかだ!」

 一喝して帽子の顔を上げさせる。一同の中で最も信頼の置ける人物でもあるニュースソースは、柔和に微笑んで頷いた。

「うん、いない。命に別状のある人は一人もいないし、時間さえ経てばみんな元気になれる」

 奇跡だ。打ち震えるような感銘に純平も笑みをこぼした。すごい。何もかもがうまくいっている。それならば、本当にうまくいけば、大将たちも助けられるんじゃないか。みんなで一緒にいられるんじゃないか。

「純平は?」

 帽子が純平の全身を見回すように体勢や首の位置を変えながら尋ねてくる。

「どこも怪我してない?」

「ああ、俺は平気だ」

 と答えた途端、眼鏡の家での惨状が脳裏に蘇り、顔が強張った。白い顔は腹を切られていた。眼鏡は腹を裂かれていた。セミロングは右の肩を噛み砕かれていた。帽子は思い出せない。ベランダの柵にもたれているのを逃げようとした途中に見かけただけだった。

「お前らはどうなんだ、こんなところにいていいのか」

「いいわけないじゃない。ホントだったらみんな入院させてるところだし」

 そこで帽子は帽子を脱いだ。

 純平はその眼差しから怯えにも近い感触を得て息を呑み、すぐに目を背けた。

 帽子の左目を覆っていたのはニット帽だけではなかったのだ。頭頂部から耳にかけて、斜めに巻き付けられた包帯も、ニット帽の下でそれを覆っていたのだ。そして右目と左右対称に位置する場所はというと、気味悪く赤く滲んでいたのだ。

「してるところよ」

 続きを言い終えて、帽子はニット帽を斜めにかぶり直す。指で確認しながら微調整したので、包帯は完全に隠れたが、目を凝らしてじっと見つめれば、黄色の毛糸の隙間から白や赤が確認できるように思えてならなかった。

 純平は気がついた。死んでなければ何でもいい、怪我ぐらいなら構わないというものでもないのだ。凶暴な機能として完成された動物たちの武器は、人によっては一生残るかもしれない傷を幾つも生み出したのだ。たとえ体の傷が跡形もなく癒えたとしても、一人一人の記憶や心に刻まれた傷は、彼らの意識のある限り疼くだろう。

 汚物を視界から外そうとするように瞳を眼窩の果てまで追いやった条件反射を恥じ、それによって自分の醜悪な部分を自他に暴露した気分になった純平は、悄然と項垂れて呟いた。

「じゃあどうしてこんなところにいるんだよ」

「どうして?」

 眼鏡を除く三人が怒ったような声を揃え、帽子とセミロングが立て続けに詰る。

「純平を助けるために決まってるでしょ」

「そうよ。安否不明ってことはもしかしたら死んじゃってるのかもしれないって、ずっと心配してたんだから」

「だからって…わざわざ来なくても…」

 拳が鳩尾にゆっくりと浅くめり込んできた。痛みはないが不意だったので、背中が曲がり軽くむせた。見上げるといつになく真剣な白い顔が言い放った。「ふざけてんじゃねえぞ」

「友達だろ? ガキん時からの。放っておけるか」

「……友達…か…」

 純平はあまりの申し訳なさに顔を歪めた。俺は真っ先に逃げ出したってのに…。

 純平の思いなど知る由もなく、白い顔はまたすぐにへらへらとふざけた顔になって、眼鏡の肩を抱いた。

「ま、こいつはアホみたいに捕まっちまって、物の見事に二次災害を引き起こしたけどな」

「だから不思議なんだ」

 眼鏡は声を大にした。軽く驚いて白い顔が離れたのも気にせず、まじまじと純平を見つめる。

「お前本当に生きてるのか? 一体どこにいたんだ? 俺お前を見てないぞ?」

 最悪の結果も想定していた純平にとって、彼らとの再会は幽霊とそれを果たしたようなものである。しかし向こうも似たようなものなのだと今更ながらに気がついた。特に人質だったとなれば、地下二階で自分と出会えなかった眼鏡が、自分のことを今なお死人と思ってしまうのも無理のないことだ。

「俺は――」

 とりあえずそこまで言った純平だが、急に頭が真っ白になってしまって言葉を継げない。その空白にサラの声が蘇ってきたので、それを参考に続ける。

「――別の所にいたんだ…だからここに来るのも初めてだ」

「そうだったのか…」

 眼鏡はようやく納得して頷く。しかし違う事情がまだあるらしく、表情は浮かないままだった。

 純平は純平で、一つ謎が解けるとまた謎が増えている始末で、不可解そうな表情を四人に向けながら尋ねた。

「…でも、どうやってここまで来れたんだ? 自衛隊が町を封鎖してるって」

 そこまで言ったところで純平ははっとして白い顔を見遣り、心の中でまさかと呟いた。そのまさかだと言わんばかりにニヤリと笑んで、白い顔は上着の襟を下に伸ばした。迷彩柄の軍服が覗く。

「故郷を守るんだあって無理やり退院して、生まれ育った町なんですうって警備に志願して、みんなをこっそり町の中に侵入させてから、それを追うフリして俺も抜け出した」

「………」

「免職覚悟。首上等」

「………」

「だからそんな顔すんな」

 目を伏せたところで、再び白い顔の拳が鳩尾に刺さる。今度は触れる程度で、身が曲がることもなかった。

「友達だろ? 気にすんな」

 しかし純平はなおも項垂れたままである。眼鏡も足元から目線を外そうとしていない。まるでその二箇所から淀んだ気体が発生しているみたいに、場の雰囲気は今一つ晴れない。

 セミロングが白い顔を見上げた。

「これで会議終わるよね? 人質いなくなったんだから」

「だろうな。おそらくは即鎮圧ってことになって、この騒動も解決する。もうすぐ家に帰れるぞ」

「その前に入院よ」

「動物たちはどうなる」

 一同は重い声で呟いた眼鏡を見遣った。白い顔が素っ気無く答える。

「そら殺されるだろ」

「殺さないといけないのか」

 そう言おうとしたところで眼鏡がそう言った。またも台詞を奪われた形の純平は、やきもきした、何というか、如何ともしがたい不都合めいたものを感じたが、間もなく眼鏡に問われた。

「純平、お前の待遇はどうだった」

「え?」

 なのですぐに答えられない。

「悪かったか?」

「いや…そんなことないけど…」

 どう言うべきかわからないままおざなりに返すと、眼鏡は「そうだろう」と力強く頷いた。

「俺は一昨日、パトロール中にシロクマに捕まったんだ。あいつが食糧を略奪していくところに出くわして、戦おうとしたがとても敵わなくって、殴られて気絶して、その間にアジトに連れて行かれてたんだ。だがその後は、いくら悪口言っても危害を加えられたりはしてないし、ないがしろにされたわけでもない。そのシロクマが毎回食い物を用意してくれたし、布団や毛布も持ってきてくれた。さっきも夕飯の直前だったんだよ。そいつは最後の最後まで俺たちみんなに気を使ってくれてた。トイレは平気かってな。これでお別れになるのかと思ったらなんか寂しくなっちまって、結局飲まずに持ってきちまったよ」

「………」

 話しながら眼鏡がズボンの後ろのポケットから取り出したそれを、純平はそっとつまみ取っていた。ついさっき自分の手でカゴに入れたオレンジジュースだ。タクローの手を介して眼鏡の元に行き着き、こうして自分の手に戻ってきたのかと思うと、その硬さは運命めいた不思議な手触りに感じられた。

「初めのうちは人間が助かればそれでいいって思ってた。あんな奴らどうなったって構やしなかった。けど…今は違う…できれば死なせずに済ませたい…」

「………」

 純平は無言で眼鏡を見つめていた。これが人質の総意であるとは考えにくかったが、動物たちに恩や憐憫を抱いている人質がいるのも事実らしい。助命嘆願も、けして簡単ではないだろうが、無理ではないかもしれない。

 眼鏡は誰にともなく呟く。

「殺さないでおいてやれないだろうか…」

「どうかな…俺たちだけで決められることじゃねえしな…奴らを許せないでいる人間だって…ぶち殺さなきゃ気が済まないって人間だって…いっぱいいるだろうだからな…」

 白い顔がすまなさそうに正論を言う。うつむいた眼鏡の背中にセミロングは慰めるように手を置いた。

「あたしたちと違って、毎年会ってるんだもんね」

「春には新しい一年を連れて行くはずだった…それもなくなるかもしれん…」

「え、うそお」

 眼鏡は頷いて応じ、セミロングは眉をひそめる。

「あれって春だった?」

「冬だろ? 俺冬に行ったぞ」

「春だ。あの学校の行事の時期は俺らのときから変わってない」

「ああ、俺が蜂に刺されたのはあのときだ。お前ら何かと間違えてんだよ」

「それあれじゃない?」

 セミロングと白い顔が言い分を述べ、眼鏡と純平がそれらを正し、帽子が嬉しそうに割り込んでいった。

「春に私が入院してて行けなかったからって、私の誕生日にみんなが連れて行ってくれたでしょ?」

「ああ」

 頭の中のもつれた記憶の糸がほどけ、純平は声を漏らした。あそこへ足を運んだのは確かに二回だ。

「思い出した。雪が降ってたんだ」

 そういえばとばかりに三人も頷く。

 すでに帽子は時計の針を二十年近く戻したらしく、うっとりとした目でその日を眺めていた。

「いい思い出よね」

 帽子のそれは、動物園だけを指し示したものではなく、純平たちが思い描いたものとも、ほとんど一致していた――


 その日はおあつらえ向きに日曜日で、朝からとても冷え込んでいた。

 友達の女の子の七歳の誕生日パーティーに招待されていた小学校一年生の四人の子供たちは、昼頃に学校の校門の前で待ち合わせてから、彼女の家に赴いた。

 出迎えた玄関で、両手で抱えきれないほどのプレゼントを受け取った彼女は、心底嬉しそうにお礼を言って四人を中に招いた。

 四人が通された部屋には、ホールのままのケーキやジュースや豪華な料理が並べられたテーブルがあり、ヒロインのために上座に据えられた椅子と四つの椅子が、その周りを囲んでいた。

 一つだけ離れた椅子のそばには彼女の両親が立っていて、子供たちに丁寧に歓迎の言葉をかけた。

 子供たちが席に着くと、両親は彼らの来訪を娘以上にお礼を言いながら、唐突に涙をこぼした。

 みんな驚いたが、誰も彼女の両親を変だとは思わない。

 両親は、春に行った手術が成功しなければ、病気は悪くなっていて、今娘がこうしてみんなといられることはなかったろうという旨の述懐と、どうかこれからもずっと友達でいてあげてくださいという懇願をしてからお辞儀した。子供たちは口々に了解の返事をし、二人の大人は涙で光る顔をほっと歪ませ、泣いてしまったお詫びと改めてのお礼を口にしてから、パーティーの邪魔にならないように立ち去った。

 子供たちはしばし飲食と歓談に耽った。見栄えだけでなく味も素晴らしい手作りの料理に舌鼓を打ち、プレゼントの内訳を言い合って驚き合い、次に誕生日がやってくる誰かが自分のときにもそれくらいしてよと切に頼んだ。

 料理がほとんど尽きてケーキもあと二切れほどになった頃、招待された四人は誰がということもなく、今日の主役がお腹を押さえ、テーブルのお皿に顔がつきそうなほど、うずくまってしまっているのに気がついた。

 病気や手術のことを聞いたばかりだし、聞くまでもなくそれらは彼らの脳内に刻まれている情報である。辺りは騒然となって大騒ぎになりかけたが、彼女は恥ずかしそうに食べ過ぎただけだと口にして場をなだめることに努めた。

 本当に大丈夫? と駆け寄ってきて心配するみんなに、彼女は、いいお医者さんだったから平気、私もきっと大人になったらあんなお医者さんになるんだと答えた。だがその後で残念そうに、手術が成功したのは良かったけど、やっぱりみんなで動物園に行きたかったなと、今日のように彼らが揃ってお見舞いに来てくれたときに、寂しげな笑顔で漏らしたことを繰り返した。

 じゃあ今から動物園に行こうよと、四人のうちの誰かが言った。ダメって言われると思うよ、と別の誰かが言ったが、内緒で行っちゃえばいいよとまた別の誰かが言い、意見はそこで一致した。親や大人に黙って出かけることが、それだけで大冒険に感じられる純真な幼さに、彼らは満ちていたのだ。

 時間は午後になって少し経ったぐらいだったが、はやる気持ちから計画はすぐに定まった。ひとまずそれぞれの家に帰り、お金を持って校門で落ち合わせ、それから動物園に向かうというものだ。

 早速彼女は口実を作るため、外で遊んでくると両親に報告してから、いくらかのお小遣いをポケットに入れて厚着をした。四人も来たときの格好に戻っており、玄関で彼女を待ち、揃って外に出るなりそれぞれの家の方角へ駆け出した。

 やがて校門に集った五人は、各々の奮闘振りを披露しながら動物園に向かった。家族に見つからないように家の中に忍び込み、音を立てないように貯金箱の中から取り出した硬貨を握り締めてくるものもいれば、まんまと見つかってしまって早い帰りを訝られ、外で遊ぶことにしたからおもちゃを取りに帰ってきたのだと誤魔化して、用のない白いゴムボールをお金と一緒に持参してきたものもおり、家族が出かけていて張り合いがなくてつまんなかったと、指に挟んだ紙幣を見せながら言ったものもいた。

 チケットを買って入園すると、にわかに雪が降り始めた。

 雪はそこにあるもの全てを楽しく見せる魔力を持っている。特に子供には絶大な効果を発揮する。

 もっとも動物にとっては雪なんて迷惑以外の何物でもない。多くの動物たちは檻の中で白い息を吐きながら、暖を取るためにじっとしていたり、逆に動き回って熱を得ようとしていたりした。空を見上げ、雪を喜ぶように動いていたのは、ペンギンぐらいだった。

 それでも五人は雪のおかげで幻想的な異世界に紛れ込んだような気分になっていた。寒がる動物も踊るペンギンも、全てが楽しい要素となって、はしゃぎながら園内を散策したのだ。

 夕方の閉園時間になるまで余すことなく様々な動物たちを観賞してから、動物園を後にすると、願いを叶えてもらった彼女がみんなを呼び止めた。

 彼女は今までで最高の誕生日になったとお礼を言い、お返しとばかりに自動販売機で温かい飲み物を五つ買って、最高って言ってもまだ七年しか生きていないけど、と一人に一つずつ手渡し、私ずっと忘れないと、鼻をすすりながら締めた。

 四人は照れ臭そうに頬を掻いたり顔を逸らしたり誇らしげに胸を張ったりしてから、改めて七歳になった彼女を祝うために、乾杯したのである。


 ――純平だけはそれらの記憶に、この何日かの動物たちとの交流を追加させていた。

 スパイの真似事をしていることを知らないとはいえ、自分を仲間だと見なしてくれて、川に消えたのを必死で探してくれて、生還したときにはみんなで迎えてくれて、抱き締めてくれた。大将の体温は、頭の中の浅い所で、今なお温もっている。

「俺も…死なせたくない」

 純平の呟きに友人たちは、ココアを飲み終わった後に辻褄合わせの名目で行った、しかし雪のおかげで格段に楽しめたボール遊びの、誰かが途中で雪玉を混ぜたことから最終形態は雪合戦みたいになった出鱈目で滅茶苦茶なゲームの回顧を中断し、我に帰った。

 セミロングが唇を吊り上げる。

「純平は獣医だもんね…」

「…それだけじゃないさ」

「というと?」

 首を傾けて純平の顔を斜め下から覗き込んだセミロングのように、残りの三人も純平を見つめ、意味深な言葉の続きを促した。

 純平は目を伏せた。

 この友人たちならば、事情を説明して頼み込めば、協力してくれるだろうという確信はある。

 しかしあれだけの深手を負わされた彼らになおも負担を求める申し訳なさが、大切な友情を引き裂くような気がして躊躇させる。

 かと言ってこのままでは動物たちが殺戮されるのを見逃すことになる。それだけは耐えられなかった。ここにいる四人も、ここにいない多くのものたちも、自分にとってはかけがえのない命だ。

 意を決し、純平は厳しく強張った顔を上げて口にした。「実は俺」

「何してるの? 持ち場に戻ってよ」

 そこで純平の発言は遮られた。少し怒った、少年のような声だった。

「ああわりいわりい、すぐ行くすぐ行く」

 四人は一斉に振り向き、白い顔が謝意の感じられない言葉と口調で詫びた。彼らの体に阻まれて、純平には先の声の出所が見えない。

「仕事があるからごめんね、また後で聞かせてね」

 帽子の言葉に伴って、四人は手を振ってそそくさと立ち去っていく。眼鏡はそれをしない代わりに缶ジュースを取り返して行った。


 友人たちが去ったことで、その姿が純平の視界に露になった少年のような声の持ち主は、雪の舞い散る動物園の記憶の中に紛れていてもおかしくない容貌をした、やっぱり小学校低学年ぐらいの少年だった。髪の毛は茶色、襟を立たせた白いシャツの上にボタンを開け放ったデニムの長袖を羽織り、ベージュのチノパンを吊る深緑のサスペンダーをほとんど剥き出しにした服装である。

 一人だけ留まっている自分を見上げたまま歩み寄ってきた少年は、腹の高さからつぶらで大きな目をぱちぱちさせて尋ねてきた。

「あれ? 君はどこにいたの? 僕君を見かけてないはずだけど」

「君…」

 敬意の感じられない砕けた口調は良くも悪しくも子供の特権なのでともかくとして、こっちが使いたいぐらいの二人称には妙な不具合を覚える。しかしまあ瑣末なことなので、気にしないように心がけた。

「俺は別のところにいたんだ。ここに来るのも初めてだ。だから持ち場もない」

 三度目ともなれば滞らない。自主的に付け加えられたほどである。

「別のところ?」

 しかし少年は純平の目論見とは裏腹に、腕を組んでしかめた顔を横に倒した。

「おかしいなあ…みんな一つの場所にいるみたいなこと言ってたけど…」純平はもちろん本人以外の誰にも何のことか全くわからないことを呟いてから「ま、人質の顔すら覚えてないような奴らだもんな。不思議じゃないか」少年は一人納得して頷いた。それから改まったように姿勢を正した。

「それじゃ初めまして。僕は瑠香」

「瑠香」

 純平は独り言のように繰り返しながら、差し出された手に伸ばした腕を引っ込めていた。こいつが俺を、橋から落とした奴なのか。

 純平は中途半端に飛び出したままの腕を思い出したように伸ばし、瑠香の手を握ってすぐに放した。その小さい手も見上げてくる瞳も、子供らしくあどけない。こんな奴に俺は殺されかけたのか。こんな奴にみーこたちは襲われたのか。

 情けなくて腹立たしくて末恐ろしくて、何より信じ難くて、それら複雑な感情の混交の表象として顔を強張らせていると、瑠香が大仰に頷いてきた。

「ああそうか、もしかして君が榊純平だね?」

「…ああ」

「ニュースで見たよ」

「………」

「なんで口紅してたの?」

「言いたくない」

「言いたくないって…」

「いずれ話してやる」

「今でいいじゃない」

「駄目だ」

「えーっ…!」

「何なら歴史上から抹殺したいんだ」

「……?」

 瑠香は不服そうに唇を尖らせ、また不思議そうに目を瞬かせたが、すぐに微笑を取り戻した。

「まあ何にしてもよかった。人質は全員無事救出したし、死者もいない。後は動物を一匹残らず排除するだけだ」

「………」

 事も無げに後半の言葉を言う姿に、純平はみーこの口から呪われた言霊のように放たれた〈瑠香〉を発見した気がした。

「…どうするつもりだ」

「どうしたらいいかな? 正面から挑んで撃ち殺してやってもいいし、もう一本の橋も破壊して、じわじわ飢え死にさせるってのもいいかもね」

「………」

 瑠香は、いつどこから取り出したのか、握り締めたピストルを緩めた視線の先に置いて、まるでゲームでもやるかのように、抽象的な方法だが具体的な結果に至る悪辣な手段の候補を、実に楽しそうに話した。

 その姿からは命を奪うことへの気後れは微塵も感じられず、みーこたちが殺されかけたという情報を覆っていた疑義の霞が薄れ、代わりに同じ濃度で真実味が増した。それによって完成した先入観は、この間ロロを撃ったのも、昨日自分を殺そうとしたのも、そしてさっきタクローを撃ち抜いたのも、それらの場面を一つ残らず目の当たりにしたみたいに、こいつの仕業だと確信させるに至った。

 純平は唾を飲み下し、上着の裏に入って出てきた手からピストルがなくなっているのを見計らって、おもむろに言った。

「…殺すことしか考えてないんだな」

「当然じゃないか、彼らは人間に楯突いたんだ。許してはならない」

「許す許さないを決められるほどいつから人間が偉くなった」

 瑠香の表情が、呆気に取られたような驚きを帯びてから、段々と変化していく。やがて軽く歯を軋ませて突き刺すような鋭い瞳で純平を睨みつけ、その体勢のままで乱暴に返答を投げつけた。

「人間がこの世界の覇者になったときからさ。他の動物たちは人間に隷従する義務がある」

「てことは俺たちが奴らに敗れたら、俺たちは奴らに従わなくちゃならないってことか」

「論理的にはそうなる」

 瑠香は意外なほどあっさり認め、すぐに反駁する。

「だからそんなことさせないために、皆殺しにしてやらなきゃならないんだ。人間に逆らうとこうなるぞっていう見せしめにね」

「こうして人質が助かったんだ。死人も出てない。もうここで終わりにしてもいいだろう」

「そんなことしたら付け上がるだけだ!」

「………」

「政府の会議がどんな風に決するのか、それは僕にもわからない。だからこそ今のうちに殺しておくんだ。万が一生かしておいてやろうなんてことになったら大変だからね」

 純平は口の中の上の硬い部分にあてた舌を勢いよく弾かせ一生の間に二度と出せないほど激しい音を立てた。こんな奴に「君」なんて単語はもったいない。

「お前は動物たちが俺たちを殺さずにいてくれたことを何とも思わないのか」

「君こそどう思ってるんだ? 動物に養ってもらうのはそんなに嬉しかったのかい? 幸せなことだったのか? 人間としてのプライドはないのか」

「………」

「逆ならともかく、そんなの人間の恥だ。ペットは人間が飼うものであって、動物が飼うものじゃないんだよ」

「奴らがその気になれば俺たちは全員殺されてたんだぞ。それをしないどころか食事まで与えてくれた。仲間がお前に撃たれても、橋から落とされてもな」

「やけに詳しいね」

 口を滑らせたような気がして顔を逸らす。「…まあな」

「前に撃ち殺そうとしたハトはさっき頭にぶつかってきたよ。ウサギの耳をした奴は溺れ死んだだろうけどね」

 鼻で笑う。「…そりゃどうかな」

「だけど君たちを守るためにはそれが必要だったんだ。あの時に僕が捕まるわけにはいかなかったし、あいつは動物たちの頭脳だったはずだからね、あいつさえいなくなれば後が楽になると思ったのさ、なんせ最初の作戦を見破られてたんだ、きっととても賢いんだ、もしかしたら並の人間よりもずっと賢い」

 頬を掻く。「…そんなことないと思うけどな」

「君こそどうしてそんなに彼らをかばうんだ」

「大した理由じゃねえよ。同じ生き物だからだ」

「君は人間と動物とどっちが大切なんだ」

「どっちもだ」

「現実的じゃないね」

「命に優劣をつけるのは間違ってる」

「それは正論だ。だが同時に理想論だ。全ての生き物には歴然とした力の差が存在する。差はそのまま命と命との関係を上か下かに分かつ。その結果がもたらすものは勝者と敗者の二分化だ。つまり優劣だ」

「………」

「人は折に触れて、自然との共存とか、他の生き物との共生とか、夢みたいなことを簡単に言うけど、もっと落ち着いて考えてみなよ。究極的には全ての人間と動物を同時に生かしていくことはできないんだよ?」

「お前になんと言われようとあいつらを殺すのには反対だ」

「やらなきゃやられるんだぞ!」

「殺さないで解決する方法ってのを考え出せばいいだろうが! あいつらにもそれができたんだ! それができないお前はケモノ以下だ!」

 次第に熱を帯び声高になっていった二人の応酬は、大喝の最後に純平が瑠香の眼前に人差し指を突きつけることで決着した。大人の迫力が原因か言い分の内容が原因か大袈裟な動作が原因かはわからないが、瑠香は激しく歯を軋ませることによって反論の手段すらも閉ざさなければならなかったのだ。

 しかしやり取りそのものは終わらなかった。瑠香が唐突に純平の手首をひったくるなり振り返って歩き出したのだ。

 純平は反射的に踏ん張ろうとしたが留まれなかった。振り払おうとしたがそれもできなかった。瑠香の手には重機の作用点のように物凄い力がこもっているのだ。とても離れそうにない。子供とは思えない。人とも思えない。

 無理やり歩かされながら純平は、事情や状況の大幅な差異はともかく、かつて殺されかけた確固たる事実を改めて喚起させられ、再び訪れるであろう危機を色濃く感じ、訴えまた問いただした。

「離せ、何のつもりだ」

「君は危険だ。君のせいで折角上がったみんなの士気が下がりかねない」

 純平は瑠香の腕を握り、必死に引っぺがそうとした。無駄だった。自分の腕のほうが痛くなったぐらいだった。もし無限に力を注ぎ込むことができるのであれば、肩からちぎれた自分の腕を瑠香が握り続けているだろう、そんな具合だった。

 やがて階段に差し掛かり、瑠香は一直線に段差を下がっていく。抵抗が形をなさず純平も後に続く。

 吹き抜けの天井から落ちてくるオレンジ色が消え、代わりに蛍光灯の白さが目立つようになったが、むしろ暗くなったように感じる。そのせいか、地下という特有の場所に付きまとう視野の行き届かない印象がより強くなる。どんな恐ろしい出来事が起こっても誰も真実を知ることはないという予感がする。これから身に降りかかる痛苦を伴う密事を想像し、それによって全身を捉えてきた怯えを怒りで糊塗し、純平は再び問い詰めた。

「どこに行く! 何しやがる!」

「危害を加えるわけじゃないから、そんなに恐がらなくていいよ」

 見抜かれていたのかと思うとばつが悪く、純平は顔を逸らした。瑠香はその後に返答を加えた。

「規律を乱す人がいたら閉じ込めておくつもりで設けておいた部屋があるんだ。残念ながらその甲斐あったよ。悪いけどこの戦いが終わるまでそこで大人しくしててもらう」

「それが人間のやることか!」

 純平の口調が激烈さを取り戻したのは身の安全を約束されたからだけではない。

「黙って聞いてりゃ何だ! 偉そうに御託並べやがるくせに、結局やることはあいつらと何一つ変わらねえじゃねえか!」

 瑠香は立ち止まった。壁に埋め込まれたプレートに地下一階の表示が刻まれている。

「君は大事なことを履き違えてる」

「ああ?」

 瑠香は体を反転させ、鋭い目で純平を顧みた。純平は瞳を睨み返し、それを催促する。

「あの動物たちにとって、人質は生かすためのものじゃない。最終的には殺すためのものだったんだ」

「………」

「いつかは人質のことだって、君のことだって、殺すつもりだったのさ」

「………」

「その点僕は彼らとは違う。君がどんな考え方を持っていても、君が人間である限り、君を殺すことはない」

「………」

 純平が項垂れて黙考しているのに構わず、瑠香は踵を返した。

 階段をもう一階分降りたところで段差は尽き、左右にいくつか部屋がある細長い通路に出る。

 瑠香は純平を連れて右へ曲がる。

 突き当たりにも部屋が面していて、男が一人手持ち無沙汰に床に足を投げ出して、握り合わせた手を枕にドアにもたれていた。男は瑠香と瑠香に手を引かれてくる純平を認めると、驚いた様子で立ち上がり、瑠香が手振りでどくように言ったときにはすでにドアの前から離れていた。

 瑠香は空いている手でドアを開け放つと、部屋の中に純平を投げ込んだ。加減はされているもののやはり並の力ではなく、純平は声を上げながら地べたに転倒した。

「食事は後で持ってきてあげるよ。トイレに行きたいときは彼に連れて行ってもらってね。君は彼から目を離さないように」

「仕事があるとは思わなかったな。何やらかした」

「まあちょっとした悪ふざけさ。ここでしばらく頭冷やしてもら」バタン

 瑠香の声に続いて男の声が背中に届き、二人の会話はドアの閉まる重い音で前触れもなく途切れた。

 純平は弱々しく体を起こし、

「ホントにあいつらと…」

 そこで気がついて言い直す。

「俺と変わらねえじゃねえか…」

 その部屋は電気がついておらず、ドアが閉じられるとともに光源が消失したので、真っ暗だった。床を踏み締める両足の感覚で立ち上がれたことはわかるが、視覚で確認することはできない。

 コートのポケットからライターを取り出し火をつけてみる。

 仄かに照らされたそこは、自宅を四つに増やして正方形を作るようにバランスよくくっつけたぐらいの広さだった。何かの倉庫だろうか、段ボール箱が一つ隅のほうに転がって空の中身をこちらに向けていたが、どんな目的のために存在する場所なのかを知る要素としては、その箱は無いに等しかった。

 ライターを慎重に左右させていると、ドアのすぐそばの壁にスイッチが見つかった。歩み寄ってライターを消しつつ手を伸ばし、右に倒す。

「………こっちか」

 左に倒す。

「……?」

 火を付け直したライターを頭上に持ち上げ、蛍光灯が天井に据えられているのを指差し確認する。もう一度交互に倒してみる。

「………」

 オンかオフかも定かでないスイッチから脱力したように手を離し、ため息混じりに呟いた。

「俺よりひどいじゃねえか…」

 仕方ないのでライターの火を頼りにドアの真向かいの突き当たりの壁まで進み、そこに寄り掛かって腰を下ろした。ガスの節約のために火は消しておく。

 こうして、望ましくない形でではあるが、ようやく休息を得ることができた。しかし安息にはなりえない。他にやることがないから考えを巡らせるしかないのだ。他にやることがあってもそうしていたことだろう。とにかく瑠香の言葉は、鼓膜にへばりつくように、純平の中でわだかまっていたのである。

 動物たちにとって人質はいずれ殺すためのもの。

 正解だ。

 と思う。

 悔しいが。

 眼鏡が言っていたように、タクローが人質たちを気遣ったのだって、人間が好きだからではない。冷遇するべきではないという見解とともにそういう指示を自分が出したから、それに従っていただけだ。

 だから動物たちの意志がこれぐらいで揺らいでいるはずはなかった。今だってまだ、人間を滅ぼすという目的を捨てるつもりはないはずだ。そのチャンスがあるならば、すぐにだって牙を剥いて人間に襲い掛かることだろう。それでも。

 純平はそこでため息をついた。

 やっぱり助けてやりたい。

 ペットはもう心配ない。

 人間も目処がついた。

 後はあいつらだけなんだ。

 純平はそこで、再びため息をつき、今度は項垂れた。そして湧き出てきた疑問を口にする。

「それじゃどうしたらいい…」

 難問を聞く者はいない。答える者もまた。


 建物内の捜索に当たっていた動物たちを引き連れて、ロロが地下二階に戻ってきた。

 誰もが沈痛な面持ちを隠さず、それによって結果は物語られているのだが、ロロは偵察隊の一員として報告を怠らなかった。

「純平とサラ…どこにも見当たらない…」

 大将は軽く閉じた目を伏せったまま、黙って頷く。

「どうする」

 しかしタクローの問い掛けには反応しない。

 やがて騒々しく翼をはためかせてポポが戻ってきて、興奮冷めやらぬ様子で口早に報告した。

「人間たちのアジトがわかった!」

 さざ波のように周りからどよめきが起こった。大将は黙って頷くだけだった。

「どうする」

 しかし今度はタクローの問い掛けに、顔を上げて目を開き、全員に聞こえるように高らかに宣言する。

「全力をあげて仲間を救出する」

 動物たちは少しの逡巡も見せずに力強く頷き、あるいは積極的な賛意を口にした。それはこの場にいない動物たちの総意を十分に代弁するものでもあった。

「純平の指示がないのは不安だし、命を落とす危険もあるがな。それでもあいつらも助けたい」

 動物たちは了解を示す言動を行いかけ、はたと留まり、目を丸くした。それらを眺め、むしろ大将のほうが眉をひそめた。ちょうど目が合ったところだったので、代表してタクローが聞き返す。

「あいつらも?」

「………」

 指摘され、発言を思い返すことで大将も間違いに気付いた。慌てて大声で言い直す。

「あいつらを助けたい、だ! いかんな、純平がうつったみたいだ」

 やれやれと言わんばかりに首を振り、ポポとロロを一望できるところでそれを止めた。

「もう一仕事だ、戦える奴を橋に集結させろ」

 それから周りを見回しながら命令を続ける。

「他の者たちはすぐに橋に集まり、いつでも出撃できる準備をしておけ。待て!」

 腰を上げたり階段に向かいかけていたりした動物たちは、逆転した指示に思わず体勢を崩し、さすがにむっとなって大将を見遣った。だがそこで最後の言葉はタクローに向けられていたものなのだと知ることになる。

 大将は他の動物たちの視線など少しも届いていない様子で、片膝を立てたところで止まったタクローを心配そうに見上げていた。

「行けるのか?」

「なーに、このぐらいの傷」

 タクローは立ち上がり様に先端をすぼめた前足を振り上げ、包帯の上から銃創をどん! と叩いた。

 直後に息を呑むような声を漏らし、背中を直角に曲げ、両前足で傷口を押さえ、激しく咳き込んだ。それが収まってから、相当の時間をかけて体勢が戻っていったとき、かなりの無理をしなければできないような引きつった笑顔が現れた。

「も…ぜーんぜん平気…痛くもか…ゆくもない…よ…」

 タクローを見つめる動物たちの瞳の奥にあるものは、心配を通り越して呆れ果てた冷たいものになっていた。が、一人だけ正反対の思いを眼差しに込めている者がいた。

「助かる…お前がいると心強い…」

「…ああ」

 本音と一緒に大将は笑みをこぼす。タクローのそれも、苦しさや痛みをすっかり忘却したものに変わっていく。

「よし、それじゃあ行くぞ」

「大将」

 歩みかけたところでポポに呼び止められ、大将はその場に足を下ろした。

「人間はどうするの?」

「ああ、忘れるところだったな。それを話しておこう」

 大将は思い出したように頷き、腰を落とした。他の動物たちも大将に向き直って指示を待つ。

「今回の戦いの一番の目的は仲間の救出だが、人質の奪還を兼ねていることを忘れるな。アジトに攻め込まれるのだから、人間たちも死に物狂いで抵抗してくるだろう。多少は荒っぽいことをしてもいいが、絶対に殺すな」

 動物たちの多くはどよめきとともに意外そうな顔を見合わせ、ポポは露骨に反意を示した。「そんなバカな」

「ここまできたら生かしておいても仕方がないよ」

「純平の指示に従う。あいつらを助け出してやっても人質を死なせてしまっては意味がない」

「そんな手ぬるいことをしてるからこんなことになったんじゃないか!」

 ポポは一喝して場を静めると、翼で身振り手振りを交えた持論を展開する。

「人間は敵なんだ、やっぱり生かすべきじゃなかった、ああやって生かしておいたから、僕らが甘く見られて、人間たちが付け上がって、こんな風にまんまと攻め込まれて、人質を救い出されて、二人を連れて行かれて、タクローが撃たれたんだ!」

 そこでポポはタクローに目線を送った。

 タクローは複雑な表情の上に自分の名が出た驚きをよぎらせ、やっぱり痛む傷口を軽く押さえてうつむいた。どちらの言い分が正しいのか、唯一の負傷者としても判断しかねているらしかった。

 構わずポポは続ける。

「人質なんか取らずに殺しておけば、僕らの強さを見せ付けることができた。こんなひどいことにはならなかった」

「ポポ、それは違うぞ」

 大将は、不満顔で向き直ったポポを悠然と見下ろし、その理由を説いてやる。

「人質がいたからこの程度で済んだんだ」

「………」

「人質がいなかったら今頃はもっと多くの犠牲者が出ていた。俺たちみんな殺されていたかもしれん」

「………」

「だからもう一度、奴らを人質にする。その後はこれまで以上に警戒を強め、侵入を防ぐようにすればいい」

「………」

 ポポは黙ってうつむき、それきり言葉を紡ぐのをやめた。理解はできるが納得はできなかった。そんなのは利点のみを抽出した言い分ではないか。だが大将が言うことなので、それ以上の口答えをしても無駄だということも認識していて、せめて了承しないことだけが唯一の反抗手段のように口を閉ざしているのである。

「しかし、あの子供だけは例外とする」

 そこから大将の口調に棘が生える。

「ここに忍び込んだのも人質を逃がしたのも、純平やロロやタクローを殺そうとしたのもあいつだからな。全ての元凶であるあいつだけは見つけ次第確実に息の根を止めろ。そう伝えて来い」

 大将はそう言い残して走り出し、階段を駆け上っていった。

 動物たちは見えなくなった大将の後ろ姿と黙って動かないでいるポポを心配そうにも不安そうにも映る眼差しで見回していたが、やがて大将に続いて階段を進んでいった。

 程なくして場にはポポとロロとタクローだけが残り、タクローはロロとともにポポに歩み寄った。

「言いたいことはわかるけどさ…」

 タクローは前足の指の一つで突付くようにポポの頭を後ろから撫でた。

「純平を信じようぜ。人間を殺したら、それは純平を裏切ることになるだろう?」

「そうかもしれないけど…」

 それでも納得できないらしく、ポポはまた黙り込んでしまう。そこへロロが呼び掛ける。

「お兄ちゃん、行こっ」

 ロロは精一杯明るく振る舞って、ポポを翼で揺すって促した。ポポはすぐには返事をしなかったが、

「…わかったよ」

 やがて仕方なさそうに頷いて飛び立った。

 ロロとタクローもほっとしたように後に続き、階段を上っていった。


 ドアが開いた。

 逆光のために黒い影にしか見えない何者かが背中を突き飛ばされ、短い悲鳴とともに膝から部屋の中に倒れ込んだところで、ドアが閉まった。時間にすれば一秒にも満たない間の出来事だ。室内はまた暗闇に戻ってしまう。

 来客か。と思ってコートのポケットのライターを握ったところで、

「純平?」

 サラの声。

 思わず怪訝な顔で手が止まる。

「私はね、暗い所もよく見えるの」

 自慢げに種明かしされ、納得すると同時に眉間が平らになった。それでもネコの視覚を持たないので、その目で確認したくて火をつける。ぼうっとした明かりの向こうに、不思議そうな表情をして、確かにサラがいた。小走りに隣にやってきて正座を崩して座る。

「こんなところでどうしたの?」

「ん? ああ…」

 決り悪さに言い淀んでから、思い出して舌打ちし、ため息混じりに続ける。

「ちょっとやり合っちまってな…お前こそどうした?」

「え? えっとね…」

 ぼやけた光にサラの苦笑いが浮かんだ。

「つまみ食いしたら怒られちゃった」

 火を消す。黒い空間が蘇る。

 サラは壁に背中を置くと、純平ほど黒くは映らない部屋の中を軽く見渡し、そのまま純平を仰いだ。そこで恐いぐらいにしかめられた横顔を目にし、首を傾げる。

「どうしたの?」

「どうしたらいい」

 恐い顔が急にこっちを向く。見つめ合っているのに焦点が合っていないのが不気味で思わず身じろぐ。ニット帽の中では耳が伏し、トレーナーの内側では尻尾が逆立っていた。

「どうしたらあいつらを助けられる」

 見えるのが横顔に戻って、サラはほっと息をつく。純平は考えあぐねていたことを滔々と語り出した。

「俺たちは生き延びることができた。人質も無事。後はあいつらだ。説得して詫びさせて、そうしたら何とか勘弁してもらえるんじゃないかって思ってたが、説得ってのは追い詰められているところで初めて効果を発揮するものだ。今みたいに、タクロー一人が怪我をしてても、追い詰められているとまでは言えない。万が一あいつが死んでたら、他のみんなはこれまでよりずっと戦う気になってるはずだ。人質がいなくなったことだって、よくよく考えてみりゃバランスが崩れて暴発の危険を生み出しただけだ。もしあいつらがここまで攻めてきたら、人間のほうにも犠牲者が出るかもしれない。政府の会議だってどう決するか、いつ決するのかもわからない。殺すつもりでやってこられちゃ何にもならない。頼りにできそうなのはあいつだけだがその協力も望めやしない。このままだとみんなあいつに殺されちまう」

「あいつって?」

「俺やロロやタクローを殺そうとした奴だ。そうだ、何で今まで気がつかなかった、俺があいつの言うところの動物たちの頭脳だったってことを明かせば、俺の指示で人質を死なせないようにしてたってことを話せば、少しは俺の言うとおりに、いやだめだ、できて感謝の対象が俺になるだけだ、みんなの功績じゃなくなっちまう、殺す気満々だったってことが露呈するだけだ、それじゃ逆効果だ、クソッ! どうすりゃいいんだ!」

 純平は忌々しそうに唸って顔を覆い、見えないサラのほうを見遣る。

「なあ! どうしたらいい! どうしたらみんなを助けられる!」

「そんなこと聞かないでよ!」

 怒ったような声に純平は驚き口をつぐむ。一転して沈んだ声がその後に紡がれる。

「純平にわからないことなんて…私にはもっとわからないよ…」

「………」

「私は純平と違って…頭悪いんだから…」

「………」

「ごめんね…急に大きな声出しちゃって…」

「いや…初めに怒鳴ってたのは俺のほうだからな…」

「………」

「悪かった…」

「……うん」

「………」

「………」

「………」

「……ただ」

「ただ?」

 即座に聞き返され、サラはこっちに向いた期待に満ちた顔を見返して、たしなめる。

「今は何もできないでしょう?」

「………」

「今は私たちが人質みたいなものなんだから」

「………」

「純平、頑張ったじゃない。今までよくやってこれたと思うよ」

「中途半端だ」

「そんなことないよ…純平も私も人間も助かった…それだけは変わらない…」

「………」

「とりあえず…ね…? あんまり思い詰めないほうがいいよ…? もう…なるようにしかならないよ…」

「………」

 返す言葉がなくて、純平はうつむいた。サラは続ける。

「だから、今は別の話をしようよ」

「話すことなんて何もねえよ」

「私にはあるの」

 純平は怪訝そうに暗闇を右に見遣った。右腕が勝手に浮き上がり、コートの上から温もりがまとわりついてくる。光はどこにもないはずなのに、サラに腕を抱かれているのが見えるような気がした。

「純平にね、お願いしたいことがあるの」

 二、三まばたきしてから首を縦に振り、続きを促す。心なしか右腕を抱いてくる腕に力が増したように感じた。

「私ね…今起こってることが全部終わったら…純平と一緒に暮らしたいの…」

 どこからともなく訪れた声も出ない驚きに包み込まれ、目を見開いた。肩口に温もりが加わる。視覚に変化した触覚は、寄り掛かってきたサラの横顔をそこに認めた。

「私…帰るところがないでしょう…? 研究所に戻っても処分されちゃうだけだし…そんなことより何より…」

 肩口の温もりが離れた。こちらを見つめてきているのを感じ取る。

「言ったよね…? 純平がいないと生きていけないって…覚えてる…?」

 頷くと、温もりが戻ってきた。より強くしがみ付かれ、温感がより近くなる。

「私…純平と離れたくない…」

 黙って頷きながら、正面を向いた。即答するのもどうかと思ったので、考え込むように少し間を置いてから、ようやく口を開く。

「うるせえネコが一匹いるんだが…」

 そこまで言ったところで区切り、すまなさそうな表情で改めて右を見る。肌の視界はかすかに位置を変えた温もりから、続きの言葉を逃すまいとこちらに向いた目と耳を焦点の中心に捉えていた。

「…それでもいいか?」

「うん…純平と一緒にいられれば…何でもいい…」

 頬を掻きながら、不意にこぼれた微笑を前に戻す。つい現実的になってしまって、あの狭い部屋に二人と一匹は大変だろうなと思った途端、その一匹の言葉を思い出した。

「家を建てようと思ってるんだ」

「家…?」

「隣町にいい土地があるんだ。そこに動物病院を開業する」

「うん…いいね…」

「一階が病院で二階が住居」

「素敵…」

「そこで一緒に暮らそう」

「うん…嬉しい…」

「………」

 心持ち体を右に傾け、左腕をそっと伸ばした。闇をものともしない触覚は精確で、目安にした場所から一寸と違わぬところにある頭に指先が触れた。

 ニット帽の上から軽い愛撫を施してから、頭を起こさせる。

 それからこちらに顔を向けさせ、自分も顔を向け、その二つを一つに重なるように近づけ合った。

 ほんのかすかに、注意しなければわからない程度に、口紅の味がした。

 サラの両腕が右腕から離れていったのを合図とするように、純平も一つになっていた顔を分離させる。純平のそれは困惑した表情だった。

「お前の舌…ザラザラしてて痛いな…」

「ネコだもん…」

「そりゃそうだな…早く慣れなきゃな…」

 満面に子供のような笑みを湛え、心のこもった愛撫を贈る純平は、暗闇の中で幸福とそれがもたらした信用に満ちたことから、ヒトの視覚はもとより肌もその視力を喪失しており、それを受け取るサラを知ることがなかった。

 倦怠によって虚ろに開かれた目と、真横に閉じられた口を顔に貼り付け、前触れもなく来訪してきた感触と温もりをなかったことにするように、ネコみたいに丸めた両の手の甲で交互に執拗に唇を拭うその表情は、悲しいとか辛いとかまではいかないものの、自分と違って無感動で、けして嬉しそうではない姿であり、しかりそれらの様子を純平が知ることは、その手段がないために、なかったのだった。


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