第三章
第三章
初日から昨日までの数日と同じで、今朝も純平はポポに顔をついばまれて目覚めを迎えた。
一番初めのときのように仰天して飛び起きるということはなくなったので、純平のまぶたがぴくぴく動いてそれから薄っすら開けば、ポポもそれを仕事の終わった合図としてサラのところへ戻れる。
しかし純平は事務所の明かりがこぼれているだけの、電気のついていない給湯室で朝を知ると、掛け布団で頭をすっぽり覆って再び眠りにつこうとする。もっともここ二、三日で突如習性になってしまったようなこの行為はポポも予想済みだったので、その前に布団を蹴り飛ばしてそれを阻止しようとする。二度寝されてしまった昨日まではサラの手を借りないと起こすことができかったのだ。
初の試みは見事成功した。力を入れてなかった純平の手から剥ぎ取られて跳ね上がった布団は、大きくくねりながら純平の足元にくるまって落ち着いた。反射に近い行動でポポはよしと呟いていた。
身悶えながらの舌打ちの後にてめぇこのやろぉと辛うじて聞こえる呻き声を発し、仕方なしに純平が半身を起き上がらせると、ポポがすかさず布団の上に降り立って純平の手を体で制し、睨むように見上げた。
「少しはサラを見習って早起きしたら?」
純平はかっとまぶたを開き、頭上で前傾するウサギの耳に恥じない、血走った眼でポポを睨み返して反駁した。
「あいつが早起きなんじゃない。俺が寝不足なんだ」
それから今にも崩れそうな危ない動きで立ち上がると、音を立てさせて首を回しながら、そのままあごが外れてもおかしくないぐらいの無防備なあくびをし、ようやく靴を履いて事務所へと向かった。
高いびきをかきながら夢遊病の如き激烈な寝相を展開していくサラを横目に、夜明け近くまで頭痛を覚えるほど思慮を巡らせ、いつの間にか疲弊した意識を喪失し、ほんの少し経ってからポポに起こされるという生活が何日にも渡って続いているのが、純平の不調の原因だ。
人間を人質に取ってからというもの、彼らの無事を懸念してか、その後人間たちが襲撃してくることは一度もない。
だが町にはまだまだ大勢の町民がここへ攻め入る計画を練りつつわだかまっていることも偵察隊の報告でわかっており、大将を始めとする血の気の多い動物たちが、彼らを蹴散らすために打って出るべきだという主張を引っ切り無しに進言してくる。
この頃になると純平の頭の中では動物たちに勝利するための戦略が固まっていた。こうして人質を守りながら、町の外からの援軍を待つというものだ。大将による、頭はいいが力はないという侮蔑の漂う決め付けや、タクローを初めとするメンバーによる、作戦の中枢だから危険に巻き込むのは避けさせないといけないという親切な気遣いから、武器になるようなものを手元に置いておくことができなかったり、人質とコンタクトを取ることが不可能だったりしたことで、その二つが満たされて初めて行い得る内部からの攻撃が困難だという理由によって、他の選択肢を用意できないために行き着いた、極めて消極的な方策である。
それでも純平には、自分の手でそれと実感できる物理的な反撃をしたいという復讐心が萎えていない。それを叶えられる理想的な形は、銃器に身を固めた迷彩柄の軍服連中に川を包囲させ、それらを防護させるという名目で動物たちを建物の外に追い出し、その間に人質たちに武器を与えて呼応させ、前後から動物たちを挟撃して叩きのめすというものである。偵察隊によるとこの数日の間に町は自衛隊に封鎖されたそうだ。動物たちが町の外に出ていくのを防ぐためと、人間たちが町の中に立ち入るのを防ぐためという両方の目的があるのだという。だからその気になればいつでも実行可能で現実的な計画なのだ。金属バットだかナイフだかわからないが、自分で大将にとどめを刺してやりたい気持ちに変わりはなかった。
一人腹の奥でそんなどす黒い欲望を燃やしている純平は、進言の度にロロを撃った何者かを引き合いに出し、動物たちも恐れている銃器の存在とその脅威を諭してやり過ごしているが、守りを固めているだけの状況に彼らが苛立ってきているのも事実だ。
それとは別に深刻な食糧難を解決すべく開始させた外部への食糧調達作業は、侵攻と同じぐらい危険の伴うものであるにもかかわらず、動物たちが鬱積した苛立ちをぶつけるかのように多大な成果を上げ、それどころか食糧以外に意識を失わせた人間を連れて帰ってくることが度々ある。結局それがこの町を制圧する近道のようになってしまっており、打って出るべきだという意見はわずかではあるが減ってさえいる。
一方で怪我をして戻ってきたり、あるいは戻ってこなかったりする動物はこれまでのところ一匹もいない。人質の重要性を重く見た動物たちが人間を傷つけないようにしているのは良い傾向だが、当の人間がこれではどうしようもない。そしてまた純平の思惑とは裏腹に政府の会議はますます長引いている。日ごとに増える人質のためである。どうせ生身では戦いようがないんだから、自分たちの力量を鑑みない無茶な暴走など諦めて、とっととどこかへ避難してくれればいいのに。
思考が停止するまでの昨夜の続きをそんな風に行う傍ら、戦略を練り直す時期が来ているのかもしれないと考えつつ、純平はのろのろとコートを羽織って、落ちるようにソファーにもたれた。
テーブルの上には朝食が用意されていた。あの日の昼から毎食の献立はおにぎり一個になっており、すでに半分に割られて二つになったそれぞれから、昆布の佃煮が覗いている。
何かいい手段がひらめくことを淡く期待して、あてどもなくぶらぶら歩いているうちに、純平は一方の橋までやってきていた。
前にはビル街が広がり、左には川が流れてきていて、右には川が流れていっている。後ろには苦しげな顔で腹に手をあてたサラがとぼとぼ着いてきていて、その頭にはいつものようにポポがうずくまっている。
「おなか空くからじっとしてようよー…」
「別に来なくてもいいんだぞ」
「だめだめ! 二人はいつも一緒にいさせてしっかり見張っておけって、大将にきつく言われてるんだから」
おかげで外部と連絡を取ることはもちろん、ひそかに人質たちと顔を合わせることもできずにいるわけだ。それができればかなりの後押しになるだろう。あるいは内部から崩していくことだって可能かもしれない。
純平は黙って橋上に足を踏み入れていき、サラは袂に程近い欄干を背に力なく座り込んだ。
ポポはサラが動くのを放棄したと見るや颯爽と羽ばたき、純平を追い越した先にあるガードレールに降り立った。
「ねえ純平、ちょっといい?」
純平は足を止めて了承を示す。
「僕考えたんだけどさ、こっちでもあっちでもどっちでもいいから、橋を一つ堰き止めるってのはどうだろう。エスカレーターや階段の地下に行くところみたいにさ」
「それはまた大胆だな」
「そうすればこの間みたいに挟み撃ちされる心配はなくなるよ。どう?」
「しかしそうなると一方からしか出入りができなくなる」
「まずいかな」
「まずい」
そんなことしたら、いざというときの人質の脱出や援軍の進攻の妨げになるだろうが。
「残った一つを外から固められてみろ、手も足も出なくなる。ただでさえこっちは食糧不足で悩んでるんだ。籠城は禁物だ」
「なるほどねえ…さすが純平だ」
純平の本心など知る由もなく、ポポは心底感心した様子でヒトが腕組みするように翼を組み合わせ、幾度も頷いた。
「サラは」
そして呼び掛けをしつつそっちを見たところで続きを中断し、翼を解いてその方向へ飛んでいく。
ひどく顔をしかめたサラの頭の上に着地し、ぺたりと髪の毛に伏している二つの耳の片方の隙間にくちばしを差し込んだ。
「サラはどう? 君の意見も聞かせてよ」
「よくわかんないよ」
サラは頭を振ってポポを飛び立たせ、軽く握った拳をこめかみにあてて支えにする。
「私は純平と違って頭悪いから、難しいこと考えたくないの」
「そんなこと言わないでよ。君の役目も作戦を考えてもらうことなんだよ?」
諭すように言いながらポポが頭の上に戻ってきたが、サラはすかさず耳を伏せて顔も背けた。
純平は欄干にもたれ、背中を擦らせて地べたに腰を下ろすと、コートのポケットに手を突っ込んだ。直方体の箱を取り出し、中から一本の細長いものを引き抜いて口にくわえる。
サラの耳が純平のほうにかすかに起き、顔もそっちを向いた。すぐさまサラはポポが悲鳴を上げてふっ飛ぶほどの勢いで四つ足で駆け出し、あっという間もなく純平の隣に膝をついて詰問していた。
「何食べてるの」
「何が」
「純平のせいでごはんが少なくなったのに、一人でそんなの食べてるのずるいよ」
サラは純平から箱を奪い取った。手のひらに収まるほどの大きさだった。開いているところを確認し、口にあてて首を直角に伸ばした。しかしいくら振っても底を叩いても、何も口の中には落ちてこない。中を覗くと空っぽだった。落ち込むより先に唇を尖らせて純平を睨む。
純平はサラの手から空箱を取り返すと、軽くひねり潰してポケットに戻した。
「食い物じゃねえよ」
「嘘。私にもちょうだい」
「………」
呆れた顔でサラを見つめているうちに、純平の胸の奥底でちょっとしたイタズラ心が湧いてきた。片方を吊り上げた唇からタバコをつまみ取り、サラの口に押し当ててやる。
「吸うだけだぞ」
何とも不思議な指示に怪訝そうに瞬かせる目で見返しながらも、サラは唇にわずかな隙間を作りフィルターを迎える。純平はもう片方のポケットから黒い百円ライターを取り出した。
「絶対に噛んだり飲んだりするなよ。いいな」
なおも念入りに注意して、わくわくした顔が深々と前に傾くのをしっかり見届けてから、おもむろに火をつけてやる。
「いいぞ」
サラは、待ってましたとばかりに期待に満ちた表情になり、すぼめた口の隙間から時間をかけて肺の中を空っぽにし、それが終わった途端に大きく息を吸い込み、そこで顔色が変わった。
純平はすかさずタバコをひったくる。
途端にサラは重病人の発作みたいに胸を押さえて激しく咳き込んだ。収まりかけたらまた口をつんざくという具合で、その数だけ切れ切れの紫煙が吐き出される。
「な…なにコレぇ…」
ようやくそこまで発することのできた、目にも声にも涙を帯びたサラに手本を見せ付けるかのように、純平はその元凶をうまそうに吸い込んで一息に煙を吐いた。
「だから食い物じゃねえって言ったろ」
「………」
サラはしばらく黙って深呼吸を繰り返しつつ、その間二回ずつタバコを吸って煙を吐き出す純平を見つめてから、のそのそと立ち上がった。
「なんか気持ち悪い…苦しいし…お腹ペコペコだし…もうヤダぁ…」
前屈みになって腹を両手で擦りながら、急に再発した小刻みに止まらない咳払いを追うように、建物に戻っていく。慌ててポポが翼を広げて立ちはだかった。
「サラ! 純平と一緒にいてよ!」
「やだ、もう帰る」
サラは首を振りつつその横を通り過ぎ、ポポは旋回して猫背に頼み込む。
「僕が怒られちゃうんだから!」
「帰る」
静かで、だからこそ奇妙に凄みのある一言に怯みつつも、ポポは加えて叫ぶ。
「またごはん抜きになっちゃうだろ!」
サラの耳がぱたっと伏した。
「サラ!」
「放っておけ。建物の中にいりゃあどこにも行けねえだろ」
「でも…」
「そんなことより、外にいる俺を心配したらどうだ?」
純平は皮肉っぽく言ってみた。ちょうどサラが建物の中に消えてしまったこともあり、ポポは戻ってきて純平の目の前に降り立った。
「心配はしてないよ。ロロを助けてくれた恩人じゃないか」
純平は黙って目線を下げた。そうしなけりゃ人質の命が危なかっただけだなんて、言えるわけがない。獣医の性か、助けてやれたことについてはそれなりに充足を得られたのだが、それすら情けなく思える節がある。もはや職業病と呼んでやるべきだろう。
「君が人間に協力するはずはない」
「そんなに人間が憎いか」
ポポが自信満々にきっぱりと言い放ったため、思わずその言葉が純平の口をつんざいていた。
ポポは目を丸くして純平を覗き込み、純平は紫煙をくゆらせる不機嫌そうな顔ごと視界を遠ざけた。
「純平、何か誤解してない? 僕らは別に人間に恨みがあるわけじゃないよ」
純平が不可解そうに歪めた目線だけを戻すと、ポポは広げた右の翼を建物全体を覆い込むみたいに動かしながら、語り始めたところだった。
「ここにいるみんな、あ、僕らやスズメやカラスたち以外の動物園で暮らしてたみんなのことね、そのみんなは、毎日動物園で働いている飼育員の人間たちにごはんを食べさせてもらってたわけだ。タクローはもちろん、あんなに威張ってる大将だってね。いや、僕やロロだってそうかもしれない。動物園のそばで暮らしてて、パンとかお菓子とかポップコーンとか、結構多くの食べ物を人間に恵んでもらって生きてきたからね。だからむしろ人間には感謝してるぐらいなんだ」
「だったらどうしてこんなバカげたことをやってる。恩知らずめ。恨みがないのにこんなことができるか」
「恨みがなくたってやらなきゃいけないんだ」
いつになく据わっている声色とそれに包まれた言葉に、純平は両方の頬をつかまれ無理やり向き直されたみたいになった。訝りの漂っている顔面に、ポポは続ける。
「僕らは何も思いつきでやってるわけじゃない。これは僕らのお父さんやお母さんのお父さんやお母さんのそのまたお父さんとお母さんのそのまたお父さんやお母さんの…とにかくずっと昔からの動物たちの計画だったんだ。人間たちのど真ん中にある動物園。そこの動物たちが立ち上がる。それが成功したら野生の動物たちも立ち上がる。大まかに言えばそんなところだ。長い時間をかけて、国中の動物園の周りを調査して、ベストなところを探した。軍事施設が近くになくて、警察の数も多くなくて、地形が複雑じゃなくて、そしてようやく見つかったのがこの町の動物園だったってわけ。川に囲まれたデパートなんていうオマケも、近くにあったしね。それからは大将たちのお父さんやお母さんのお父さんやお母さんの…とにかくまた長い時間をかけて、僕らやスズメやカラスが町の造りやデパートの内部を調べ上げて、みんなでじっくり具体的な作戦を考えて、それを僕らが檻から檻へと伝達して、あのまんまるの月の夜、ついに実行したんだ」
そこでポポは、片方の翼を限界まで掲げると、ヒトの握り拳のように丸めて力強く締めた。
「人間たちを滅ぼし、この世界を動物たちだけのものにするために!」
「勝ち目があると思ってんのか」
高らかに燃え上がろうとする炎の真上から冷水をぶっかけるように純平が言い放つと、ポポは不満げに翼を下ろして睨んできた。
「それを何とかするのが純平の役目だろ」
「俺が加わったぐらいじゃ人間には勝てやしねえよ。今からでも手を引くなり何なりして、元の生活に戻れるように努力しろ」
「僕たちはこれだけのことをやってるんだ。そんなことで人間が納得すると思うかい?」
「………」
「後は殺されるだけさ」
「…俺も何とかしてやるから」
「ありがとう。でもいいんだ。みんな覚悟はできてるし、そもそも勝てばいいんだから」
「人間はそんなに弱くねえぞ!」
「そんなことわかってるよ。だからこそ動物が人間に追いやられて、人間の考え一つで生かされ殺されてきたんだから」
「………」
「動物園のみんなは、檻の中の生活を不自由で息苦しいものだと思っていても、恨みに思ったことは一度もない。人間が強くて動物が弱いからしょうがないんだ。受け容れるしかなかったんだから」
「………」
「それなら彼らと同じように、今度は僕らが力ずくで彼らを追いやればいい」
ポポの体が純平の両手に持ち上げられる。
両者の双眸は、不意の驚きと説得の道具としての、それぞれ別の意味合いで大きく見開かれていた。互いを映し合う二対の瞳は、純平の手によって焦点がぼやける寸前のところまで接近する。
「お前は大将に騙されてるだけだ」
「どういうこと?」
「動物たちだけの世界ってのは、結局は強い動物が弱い動物を搾取していく、弱肉強食の世界だ。わかるか? 弱い奴は強い奴に殺されていくだけなんだ。大将やタクローなら、人間がいなくなった後でも生き抜いていけるだろうさ。だがお前やロロは、今度はあいつらに追い遣られていくだけだ。人間を絶滅させた次の瞬間には、あいつらの爪や牙はお前らを殺すためのものになるんだ」
「そうさ、大将たちが今の人間に代わって世界の覇者になるんだ」
そこまでわかっていながらなぜ力を貸せる…!
言葉を失うのに伴い、スイッチが切れたみたいに純平の手から力が抜け落ちた。
ポポは翼を広げてゆったりと地面に降り立つと、理解できないという風に呆然と自分を見下ろしている純平を改めて仰いだ。
「それぐらいの覚悟はできてる。そのときはそのときさ。野生の動物はみんなそうしてるじゃないか」
「………」
「今この瞬間だって、野生の動物たちは生きるために戦って、殺して、食べてる。この戦いはそれと同じさ」
「………」
「これは復讐のための戦いなんかじゃない。生きるための戦い…というのとも違うかな。しいて言えば……そう……生き物が生きてるだけのことなんだ」
「………」
「生きるためには食べなきゃいけない。食べるためには殺さなきゃいけない。殺すためには戦わなきゃいけない。だから戦う。だから殺す。だから食べる。そして生きる」
「………」
「これって何も不思議じゃないだろ? ただの自然の営みだよ」
「………」
「だから、僕は人間が好きか嫌いかなんて、あんまり考えてないよ。人間だって自分の食べる物に対して、美味しいか美味しくないかという以前のところで、好きか嫌いかなんて考えないだろう?」
「………」
「まあ、僕やロロは肉食じゃないから、間違っても人間を食べるということはないだろうけどね」
半分ほどまで燃え尽きたタバコの灰が折れ、ポポの顔をかすめた。
「あちっ!」
「あ…悪い悪い」
純平は急に夢から覚めたみたいに頭を後ろに戻し、タバコの位置をずらす。
ポポは大袈裟なぐらいに両翼をばさばさ言わせて顔を擦り、ひとしきりそれを続けた後で動きを止め、翼と翼の間からそろりと白い目を睨ませた。
「なに? お腹空いたから僕でも焼いて食べようとでも?」
純平は舌打ちして顔を逸らす。
「そんなまずそうなモン、誰が食うか」
「喜ぶべきなのかな…」
ポポは何とも例えようのない顔を横に傾けると、前触れもなく翼をひらめかせさっと橋の向こうへ飛び立った。
一人にしておいても平気だという信頼の証なのだろうか、それとも俯瞰には事欠かない位置を保っての散策なのだろうか、姿を追って空を見上げた視界から出たり戻ったりする姿だけでは判然としない。
純平は煙のため息をついて立ち上がると、何の気なしに振り返って欄干に寄り掛かった。
正面に無音に近い静かな音で遠ざかっていく下流、右手にデパートの一部、左手にビル街の一部が一瞬見えて、その風景を黒く消した。海外旅行すらしたことのない質素な経験によって培われた稚拙な想像力を、瞼の裏に働かせてみる。
そこはこの国から遠く離れた密林だ。草いきれが漂ってきそうな熱帯樹が鬱蒼としており、あまりに鬱蒼とし過ぎて地も空もないほどに見渡しが悪いので、草原に変更する。
草原。地平線までびっしりと緑の絨毯が敷き詰められたみたいな、手抜きで安いイメージ。サバンナを思い描いたつもりだが、実際のそれとは大きく異なることだろう。情報量が乏しいのだから仕方がない。
横から見る形でライオンを現してみるが、なぜかそれが大将になってしまった。もはや自分の中でライオンと大将は別の生き物のようになってしまったらしい。おまけに直前の話のせいか、対峙する相手がポポになる。他に思い浮かべるのが面倒なのでこれでいいやもう。
二匹は戦う。問題外な力の差でポポは破れ、大将の一部と化す。それらの具体的な場面は割愛した。爪で裂かれるか牙で噛まれるかのどちらかだろう。両方かもしれない。何にしても結果に大差ない。
これではあまりにもポポの見せ場がないのが可哀想なのとあまりにも大将が強すぎるのが気に食わないのでやり直すことにする。
大将とポポが睨み合う。大将が身を屈めてばねのように弾んでポポに飛び掛かる。ポポは翼をひらめかせて上空に逃れるやくちばしを真下に向けて落下する。鋭く尖った先端は大将のたてがみに突き刺さり貫通し首の下を突き破る。
純平はそこで首を振った。あるわけねえだろこんなこと。
動物たちのことで空想に耽っているのが急に馬鹿馬鹿しくなったのでそこでやめにした。具体例なんかなくたって考えることはできる。
だがもう一度だけ、極めて現実的に大将とポポの決闘をやり直したならば、後のほうの冒頭の大将と初めのほうの終盤の大将が繋がることだろう。
やはり気に入らないのでポポに花を持たせてやりたいところだが、くちばしぐらいで応戦できるはずもない。実際は即座に飛び立つもあえなく捕まるか、間一髪で爪と牙を回避して命からがら逃げおおせるかのどちらかだろう。くちばしが使われるときがあるとすれば、それはもはや悪あがきのときだけで、大将にとっては蟷螂の斧と形容して差し支えのない、無意味という言葉をあてがうのも憚られるぐらいの反撃だ。
サバンナにハトはいないだろうということを除けば、ポポの言ったとおりこれは自然の営みであり、自然な光景のはずだ。
十何年も昔に、自然という熟語の反対語が人工だと教わったことを思い出す。ついでに人口と勘違いして長い間不思議に思っていたことも。だからこそ忘れずにいたことも。
生まれたときから当たり前のように周りに顕在していたから気付かないが、ここは人工だ。アスファルトとコンクリートに覆われて、街路樹が植えられる以前のことは、そこに草原があったのか密林があったのかそれ以外のものがあったのかを知らないぐらい知らない。それより前の、ヒトが現れてくる時代のことも、もちろん。
しかし、ヒトによる整備だって開拓だって、それは自然と名付けてやれる営みだったのではないか。自分たちの住む土地を過ごしやすい形に変えていくのは、動物の進化に近い。人間はそうして栄えてきた。それが今なお続いている。全ての分野でよりよい生き方を求めて、ここまでやってきた。
だからこそ今のこの町だって、見方を変えれば密林やサバンナと同じで自然な姿であり、となると本当の意味での人工なんてものは、この世に存在しないのかもしれない。
想像の中で、大将の一部となったのがポポではなく、生身の人間だったとしても、もちろん自分だったとしても、極々自然なことなのかもしれない。いわんやその場所が草原ではなく、この町の片隅だったとしても。カラム百貨店の一角だったとしても。
生まれてから今日までの経験から言って、瞼の裏でポポを裂いて食む大将には、気後れはなかった。直前の話が生きていて、ポポにもそれは見られなかった。それが自然というものなのかもしれない。
けれども、もしそうだとしても、生産ピラミッドの頂点として、食物連鎖の極地として、永く種ごと君臨していた自分には、後者の感覚はまずわからないものである。わかりたくもない。
純平は目を開いた。
気づかない間にうつむいていたらしい。人工の波に飲まれずに自然のままで残っている、いや、人工の意図によって自然のままで残されている五、六メートル下に、弱った顔をして力なく曲がった口からタバコを生やした自分がいた。
緩やかな流れの上で何かに耐えるように歪む作り物のウサギの耳は、相変わらず異様な生き物だと嘲笑を誘う側面、人の手を介したものよりむしろ、擬態をする野生の生き物に映った。
カラム百貨店の周りに大きな建物はほとんどない。
上流から見て右側に位置する繁華街はもちろん、左側のビル街も、ビル街といっても一つの中に中小企業や小さな店がいくつも入っている、最高でも八階建ての、雑居ビルに近い建物が軒を連ねるだけの所だ。
その群の、橋に程近いビルの一つ、七階建ての最上階の、有限会社の不動産屋の事務所となっている一室は、他の部屋の概ねが満月の昇ったあの晩にすでに営業を終了させていたため今もそうであるように、天井の電気はついておらず、ブラインドの隙間から差し込む光だけが光源になっており、薄暗い。
ただここが他と異なっているのは、ブラインドの窓ガラスを覆っている部分の一番下の隙間に双眼鏡のレンズが差し込まれており、そこに双眼鏡があることも含め、外からちょっと見たぐらいではわからないが、その部分だけ隙間が広いということである。
もちろん超常現象として双眼鏡だけがそこにぽつりとあるわけではない。後ろから覗きつつそれを斜めに向けたり横に向けたりする者が必要になり、彼はそれをするためにいちいち動くので、そのたびに日の光は不規則に彼の体に遮られる。結果的に他の部屋よりも薄暗さが濃いということだ。それでも室内に居座る数人が、その表情も併せて互いの居場所を窺い知ることができるぐらいの明るさはある。
部屋は殺風景な廊下の途中にある矩形の一室で、窓とドアが短い幅の分の空間を隔てて向かい合っている。
室内は同じ大きさの事務机が二つ並んでいて、帳簿やファイルが整頓されて置かれている。少し離れたところには、この微々たる王国でそれでも一番高い位にある者が、どうにかこうにか権威を誇示したいという顕示欲を具現化させたような、木製の立派な机が安い机たちを見張るように直角になって鎮座している。が、これも事務用らしく、無気質な他の二基と同じく帳簿やファイルの他に業務用の平べったい電話が据えられているという、実務的な形態をしている。これではあまり変化がないことを理由にしつこく欲張ったためにやっとのことで付け加えられたような、肘掛けのついた本革の椅子がセットになっている。
しかし今はそこにいるべきはずの主はおらず、代わりに一人の若い男が、革命を果たした指導者さながらに、椅子にふんぞり返り、机に足を投げ出し、不愉快そうに腕組みをしていた。
その傍らの窓際には専ら商談を行うときに用いられるのだろう応接セットがあり、低いテーブルとそれを挟むように二人掛けのソファーが一対。そこにも四人の男がおり、やはりテーブルの上に足を投げ出したり、ふくよかな背もたれに体を預けたり、おとなしく膝に手をあてていたり、足を組んだりしていた。
机の向こうでは相変わらずもう一人の男が時折足を横に伸ばすなどして疲れを除きつつ、中腰の体勢を保ちながら、双眼鏡の一部となってしまったように窓の外を眺めていた。
そしてそれらの間に敷かれた透明なレールに沿っていくように、一人の少年が、頭の後ろで握り合わせた両手に体を任せたみたいに胸を張った格好で、一見意味もなく歩き回っていた。
少年が目の前を通るたびに、机の男は少年を上目遣いに睨み、やがて舌打ちがそこに加わっていく。他の男たちもけして嬉しくはない様子で少年を眺めたり、逆に目を閉じて視界に入れない努力をしていたりした。
それでも少年は彼らを見遣ることもなく徘徊を続ける。彼らの素振りに全く気付いていないのか、気付いてはいるが知ったことではないという意思表示なのか、それはわからない。
やがて業を煮やしたように、机の男がおもむろに足を振り上げ、踵で机を殴り付けた。衝撃で机にあったものが弾んだ。電話の受話器が浮かんで一瞬通話可能になり、直後に落ちてぶつりと切れた。
少年は立ち止まり、他の男たちも一緒になって目を向ける。机の男はドアのそばで目を丸くしている少年を睨み、威圧的に言った。
「目障りだ。うろちょろすんな」
「僕は作戦を考えてるんだ」
少年は意に介さない口調で答えて手を下ろすと、途端に破顔して一歩踏み出した。
「いい作戦浮かんだ?」
男は黙って目を逸らす。
少年は豊かな表情を枯らし軽く歯を軋ませた。
「だったら邪魔しないでくれよ」
「一方から攻めるフリをして逃げ出し、そこへ追い討ちをかけさせ、手薄になったもう一方から攻め込む。そして建物を占拠して動物たちを挟み撃ちにする」
ソファーの男の一人が一息にそこまで言ってから、やはり睨むように少年を見遣った。
「お前の作戦の結果がこれだ」
少年は悪びれることなく反論する。
「建物ごと動物たちを絶滅させようと言ったのに、君たちが建物を壊すななんて反対するから、仕方なくああしたんじゃないか。初めからそうしてればよかったんだ」
男が立ち上がり様に叫んだ。
「カラムはこの町の象徴だ! ぶっ壊されてたまるか!」
「そういうことだ。あれは円川町そのものだ」
机の男が深く頷き、立ち上がった男と顔を見合わせ頷き合った。
彼の向かいの隣り合った二人のうちの一人がもう一人に語り掛ける。
「あそこは俺たちの職場だしな」
「そうそう、無くなっちまったら困る」
もう一人も誰ともなく呟く。
「大きな買い物はいつもあそこで済ませてるしなあ…」
双眼鏡の男もそのときだけは任務を怠り、振り向かせた真面目な顔を無言で、誰かの意見に、あるいは全員に対して幾度も倒したが、弾みでふと視線が前方に向いたときに息を呑むように停止した。狼狽で震える彼の瞳には、激しく歯を軋ませている少年が小さく映っていた。
「君たちは何がやりたいんだ…」
少年は歯と歯との境から心底呆れ返って怒り狂った声を漏れ出させると、
「建物なんてまたいくらでも造れる! そうすれば誰も捕まらずに済んだしこうして人質を救い出す作戦を練る必要もなかった! こんなところで奴らが食べ物を狩りに行くのを見張っている必要もなかった! 違うか!」
六人の男たちを見回しながら声の限りに怒鳴りまくった。
「象徴? 職場? 買い物? そんなものが何になるんだ! 人の命よりも大切なものがこの世にあるのか!」
見た目を遥かに凌駕する少年の迫力のためか、その主張に目を覚ましたためかはわからないが、男たちは黙り込み、気圧された顔をうつむかせたり逸らしたりした。
「自分勝手もいい加減にしろ」
最後に一言吐き捨て、男たちを小さく身じろがせてから、少年は乱れた呼吸を整える。次第に落ち着いてきて、元通りに平静を取り戻した。
「まあ、動物たちを甘く見てたのは僕の失態だ。それは謝るよ。だけど彼らがそんな知能を持ってるなんて、僕にはどうしても思えなかったんだ」
「案外誰かが協力してたりしてね」
それまで口を利かなかった双眼鏡が唐突に漏らし、部屋は乾いた笑いに包まれる。緊張感の中にあっても、人間はどこかで息抜きを必要とするものだ。
しかし彼らの輪には加わらず、少年は腕組みして項垂れていた。誰かの協力というフレーズを受けて、じっと思案に暮れているように。
その姿に気がつくや男たちは次第に声を潜めていき、一人がまさかというように身を乗り出して聞いてきた。
「心当たりでもあるのか」
少年は顔を上げて、小刻みに頷いた。
「ちょっとね」
そしてすぐに、互いを見合わせ始めた男たちに微笑みかけてやった。
「でもあいつはそこまで賢くないから、その心配はないさ」
そう言われたところで湧き出てきた靄が完全に澄み切るわけではない。男たちは安心と不安が半分ずつ入り混じった複雑な顔色で、立っていた男はようやくソファーに座り、残りは背中を埋めて足を投げ出したりするという具合に、せめて肉体だけでも楽な姿勢を取り戻す。双眼鏡の男は一人任務を再開し、そこで叫んだ。
「橋の上に誰かいる」
ほんの少しの間を置いて、残りと少年が一斉に駆け寄った。
揃ってブラインドの隙間を指で広げたり目を細めたりするがそれだけでは対象をその目で捉えるのには足りず、ブラインドを開けようとするが互いが邪魔になってうまくいかない上に、開閉の仕方を完璧に把握している者が半分もおらず、下から持ち上げて開こうとしたり真ん中から上下に開けようとしたりする者が二人、残りは輪になっている紐のどちらかを引けばいいということはわかっているものの、それが右か左かでは確証が持てないためにそれぞれを引っ張り合うのでがしゃがしゃ言うだけで結局開く気配がない。
それでも人数分のやきもきした手付きによって何とか上がったり下がったりと滞りながらブラインドが開くと、もはやここまで来るとわざとやってるみたいな似たやり取りで鍵のかかった窓を無理に開けようとしたり間違って閉めようとしていたりようやく一人が鍵を開けたら別の一人が誤って閉めてしまうなどして、ついには窓も開いた。
当人たちは右往左往していたがそれでも短い時間の間になされたことだ。対象は双眼鏡に発見されてからまだ居場所を変えていなかった。顔立ちや表情までは窺えないが、確かに人らしい何かが、橋の欄干に肘をついて佇んでいる。
「人間か?」
一人の問い掛けに、双眼鏡の男が答える。
「違うと思う…頭に耳が生えてるから…」
「耳?」
「何か…ウサギみたいな」
別の一人が双眼鏡を奪って覗き込む。
「何だありゃ? タバコ吸ってるぞあいつ」
「タバコ?」
「ああ――何吸ってんだろ」
「とにかく人間でないことだけは確かだ。それで十分」
少年の声が後ろからした。振り返った男たちは悲鳴を上げたり言葉を失ったりなどの差はあれど、例外なくのけぞり、思わず全員が窓から落ちそうになった。
少年は、開け放たれた窓からの日差しで銀色に鈍く光る、自分の背丈の半分も長いバズーカ砲を手にしていて、その巨大な砲身に砲弾を装填しているところだった。
「これではっきりしたね。さしずめあれが動物たちの頭脳ってところだろう。すぐに始末しよう」
「お前、どこにそんなもん隠してたんだ」
全員が抱いていた疑問を一人が口走った。もっともなことだ。これまで少年はずっと手ぶらでいたし、そうでなくてもこれだけのものをこんな幼い男の子が所有していることが、あまりにも異常だ。それを手慣れた手付きで操っていることもまた。
「まあいいじゃないか」
少年は質問を軽く受け流し、砲弾の分だけ重くなったバズーカ砲を軽々と肩に担ぎながら、窓辺に歩み寄る。
仔細な威力までは誰一人として想像がつかないものの、ひとたび撃ち込まれれば生存が困難だということは漠然とだが全員が悟れた。男たちは冷淡な砲口の視線から逃げるように、慌てふためきながら左右に分かれて少年の後ろのさらに向こうに駆けていき、部屋の外にまで飛び出した。
「だけど…あんな奴が他にもいたとはね…」
窓にたどり着いた少年は、自分にしか聞こえない声で呟くと、橋の上の、ウサギの耳を生やしたヒトというような奇妙な生き物に照準を合わせ、ゆっくり引き金に指を添えて、ぱたぱたぱたという音で反射的に顔を上げた。
一匹のハトがこの建物の屋上の柵の外の辺りを飛んでいた。向こうは一瞬早くこちらに気付いたところらしく、まだ状況を把握し切れていない様子だった。しかし視線は衝突していた。まるで、この間の再現のように。
少年は歯軋りし、照準をハトに切り替えた。ハトは目を剥いて真下に逃げた。
戦争映画でしか聞いたことのないような、空気を鳴動させる分厚い轟音が響いた。
純平が驚いて音のほうに目線を上げると、橋の向こうにある古ぼけたビルの窓の一つから、かすかに煙を吹く砲身が空に向かって突き出ているのがはっきり見て取れた。
ほぼ同時に何かが猛然と視界の左の外れから侵入してきて、焦点に合うように右に傾きつつこちらへ近づいてくる。それをポポだと、ポポが羽ばたいてきているのだとわかったときには、すでにポポは悲鳴のような叫び声を上げてデパートのほうへ旋回して視界から消えていた。
「逃げるんだ純平!」
彼方で、ここからでもその大きさがわかるほどの砲口が、こちらを睨んだ。純平は踵を返してデパートへと駆け出した。
同時に、砲弾はそれだけで爆音のような轟音とともに発射された。七階の高さから鋭角に、空気という、あって無いような障害物を貫きながら滑降し、秒を数えるかどうかというところで着弾、炸裂する。
瞬間、世界の全体を隈なく揺るがすかのような爆音と爆風がそこから立ち昇る。辺り一帯の建物の窓という窓は痙攣し、等間隔で道端に立ち並んだ街路樹は着弾点を中心とした半球状の衝撃波に無抵抗に円の外に向かって撓り軋み、枝葉は無数の同胞とともに音をもぎ取られ、圧力に耐えられない微小な物体は存在価値を認められなかった如く薙ぎ倒され吹き飛ばされる。
ポポもその一つだった。強大な音の渦中で当の本人にも聞こえない叫び声を声の限りに発しながら、枝葉や塵に混じってそれらと同じように自由を奪われ、全身がバラバラにちぎれるようなアクロバティックで複雑な回転で宙を舞い上がっていくのだった。
動きは次第に緩やかになってやがて止まる。人相が変わるほどに堅くつむっていた目を恐る恐る開くと、視界の中心より少し離れたところにカラフルな光沢の丸っこい箱があった。屋上遊園の観覧車のゴンドラの一つだとわかった。辺りにある建造物の中で最も高い位置にあるものだということはとっくに把握している。
全身の自由が利いた。頭を上にし足を下にして改めて体を見回す。喪失したことをわずかに体感できる異変と周りに漂う裏付けから、羽根が幾つか奪われたぐらいで何事もないことを確認すると、安堵するのもほどほどにくちばしを真下に向けて翼を翻させた。
絶望した。白煙がデパートの半分ぐらいの高さまで昇り詰め、そこでようやく大気に溶けて薄く消散していたのだ。そこより下は雲が降りてきたかのように何も見えない。すでに爆音は遠く旅立ち、爆裂直後から爆音を脇で彩っていたものの、実際には誰の耳にも届かなかった重い水音が、今その姿を消した主役の代わりに遥か下の白煙の奥で気だるそうに響き続けている。
それらの元が橋だったことは想像に足りる。絶望の原因もそこにある。しかしその先にある純平の無事な姿を願いまた確かめるために、翼を閉じて体を縮めて白い暗闇に飛び込んだ。
集団になって浮遊する細かい粒子を突破していき、体当たりで分散させられたのを逆手とした、鼻孔に侵入して粘膜にへばり付く陰険な復讐に耐え忍び、目標が眼球になってもいいように目を閉じて落下を続ける。黒い暗闇は明度がない分、視覚からの情報は完全に遮断される。
それでも偵察隊隊長としての矜持、この壮大な戦いの勝利への執念、何よりケモノとしての感覚が、絶妙の頃合でポポにその身を反転させる。一対の足が橋の袂に着地した。
目を見開く。建物の入り口が白くぼやけていた。音源に近づいたために水音は背後から一際大きく響いており、結局はそれに阻まれてしまう叫び声で呼び掛けながら、建物の中を覗き込み、左右を見渡す。返事はなく、人影もない。悔しげに振り返り、途切れのない濃い白煙を祈るように見つめてまた一度だけ叫んだ。やはり返事も人影もなく、気配すらも白く覆い隠されているようだった。
実際にはポポが感じていたほど長くない時間が過ぎた。白煙は段々と希薄になって、そのまま跡形もなく空気と同化し、晴れ渡った視界が帰ってくる。
そこにあったのは中央で真っ二つに破壊された橋だった。川に架かっているのは両方の袂から元の四分の一ほどの長さがほぼ均等に半分ずつ伸びている部分のみだ。ぐしゃぐしゃに抉られたそれらの両端からは、焦げ付いたりひん曲がったりした細長い鉄筋が剥き出しになり、数え切れないほどのコンクリートの欠片がなおも次から次へと崩落して、川の水面に喧騒を与えていた。
やがて辺りが静まった頃、向こう岸で、辛うじてぶら下がっていた大きな欠片が力尽きた。か細い黒煙を昇らせ左右に斜めに折れ曲がっている二本の鉄筋の間から川の流れにこぼれ落ちたそれは、重厚な水音と地面には届かない水飛沫を上げ、それを最後に辺りにようやく静寂が戻ってきた。
「純平!」
ポポの声は何にも邪魔されずにやっと響いた。返事はない。
少年は無邪気な歓声とともに大きく拳を突き上げると、それを窓の外に三回繰り出して、その都度短いが威勢のいい掛け声を連発した。
二回に渡る砲撃によって、屋外だけではなく室内をも震撼させた張本人が歓喜に沸く姿は、味方とはいえその幼い容姿とのギャップも手伝い、遠くから背中を眺めているだけでも珍奇で、大人たちには恐怖すら抱かせる。喜ぶ理由は一つしかないのだ。
「命中…したのか…」
恐々と尋ねる一人の男の声を聞きつけると、少年はバズーカ砲を下ろして振り返り、歩き出した。照れ臭い秘密がばれてしまったような、少しバツの悪い笑顔が左右に振れる。
「あと一歩のところで逃げられたから、木っ端微塵にはできなかった。でも川に落ちたから良しとしよう。あの川は見た目以上に流れが急だし、おまけにこの寒さだ。浮かび上がれずに溺れて死ぬさ」
少年はドアをくぐり、男たちは慌てて道を空ける。
「ハトに見つかったからここも危ない。作戦会議の続きは本部でやろう」
早くも引き締まった顔立ちで足早にそばを通り過ぎていった少年の後に、男たちは生気の失せた顔を見合わせてから、仕方なさそうに着いていった。
階段に差し掛かる突き当たりを折れたところで、男たちは降下していく少年の異変に気付き、先頭にいた男が再び総意を口にした。
「どこにしまったんだよ」
「まあいいじゃない。細かいことは気にしない」
笑って受け流す少年の手には、たった今あったはずのバズーカ砲が消えていた。
細かくなんかないだろうという感慨を誰もが覚えたが、指摘する気力はそのうちの誰か一人にすら浮かんでこなかった。
騒動の音響や震動を直接聞きつけた、あるいはポポの報告によって大事を知った、人質の見張りを続行する最少人数を除く動物たちが建物から飛び出して、傷跡を残している分だけ惨たらしさの増加している破壊された橋の袂までやってくるのに、さしたる時間は必要ない。前者の中にはサラとタクローとロロがいて、後者の中には色めく見張りを留めさせた大将がポポを伴っていた。
全力疾走だったサラは入り口の内側まで到達したところで見えない壁にぶつかったみたいに両足の筋肉が弛緩し、開放されたままの自動ドアを惰性でまたいだところでくずおれた。
その体が膝が地面に落下する寸前を後ろから抱き止めたタクローは邪魔にならないようにサラを傍らに運んでおき、ロロはタクローの肩から包帯の巻かれた翼を刺激しないようにそっと降り立ってからサラの隣に寄り添ってやる。
そばを駆け抜けた大将は橋の近くまでは寄らずに、傍らのポポに案内を命じてタクローを初めとする目ぼしい数人を引き連れ、反対の橋から純平を砲撃した人間がいたという雑居ビルの一室に押し入り、すでにもぬけの殻となっていることを知るや、純平の行方を探すために壊れた橋まで戻ってきて、集まってきた仲間たちに手際よく指示を与えた。
それからの時間は、怠惰に無為に経過していく。その様はまるで動物たちを悶えさせることを愉楽としてさえいるようだった。
焦燥や不安や憎悪といった感情の交錯が繰り広げられている大地と、それを露ほども反映させない楚々とした青空の狭間では、ポポを初めとした無数のハトやスズメやカラス、そして原色の模様を持つトリたちだけでなく、受け持ちである夜間の役目のために休息を取っていたところを叩き起こされたフクロウやミミズクまでもが、時間の陰険な目論見を辛うじて堪え、あるいは耐えかねて、見えない純平への呼び掛けを口にしながら乱舞していた。その数は下流のほうに進めば進むほど多くなっている。
しかし偵察隊が総動員で事に当たっても、報告は全て申し訳なさそうに行われ、大将はそれを受けて任務の続行を命令し、再びトリたちは色彩を青から赤へと変えつつある空へと飛び立っていく。
大将はいち早くその目で純平を認めることができるようにと、ふとした加減で体ごと傾いてしまい、たてがみを重たげに洗う微風のさざめきで小刻みにその長さを減らしていく、今にも足元ごとひび割れ崩れ落ちかねない橋の先端に、恐れることなく佇んでいた。
その後方ではサラが自動ドアにもたれて膝を抱くように座り、額を膝頭にくっつけてからは、ただの一度もその顔を上げず、偵察隊の帰還のたびに耳だけが跳ね起き、すぐに萎れた。
サラの隣にそっと寄り添い、心配そうに見上げているロロは、それと同じ回数だけ、期待と落胆を交互に味わった。
周りの動物たちは純平の身を案じる一方で、捜索に適していない自身の特徴を恨めしく思いながら、足早な徘徊という代償にもならない行為を無意味に繰り返していた。
冬の夜は早い。半日しか経っていないが、辺りはもう宵闇に包まれつつある。
川の向こうで街灯がぽつりぽつりと灯るようになってから、大将は戻ってくる偵察隊一人一人にねぎらいの言葉をかけて、彼らを任務から解いていた。誰もが意外そうな驚愕を見せたり無力を自責したり全てを通り越した無情な諦念を露にしたりしたが、大将とて同じことだ。
そうしてポポを殿に全てのトリたちが帰ってきた頃、袂近くから下流をじっと眺めていた動物たちがにわかに色めき立った。大将がふと見遣ると、逆流してくる大きめの塊があった。
これが最後の望みだと誰もが思い、さざなみのように湧き立つ歓声に反応してそっちを向いたサラの耳は、見るまでもなく結果を聞きつけて、力なく元の位置に戻っていく。それを見届けるとロロはうつむき、ちょうど頭上に戻ってきたばかりのポポは表情に沈鬱をよぎらせ、サラの頭を翼で撫でてやった。
やがて塊は橋の残骸のすぐそばで止まり、川面から浮き上がってきた正体はタクローで、一人きりだった。
動物たちのため息と無念そうな視線を濡れそぼった白い背中に浴びながら、タクローは幾何学模様の凹凸でごつごつした斜面を這い上がり、頑丈な金網の柵をよじ登って、その一番上から建物のほうへと飛び降りた。
水滴がぼたぼたと落ちてタクローの周りが水溜りになり、体を左右に振って毛皮がたっぷり吸い込んだ水を撒き散らすと、水でできたいびつな円はその面積を増していく。
タクローは乾いた体を円の外へ踏み出し、前に大将が待ち構えているのに気がつくと、首を振りながら項垂れて呟いた。
「純平はどこにも見当たらない…」
「ご苦労だった。ゆっくり休め」
半日間全く変わらない報告を受けると、大将は偵察隊にかけたのと同じ言葉でタクローをねぎらって、サラの元へ歩み寄った。
沈みつつある夕陽に照らされていたサラの体は、植物のように小さくなっていた。大将の影にすっぽり覆われてしまうほどだ。
「捜索は打ち切りだ」
サラは力なく頷いて、ゆっくり頭を上げる。いっぱい泣いて、腫れぼったくむくんだ顔には、今は少しだけ微笑が浮かんでいた。
「また明日やるんでしょう…?」
大将は首を振った。
見る見るうちにサラの表情が強張るが、大将は動じることなく言葉を継ぐ。
「純平は死んだ。これからはお前が作戦を考え、俺たちに指示を」
「イヤ!」
サラは絶叫とともに立ち上がってポポを吹っ飛ばした。後ろに倒れて頭からガラスにぶち当たったポポが呻くのにも、慌ててロロがそこへ駆け寄るのにも気付かない。
「純平は生きてる! 絶対生きてる! もっとちゃんと探してよ!」
そして大将を見下ろして怒鳴りつけると、返事も待たずそれを望んでもおらずタクローの元へ駆け寄った。
タクローはすまなさそうに顔を逸らしたが、サラは普通のヒトよりは優れた跳躍力でその頭を下に引っ張って目線を合わさせる。
「見当たらなかっただけでしょう?」
「海まで流されたのかもしれない…」
タクローは頭ごと目線を逸らし、サラはもう一度目線を合わさせる。不自然に曲がったタクローの首からごきりと妙な音が出た。
「見落としてるだけかもしれないでしょう?」
純平のこととは別のことも手伝い、タクローの表情には隠しようのない苦悶が浮かんでいた。
「だとしても…この川は見た目以上に流れが急だ…おまけにこの寒さじゃ…もし今頃見つかったって…」
「見つかったって、何よ! 純平は死んだりなんかしないもの! ねえ答えてよ!」
ヒステリックに詰るサラに対し、首が機械のような音で軋み始め、元より蒼白になったタクローは答える術を持たない。
「純平のことは諦めろ」
大将が一言宣告し、近付いてくる。サラは手を離し、タクローは気道を奪還して息を吹き返した。
「これからは、お前が一人で作戦を考えるんだ」
そばにたどり着くなり大将にそう続けられ、サラは少し黙り込んだが、すぐに気丈な表情を顔面に覆って頷いた。
「それじゃ、みんなに作戦を出すね。用意はいい?」
言いながら、注意深く動物たちを見回す。
大将は小声でよしと返事して身構えて、ポポはサラの頭に戻るのを途中で止めて地面に降り立って、ロロは急いでポポのところまで駆け寄ってきて、タクローは変な形で曲がったままの首をようやく戻し終えたところでというように、全ての動物たちが、それぞれ固唾を呑んでサラを見つめ、新たな指示を待ち構える。
サラは大きく息を吸い込み、反らせた胸を膨らませてから、おもむろに言い放った。
「今すぐ純平を探して」
「いい加減にしろ!」
咆哮のような叫びにサラの耳は伏し尻尾は逆立った。しかし大将はこの半日で鬱積した苛立ちの全てをぶつけるかのように留まらない。
「純平は死んだ! 人間どもに殺されたのだ! 死人の捜索など時間の無駄だ! もう一度言うぞ。今すぐ作戦を考えろ! 俺たちに指示を出せ!」
大将の怒号の数だけ文字通り震え上がったサラの肉体は、それが終わったところでようやく休息を許される。次第に耳は起きていき、尻尾は腰の下に垂れていく。しかしサラ自身はその尻尾の動きに引っ張られるように、地面に膝を折ってへたり込んだ。
「純平は絶対生きてるよ…」
そこでサラは両手を顔にやる。軽く握った拳の甲でしきりに目元をごしごしやるが、拭い切れない涙は絶えなくサラの腕から肘を伝い足元を濡らしていく。
「生きててくれなきゃ困るもん…」
その声はわななきを帯びた涙声で、後に続く嗚咽だけが、静寂が場を包み込むのを妨げた。そしてそれは同時に、周りの悲嘆を増すことにのみ役に立つ。
程なくして、いたたまれなく胸を締め付けられる動物たちの間からも、かすかに鼻をすする音が昇ってくる頃、意を決したような声が中途半端な沈黙を破壊した。
「いくらなんでも言い過ぎだ」
ポポだ。
ポポは文句ありげに振り向いた大将の上を羽ばたいて、驚いた様子のサラの頭の上に着地すると、さっきとは違う意味合いを込めて翼で撫でてやった。
「心配しなくていいよ、純平は絶対に生きてる、必ず生きて戻ってくるよ」
「……うん」
サラは涙が散るのも構わず何度も何度も頷き、そのせいで体勢を崩させてうわっと転げ落とすことになってしまったポポを慌てて胸の前で受け止めると、照れっぽい笑みを見せてからそのまま胸に抱き締めた。
ちょうど一回転したところだったポポは驚きを残したままで垂直に首を伸ばす。そこには涙まみれの笑顔があり、何だか器用で複雑な表情がちょっとおかしかったのでくすりと笑ってしまった。それから顔を戻し、面白くなさそうに冷めた視線をなげうっている大将を熱のこもった瞳で見据え返した。
「死んでるかどうかなんて、まだわからないじゃないか。純平は仲間だろう。それにロロの命の恩人だ。それを諦めろだなんてひどいよ。それでも僕たちのリーダーなのか!」
「黙れい!」
最後に怒声をかましてやるも一声で何倍もの反撃になるほどの一喝を返され、ポポは一瞬前とは別人のようにすくみ上がってしまい、サラも再び縮み込んで、無意識のうちに耳が伏し尻尾は逆立った。しかし臨界を突破した大将の激怒はそれぐらいの屈服では収まらない。
「作戦を考え、指示を出さなければ、何にもならんだろうが! 生きていようが死んでいようが、この場にいなければ同じことだ! お前たちはなぜそんな簡単なことがわからんのだ! どいつもこいつも目先だけで物を言いやがって…くだらんことばかり言うな!」
終始荒い声での熱弁が終演しても、ポポは固く目を閉じて体積を小さくしたまま凍結してしまっていた。今や立場が逆転して、サラが暖めるように、その全身を優しく擦ってやっているぐらいだ。
「明日までに純平が帰ってこなければ、純平は死んだものとみなす。いいか、サラ。そのときはお前が指示を出すんだぞ」
サラは名が出たところだけぴくりと上目を送ったが、すぐに真下に逸らして続きを聞き、何の返答も反応もしなかった。
大将はしばらくの間サラを見つめていたものの、結局それらを待たずして、たった一人で建物の中へ戻っていった。
「明日までか…どうしたらいいかなあ…」
ロロが誰に問いかけるでもなく言った。
「探したいのはやまやまだが…こんなに真っ暗じゃ探しようもない…」
今にも消え入りそうにタクローが答えた。
二人のやり取りはそのまま動物たちの疑問と結論だったから、それ以上は誰も何も言うことができない。
そのことをわかっていたサラも同じように無力に押し潰され、口を閉ざしているしかなく、そのためにだんだんと力が抜けていたらしい。
サラの腕から這い出たポポは、地面に降り立たず、颯爽と羽ばたき、サラの頭上をも越えたところで、自分を見上げた一同を悠然と見下ろした。
「行ってくるよ」
「ポポ」
思わず呼び掛けたタクローと同様、示し合わせたみたいに全員の顔の上に驚きが訪れる。ポポは一番近いところにあるその表情の所有者でもあるタクローに笑いかけた。
「僕は偵察隊の隊長だよ? 僕がやらなきゃ誰がやるの?」
「あてはあるのか?」
「そんなものないけど、ここでこうしていてもしょうがない。みんなは休んでて」
「私も手伝う」
「ロロ」
今度は全員がびっくりして足元を見下ろした。
ロロはくちばしを器用に動かして包帯をほどき終わったところで、翼を前後させて久し振りの感覚を確かめながら一人ごちた。
「そうだよね、純平は私の命の恩人だもんね。今度は私が純平を助けてあげなきゃ」
そして力強く飛び立ったが、動物たちは気が気ではない。心配そうに顔を歪めたり身を寄せ合ったりして怪我人の軌道を恐々と揺れる目で追い、ついに緊張に耐え兼ねたタクローが声をかけた。
「大丈夫か? 無理すんなよ?」
「も、ぜーんぜん平気。痛くもかゆくもない。純平ってすごいわ」
言葉のとおり、ロロの航路は順調そのものだ。全速力で仲間たちの上空や四肢の合間を縦横無尽に飛び回り、しかも間断なく回転やひねりを加えているほどである。怪我をする前より活発なぐらいの姿には見守る動物たちも安心し、あるいはそれを通り越して傷跡を悪化させやしないかと心配になった。
やがてロロはポポの前で停止すると、ポポを見つめて一回頷いた。ポポもロロを見つめて頷き返す。そこに言葉はいらない。揃って空高くへと羽ばたく。
「待って」
そこで呼び止められた。
見下ろすと、いつの間にか立ち上がっていたサラが、今にもまた泣き出してしまいそうな顔の前で手を固く握り合わせて、じっとこちらを見上げているところだった。
「お願いね…」
「任しといて!」
「すぐ帰るからね」
消え入りそうなサラの声に、ロロはヒトが拳を握るようにすぼめた翼でどんと胸を叩き、ポポはサラの顔のところまで下降してから翼で両方の頬を挟んで優しく言った。
サラは少しだけ口元を緩めて頷いた。うつむいてから、その顔を戻したような、とても小さな動きだったが、それでも二人は手間を厭わない友愛を翼のはためきに変え、濃紺の空へと飛び立っていった。
無数の星と一つだけの半月が、さながら宝石の散りばめられた装飾のように浮かぶ、明るい闇夜だった。
川を見下ろして空を翔けるポポとロロは、ぼうっと光る街灯をいくつも見下ろして、純平がいないかと、どこかにウサギの耳が倒れていないかと、道端のその明かりが届く所にじっくり目を凝らしては、純平の名を呼んでいた。
どこに潜んでいるかもわからない人間たちに見つからないようにしながらの作業である。適当に叫んでいるわけではない。人間が絶対にいなくて純平のいそうな所に限って声をかけている。そして人間がいるかもしれないところには、危険を承知で死を覚悟して身を投じていき、誰もいないことを確かめて安堵しては、純平がいないことに落胆する、その繰り返しだった。
下流に沿って行なっていた捜索は、段々とそこから逸れて住宅街や商店街に移り、物は試しと、一度だけデパートの上空を上流に向かって飛んでいった。
その方角には二人にとっても生家と言うべき動物園がある。折れ曲がった鉄の檻や粉々に砕かれた樹脂製のケースを眺めながら、全てはここから始まったのだと再認識する。しかし蜂起したあの夜を思い起こすためには、それまでに乗り越えてきた苦難の時期を避けることはできない。
動物園の動物たちにとって、少し前までのこの時間は、人間たちの見世物として鬱積していた昼間の疲労とストレスを癒すための休息の一時である一方で、人間たちに邪魔されずに計画を練ることのできる貴重な瞬間の積み重ねでもあった。
檻やケースに監禁されることによってお互いの顔すら知り得ないために、面と向かって話し合うのが難しい彼らの意見や主張を伝達によって調整していたのは、ポポやロロを初めとする外界のトリたちだった。
彼らはその役目をこなすのと同時に人間の世界の知識を有するものとして、計画を実現させるための現実的な提案や、向こう見ずな戦術に対する諫言を行っては、コンセンサスを取り付けることに奔走した。夜が明けて開園となれば街の細部に渡ってまで念入りに調査することも怠らずに。
そうしてついに完成した計画はしかし、その瞬間から実行の時を待って身悶える退屈な日々の始まりとなってしまう。それは実に長期で、予定外の出来事の連続でもあった。
人間の手による町の変化によって計画の変更を余儀なくされたことがあった。
天候の不運に実行を見送る苦渋の日があった。
天命に逆らえず志半ばで倒れた仲間がいた。
来る日も来る日も計画と手順の確認では、次第次第に気持ちが弛緩し、一つの塊だったはずの意志に軋みが生まれていくのも無理はない。ついには切れてしまうものも少なくなく、その数だけ亀裂は増えた。
それでも心ある動物たちは激励を交わし合い、無気力の仲間を引き締め直し、ひびを埋めていく作業に骨折った。それらの直接の作業は伝達として空の広さを知るトリたちによって行われたのだ。
やがて長い年月を経て、全ての事物が計画に相応しい様相となった、まるで遥か昔から誂えられていたかのようなその日が訪れた。
檻を壊しケースを破り、曙光のような満月の光の下、この場にいられなかった仲間たちを鎮魂しこの場の一員として居合わせた自分たちを祝福するために鬨の声を上げたあの夜は、けして終わりではない。あれはようやく実現に向けて進み出した第一歩に過ぎない。それまでの敵なき戦いのほうが、今とは比べ物にならないほど過酷だったのだ。
戦場に至るまでの苦闘を偲ぶことは、二人の気持ちを一新させた。今では純平とサラという、想像だにしなかった新たな仲間によって、計画は大きな後押しとなっている。何としてでも純平を見つけ出さなければならない。
しかし現実は厳しかった。
上流の捜索は、当然といえば当然のことだが空振りに終わり、結局デパート上空を引き返していくことになった。かと言って調べ尽くした下流の周りに、今更になってかけがえのない仲間を見つけることもできなかった。
半ば途方に暮れ、認めたくはないが諦めるしかないのかもしれないと、ほとんど惰性で飛んでいたときだった。ロロがふっとひらめいたのだ。そうだ、その手があるじゃない。
ロロは、なぜ今まで気付かなかったのだろうと内心自分を詰った。ちゃんと落ち着いてればすぐにわかったはずなのに、私のバカ! その一方で気付いた自分を絶賛した。でも気がついただけマシよね、私って頭イイじゃん! そんなこんなで名案を持ち掛けたときには喜び勇んで口調も弾んでいたのだ。
「お兄ちゃん、あの子たちに手伝ってもらおうよ」
ある共通認識に成り立つ間柄では、それだけで十分に意図が伝わる。下流沿いの道を舐めるように見下ろしていたポポの視線は、ほんの少しの間だけ呆れたようにロロに向けられてから、すぐに捜索に戻された。
「手伝ってくれるはずないだろ」
「ええ? どうして?」
「ちゃんと考えてみろ。それから無駄話なんかしてないでしっかり探すんだ」
しかしロロはまだわかっていないらしい。下を見る代わりに不満そうにくちばしを突き出してポポの横顔を見つめている。兄から隊長になってしまったことも、何だか寂しいし、何より不満だ。もうちょっと優しくしてくれてもいいのに。
ロロの気持ちを感じ取ったのだろうか、それに応じるポポの視線は一層怒ったものになっていて、向けている時間も今度は長かった。
「いいか、ただでさえあいつらは人間寄りなんだぞ。その上僕らは約束まで破ってるんだ。たとえ純平を見つけてくれたとしても、その場で純平は殺される。純平は僕らの仲間なんだから、純平は人間の敵なんだから、純平は人間じゃないんだから」
「そっか…」
ようやくポポの言いたいことがわかって、ロロは項垂れるように目線を落とした。
「あの子たちは私たちと同じだけど…仲間じゃないんだもんね…」
「そういうことだ」
ロロはため息をついた。
「かわいそうなことしちゃったね…」
「ああ…だけどあれも純平の作戦だったし、あれ以上食べ物を減らすこともできなかった。僕は良かったと思う」
「そっか…」
そうは言ったものの、まだ踏ん切りがつかない。
他に方法はなかったろうかと考えようとしてみて、やめた。どんなに時間をかけても純平の知恵に勝ることはできないと思ったし、万が一いい案を思いついたところで、もはやどうしようもない。どちらにしても不毛なのだと気がついたのだ。
ロロは何とか自分を納得させるように、頑張って力強く頷き、気を取り直して大きく息を吸い込んだ。
「じゅんぺ」
「待った!」
ポポがロロに飛び付いて開きかけたくちばしを翼で覆った。
ロロは目をぱちぱちさせてポポを見遣る。
ポポは詰るようにロロをじっと見返してから、くちばしで足元をつついて促した。そこには橋の架けられた下流の一端があって、両側に住宅街の一区画が広がっているのだった。
ロロが従って見下ろしてみると、家々の中に一軒だけ、明かりの灯っているところがある。庭のある二階建ての一軒家で、カーテンが閉じられているが、それでもぼやけた光が窓辺に浮かんでおり、周りが真っ暗なだけによく目立っていた。
「あ…」
ロロの口から思わず声が漏れた。ポポは翼を離してやる。
「僕らが純平を探してるってこと、気付かれないようにしよう」
ポポはそう言って旋回し、ロロも後に続いた。
その家から随分離れたところで、二人はまた声を張り上げる。
窓辺に据えられた椅子の上に、一匹の三毛ネコが片方の前足を背もたれに置いて直立し、もう片方から伸ばした爪をカーテンに引っかけて器用にめくった。カーテンに遮られてからほのかな色彩で外にこぼれていた部屋の光は、遮蔽されなくなった面積の分だけを明瞭にして道路を照らす。
三毛ネコは窓に鼻をくっつけ、空を見上げる。染め抜かれた漆黒の中にあるものは、白や黄色の星の群れと卵色の半月だけで、他には何も見当たらない。声が聞こえたような気がしたのだが、どうやら、気がしただけだったみたいだ。
三毛ネコは爪を収める。自由になったカーテンがひとりでにふわりと窓を覆うのを尻目に、窓から離した顔を体ごと後ろに向けた。
そこには一台のシングルベッドが置いてある。洗いざらしの純白のシーツにふくよかな羽毛布団がかけられているその上には、黒のダッフルコートとニット帽を着込んで、頭にウサギの耳を生やした男が横たわっていた。
男の周りには雑種だったり血統だったり、長毛だったり短毛だったり、大型だったり小型だったりする、多種多様の毛並みと模様を持つイヌだったりネコだったりが、見えるだけで十数匹も群がっていて、イヌたちネコたちは男の全身に毛むくじゃらの体を密着させていて、剥き出しの首から上や手や指先に舌を這わせていたり、頭や顔を擦り付けたりしているところだった。
「まだ起きないの?」
「ああ、体は乾いたし」
三毛ネコの問い掛けに、男に頬擦りしていたアメリカンショートヘアーが途中まで答え、顔を上げてから続きを言い、
「体温も戻ったみたいだけどね」
「うむ。これなら溺れ死ぬ心配も凍え死ぬ心配もなさそうだ」
コートの裾から顔を出したブルドッグが自論を加えた。
三毛ネコは満足そうに頷く。
「それじゃあ私がやってみるから、みんなちょっとどいててくれる?」
その呼び掛けにたくさんの返事が戻ってきて、男の周りの十数匹のほか、コートの裾と袖から這い出てきたもう十数匹、合計三十前後のイヌとネコが、ぞろぞろとベッドから降りてその周りを囲んでいく。
同じように椅子から降りた三毛ネコは、一人彼らの流れに逆らってベッドに飛び乗った。羽毛布団に足を取られながら男のそばにやってくると、おもむろに腹の上によじ登る。たちまち地鳴りのような唸り声が男の口から漏れ出てきた。
「おいおい、そんなことするなよ」
「さっきまで溺れてたんだぞ」
「いいのいいの。あたしたちは毎朝こうしてるんだから」
三毛ネコはイヌたちネコたちの心配そうなどよめきを軽口であしらうと、不意に沈鬱な声になって呟いた。
「してた…って言うのかな」
そしておもむろに男に呼びかける。
「純平。起きなさい、純平」
純平は夢も見ないほど深い、しかし心地好い眠りの奥底に沈んでいた。
いつの頃からかは定かでないが、全身がふわふわした毛の感触に覆われていたのである。それは春先の陽だまりに寝そべり、自然が与えてくれる無限の愛情に包み込まれているような、暖かい気分の只中に浸らせてくれるものだった。
いつまでもこのままでいたいと思わせる、飽きることのない幸福感でいっぱいのところへ、突如ずっしりとした重たいものが腹の上に乗っかってきた。誇張ではなく重石を乗せられる拷問を受けたようなものだ。天国から地獄へ、寵愛から迫害へという急変である。
呼吸が一瞬止まりそうになり、瞬間、脳裏の浅いところを覆っていた鮮明な記憶が蘇生した。
少年の砲撃によって橋が瓦解、崩落し、コンクリートの瓦礫とともに川へと落下した純平は、大きな波紋を川面に立たせて水中へと沈んだ。
勢いこそついていたものの、長身のヒトでも足がつかないほどに深い川底にまでは到達しなかった。しかし厚く着込んだ衣服は紙か砂のように水を吸い込み純平を離さない。
純平は全力で手足をばたつかせた。だが服の隅々まで占領した水は暴力的な重量を帯びて緩慢にしか動かず、やっとのことで水上に顔を出した次の瞬間には中に引き戻される始末。
それでなくても体中の体液が氷結しそうな冷たさは、それだけで変幻自在の鎖となって服の上から自由と体温を奪い、口から入ってきたものは吐き出すこともできずに胃の底へ溜まり、内側からをも肉体を冷却させる。
程なくして、純平の意識は極寒と酸素の欠乏のため、糸が細く擦り切れてやがて断裂する具合に飛び飛びになっていき、あるときぶつりと途絶えた。あとわずかな時間そのままだったら、絶命していたところまで追い遣られたのである。
無我夢中で繰り広げた水との格闘を、そんな風に細部に渡ってまで記憶していたわけではない。
感覚として体にこびり付いているのは、足元が崩れて、水の中へ落ちて、とても冷たくて、大量の水を飲み込んでしまって、息ができずに苦しくて、いつしか気を失っていて、というぐらいの、全身で味わった死の予感だけだ。気を失っていたことはこれらの記憶がたった今までと繋がらないことを理由に今初めて悟れたぐらいだ。
今は、息はできる。口の周りに水もない。至るところに冷や汗が吹き出たがそれ以外に陽だまりの体温を奪うものもない。しかし苦しい。腹が重い。腹だけが重い。
顔をしかめて唸り始めたのにはそういう事情があったわけである。
純平。起きなさい、純平。
聞き覚えのある声が純平の耳に届いた。腹から胸にかけてを小さなものに押されているのもわかる。その小さなものの上のほうから、さらに小さいが鋭い突起が服を貫いて素肌にぷすぷす突き刺さり、むず痒い痛みがする。懐かしい感触。何だったのかは思い出せない。が、とても懐かしい。しかし腹が重い。
純平は、水の中ほどではないが、それでもそうでもしないと動かないほどの重みを感じたので、あらん限りの力を集結させて腕を持ち上げた。
やっとのことで腹の上の重石に手が届く。毛むくじゃらのケモノの感触がした。毛むくじゃらといっても指が覆われてしまうほどではない。短毛の感触。ネコだろうか。
純平、あたしの声忘れたの?
お前人間の言葉喋ってないだろう。
それもそうね。
聞き覚えのある声と、ない声。そしてもう一度聞き覚えのある声。とても大切なもののはず。しかしそれが何だったのか、まだ思い出すことができない。
みー。
その聞き覚えのある声は懐かしい響きで鳴いた。
みー。
野太く低い声。
みー。
ネコの鳴き声。
みー。
子供のときはこんな声ではなかった。
みー。
体が細かった頃は甲高い金切り声だった。
みー。
名前もそれに由来させた。
みー。
しかしいつしかぶくぶく太って低くなったのだ。
みー。
そうか腹に刺さるのは爪だ。
みー。
そういえば毎朝こうして起こされていたっけか。
みー。
ほんの何日か前のことなのに、
みー。
その何日があまりにも濃くて密だったから、
みー。
もう何十年も昔のことのような気がする。
みー。
純平はネコの体を撫でてやりながら、気だるそうに顔を振って呟いた。
「もうちょっと寝かせてくれよ、みーこ」
みーこ?
反射的に飛び出した自分の言葉にかすかに瞼が開く。視界の中央に、自分の腹の上に尻をつけている、短毛で尻尾の長い太った三毛ネコがいた。
純平と目が合った三毛ネコは、嬉しそうに表情を緩め、最後に一声だけ「みー」と鳴いた。
「みーこ」
改まって純平が呼び掛けた、そのときだ。待ち構えていたように歓声が上がり、びっくりした純平は完全に覚醒して目を見開く。
何事かと慌てて辺りを見回すと、まだ明瞭でない視覚にもそれは確認できた。自分の周りの膝の高さほど低くなったところで、合わせて何十匹ものイヌやネコが、尻尾を振り回したり顔を擦り合わせたりして、喜びを分かち合っているのだ。歓声はそこから今もなお体を用いる歓喜の合間に続いている。
「やっと起きたね」
みーこは腹から降りて顔のそばまで這っていき、愛しそうに鼻先に頭を擦り寄せ頬を舐める。
ちくちくするひげの感触とふさふさする毛の感触とざらざらする舌の感触を顔面のあちこちに受けながら、純平は複雑そうに呟いた。
「みーこも喋れるんだな…」
「動物が言葉を喋れないと思ってるのは人間だけよ」
純平は上半身を起こし、まず自分がベッドの上にいることを知った。首を動かして、場所が洋間であることもわかる。正面に白い塗装のドアがあり、右には壁、左には窓と革張りの椅子。どれ一つとして見覚えがない。ベッドの周りには、これも見覚えのないイヌやネコたちと、何だか見覚えのあるようなイヌやネコたちが、未だ表情に嬉々を湛えてこちらを見上げているものの、大人しく座っていた。
みーこがまだ足りないというように手に擦り寄ってきたので、純平は観察を中断し、みーこをまたぐらに移して尋ねた。
「ここはどこだ? お前は――いやお前らは何してるんだ」
「あたしたちはね、強いて言えばペット軍」
「ペット軍?」
「そう。円川町のペットたち。みんな人間に飼われてたペットたちなの」
もう一度周りを見てみると、見覚えのあるようなイヌやネコたちは、そういえばみんな診察したことのある、ちょっと時間があれば記憶の糸を手繰り寄せて名前を思い出してやれそうなものたちばかりだ。
「あたしたちは人間と違って動物たちの計画をずっと前から知ってたから――あっ、どうして教えなかった、なーんて言わないでよ? 動物園の動物たちが戦争を計画してるなんてこと、話したってどうせ信じてくれるはずがなかったんだから。それであたしたちみたいに人間に恩のあるペットたちは、いつかそのときがやってきても動物たちには協力しないようにしようって、その頃からずっと示し合わせてたの。動物園の動物たちが何代にも渡って計画を受け継いできたみたいに、私たちもね。それで今こうしてみんなで一緒にいるのよ」
そこまで言ってみーこは周りを見渡し、ある一点で止まってあごをしゃくった。
「ここはね、みんとのお家なの」
一般的にカタカナで表記されるその単語を、純平は頭の中でひらがなに変換し、覚えのある固有名詞にした。半年に一度健康診断に訪れる、物静かでおとなしいシェトランドシープドッグの姿が思い浮かぶ。示されたほうを見ると、黒と白と茶色のコントラストの美しい中型犬が、記憶より一回り大きくなった背格好で佇んでおり、気恥ずかしさと誇らしさの半分ずつ同居した顔をお辞儀するように傾けてきた。
「町は動物たちにほとんど荒らされちゃったけど、あの夜みんとの飼い主たちはお出かけしてたから、ここは無事だったの。それで結構広いお家だから、こうしてアジトに使わせてもらってるの。それより純平」
みーこは詰問するような目で向き直った。
「あんたはどうしてたの? どこ探しても見つかんないから、あたしてっきり死んじゃったんじゃないかって心配してたのよ? だいたい何よその格好。バニーガールのコスプレはもう終わったんでしょう?」
純平はみーこのあごが指し示すところに手をやって、もはやひとりでに頭皮に移植してしまったみたいに激流に耐え切った頑丈なウサギの耳を確かめた。友人の誕生日パーティーの余興でバニーガールになることは、そんなの通じているとは思っていなかったが、決まってしまった数週間前から愚痴をこぼし、衣装を買ってきた数日前から愚痴をこぼし、前日にも愚痴をこぼすことでみーこに伝えていたのである。
反射のような自動的な追憶に伴って回復してきた情けない気持ちに捕らわれたままであったが、純平は事の次第を話してやることにした。
あの夜、この格好に着替えてタバコを吸いにベランダに出たら、友人の悪ふざけで閉め出されてしまい、外から戻ってきたところで動物たちに襲われ、自分はこれをつけていたために人間でも動物でもないそういう生き物と勘違いされ、助けてやるという名目で連れて行かれ、サラと出会い、一旦は殺されかけたものの、動物たちに協力するフリをして生き延び、自分の身を守りつつ、それと同時に頃合を見計らって裏切ろうとしている、という具合のことを、それぞれ仔細に語った。特にサラのくだりは、人間の悪しき考えで造られた生物であることから綿密に話し、また反逆の具体案についても念入りに聞かせてやった。
始終難しい顔で黙って頷いていたみーこは、終盤で口を開いて促した。
「それで? どうして川で溺れてたの?」
「…よくわからない」
「というと?」
「………」
純平は額に手を当て、人相が変わるほど固く目を閉じた。
「橋の上にいたんだよ…そうしたら…向こうのビルからなんか…バズーカ砲っていうのかな? 大砲みたいなのをぶっ放されてさ…それで川に落ちたところまでは覚えてるんだが…」
みーこは不愉快そうに呟いた。
「瑠香ね」
「何が」
「純平、瑠香に殺されかけたのよ。そりゃそうよね。人間だと思われなかったんだから。あたしだってあんたの匂いとあんたの顔が純平じゃなかったら、きっと人間だと思わなかっただろうからね」
みーこは前足を上に伸ばして純平の顔を叩いた。肉球が鼻やあごや口元を叩き、ぺたぺたとかすかな音を立てる。
「瑠香ってのは何だ」
「何なんだろうね、あいつ」
みーこはどこに焦点を当てているのかわからない遠い目でため息をついた。それからしばらく黙っていた後で、忌々しく語り出した。
「人間たちの会議がまとまってないって話、知ってる?」
純平は頷く。
「それで俺も困ってるんだ」
「そうね、それさえ一つの方向性を作れば、こんな事態はとっとと解決するのにね」
話題が逸れかけたことに気付き、みーこは改まって続ける。
「それで、結局動物たちと戦うために立ち上がったのが、この町の人たちだけだったってわけ。それも知ってる?」
「何となくは、な」
「うん。それで町の人たちの集まりにどこからともなく現れてね、戦いに志願してきたの。この町の住民かどうかはわからないけど、今では町の人たちの先頭に立って、動物たちに戦いを挑んでるのよ」
「どんな奴だ」
「子供」
「子供?」
少し間を置いて、もう一度確認する「子供?」「子供」みーこは頷いた。
「子供だけど、これがとにかく強いのよ。色んな所から武器を出して攻撃してくる。あたしたちもこの間マシンガンで蹴散らされて、もうちょっとで死ぬところだった。あいつはペットだったかどうかなんて判断しないから、目に入る動物は全て殺そうとしてるのよ。あの体のどこにあんなにたくさんの武器を隠し持ってるのかしら。とても人間とは思えないわ」
腹立たしく愚痴るみーこをなだめるように撫でながら、純平は瑠香というその子供を思い描こうとした。しかしあの凶悪に口を開けた砲口の傍らにどんな顔があったかを思い出すことはできなかったし、全貌を思い起こすことなんてとてもできなかった。何よりマシンガンを乱射しバズーカ砲をぶっ放す子供というものが、想像力の枠を越えていた。何かの間違いではないのか。
そこで純平は根本的なことにふと気がついた。
「そういえばみーこ。俺、どうしてこんな所にいるんだ? どうやって川から出られたんだ」
みーこは、打って変わってニヤリと笑んだ。
「それはね」
「純平さんが起きたって?」
みーこが嬉しそうに説明しようとしたとき、向かいのドアを突き破る勢いで一匹のイヌが飛び込んできた。雑種の大型犬で、駱駝色の地に焦げ茶のぶちのある短毛の毛並み、毛羽立った茶色い尻尾は腰の上で反り返るように巻いていて、同じ色の楕円状の耳は顔の横に垂れていた。
イヌはベッドによじ登ると、恵まれた体格のためにそれだけで純平と対面できるので、あっという間もなく純平の胸板にぐいぐいと頭を押し付けた。忙しなく息を切らし、ちぎれて飛んでいきそうな具合に尻尾を振り回し、最上の歓喜を示している。
純平は軽く狼狽しながらイヌの頭をそっとどけ、正面からその顔を見ると、記憶の糸を手繰る間もなくすぐに笑顔を弾けさせた。
「リュウゾーか?」
「そうだよ純平さん…! よかった…覚えててくれたんだね…」
「バカヤロウ…」
痛々しいぐらいの喜びの呟きが伝染し、純平も感極まって鼻をすすった。それからリュウゾーの頭をぎゅっと抱き締めた。
「あんな大手術を一緒に戦ったんだ…忘れるもんかよ…」
リュウゾーも前足を純平の背中に回す。
「あの時はひどかったねえ…車に轢かれて、内臓が飛び出て、足がもげそうになって、僕はもう、ああ…これで死ぬんだなって…そう思ったよ」
「俺だって…もうこいつは助からないだろうなって思ったさ…思ったけどさ…見捨てるわけにもいかねえしさ…もうガムシャラだったぜ…? でもまあ必死でやった甲斐があったよ…よく頑張ったよお前…こうして生き延びたんだもんな…」
そこまで言って、純平はリュウゾーから離れた。
「どうしてリュウゾーがここにいるんだ?」
「そりゃあ僕もペットだから」
「それもそうか。まずいな、かなり頭がこんがらがってるな。大丈夫か俺」
純平は自嘲気味に笑んで、首を振り振りうつむいた。自分とリュウゾーに腹と背中を挟まれたままで、しかし窮屈そうでないばかりか嬉しそうにこっちを見上げているみーこと目が合う。
「リュウゾーが溺れてる純平を見つけて、助け出したんだよ」
「純平さんの匂いがしたからね。すぐに川に飛び込んですくい上げたんだ」
リュウゾーの下からみーこが、そしてみーこの上からリュウゾーが、自分がここにいる決定的な事由を口にした。純平はははあと頷くや、愛情と感謝を込めて一心にリュウゾーを撫でる。
「そうか…それはすまなかったなあ…」
「とんでもない。今度は僕が純平さんを助ける番だって、そう思っただけさ」
リュウゾーはそう言って力強く首を振ると、再び純平の胸に頭を押し付けた。あまりの強さと不意打ちのために純平は真後ろの窓枠に後頭部をしたたかにぶつけるのを止められない。「イテッ」
「死ぬ前にもう一度…もう一度だけでいいから絶対に会っておきたいって…そう思ってたんだ…よかった…本当によかった…これでもう何も思い残すことはないや…」
「何言ってんだよ…」
純平は笑みとも苦しみとも叱責とも取れる薄く歪めた表情を浮かべ、しばらくの間自分の頭と一緒にリュウゾーの頭を撫でていた。
「そろそろごはんの支度しなきゃね」
やがてみーこがそう言って、純平とリュウゾーの間から這い出ると、周りを見回しながらペットたちに告げた。
「純平の分もあるから急がなきゃ。みんな、キッチンに集まって」
しかしペットたちは先ほどの歓喜の熱度がどこに蒸発してしまったのか、元気がなく、何の反応もしないか、しても気の抜けた返事で応じるだけで、一同の中で随一の巨躯を持つゴールデンレトリバーが中腰になって前足で引いたドアから次々と出て行った。
「俺がやるよ」
「いいのいいの。これはあたしたちにしかできないから」
「お前らに飯作らせるなんて不安だ」
「余計な気使わないでいいの。純平はおとなしく休んでなさい」
みーこは二度起き上がろうとした純平を、ベッドの上で、それからベッドの下で制し、ドアを出た所で振り向いた。
「さ、リュウゾー」
リュウゾーは頷き、名残惜しそうに純平から離れ、ベッドから降りてドアに向かう。
みーこに続いてゴールデンレトリバーが滑るように外に出たので、閉じていくドアはリュウゾーの横っ腹に寄り掛かって留まった。
リュウゾーはそこで立ち止まり、「純平さん」と振り返った。
「純平さんが助けてくれたから、僕は今日まで生きることができた。本当にありがとう」
リュウゾーはお辞儀するように、一回だけ、しかし深々と頭を垂れた。そして顔を上げたとき、そこにはそれまでの喜色より控え目でありながら、不思議と輝きのようなものを放つ微笑が溢れんばかりに湛えられていた。
「さよなら。純平さん」
リュウゾーはそう言い残して、踵を返して外に出た。
ドアが閉まる。
さっきまであれだけ賑やかだったのに、部屋にたった一人だけになってしまった純平は、リュウゾーの姿と意味深な口振りのせいで、妙な寂寥感を覚えていた。まるでこのまま取り残されてしまったような、遠いどこかへ置き去りにされてしまったような――そんな気分だ。
純平はふっと笑い、一言だけ呟いた。
「大袈裟な奴だな」
寝不足と疲れが溜まっていたせいだろう。枕を整え、そこに頭を据えたところまでは記憶していたが、その続きは瞬時に途絶えた。
どうやら熟睡してしまっていたらしい。みーこに腹に乗られて前足で何回か胸を押されているうちにうなされながら目が覚めた。食事の支度ができたという。
部屋の外はリビングのようで、テレビやビデオやソファーが置いてあった。フローリングの床には毛足の短いくすんだ桃色のカーペットが敷かれており、料理を載せた幾つかの深い皿や平たい皿が、そこにほぼ円形に整列していた。
「どれでもいいよ」
みーこが純平を見上げて言った。他のペットたちは純平の向かいに集まっていて、純平が場所を選ぶのを待っているらしかった。
待たせておくのは悪いと思い、純平は何も考えずに一番近いところにあった深皿の前で膝を曲げ、途中で留まった。
ちょっとの揺れで縁からこぼれそうに満ちている皿の中身は、シチューかスープをさらに煮込んだモノといった感じで、毒々しいほど濃い茶色の水面から異様な匂いの湯気が出ているのである。食欲から来るものではない唾が口の中を満たした。変更を淡く望んで他を見回したが、どれも同じものだったので、覚悟を決めて腰を下ろした。
「じゃあ食べよう」
みーこは純平の隣の小さめの皿を占領し、ぴちゃぴちゃと舐め始めた。他の動物たちも皿の前に移動して口を突っ込んだ。小さな皿は一人で。大きな皿は二、三人でという感じである。しかし小さな皿か、二、三人で身を寄せ合って大きな皿にがっついているのはネコか小型犬だけで、大型犬は食べる量が多いからか、大きな皿を独り占めしており、小さな皿のところにいるイヌは一人もいない。そこで純平はおかしなことに気がついた。
「リュウゾーはどうした」
「ちょっと出かけてる」
ペットたちが一斉に純平に顔を向けたが、それより早くみーこが即答していた。純平は横顔に視線が集中しているのに気付いていないらしく、みーこを見下ろしている。
「あいつの分はあるのか」
「うん。だから気にしないで早く食べよっ」
純平は改めて目線を落とす。見た目と匂いと口に運ぶための器具が何もないことに躊躇を覚えたが、そうも言っていられないので恐る恐る皿に手を突っ込んだ。
警戒するほど熱くはない。動物が顔を突っ込めるのだからそりゃそうだ。皿の底に爪があたる。指先に触れたものを摘み上げる。茶色い汁を滴らせて現れた一口大の塊は、どうやら肉らしい。念入りに汁気を切ってから、口元に運び、息を吐き出したところで呼吸を止め、意を決して口の中に入れる。顔をしかめる。何度か噛み砕いてから飲み込む。食えないことはない。しかし。
「味が濃すぎる。こういうのはお前らには毒だから食べちゃ駄目だ」
「普段だったらやらないわ。今は純平がいるからいっぱい味付けしたのよ」
みーこが食べながら弁解する。
「塩とか砂糖とか醤油とか味噌とかソースとか。ケチャップとマヨネーズも入れたかな? とにかく生で食べさせるわけにはいかなかったの」
「今日だけにしておけよ」
「わかってる。早く食べちゃって」
「それにしても、よくお前ら火なんて使えたな」
「みんな人間が料理してるのしょっちゅう見てるからね。あたしはほとんど見たことないけど」
「それイヤミか? なあ、おい」
「真実」
「………」
「純平ができるのはタバコに火つけることだけ」
「お湯沸かせるじゃねえか」
「カップ麺のためにね。そんなの自慢にもならないでしょ」
「………」
「早く食べなさい」
「ところでこれ、何の肉だ」
「後で教えてあげる。いいから食べな」
「食ったことない感じだな」
「ったくもういちいちうっさいわね! 無駄話してないでとっとと食べなさいよ!」
みーこが皿から顔を離して怒鳴りつけ、純平は口をつぐんだ。みーこは狼狽と衝撃で震える瞳を二度と話しかけるなというようにじっと睨み付けてから、食事を再開した。
「…お前がそんなこと言う奴だとは思わなかったよ…クソッ…」
純平は胸が締め付けられ、力なくそれだけ言い返すと、釈然としない気持ちを押し込むように急ぎ足で料理を口に運んだ。経験したことはないが幼い娘に一緒に風呂に入ることを拒絶された父親の心境になった。なるほどな、互いの気持ちを伝え合うことができるというのはこういう弊害も生まれるわけだな、まったく。言葉が通じるというのは良いんだか悪いんだか――がちりという感触と音が奥歯に響いた。歯が折れたような不具合に妙な声が出て思わず顔をしかめる。
口の中に指を入れて摘み出したそれは、幸いにして歯ではなかった。小さな金属の何かだった。
「何だこれ?」
指先で何かを転がす純平の姿を見るなり、直前の剣幕は何だったのか、みーこは急に可愛らしい声を出した。
「何か入っちゃったんだね。ごめんごめん。あたしのと取り替えてあげるからそんなの捨てちゃいな」
純平はみーこの豹変を不気味に感じ、その次に呆れたが、それより何よりこの金属の正体のほうが気になったので呼び掛けを無視した。
「どこかで見たような気がする」
確かにそれには見覚えがある。仕事場だろうか。それ以外で見るようなものではなさそうだし。そうか、あれだ。
「ボルトだ」
付着した茶色い汁を取り除くより少し早く気がついた。汁が完全になくなったその銀のフォルムは、確かにそれだった。
「手術のときに使うんだよ。折れた骨をつなぎとめるのにな。そうかそうかボルト…」
謎が解けたことが嬉しくて、何度も頷いた純平は、そこで突如表情を一変させた。
自分がこれを使ったのはあの時。
車に轢かれたという瀕死の大型犬が運び込まれてきた時。
後ろ足の手術の際に骨に埋め込んだ時。
そしてその大型犬の名は。
「何の肉だ」
純平は顔を上げた。
「リュウゾーはどこだ!」
ペットたちは黙ってうつむいていて、それ以上皿の中のものに口をつけようとしなかった。
もっと早くからそうしていたのだろうと直感し、実際そのとおりだった。純平が口の中からそれだと知らずにボルトを取り出したときから、彼らの間だけに流れる時間は停止しており、刺すような睥睨が一人一人の頭上を執拗になぞっていっても、再び動き出そうとはしなかった。
問いただそうとする視線はやがてみーこのところまでたどり着いた。みーこは他のペットたちと異なって純平を見上げていたが、ため息とともにやはりうつむいた。
「ホントは黙ってたかったんだけどねえ…」
そしてはたと顔を上げ、純平を見据え返した。
「この肉はリュウゾーよ」
「………」
悪い冗談であってほしいというかすかな希望の込められた目線が、同じ軌道を逆行していく。
停滞から解放されたペットたちだが、誰もが純平の懇願を救済できない自己の無力を知っているため、ある者は依然うつむいたまま苦しみが通り過ぎていくのを祈るような気持ちで待ち、ある者は目が合ってしまう前に申し訳なさそうな顔を遠くへ投げ打ち、またある者は、それが自分の使命だと言わんばかりの決意を気色に滾らせて純平の眼差しを見返し首の動きを止めさせると、力強く頷いた。
寒くはないはずなのに、純平の体がにわかに震え出す。
「お前ら…」
そこまで言ったところで純平は項垂れ、両手で肩を抱いた。それでも体はきつく握り締める手のひらの下でぶるぶると激動する。
「お前らなあ…仲間殺して…その肉食って…俺に食わせて…一体どういうつもりなんだ!」
「あたしたちには食べる物がないのよ…!」
みーこは怒鳴り返したいのを必死で堪えて絞り出すと、少しの時間をかけてそんな自分を落ち着かせてから、おもむろに話し始めた。
「あの日、あたしたちはみんなで食べ物を持ち寄ってね。それを切り詰めて分け合って食べてきたんだけど、それもなくなっちゃってね。仕方ないから食糧の調達に行き始めたんだけど、大抵は瑠香なんかに見つかって殺されそうになるし、動物たちと鉢合わせすることもある。奪い合いになったら絶対に勝てない。いくら動物園で暮らしてたからって、ライオンやシロクマやトラやオオカミなんかに勝てるわけがない。当然よね、あたしたちはただのペットだもん。それでこの何日かは何も食べられないまま、ここで息を潜めてて、それでもずっと我慢してたけど、もう限界だったの。それで今日、リュウゾーをって、決めたのよ」
純平は改めてペットたちを見回した。誰も彼もみな浮かない顔でうつむいている中に、自分の隣で顔を洗っているみーこがいる。前足を片方持ち上げて、それを舐めてから目元にこすりつける様は、実は逆から始まったのではないかと思わせた。溢れ出る涙を拭ったものの、乾かす手段を持たないために、濡れそぼった毛皮を舌で拭き取っているように見えるのだ。
「お前はそれでいいのか…」
「いいわけないじゃない! でもどうしようもないでしょ! ここには食べ物がないんだから!」
涙声に近い声でみーこがわめき、純平は押し黙った。みーこは数回に渡る大きな深呼吸で気を鎮めると、また乱暴に顔を洗い出す。今は間違いなく目元を擦るところから始まった。
純平はふと、口に出すのもおぞましいほど不吉なことに気がついた。しかし気がついてしまった以上、その疑問の重みを黙って抱え込むことはとてもできそうになく、かと言って忘れてしまうこともできそうになかった。恐る恐る尋ねるしかなかった。
「じゃあ…リュウゾーの次は…」
「この中の誰かよ」
「………」
「あたしかもしれない」
「………」
「本当はね、人間に飼われてたとはいえ、同じ動物だからって、あっちの動物たちが食べ物を分けてくれるはずだったの」
純平は驚愕に戦慄し目を見開いた。
「そんなこと初めて聞いたぞ」
「だけどね、それがダメになっちゃったのよ」
「何でだよ!」
「捕まえた人間を養うからだって言ってた」
純平は一時言葉を失った。それから、独り言のように漏らした。
「そんなバカな…」
純平の変容の真意は、みーこにはわからない。知る由もない。
「あたしたちに食べ物を分ける余裕がなくなったのよ。そりゃあ、そんなもんをアテにするほうが間違ってるんだけどね」
「………」
唇を噛み締め、額に手をついた、そのときである。
「覚悟はできてますから」
穏やかな男の声に、純平はみーこと反対側の隣に目を向けた。そこでは一匹のシェトランドシープドッグが、みんとが、足元をまっすぐに見つめているのだった。みんとはその口調のまま続ける。
「この戦いは必ず人間が勝ちます。いつ、どんな形でかはわからないけれど、必ず人間が勝ちます。僕らは人間をよく知ってる。動物に滅ぼされるほど人間はヤワじゃない。自分勝手なところもいっぱいあるけど、それでもやるときはやるものです。でも」
そこでみんとは、いかにも真面目で温厚な性格が構成した素顔を覆う、抗いの表情を純平に向けた。そして言うのだった。
「そのときにご主人様が死んじゃってたら、意味がないんです」
「………」
「僕らはむしろ動物たちには感謝してるんです。捕まった人たちの中にご主人様がいるかもしれない、それが殺されずに済んだ上に、ごはんも食べさせてもらってる。このままなら誰も死なせずに済むんです。それだけで僕らはもう、何も望んでいないんです」
「そういうことよ」
みーこが鷹揚に頷いて続きを引き受けた。
「それに、みんなで飢え死にするよりは、誰か一人でも飼い主と再会できるほうがいいでしょう? これはそのための手段でもあるの。あたしたち一人一人の目的は生き残ることであり、全員の目的は一人でも多く生き残らせることなのよ」
純平は無言でうつむいた。みーこは首を伸ばして純平の皿を、ほとんど手のつけられていないその中身を視認する。
「だから純平、全部食べなさい」
「食えるわけないだろう」
「人間を助けたいんでしょ? だったら食べなさい。あんたが飢え死にしちゃったらどうするの?」
「それなら俺は何のためにリュウゾーを助けたんだ」
今度はみーこが返答に窮し、口を閉ざした。
「あんなに大変な手術して、丸三日、一睡もしないで、家にも帰らないで、お前にメシやるのも人に任せて、そこまでして看病してやって、それがこうして食うためなのか。そんなのリュウゾーに申し訳ないじゃないか…」
「純平が生きるためだった」
みーこは独り言のように呟き、純平を仰ぐ。
「そう考えてみたらどう?」
「……俺が……生きるため」
「そう。リュウゾーがいなかったら、今頃純平は溺れて死んじゃってたんだから」
「俺が生きるために…リュウゾーを助けた…」
「そう」
「そして…俺が殺した…」
「何変なこと言ってるのよ、純平は助けただけじゃない」
困ったように失笑するみーこに目もくれず、純平は明瞭に言った。
「お前らにまだ言ってないことがある」
一同が一斉に目を向けてくる。それらが放つ好奇にも似た純粋な疑問を感じ取ると、純平は三つの事柄を立て続けに言い放った。
「人間を殺すなと言ったのは俺だ。人質にするように言ったのは俺だ。食事を与えるように言ったのは俺だ」
途端に湧き起こった声のないざわめきを、純平は聴覚ではない感覚器官で受け止めた。
共食いを余儀なくされた事態の原因が約束を反故にした動物たちにあると思い込み、その不誠実を詰り憎むことで力の差がもたらす不条理な悲哀と苦痛をごくわずかでも希釈し、それによって辛うじて精神の均衡を保っていたペットたちは、純平の告白によってそれが誤解だったばかりか、悲劇の張本人がかねてより自分たちが助かってほしいと切望する人間の一員に入れ替わってしまったことに動揺しているのだ。
純平はそのことをよくわかっている。詰るにも詰れず憎むにも憎めない閉塞に包まれてしまい、非難の言動を紡げないこともわかっている。かえってそれが苦痛だった。声高に断罪するものが自分しかいない。誰も罰を与えてくれない。
「全部俺のせいだ、俺のせいでお前たちに食糧が行き渡らなくなったんだ、そのせいでリュウゾーが死んだ、俺が殺したんだよ、リュウゾーを殺したのは俺だ、何やってんだ俺は…!」
「でも…そのおかげで人質は飢え死にしないで済んだわけじゃない」
みーこの意見に声なき賛意が集った。純平への同情からではない。自分たちが死滅しても飼い主たちが生き残ればそれでいいという共通した目的を思い出したためだ。それは同時に純平への感謝の気持ちを一層強く認識させるものとなった。
やはり全てを感じ取った当の純平はしかし、驕慢になることもできず、さりとて誇大になることもできず、何も変われない。
「だがリュウゾーは死んだ!」
引っぱたくような音をさせて両手で顔を覆う。
「俺のせいだ…! 俺が殺したんだ…! 俺が…! 俺が…!」
そこで純平は狂った。首ががくがく前後左右に振り回され、言葉になっていない喚き声が不可思議な抑揚に乗って辺りに散らばり、触れるもの全てを掻きむしるように顔面を上下していた手が獲物を頭に変えていこうとして、帽子とウサギの耳に阻まれた。
正気を取り戻したように、動きと声がぴたりと止まる。純平は帽子とウサギの耳をゆっくり剥ぎ取ると、その手を力なく床に下ろし、拳を握り締めた。ウサギの耳は純平の手の中で、まるで苦しがるように震えながら曲がっていく。純平は手加減せずに完全に停止するまで力を緩めない、停止してもなお。
「自分で助けた奴をよお……自分で殺してよお……その上食ってよお……何やってんだよ俺はよお!」
「生きていくのよ」
震えの止まったウサギの耳が、すんでのところで息を吹き返して、拡がっていく純平の手の中の空間をさらに大きくしようとするように、元の形に戻ろうとしていく。みーこは純平の膝に擦り寄り、太ももの上に両前足を添えて、純平を仰いだ。
「純平、これだけはわかってね。これはリュウゾーが自分で選んだことなの。自分はあのとき死んでたはずだ、今日まで生き延びられただけで満足だ、だから自分を食べてくれって、そしてみんなは生きろって」
自分たちの前でそう告げたときのリュウゾーの顔をみーこは思い出し、その笑顔から気後れなく放たれた聖言のような言葉を、反芻するように繰り返していく。
「死ぬ前に命の恩人にも会えた、もう本当に思い残すことはない、そんな風にも言ってたわ…」
そしてリュウゾーは、無力に項垂れ不甲斐無さを自責するだけしかできない自分たちに、こう続けたのだ。
「リュウゾーはね…できるだけ悲しまないでくれって言ってたわ…自分を食べて…何としてでも生きていって…きっとご主人様を助けてあげてくれって……それがあたしたちに遺した、そう純平に伝えてくれって頼んだ、リュウゾーの最後の言葉よ…」
全てを語り尽くしたという風に、みーこはうつむいた。それからの時間は慌ただしく忙しなく、悲しんだり苦しんだりする余裕もなく過ぎたので、今ようやく滲み出すように哀悼が訪れたのだ。澄んだ静寂がみーこのところから、仲間たちへと広がっていき、そこで誰かが叫んだ。
「食えよ純平さん」
場を包み込もうとしていく静寂を、まだ終わりではないと破るためのような喝だった。
出所は純平の真向かいだった。つぶらな瞳を潤ませた一匹のチワワが、外見にはとてもそぐわないドスの効いた声色と口調で言ったのだ。チワワは仲間たち全員の驚きの視線の中心で、それらを感じていないみたいに堂々と饒舌に喋り出す。
「俺たちはあんたに賭けてるんだ、あんたが奴らの一員として立ち回ってるってことを知ってから、あんたがご主人様を助けてくれるって信じてるし、期待もしてるんだ。他に頼れる奴もいねぇんだ、あんたに飢え死にしてもらうわけにはいかねぇんだ!」
その隣のペルシャが続く。
「何だったら俺のも食ってくれ」
シベリアンハスキーが言う。
「私のも食べて」
ロシアンブルーが訴える。
「食べてあげないとリュウゾーが悲しむわ」
ゴールデンレトリバーが頷く。
「僕たちは我慢しますから」
その後はアメリカンショートヘアーとプードルとシャムとコリーとチンチラ、そしてその他の雑種のイヌたちネコたちが、決められた順序もなく思い思いに同じ意味合いの言葉を次から次へと連発していき、やがて誰から始まったのか、前足や頭を使って純平のほうに自分の皿を押し遣った。輪は少しだけ小さく狭くなる。
もう長い間ずっとうつむいている純平は、まっすぐ前に突き出した頭頂部にそれらを受け止めながら、何も答えず何も応じずにいた。眠りについて二度と目覚めなかった死者のそれのように静かに目を閉じたままの顔を見上げていたみーこが、混交した言葉の群が純平の反応を待つために収まったのを見計らって、一番最後に加えた。
「自分を責めちゃだめよ純平。そうしなきゃ人間を助けられなかったってことぐらいあたしたちだってわかってる。リュウゾーだってあたしたちだって誰も純平を責めてない。次に誰が死んだって誰も純平を責めやしない。だから純平は純平のやりたいようにやって。あたしたちは純平を信じてるから。必ず人間を救ってくれるって信じてるから」
みーこも純平から離れ、自分の皿を純平のほうへと頭で押した。
「だから生き延びて」
が、皿はちっとも動かなかった。力を入れ直したがぴくりともしない。四本の足でそれぞれ爪を出して踏ん張って、目一杯力を入れて前に出ようとしているのに、何だか押し返されている感じなのだ。
不審がった表情が持ち上がるか持ち上がらないかのうちに、迷いこそないが消え入りそうに静かな声が、さながら淡雪のように降り注いできた。
「俺は今朝、握り飯を一つ食ってる。そんなに飢えてない。お前らの分はお前らが食え」
みーこは、皿の向こうに純平の手が添えられているのを見た。見上げたその顔はいつの間にか、力なく目の開かれた死に顔という具合の、感情の抜け落ちたそれに変わっていた。
純平はみーこの皿を戻してやったところで、おもむろに帽子をかぶった。それから皿を胸の前に持ち上げて、残りを口に運んでいった。淀みの底には結構な量があった。尽きぬのではないかという錯覚すら抱いた。忘れるはずのない材料をふと間近に思い起こし何度となく生理的な具合の悪さが蘇った。その都度嘔気を覚えた。それは形となって喉元まで込み上げてきた。反射に似た欲望を必死に封じて必死に飲み下した。憤慨とか無力とか謝意とか悲嘆とか悔恨とか全ての負の感情の複雑な原子で造成された涙が視力を奪うほど貯水された。乱暴にあごを上下させるたびに無気力に開かれた目からそれらは飛散した。指をしゃぶった。汁を飲み干した。自分に遅れて食事を再開させたペットたちにならい皿の隅々にまで舌を伸ばした。一滴残さずリュウゾーを舐め取っていった。
やがて、すっかり涸渇した皿が、重い音で床に置かれる。後を追うようにペットたちが持ち上げた顔の下には、やはり洗い立てのようにシミ一つない皿、あるいは唾液で再び濡れるまで舐め続けられて薄い膜の張った皿が、整然と並ぶ。
項垂れ、後者のうちの一つを見下ろした格好で、みーこが呟いた。
「ごめんね…リュウゾー…」
もう一言。
「ありがとう…リュウゾー…」
ある土地に生まれてから他の地へ移住したことがないとはいえ、その間にただの一度も訪れたことのない場所というものがある。みんとの飼い主の家も純平にとってその一つだった。
そこが居住区だとわかっていても、気がついたら見知らぬ場所にいて、自宅でも何でもその地区のどこかへ行かないといけないとしたら、道順がわからなくて誰だって戸惑うものだ。
しかしこの町の住人の場合は、川にさえ出ればある程度の自分の居場所がわかるものである。言い方を変えれば、川までの道のりを知れば見知ったところへ確実に行けるということである。純平も例に漏れない。
純平がみんとから川に差し掛かるまでの最短の道のりを教わって外に出たときには、東の空がほのかに白み始めていた。ようやく自分が世話になっていた家が塀に囲まれた庭付き二階建ての一戸建てであることを知った。玄関の次がすぐに道路ではなく、そこまでに短い石畳が設けられ、終わりの両端には門柱がある。
何人分何種類何足もの靴の置かれた三和土で簡単な別れを告げて、ドアを開けて踏み出したが、供をするかのように、ペットたちが後を追ってくるのがわかった。まるでこのままどこまででも着いてくるような気さえして、純平の歩幅は彼らの重みで狭くなる。
「もうよしなよ」
一番後ろからみーこが言った。みーこは一人だけドアを背に一歩も動かず佇んでおり、口を尖らせて振り返った仲間たちに吐き捨てるように続け、
「そりゃ名残惜しいのはわかるけどさ」
「川まで行くだけだから」
「瑠香に見つかったらどうするの」
誰かの抗弁を一蹴した。そうしたら純平もみんなも殺されて人質も飼い主も殺されるかもしれないよという言外の注意を嗅ぎ取り、誰も何も言い返せない。
みーこと同じ危惧を抱き、門のところでそれを理由に見送りを固辞するつもりだった純平だが、寂しそうに項垂れるペットたちを見てしまうと、そのまま立ち去るのも心許無かった。
純平は手近の大型犬の頭に手を置いて膝を曲げ、その傍らの小猫のあごの下を指先でくすぐった。二人は尻尾を振ったり喉を鳴らしたりして、もっと多くの愛撫を求めて擦り寄ってくる。純平が律儀に応じてやるものだから、よっぽど人恋しかったのだろう残りのメンバーも純平を取り囲むように集まってくる。
純平は今にもまいったとこぼしそうな笑顔になって、一人一人を順番に相手してやることにした。大型犬には頬擦りをし、小型犬やネコは胸の前で抱擁してやり、最後にみーこがやってきた。
元来動物好きである。気に入らない相手がいたわけではないし、けしておざなりにしていたわけでもない。それでも家族がやってくると、それまでの誰にも見せなかった笑顔が弾けるのはどうしようもない。飼い主とはそういうものだ。
引っ張り込まんばかりに腕を伸ばすと、みーこは体を後ろに引いて前足を振った。
爪こそ出ていなかったが手の甲を叩かれた腕は無事のもう片方も連れて反射的に引っ込む。
みーこはたしなめる目付きで純平の困惑顔を見据え、問いただされるより早く語り出した。
「ここが正念場よ。とにかく今のまま人間を守ってて。正体をばらすようなことは絶対にしちゃだめよ? そんなことになったら純平が殺されかねないし、人質が殺されたっておかしくないんだからね」
「ああ…わかってる」
純平も神妙な顔を取り戻し、深く頷いた。
みーこの口元がぐにゃりと緩んだ。
訝る間もなく胸に飛び込んでこられ、ずり落ちないように慌てて抱き締めてやると、よじ登るように体を伸ばし喉をごろごろ鳴らしてきた。
合点がいった。いざというときは乱暴に吠えるが、普段は人懐っこい甘えん坊の温厚なネコだ。今周りを取り巻く状況は、まさにそのいざというときだから、ずっと気張って過ごしていたのだろう。ようやくこうして本音を出せるのだろう。純平は嬉しくて、そして申し訳ないという複雑な微笑を浮かべ、みーこの口から潰れた鳴き声がこぼれるところまで強く抱いてやった。
「絶対に生き延びてね…」
「ああ…」
しばらくしてからみーこが呟く。純平は頷いてみーこを降ろし、その頭に手を置いて左右に揺らす。
「必ずまた二人で暮らそうな」
「二人でいいの?」
んっ? と純平が止めた手を頭で持ち上げて、みーこは心からの憐憫の籠った視線をなげうった。
「いい年こいて、他に暮らすあてのある人、まだ見つかんないわけ?」
痛いところを突かれて口ごもり、絞り出すのが精一杯だった。
「…大きなお世話だ」
「そうやってバカの一つ覚えみたいに黒ばっか着てるからよ」
「うるせえな」
舌打ちしてみーこの頭を押し遣る。みーこは構わず続ける。
「家はあんな古いし」
「今探してんじゃねえか、ペット可の家」
「今っていつからよ、ずっとじゃない、んで見つかってないじゃない」
「こっちも忙しいんだ。毎日病院行かなきゃいけないし、当直だってあるし、これだと思ったら先越されてるし」
「じゃあもういっそ開業しちゃわない?」
眉間に皺を寄せて目を見開く純平などお構いなしにみーこは続ける。
「お家でもドーンと建ててさ、お嫁さん迎えるの。どう?」
「簡単に言いやがって…」
「だってそれが夢なんでしょ? ずっとそう言ってるじゃない。いいよそうしよう、これが全部解決したらお家を建てる、ねっ? 決まり! 頭金払ってローン組んで着工、二階建ての一軒家、一階が病院で二階が住居、それぐらい平気でしょ? 銀行からお金借りたっていいしさ。何だかんだで獣医って儲かるじゃない。隣町との境にいい土地があるのよ」
「…何でお前そんなに詳しいんだよ」
「みんとの飼い主不動産屋さん。カラム百貨店のそばの雑居ビルに事務所があるんだって」
見遣ると、みんとはこくりと頷いた。
「やることないから暇でね、この何日かでみんなの家族のことは何でも知っちゃった。もちろんあたしも話したよ」
嫌な予感がしたのと同時に、ペットたちが顔を逸らして小刻みに震えているのに気づき、予感の的中を悟った。顔は見えないが何色かの忍び笑いは十分届く。何故にこんなところで赤っ恥をかかなきゃならないんだ。アレもコレも暴露されたんじゃないか。
「何でそんなこと話すんだ」
「話されるようなことするのが悪いんじゃない」
悪びれずに答えると心底おかしそうに笑んで続ける。
「でもまあアレが一番傑作よね、いくら獣医だからって、好きな女の子の格好がヒョウが」
純平がみーこの頭を引っぱたいて先を封じた。
よろけるのを堪えてぎっと睨むや、みーこはその手目掛けて咬み付いた。
純平はもう片方の手でみーこの首根っこを引っぺがして仰向けにさせた。これで牙は届かない。
しかし体の柔らかいみーこは背中を反らし、首をつかむ手を引っ掻こうとする。
それを防ぐために純平は空いた手でみーこの腹を触ったり触るか触らないかのところをかすめたりし、そっちに注意を引き付けておかないといけない。とは言えあんまり触り過ぎると前足後ろ足を総動員させられてその手を引っ掻かれるし、触らなさ過ぎると背中を反らされもう片方の手を襲撃されるのでうまくやらないといけない。それができたためしもない。
今回もみーこは悪い病気にうなされたかそれをやり過ごすためのように死に物狂いでもがき、純平の作戦をことごとく先んじて首のほうの手と腹のほうの手の皮膚を確実に削っていく。
傍目からだとただの喧嘩だが、そこにあるのが憎悪か愛情かは、人間とともに在るペットたちには注釈をつけられているものを見るように容易に区別がつく。だから誰も割って入ったり口を挟んだりはせず、ああやって自分の飼い主とまた遊べることを二人に置き換えて、羨ましそうに、そして願いを込めて、眺めているのである。
やがてみーこが持ち前の柔らかさで体を反転させ、首をつまんでいる手に思い切り牙を突き立てた。こらえきれずに純平が手を放し、みーこは起き上がり様に後ろに飛び退いた。こうして少々派手なスキンシップは終了する。
自由を取り戻したみーこは気を静めるための毛繕いを開始し、純平は立ち上がって、血の滲んだ爪跡を一舐めした。
「じゃあな」
「ええ、任せたわよ」
両者は笑顔を交わし、純平は手を、みーこは毛繕いの前足を、それぞれ軽く上げた。
そして純平は背を向けて走り出し、ペットたちの声援と、静かにしなさいよ見つかるわよとそれを注意するみーこの控え目な怒号に、速度を上げる。すぐに迎えに来るからなと念じながら。
言われたとおりの道を抜けると川に出た。あとは上流に向かって折れていくだけだ。闇がうごめいているような深夜と違い、かすかに日の光を反射している流れと逆方向に進路を変える。
なんだかんだで一日いなかったわけである。指示を与えることのできない間に動物たちが勝手なことをしていて人質に危害が及んでいたらえらいことだ。一刻も早く戻らないと。
すでに全力疾走だった両足に鞭打ったところで、上空から自分を呼ぶ声を聞きつけて急停止した。薄暗い空を見上げて二つの物体を認めたが、目で追う間もなくそれらは足元に降り立ってきた。
街灯の光の中に明瞭に姿を現したのはポポとロロだった。
「良かった…生きてたんだね」
ロロはほっと笑顔になり、純平はペットたちと触れ合っていた名残か、獣医の顔になって眉をひそめた。
「怪我はいいのか?」
「私はもう全然平気」
ロロはそれをアピールするかのように、純平の目の前まで飛んでみせた。純平の中の獣医の血がとっさに両手をロロの足の下に差し出させた。バランスを崩して頭から落下する代わりに、ロロは優雅にそこに降り立つと、怒ったような笑ったような不思議な顔で詰ってくる。
「みんなでずーっと探してたんだよ?」
「……そう……なのか?」
「そうよ! 大変だったんだよ? お兄ちゃんなんて昨日から動きっぱなしだったんだからね!」
兄を気遣う妹の姿が頭をもたげ、ロロの表情にちょっとだけ怒りが濃くなった。純平は条件反射のように無感情に一言だけ詫びる。「悪かった…」
今更ながら純平は、自分が過ごしていたのと同じ時の流れを動物たちが共有していたことに気がついていた。当然のことだ。ペットたちや、世界の真裏に住んでいる顔も知らない人々だって、存在している全てのものは生物無生物の別なく時間の流れの中に在る。改めて言うまでもない。
ただその過ごし方はそれぞれが異なる。自分が川で溺れている最中、川の水は自分を苦しめていたというように。同じ具合で自分がペットたちの元で過ごしていたときの動物たちのそれが、想像していたものと随分違うことに、驚いていた。探してた? そんなバカな。こいつらが俺のためにそこまでするものか。
「こんな時間までどこに行ってたの?」
「ん? ああ…」
我に返って問い掛けを頭の中で反芻し、特に何も考えずに正直に答える。
「ペットたちに助けてもらって、そこにいた」
「ペットに? 本当かい?」
ポポが素っ頓狂な叫び声で聞き返した。まずいことを言ったろうかと強張った表情を下に向けて、純平は「ああ…」と答えた。ロロも下を見る。ポポもうつむいて下を見ていた。
「やっぱり手伝ってもらったほうがよかったんじゃない?」
「そういうことなのかな…」
二人の会話は純平には何のことかわからない。しかし問いただすほど気にもならなかった。
「それじゃあ私、先に行くね。みんなに伝えてくる」
言い終えないうちにロロは飛び立っていた。飛べるのが楽しくてしょうがないといった様子で、縦回転や横回転という無意味どころか余計な動きを交えながら、それでも真っ直ぐに上流へ向かっていく。
純平の中の獣医の部分が再び姿を現し、治って良かったなと素直に微笑ませ、遠ざかるロロを見つめさせた。その視界に、何だか不服そうにポポが羽ばたいてきたのは、すぐ後のことだ。
「よく無事だったね。ペットなんかに見つかってたら殺さてれるんじゃないかって思ってたんだ。君は人間じゃないんだから」
ポポの驚きの理由がわかった。なるほどそういうことか。
「まあな」
純平は努めて軽く答え、ポポのそばを駆け足で通り過ぎた。
「何もされなかったのかい?」
純平は少し歩度を緩めて傷だらけの手を一瞥したが、返事をせずに走っていく。
ポポもそれ以上は聞かずに着いてきた。
朝日を眩しく反射する残った橋の袂には、仁王立ちのタクローとその右肩に宿るロロを始め、動物たちが総出になって集まっていた。
「純平、お帰り」
「お帰りなさーい」
朗らかに前足を上げたタクローや改めて声をかけたロロを皮切りに、全員がほっとした笑みを浮かべ、出迎えや安心やいたわりの言葉を口々に述べてきた。本当に、ここにいる誰もが皆、自分の身を案じ無事を心から喜んでいるらしい。何故だ。
「みんな心配してたんだぞ」
それを言葉で示しながら、今なお戸惑い呆然としている純平の肩をタクローが抱いた。ロロはタクローの腕を伝って純平の肩に移って頬擦りする。他の動物たちも我先にと争うように擦り寄ってくる。みーこたちのときとは気持ちが異なるので、純平はますます困惑するばかりだ。
それでも、どんな答えが撥ね返ってこようとも動じないという風に、気持ちをしっかりさせてから、気掛かりをようやく声に出した。
「人質は…どうした?」
「どうって…お前の指示どおりにしてるさ」
意外そうに見開かれたタクローの目を、純平は糾弾するような視線で突き刺した。
「俺のいない間に、勝手なことしてないだろうな」
タクローの剥かれた双眸が、一瞬小刻みに震えてから意味合いを変化させる。
「するもんか!」
口からではなくその一対の眼差しから直接振り下ろされたような怒声が、純平の身をすくませた。普段は温厚でもシロクマの激昂を頭から浴びてはたまったものではない。純平は魂が飛び出たみたいに膝から落ちそうになり、タクローがその肩を強く抱き寄せてそれを留めると、共感を訴えかけるように言った。
「そんな仲間を裏切るようなこと、絶対にしないさ」
「仲間…?」
純平は目を瞬かせ、続ける。
「俺が…?」
「そうよ純平、仲間じゃないのに一生懸命探したりしないわよ」
ロロがぴたりと純平の頬に張り付いて、その後も周りの動物たちが口々に二人に賛同しては、昨日から今に至るまでずっと気を揉んでいたこと、食事も喉を通らなかったこと、それを誰かに食われたことなどを思い思いに言い始め、時折笑いを交えながら、どれだけ自分たちが純平を大事な存在と見なしているかを伝えていった。
元々みんな、自分に対して同類を相手にするぐらいに友好的だから、当然なのかもしれない。だが、だからこそ今にも押し潰されそうな罪悪感に、純平は息苦しく襲われていた。
俺はこいつらを見捨てられるだろうか。
俺昨日お前探して何時間も川の中にいたんだぞ、サラのせいで首まだ痛いし。などと自分にはわからないことを言って周りを笑いに包むタクローに押されて、純平は力なく項垂れたまま橋を渡っていく。
ところが、半ばに差し掛かったときに前触れもなく談笑は収まり、動きも停止する。純平もタクローに前進を任せていたために自然とそこに留まって、何事かと顔を上げた。そこで理由を察した。建物の入り口の自動ドアの真ん前に、大将が気難しげにこっちを睨んで立ちはだかっているのだ。
動物たちはサラを叱り付けたときの剣幕を彷彿とさせられ、潮が引くようにそそくさと場を空けた。ロロは純平の肩からタクローの腕を伝いその肩に避難しようとしたものの、それより早くタクローが腕を引っ込めてしまったので、慌てて羽ばたかないといけなくなった。
その辺の事情など知る由も無い純平だが、ただでさえ宿敵と相対しているかのような今にも飛び掛かってきそうな険しい表情と鋭い視線が、動物たちが離れていってもなお自分の瞳に注がれているのを知って、ようやく悟った。そうか、こいつらは計画の成功のためだけに俺の生還を喜んでるんだ。
ひねくれた邪推かもしれないと冷静な部分が感じながらも、一度そう思ってしまうとそうとしか思えなくなってしまう。だからどうした。自分だってそうだ。そうだとしても俺のやることは変わらない。むしろその方が欺き続けるには都合がいい。嘘みたいに罪悪感がどこかへ吹っ飛び、その空白を埋めるべく湧き上がってきた反発の意志が、純平にそっぽを向かせて吐き捨てさせた。
「手間かけさせて悪かったな」
「純平」
「あん?」
純平がしかめっ面を大将に戻すと、大将はゆっくり近付いてきて、純平の正面で腰を下ろし――ではなくそれは勢いをつけるために足を曲げただけだった――次の瞬間に立ち上がって両前足を純平の頭上に持ち上げた。
一瞬で死を覚悟して怯んだ純平は、同じネコ科でもみーこのそれとは比べ物にならない凶暴な鉤爪で顔面を切り裂かれる代わりに、両前足で抱き寄せられて頬に豊かなたてがみを押し付けられた。大きなみーこに抱かれているような温もりはしかし、氷のように恐ろしい。冷や汗が吹き出た全身に今にも震えが来そうで心臓も激しく暴れ出す。
「な…何だよお前!」
必死に恐怖を憤慨に繕って問いただしたが、大将は耳が聞こえていないみたいに、しばらくの間一言も発することなく黙っていた。そしてやがて大きく息を吸い込むと、長い時間をかけてはあーっとそれを吐き出し、答えた。
「よく戻ってきてくれた」
「………」
「おい…びっくりさせんなよ…」
タクローがほっとした様子で大将の背中を叩き、心配そうに一部始終を見つめていた動物たちも息をついたり軽い笑い声を立てたりし、一部は大将にささやかな文句を告げた。しかし大将はそれらに全く答えずに、真面目な口調で加えた。
「本当によかった」
「………」
全身を覆っていた氷が融けていくのが、純平に感じられた。水温はすぐに、湯船に張られたお湯のように居心地の良いそれになる。それはそのまま、大将の体温だ。外からはけして見ることのできない真意がどうであっても、あたたかい――
「……よせよ…気持ち悪いな…」
ようやく状況を思い出して、純平は苦笑いで大将を突き放した。
大将は後ろに下がって着地すると、にっこりと純平に微笑みかける。
これまでに一度も見せたことのない柔和な表情に目を丸くして、ほんのちょっとの間を置いてから純平も、そんなことするつもりはなかったのに、唇の右端が吊り上がった。それに気がついて直そうと思ったが、自分のものでないみたいに体が言うことを聞かず、でもまあいいかとそのままにしておいた。
「純平!」
目線を上げると、エスカレーターを駆け下りてきたらしいサラが、勢いそのままに建物を飛び出してこっちに駆け寄ってくるところだった。
振り向いてその姿を認めた大将は再会の邪魔にならないよう横にずれて場所を空けてやり、純平は片手を上げてサラを出迎えた。
「おう、元気だったか」
サラは呼び掛けに速度を緩めず、怒りを押さえ込んだような真剣な顔で純平のすぐ近くまでやってきたところで、その手前にはべっていたタクローの無防備な腹を遠慮なしに突き飛ばし、一同を唖然とさせる間もなく、それまでの疾駆が助走だったかのように跳ね上がり、純平目掛けて飛び掛かった。
タクローが妙な悲鳴を残して体を折り曲げた体勢で吹っ飛び欄干に背中から激突して悶絶する様を、周りの全員と一緒に見届けた純平は、背中に両手を回され力一杯抱き寄せられる感触で、サラが、大将がしたのと同じように、自分にしがみ付いてきたことを知った。ただでさえ見開かれた瞳がますます大きくなる。
大将とは肉体も体格も異なるから、素肌に触れてくるのは茶色いたてがみではなく肌色のこめかみの辺りで、その場所も頬ではなく首筋である。また毛皮のように遮るものがないために、肌から肌へと体温がよく伝わってくる。そして何よりも、ヒトのものと変わらない、女特有の匂いと心地よい柔らかさが、大将のときとは違った理由で心臓を脈打たせた。
「お、おい、ちょっとサラ、お前まで何だよ」
どぎまぎする純平を一層きつく抱き締めて静かにさせてから、サラは頭を上げた。その顔の目尻には涙がいっぱいに浮かんでおり、軽く鼻をすすっただけで雫になって頬を伝った。
「もう一人にしないでね…?」
サラを引き離すために頭上に浮いた純平の手は、行き場を失って空中で留まった。サラは純平の胸元に顔を埋め、泣きじゃくりながら訥々と続ける。
「私はね…? 純平がいなかったら…生きていけないんだからね…? 純平がいないと…何もできないんだからね…?」
「………」
純平の意志によって役割を変えた純平の手は、何度か握られたり開かれたりして躊躇する様子を見せはしたが、やがてサラの後頭部に居場所を移し、もう片方の手も背中を抱く役目を与えられた。
サラは嬉しそうな涙声を漏らして背伸びをし、純平の頬に横顔をごしごし擦り付ける。涙が触れて冷たかったが、純平はさほど気にしなかった。
「俺のときと大分違うじゃないか」
怒るというところまではいかないものの、とても不満げな大将の一言に、周りの動物たちが爆笑する。
「気のせいだろ?」
純平はそっけなくそれだけ言って、サラの頭と背中を耳と尻尾ごと撫でてやりながら、頭の中で考えを巡らせ戦略を変えることにした。
銃器に身を固めた迷彩柄の軍服連中に川を包囲させるところまでは一緒だが、そこで動物たちを説得して投降させる。人質の待遇は悪くないから、うまくいけば彼らから助命嘆願を引き出すこともできるかもしれない。そのときの先頭には自分が立ってやればいい。
そこで純平はリュウゾーを思い起こした。ケモノ特有の高い体温の温もりと、その暖かさが表象された優しさと、それらと無理やりに結び付けられた味とを。憤りにも似た感情によって顔が歪む。
とにかく、だ。どんな手を使っても構やしない、人間もペットも動物も、残さず全部完璧に救ってやる。もう誰一人死なせやしない。
何にしても一刻も早く会議とやらが決することだ。
何にしても残りの人間たちが避難することだ。
それだけは自分の力ではどうにもできないのだから。
純平がそこまで考えたところで、穏やかならざる心境を感じ取ったのだろうか、両手に力を入れたサラに咎められるように抱き寄せられた。
純平は心の中で詫び、後はサラを味わうことに全ての意識を集中させ、程なくして見てるほうが気持ち悪くなるような人相に相好を崩した。