第二章
第二章
純平はさっきからちくちくする感触に襲われていた。どうやら手だったり足だったりあるいは胴体だったりを、何かが刺しているようなのだ。
それはとても小さくて、一息に体を貫くほど鋭利なものでもない。胴体は掛け布団や毛布によって阻まれているし、足も靴下に覆われているし、剥き出しの手にだってそれを撥ね返すだけの防御力はあった。
それでも触覚と痛覚はむず痒い痛みとしてそれらを脳へと伝達する。そしてそれらはささやかではあるがけして歓迎できるものでもない。純平はその度に夢現の中で舌打ちしたり唸ったりし、手を払い、足を縒り合わせ、寝返りを打つ。その度にちくちくする痛みは去っていき、また別のどこかへ戻ってくる。
そんな攻防を何度となく繰り返した後、純平の体はほとんど無意識のうちに仰向けになった。ちくちくは顔面にやってきた。それまでの他の場所と比べて敏感である。反射的に声を上げて跳ね起きた。
大きく見開かれたぼやけた視界のど真ん中で、一羽のハトが翼をはためかせて留まっていた。ちょうど胸元に止まっていたところを自分が起き上がった弾みで飛び立ったものなのだが、そうとは知らずに声を荒げた。
「何だよ」
「朝だよ」
同じ語調で答えたそれはポポの声だった。驚いたのは純平だけではなかったのである。
「大将が用があるって言ってた。早く起きたほうがいいよ」
ポポはそう言い残すと、左回りに純平に背中を向けて飛んでいった。
朝だと言われたところで窓の類はここにないので太陽がどこにあろうと関係ない。電気もついていない今のこの部屋の光源は事務所から漏れている蛍光灯の光だけである。人工的な白い光は室内をほの暗く照らし、純平の腰から下の辺りまでを斜めに切れた図形として浮かび上がらせている。その黒い靴下の上をポポの形の影が横切る。
ため息をついてポポのくちばしが食い込んだ鼻先を一、二度さすり、寝ぼけ眼を左隣にやってみる。起きるのに必要な最低限の分を遥かに超過する乱暴なめくられ方をした掛け布団と毛布は、様々な主張や意味合いを込められて丹念に制作された芸術品みたいに不可解にねじれ合い、敷き布団の上に鎮座していた。枕はというと、何気なく右を向いた際に、流しの縁に雑巾みたいに折れ曲がってかけられているのが確認できた。
どうやったんだろうと思いながら、怪訝な視線を枕に送りつつ、毛布と掛け布団を剥いで立ち上がった。はみ出ることなく敷布団のスペースに収まった。普通はそういうものなのだが。
不意にあくびが出て、手を口にかざす。息で温もった手のひらで頭を掻こうとして、指先がニット帽に触れた。頭上から氷水をぶちまけられたように立場と状況を改めて突き付けられて一気に目が覚めた。
ウサギの耳に手を添えて、ずれないように注意してから、帽子の上から爪を立てて前後に動かした。直じゃないので痒いままだが、我慢することにした。
靴に足を入れる。まだ新品の靴は友人宅に残した同じ型でも、慣れていないため閉め出されそうになる。マジックテープを貼り直す手間を惜しんで無理やり侵入し、つま先で床を蹴って履き合わせながら事務所のほうに行く。
寝る前と変わらない部屋の中では、ポポを頭に乗せたサラが背もたれにトレーナーを備えた左のソファーの上に正座して、両手で何かを持ったまま口を動かしているところだった。サラは純平に気がつくと、とてもそうは聞こえなかったが、おはようと声をかけてきた。
純平はサラと向かい合うように右のソファーに腰掛ける。そこでテーブルの上をじっくり見ることになった。
昨夜適当に一回だけ畳んだダッフルコート。牧場をイメージしたデザインの草原に乳牛が佇んでいるパッケージの二百ミリリットルの牛乳パックが二つ。そのうちの一つはすでにストローが刺さっていて、純平の見ている前でサラが手に取り一息吸い込んだ。深く後ろにもたれたままでも手を伸ばせば届くところにある未開封のもう一つは自分のものなのだろう。
気になったのはそこではなく、どうやらおにぎりらしいのだが、それが全て縦半分に割られ、直角三角形になっていることだった。サラの手にある、直角どころか三角形でもなくなってしまった歯形のついた食べかけも含め、全部で七つあるところを見ると元は四つだったのだろう。それらの周りに重なるように散乱している袋を何気なく見回してみると、それぞれ梅干、鮭、高菜、ツナマヨネーズと文字があったので、間違いなさそうだ。
「これは?」
サラとポポがほとんど同時に答える。
「タクローが持ってきてくれたの」
「早く食べちゃいな」
「………」
そういうことを聞きたかったわけではないのだが、まあいいやと純平は手近な一つを取って中を覗いた。梅干だった。押し込むように一口で頬張る。サラが不満そうに言ってきた。
「一人二つだって。少ないよね?」
「二人は多いほうだよ。体が大きいんだから」
「………」
そういうことを聞きたかったわけでもないのだが、まあいいやと純平は二つ目を取ろうとした。そのときだ。
唐突にパチンという張り詰めた音がして、驚いた声を小さく発した純平が手を引っ込めた。サラの腕の先端のネコの足さながら軽く握られた平手が、純平の手の甲目掛けて思い切り振り下ろされたのだ。
「私のだよ」
問うより速く答えられた。
サラはわけがわからず呆然としている純平をじっと目で留めておきながら、その分身のようにぎょっと見下ろしているポポを頭に載せたままで、純平が触れ損ねた直角三角形と別の直角三角形一つを自分のほうに寄せた。
純平は首を傾げつつ残りを確認する。梅干の片割れと高菜だった。特に理由はないのだが交互に食べることにして二つ目に高菜を選んだ。やはり一口で済ませようとして失敗した。顔が強張る。噴き出しそうになるのを堪えまたそれを阻止するために口を押さえ、もう片方の手で拳を握り激しく胸を叩いた。
ポポは不安とも心配とも取れる眼差しで純平を見つめた。サラは手からおにぎりを放して噛みちぎらないように前歯で宙ぶらりんに確保したまま、純平の牛乳パックにストローを差し込んで口元に寄せてくれた。純平の体のどこかからもう一対手が生えていたら同じことをしていただろう。純平は悪いなと言うように胸から離した手をほんの一瞬拝むように立てると、それを受け取って手とあごの隙間からストローをくわえた。
一気に半分ほど飲んで息をついたときには、サラは何事もなかったように大事そうにおにぎりをちょびちょびかじっていた。純平も悠然さを心がけて食事を再開し、梅干の片割れを小分けにしながら食べ尽くした。が、今度は種を喉に引っ掛けてしまう。再びむせた。
恥と情けなさのためにいたたまれず、その気持ちがそうさせたかのように前のめりになって顔をうつむかせ、咳き込みながら必死に呼吸を整えるタイミングを探る。
ポポはやれやれと言わんばかりに左右に広げた両翼を軽く持ち上げた。が、サラは精一杯伸ばした手で項に近い背中の上の辺りをさすってくれた。相変わらず軽く拳を握ってはいるが、その手付きは心配に溢れいたわりに満ち、ちっとも面倒そうではない。純平は謝意を込めた瞳を上目遣いにしてサラの熱心な献身を眺め、それに身を任せていた。
ドアが開いたのはそんなところでだった。
閉まっていくドアの隙間に体を挟ませて滑り込んできたのは大将だ。供はいない。肢体が完全に室内に入り切ったのを待ち構えていたかのようにドアが閉まり、大将は腰を落とした。
「飯は済んだか」
「うん、もうちょっとで」
「今始まったところだ」
大将の問い掛けに対するポポの答えを遮り、純平は一時だけ咳を堪えてそう言い放った。ぶり返しそうになるのを牛乳を飲み干して留める。
大将は前足を伸ばして体を持ち上げ、首を伸ばして頭をもたげた。テーブルの上には空の袋しかなく、それが認められた。
大将は何も言わずに体勢を戻し、純平に歩み寄った。すでに咳は収まっていたので、サラは食事を再開させている。落ち着きを取り戻していた純平も、水中にいるような緩慢な動作でおにぎりの残りを手に取り、あくびみたいにゆっくり開いた口へそれを運ぼうとしていた。
大将は純平の足元にたどり着くと、背中を横に伸ばしたままで右前足をさっとひらめかせた。最後まで残ることになった高菜の片割れは、純平の口に入る寸前で大将の前足にさらわれ、牙の間に吸い込まれて消えた。
「………」
純平は突き刺すような睥睨を投げ付けたが、大将は虫ほども感じないのかそれを見返しもせずに、口の中に飛び込んできたものを味わうことなく丸飲みにする。それからおもむろにサラに目線を移した。
一連の出来事を頭上のポポと同様に恐れに近い表情で見届け、思わず尻尾を逆立てていたサラは、にわかに自分の手の中にある最後の一つを思い出して口の中に押し込んだ。まるでそうしなければこじ開けられて奪われるとでもいうように、閉じた口を両手で封じる。
「済んだみたいだな」
大将は嘲りにも映る満足そうな笑みで鷹揚に頷いた。
「それじゃあ着いて来い、アジトを案内してやる」
言い終えないうちに体を翻してドアノブをひねるや否や、頭でドアを押し開けて出て行った。
ドアが閉まるとポポはサラの頭を翼ではためかせて促した。
「行こう。ほら早く」
サラは口をもごもごさせたまま頷いて、ソファーの背もたれのトレーナーを首に巻きながら立ち上がった。
純平はなおも、とっくに鉄扉に隠れて見えなくなっている大将を睨んでいたが、サラに立たされ、コートを着せられながら、背中に手を置かれて外に押し出された。
このデパートを上空から見ると、周りを川に円く囲まれていることがわかる。上流からの流れが建物の手前で二股に分流し、それぞれが緩やかに弧を描き、巨大かつ整然とした輪を作る形で合流し、再び一つの下流と化して海へ向かっていくのだ。建物自体も円川町という名前の由来になっている遥か昔から滞ることのないこの流れを干拓せず、それに囲まれた円形の土地に合わせて造られているので、円柱形をしている。
分かれるまでとくっついてからは一直線上にある上流下流と円の中央で直角に交わるように、湾曲する川の上に一直線上に造られた幅の広い歩道の設けられた二車線の二本の橋によって、デパートの敷地と円い川の外とが渡されている。川の内側であり建物の外側でもある輪状のスペースは、上流寄りの半分が駐輪場で、下流寄りの半分が駐車場となっている。といっても翌日に臨時休業を控えた前々日の夜からずっと、そこには一台の自転車も車も停まっておらず、今やコンクリートの荒原と化してそこに輪の形でのさばっているのみだった。
デパートの外側は、円柱形のフォルムが自己主張しているみたいに、床の部分と三の倍数の階に二箇所ずつあるトイレを除いて全て窓になっている。
動物たちの誤操作によって無用の長物となってしまったエレベーターは、階段と並んで設けられ、延長線上に位置する上流下流や橋に重ならない場所で、外側に面して四方に一箇所ずつある。エレベーターに乗っていても階段を昇降していても、その高さからの眺めは見えるようになっている。
一方エレベーターほどではないにしても、その存在意義をほとんど奪われたエスカレーターは、上りと下りが二基ずつ交差するような形で建物の中心を貫いている。
通路は中央に通じる太い十字のものと、建物に合わせて歪んでいる窓側の円いものと、それぞれの売り場の陳列棚の間を最も効率よく縫っている細いものがある。
事務所を後にした純平はコートのポケットに両手を突っ込んだ不精な格好を保ったままで、大将に従う形で建物の上から下にかけて、それら全てをしらみつぶしに歩かされることになった。
アジトを案内してやるということだが、そんな厄介事に付き合わされなくても、二十年来世話になっているカラム百貨店のことはほぼ熟知している。どこかで一人きりになって誰にも邪魔されずに動物たちを打ち負かす手段をゆっくり講じたいぐらいだ。もちろんそうは言えないので、何はともあれここのことを教えてやらないといかん、などと熱のこもった説明に耳を傾けるフリをしつつ、黙って着いてきているわけだが。
そうかと思えば後ろのほうでは、サラが窓から見える円川町の景色に歓声を上げて、フロア中をドタバタ駆け回っていた。同時に大将の小言を恐れて早く行こうよと急かすポポの声がしばしば聞こえてきていた。住人としては見所のあるような土地ではないと卑下しているぐらいだが、サラにとっては全てが生まれて初めて目にするものなので興奮しているのだろう。
より念入りに動物たちを欺くためにはサラに倣って装うべきなのかもしれないが、これ以上の演技の技術は純平には備わっていない。たとえ教わったところで出来るものでもなかった。いい気なものだと嘆息する。その能天気さが羨ましくもあり煩わしくもあった。
しかしそれらの深謀遠慮はあまり必要ではないらしかった。時折後ろを顧みて純平とサラを確かめる大将は、正反対な二人の反応を個体差とでも解釈しているのか、何の感慨も抱かずに首を戻して話を続けていたのである。
四人は階段を二階分上り、まず初めに屋上に出た。
寒く澄み切った空気が辺りを清めるように周囲に充満しており、純平は身をすくめる。空は平和そうに青をまとっていて、緻密な計算の上にデザインされた模様みたいに所々に白い雲が浮かんでいた。太陽はそれを着込んで頭だけを出した顔に見えた。純平は目を細めた。単に朝日が眩しかっただけだが、遥か上空から混沌としている自分たちを傍観している何者かを睨み付けている気分になった。
エスカレーターが伸びているのは下の階までのため、円形のだだっ広い空間は背の高い頑丈な柵をそびえさせる円周部分を除いてミニチュアの遊園地となっている。
硬貨一枚で陳腐な音楽を流しながら前後に揺れる飛行機や車を模した乗り物だとか、またがって乗り込むSLのレールだとか、ゴンドラが六基だけの小さな観覧車だとか、ヒーローショーが催される簡易ステージだとかが各々の居場所を誇示している。隅のほうでは、今はシャッターを閉ざしている売店があり、天気のいい休日にはここが開き、パラソルのついたテーブルが並べられ、家族連れの憩いの場となるわけだ。
いわゆる小さい子供向けの趣だが、新人アイドルやあまり売れていない演歌歌手が営業に訪れステージで歌を披露することもあるし、夏場は毎日夕方頃にテーブルを増加させてビヤガーデンに変貌する。純平個人にとっては、ヒーローショーに興じて乗り物で遊んでいた幼い頃の、大きくなったらここでお酒を飲んでみたいというささやかな夢が叶い、もはや毎年の恒例行事という認識だけの何の感慨も覚えなくなった現在に至っている。思えば成長につれて様々な形でここには世話になっているものだ。
その階下、建物の最上階にあたるレストラン街は、大手ファミリーレストランのチェーン店が扇形で構えているのを皮切りに、居酒屋、寿司屋、焼肉屋、蕎麦屋、洋食屋、甘味屋、喫茶店など、多種多様の店舗が入り組んで軒を連ねている。
この階も足繁く通って全ての店を網羅しており、ランキング付けできるぐらいに舌が肥えているが、飲食店の厨房やその裏側には、ここだけに限らず他のどの店も含めて、これまでの人生には縁がなかった。かと言って足を踏み入れたところで、人の言葉や映像を媒体とした見聞の間接的な経験と、それらに基づく想像の域を超過するほどの発見はなく、さしたる感想は浮かばなかった。
あえて不思議に思ったのは、サラが目的の不明確な宝物を探すみたいに次から次へと業務用の大きな冷蔵庫や冷凍庫を開けていくものの、どれ一つを取ってもそれらの中にこれっぽっちの食材も見当たらなかったことだが、今日が休業だからなのだろうと納得した。
その下の雑貨売り場はおざなりに済まされた。自分たちの居住地である事務所のドアの前は素通りしたし、昨日からこの階にいるせいか扱われている商品が地味なせいか、サラもそれほど興味を示すことはなかった。おそらくそれを見越していたのだろうし、いちいち説明していくのも手間なのだろう、大将は人間が使う日用品だと簡単な概要を添えただけで早々と次へ移っていく。十三階、家具・寝具売り場だ。
昨夜、より良い寝床の完成のためにサラたちによって選定される側面で除外され、床に散らばって階段の近くまで侵食していた布団やシーツの群れは、自分たちの就寝後にタクローが片付けておいてくれたらしく、どこにも見当たらなかった。残っていたら最悪の場合、大将にうるさくどやされていたかもしれない。さすがの純平も内心でタクローに礼を言わずにはいられなかった。そう考えれば上階で事務所の奥まで入り込んで来られなくてよかったというものだ。
ところが寝具から家具のほうへ移動していくうちに、純平は異変を覚えた。何か様子がおかしい。その原因についてはすぐにはわからなかったが、うつむきがちに歩いている自分の肌へ向こうから触れてくるぐらいに顕著な違和感だった。
どうして何もないのとサラが首を上に曲げて呟くと、ポポに先んじて大将が振り向き、一階まで行けばわかると告げた。自分を間に挟んで行われたそれらのやり取りで純平は気がついた。売り物であるはずの家具が周囲に見当たらないのだ。どこが通路でどこが通路でなかったのか判別できないほどに、辺りはがらんとしていて、白いリノリウムが外側の通路と売り場とを隔てる向こうの壁まで広がっているのみだ。
あまりにすっきりと何もないので、まるでそこは初めから無為の空白が支配する王国だと勘違いしてしまったが、そんなはずはあるまい。いくら昨日が休業だったとはいえ、あれらの大きなものをそれに備えて片付けておくとは思えない。
しかしその疑問を解くために深く考える余裕は、このときの純平には微塵も残っていなかった。一世一代の大勝負をわずか先に控えた立場に置かれているために、心臓が破裂しそうなほど激しく脈打って、胸が内側から痛んでいたのだ。ここでヘマをすれば、自分は死ぬ。
そして一向は、十二階おもちゃ売り場へと到達した。
純平は十三階を後にしてすぐの踊り場に差し掛かったときにすでに緊張し切っており、その足は強張っていた。にもかかわらず力は微妙に抜けており、最後の段を踏み外しそうになって前のめりに十二階に着地した。後ろからサラとポポに気遣いの言葉をかけられたが、黙って手を上げて無事を示した。二人の声に振り向いた大将も、危うい足取りで純平が降り立ったことは知らないものの、それを見て何事もないと判断して先へ進んだ。
純平は軽く首筋や額を腕で擦り、吹き出ているのかいないのかわからないほどの汗を拭ったが、それぐらいで落ち着きを取り戻せるほど今の動揺はおとなしくない。サラやポポの親切すらも命取りになりかねない。焦燥にも似たそんな懸念を前後の三人に悟られないよう心掛けるものの、脳から一番離れた体の末端は意志の届かない別の生き物のように働いてしまう。少々ぎこちない動きを展開させて全身がかすかに前後左右に傾き、それを防ごうとするためのどこか覚束ない足の運びで、それでも大将との距離を不自然にならないように広げながら歩いていく。
店内は冷淡に燦然とする蛍光灯の備わった天井のそばに、図形を作る無数の風船やアーチ状になってきらめくモールやアニメだとか特撮物のキャラクターだとかの巨大な人形が吊るされており、まるでこの世に存在する全ての色が網羅されているように華やかだった。
それらに美的感覚を刺激されたらしく、サラは尻尾を突き立てて今までにない歓声を漏らすやポポを吹き飛ばす勢いで走り出し、装飾と負けず劣らず色彩も形状も種類豊富な商品の整列する棚へ次々かぶりついていった。
時折大将が話を中断させて振り返るたびに、純平の心臓は破裂しそうになる。一瞥しただけで話を再開させつつ案内に戻る大将の双眸は常にサラしか捉えていないが、毎回純平はその視界の最も焦点の合いやすい中央部分に立ち尽くして、今にも破綻しそうな神経を虚勢の作り上げたしかめっ面の奥に隠匿していた。
やがて純平は大将に続いてパーティー用品の陳列棚に入っていく。袋詰めにされたクラッカーや容貌怪異のマスクが両隣で多様に並んでいる。ターニングポイントになっていることなど知らずに大将はそこを通過して次の棚へと横に曲がった。純平は振り返る。サラの姿は見えない。軽く上を確認したがポポも見当たらない。騒がしい声とそれをたしなめる声はそう遠くないところから聞こえてくる。
純平は意を決して駆け出すのとほぼ同時に止まりそこへたどり着いた。それは数日前の記憶のとおり胸の高さにあった。四つ足の大将の目の位置では認めることもできなかったのだろう。しかしそれより高い視界を持つ動物はいくらでもいる。ハトもその一つだ。
手を伸ばし、バニーガールの衣装セット四、五袋を全て抱えるとビニール袋の音を立てないように膝をつけて床に置いた。ちょうど棚と床の隙間が一つ分あるかないかというほど狭いことがわかり、掻き分けるようにして重ならないように横一列に並べてから両腕で押し流してそこへ滑り込ませた。棚の横幅の広さはここまでの間に認識していたが念のため頬を床につけて確認しておいた。それらは影に覆われて暗くなっているが向こうの通路にはみ出て光を反射させている部分は見当たらない。
素早く立ち上がり頬を払いながら辺りを見回す。左右には棚がある。前後に大将はいない。上にも華美な様相があるだけだ。それらを確かめることができたところでサラが後ろからやってきた。ポポはしきりに首を動かすサラの頭に両翼でしがみ付くようにしていた。
何食わぬ顔で道を曲がってすぐに、ここ何もないねという問い掛けと売り切れじゃないのという返答が聞こえてきた。
純平はほっと胸を撫で下ろし、それだけで完全勝利を収めた心持ちにすらなり、ポケットの中に入れた手で拳を握って少し離れてしまった大将の背を見据えた。
その後の十一階カジュアル服売り場、十階紳士服売り場、九階婦人服売り場を練り歩いている間に、純平の胸の鼓動は平時のそれに戻っていった。それぞれでかつて訪れたときの印象的な記憶を思い起こす余裕すらも取り戻せていた。前夜の着替えに始まり、リクルートスーツを購入した数年前の姿がささやかに蘇り、バニーガールセットの後でプレゼントを調達してラッピングをしてもらっている数日前の自分をレジに見た。
その後でこの階段を降りてここに来たわけだなと、八階の化粧品売り場にたどり着いた。誕生日プレゼントは、前に何かの折に好きだと聞いたことがある、フルーティーな香水の詰め合わせだった。
大将の説明は「ここにあるのは全部女が使うものだ」という一言で終わらされてしまった。空疎な内容だが嘲罵する気はない。男用のものもあるだろうが指摘する気もない。自分だってさっぱりだ。詳細に教えられたところでこれからの人生の役に立つとも思えなかった。無論かつての生活を再開できると仮定した上でだが。
これだけの類似物の中から自分の趣味や周囲の視線に合わせた品物をピックアップしては体に塗りたくるのだから、つくづく女ってのは大変な生き物だ。想像しただけで面倒で嫌になる。そう考えると男ってのはラクだ。せいぜいエチケットに気を使っていれば体面は保てる。しかし女は女でそれを楽しんでいる節もあるようだから不思議なものだ。
常々掲げている持論をそんな風に取り留めもなく思い巡らせている間に、気がついたら一周して階段に戻ってきていた。
そのまま倒れ込んでいくような姿勢で器用に這い降りていく大将に続いて七階に向かうと、大将が踊り場を反転したところでこちらを見上げたまま立ち止まっていた。
あの二人はと尋ねられて振り返ったが、八階の床が高い位置に見える視界の中にはポポの全身はおろかサラの足すら存在しない。そういえばと、この階に限っては後ろが妙に静かだったことを思い返した。大将も初め以外には口を利かなかったこともあり、静寂の中を一人でいるような気分に浸っていたものだ。
歩みを止め、片足を一段上に置き、肩越しに後ろを見遣ったままの体勢でしばらく待ってみた。二人がやってくる気配はない。悲鳴のようなサラの歓声も困り果てたポポの注意も聞こえない。音とともに時間も止まったのか、動くものは一切なく、売り場にあるはずのその姿はほんの少しすらも見受けられずにいた。
ここに来ておそらく初めて味わう不思議と落ち着ける雰囲気だ。一服したいところだが店内禁煙のマナーは守ることにした。ルールというよりそういうポリシーだ。非常時ではあるがそれぐらいのゆとりがなくては対峙できない。逆に言えばそれぐらいのゆとりはある。一階に着いたら外に出て吸おうと決めて、ポケットの中のタバコとライターをわけもなく回転させてみた。
「連れて来い」
やがて業を煮やしたのか、踊り場で首を上げたまま同じように待ちぼうけを食っていた大将が苛立たしげに言い放って、軽い緊張の復帰と併せて空間は元に戻った。
純平が大将を一瞥すると、大将はしかめっ面を大きく振り上げてあごをしゃくった。命令は癪だったが、こいつに引っ付いているよりはましだと思い、黙って従い踵を返す。
念願叶って一人になれたが、あんまり時間をかけすぎても小言をこうむるのは目に見えている。また純平も危機こそ感じていなかったが、二人の行方は気になっていた。
早足で店内を徘徊して捜索していると、早く行こうよ怒られるよと不安げに催促するポポの声が耳に入った。その方向へ向かうとすぐに見つかった。棚一つ分離れたところに横を向いた二人がおり、サラは正面の壁を凝視して佇んでいて、ポポはその頭を両翼で引っ張っているところだった。
ポポは純平に気がつくと、大将の怒りを察知し慌てた様子で促しながら翼に力を入れた。しかしヒトのそれにネコの耳がついた頭部なんてハトの非力で動くようなものではないし、サラもまた耳を伏せてポポを拒絶する。ポポはため息をつくと、おもむろに純平のほうを向き、すがるような瞳で助力を請った。
純平はコートが素肌の腕に触れるほどそばまで近づいてみたが、サラはこちらに気がついていないようで、夢から覚めた直後みたいなとろんとした目が相変わらず正面を見つめている。純平も首を曲げてみた。
そこにあったのは口紅のポスターだった。赤い斜体で『冬を燃やせ』と刻まれたコピーのバックに、顔を右に向けた頬のそばで伸ばした冬の新色の口紅を手にしたモデルが、その深い深紅の色の唇を携えて流し目を投げつけている。思い出したようにキレイ…と呟くのが聞こえた。
確かに見とれてしまうほど魅力的な姿だが、純平としては予想だにしなかった展開の連続のおかげで忘れつつあった不愉快な思い出を呼び覚まされたこともあったので、八つ当たりのように腕をつかむと力任せに階段に連れて行った。
子供みたいにむずかる唸り声でそこに留まろうと引っ張り返されるが、それを無視して引き摺るように無理やり歩かせていく。力の差を突き付けられて割とすぐに諦めたらしく、自発的に進み出したので握力を弱めてやった。振り返り、尻尾と頭を垂れてしょんぼりとしている姿を認めると、やっぱりこれでもメスなんだなと改めて思った。
大将は小言の一つでも投げかけてくる代わりに、特に何も言わず踊り場から七階へ降りていった。純平はサラの腕を握ったままで、項垂れているサラの足元に注意を払ってやりながら、エスコートするみたいにその後を一段一段慎重に降りていった。
七階は薬局だ。口紅のことがよほど尾を引いているのか、サラにさっきまでの元気は見当たらない。棚もある一部が空白となっているほかは溢れんばかりに整然と商品が陳列されているが、どの品も食指を動かされるようなものではないだろう。不衛生な棲息地で培われた頑健な肉体の持ち主である純平にも縁のない階だ。退屈な気持ちで列車のように大将についていく純平は、ふと気がついて脱線してから後でやってやるよと振り返った。
サラが顔を上げると、軽く笑みを浮かべた純平の手に棚から掠め取った綿棒が握られていた。プラスチック製の透明の円筒の中に百本詰まっているものだ。用途がわからないのでサラは首を傾げたが、純平はそれに気がつかずにポケットにしまって前に向き直っていた。
六階は本屋とCD販売店が半円で区切られたフロアだ。いつ訪れても立ち読みの客がいたり新曲が流れていたりして、静と動の違いこそあれ賑わっているこの場所が、今は廃墟のごとく沈黙している。改めてこの状況の異常さを認識する。
しばらく歩いたところで、サラの手が急に重くなった。
純平が振り向くと、サラはうつむいて膝を押さえてよろけながら歩いており、思わず立ち止まると、べたっと膝から落ちてうずくまってしまった。ポポはその弾みでバランスを崩し、一度飛び立ってまた頭に着地した。大将も異変に気がついて、歩みを止めて戻ってくる。
純平の面持ちはたちまち歪み、心配を含んだ怪訝なそれになり、握手するみたいに一、二度サラの腕を振ってやった。さしたる反応はない。どしたと声をかけながらぐいっと引っ張ってみた。
サラは素直に腰を上げたが、純平の手に両手を添えて、それでようやく立てているようだった。うつむいたままで、また座り込んでしまいそうに足首がふらついている。やがてサラは難しい顔で純平を見上げ、心底ぐったりした声で泣き言のように呟いた。
「疲れちゃった…」
乗ってみたいと稼働していない四台だけの小さな観覧車の一つにしがみついて、乗ってみたいと稼働していないSLにまたがって、乗ってみるとヒーローショーなどが催される簡易ステージに飛び乗っていた、夏場のビヤガーデンの質の悪い酔っ払いのごとき屋上遊園に始まり、ほとんどの階でその行動力を発揮し続けていたのである。大将が吐き捨てるように言った。
「あんだけはしゃいでりゃ当たり前だ、バカ言ってないで行くぞ」
純平も大将と同意見だった。なので頷いて手を引いた。
「よし、休むか」
純平の意図を十分に汲み取れた大将は思わず低く唸って身構えたが、声を荒げるほどのことでもないと思い留まり二人に着いていくことにした。
この建物の全ての窓辺には、階段とエレベーターとトイレの箇所を除いて、湾曲したソファーをつなげてできた弧状のそれが休憩所として据えられている。純平はサラをその一番手近なところに連れて行った。二つの川の合流地点とそこから伸びていく下流が一望できる場所だ。サラはその上に正座して背もたれに手をつき、ふうっと息をつく。
その隣に腰掛けた純平は、ついでとばかりにポケットに手を突っ込んでサラのほうを向きながら、サラにも自分のほうを向くように言った。サラは疑う素振り一つ見せずにそれに従い、二人は向き合う。
そこで上からの視線に気がついてポポの存在を思い出した純平は、綿棒の筒を傍らに置いてからサラの頭上に手を伸ばし、一言詫びてポポを横に放った。ポポが生返事で大将の頭の上に飛び立つのを尻目に、筒の蓋を開けて綿棒を一本取り出す。
「じっとしてろよ」
そう告げられたサラは、何が起こるのかわからない不安にびくっと体を震わせてから、全身を強張らせて固く目を閉じた。それでも未知の経験を従順に待ち構える。
純平はいたずらにサラを刺激しないよう耳の先端を優しくつまみ、その内部を奥の奥までじっくり覗き見た。
焦げ茶色の耳垢は影で暗くなった確認できる限りの最深部から始まり、手前のほうへ皮膚を覆い尽くす形で一枚の布のように広がってきて、純平の親指の下でようやくその領地の終焉を遂げていた。耳自体が普通のネコのものより大きいから、通常のそれらよりも一層多くこびり付いているように見える。
しかし。それにしても。
今は落ち着いて見ているからだろうか。それとも朝日が照らしているからだろうか。昨日はここまでひどくなかった気がする。自分の知らない間に耳垢の栽培地から調達してきたみたいだ。
とにかく確実に落としていこうと覚悟を決めた気分になって、手前から順々に綿棒の先端をそろそろと押し当ててみた。と、それだけのことで焦げ茶は崩れた。
純平は思わず吹き出した。
面白がって綿棒を前後左右に、それでも微動に留めてやっているのに、耳垢は音を立てる勢いでぼろぼろ大量に削れて、白く丸い先端を汚していく。どこか爽快な気分になるのは純平だけではない。
サラはあっという間に陶酔し、口をぽかんと開けて目尻をだらりと垂れさせた、今にもとろけていきそうなだらしのない恍惚を顔面に浮かべ、言葉にならない艶やかな吐息を気持ち良さそうに漏らした。それが嘲笑うような純平の声と重なる。
「あーあーあーあーこりゃひでえや」
全神経を片方の耳に集中させて快楽を味わうあまり、サラには全くと言っていいほど嫌みが伝わっていないようで、それどころか甘えるような声で純平にねだった。
「もっと右もして」
「右だな。よし」
「違う違う。そっち左でしょ?」
「だから右だろ?」
「私から見て右だよ」
「ああそうか」
「そうそうそうそうそこそこそこそこいーいーいーいーだめだめだめだめ痛い痛い痛い痛い」
「悪い悪い悪い悪い」
一瞬苦しげに強張ったサラの顔は、すぐまた快感そのものに戻る。萎えかけた尻尾もすっくと突き立ち、幸福で満たされているようだ。
みーこに耳掃除をしてやるときにたびたび起こることがある。幸せいっぱいの顔で身を任せ、ゴロゴロ喉を鳴らしていたかと思ったら、突然悲鳴を上げて飛び退いてしまうのだ。さらに、飼い主で獣医を生業にしているくせに、快苦の境目をわかってやれていないことへの自己嫌悪に陥っていると、追い討ちをかけるように咬んだり引っ掻いたりしてくるものだから、その後は決まって自然と喧嘩に発展するのだ。
こうして意思の疎通が取れるというのは、間違いがなくて、こういうときにはとても便利だ。実にいい。サラの笑顔を前にしていると自然に口元がほころぶ。しばらく二人の様子を眺めていた大将は、そこでおもむろに口を開いた。
「お楽しみのところ悪いが」
「楽しかねえよ」
純平は意識的に表情を真顔に戻した。
「話がある」
「後にしろ」
「早いほうがいい」
「なら手短にしろ」
「お前たちの仕事についてだ」
「仕事…?」
その言葉を思わず繰り返し、純平は怪訝と不満の入り混じった鋭利な睥睨を飛ばす。
大将は、自分たちに非協力であろうとする意志とは裏腹に、容易に命令を拒絶できない立場にある純平のジレンマを見透かし嘲弄するように、優越感で滲んだ薄笑いを時間をかけて頷かせた。
「お前たちは、仲間、だからな…協力してもらわないとな」
「何をしろってんだ…?」
「お前たちは半分しか動物じゃない。だから大したことなど期待できん」
「じゃあ頼るな」
「しかし半分だけは人間だということだ。その分賢いらしいな」
「お前らよりはな」
ぶつかり合う二対の視線の間に険悪な沈黙が淀む。純平は指先で肩を、大将はくちばしで頭を、それぞれ突付かれることで二人にたしなめられ、いくらか感情を収めて話を再開させた。
「お前たちには人間に勝利する作戦を考えてもらう」
「作戦も何も、今どういう状況なんだ。そもそもお前らの計画ってのはどういうものなんだ」
「一言で言えばこうだ。手始めにこの町を制圧し、そこから世界中に侵攻していく」
純平は片方の唇を吊り上げた。
「世界中に侵攻ねえ…」
「何か言いたそうだな…」
頭を下げた大将に上目遣いの視線を差し向けられると、純平はサラの耳から綿棒を引き抜き、要点を叩き込もうとする教師のごとく、教鞭さながらに振り回して講釈してやった。
「どうせお前らはそういう言葉すら知らないだろうがな、警察とか自衛隊とか、この国だけでだって人間ってのは色々な組織を作ってるんだ。お前らみたいな大馬鹿野郎が現れたときに鎮圧するためにな。そのくせ世界だあ? 人間ってのをあんまり甘く見るな。外国にだって警察や軍隊は存在する。その前にこの国にやられるのが関の山だ。世界になんて行けるもんか。ああそうか、どうせ国ってのも知らねえだろ、いいよ説明してやる、国ってのはこの町みたいな小さい所を何十個も何百個も合わせてできた所でなあ」
「円川町の警察は昨夜の間に壊滅させた」
純平の口の動きに伴い、綿棒がぴたりと停止する。少しして、やっと出た言葉は次のものだった。
「何だって?」
「署が三つ、交番が四十七ヵ所」
「………」
「自衛隊の基地も外国の基地もこの町にはない。一番近いところでも車で二時間はかかる」
「………」
「銃器は厄介だからな。その辺の抜かりはない」
「………」
「俺たちが何も知らないと思うな、それぐらいの知識はある」
静かに放たれた言葉の、しかしそこに込められた力強い内容に圧倒されて、純平は視線を逸らした。そこにサラの耳があった。中断させた耳掃除の続きをしてやる。
「…そんな奴がエレベーターとエスカレーターぶっ壊すかよ」
「…誰に聞いた」
しかし純平のそれはそれぐらいしか言い返せないことの現れで、視界の果てに位置しまた耳の奥に入ってきたはずの大将の鋭い凝視と詰問は、本人も意識しないままに脳への伝達がなされていなかった。
頃合を見てもう片方の耳に移ると、あまりの汚れっぷりにまた呆れた笑みがこぼれる。だがその場違いな微笑が、不思議なことに勝機を喚起させた。
「それだけわかってりゃ上等だ。すぐに国が立ち上がってここまでやってくる。そこでお前らの悪ふざけは終わりだ」
「だそうだが? ポポ」
そう促されると、たてがみの中にうずくまっていたポポが立ち上がり、後を引き継いだ。
「偵察隊の報告によると、政府では昨夜から僕らを制圧するための緊急会議が始まってる。でもさしたる進展も具体的対策も出てこないまま今朝を迎えて、今なおそれが続いてる」
「………」
「人間ってのはよっぽど会議が好きなんだね。まあ今回に限ったことじゃないけど」
「………」
純平は発声の仕方を忘れてしまったみたいに黙り込んだ。大将が声をかける。
「話を戻していいか?」
「……好きにしろ」
「そうやってこの町は昨夜の間にほぼ壊滅させたわけだが、しぶとく生き残っている人間がまだまだいるらしい。そいつらは自分たちの手だけで俺たちを蹴散らそうと結集しているそうだ」
それで合ってると言わんばかりにポポが頷いた。
「この町の完全な制圧のためにもそいつらを始末しないといかん。お前たちはそのための最も効率のいい方法を考えろ」
「……簡単に言いやがって」
「嫌ならいつでも死んでもらうぞ」
「………」
純平はそれきり言葉を紡ぐのをやめ、サラの耳に集中しながら思いを巡らせた。
会議中とはいい気なものだ。唯一の頼みの綱がそんな体たらくでは何にもならない。おまけに町民までもがそんな調子では。逃げるなり避難するなりすればいいのに。デタラメに暴れたら被害が拡大するだけだ。こいつらの思う壷じゃないか。
とは言え一人では何もできないであろうことも、純平はわかっていた。それだけ無力だということを自覚していた。ほんの少し踏み外せばすぐに噛み殺される立場に辛うじて位置しているだけなのだ。バランスを崩したら地上で断裂する運命に支配された綱の上の軽業師と変わらない。落下しないように何とか身を守るのが精一杯だ。それさえいつまで保てるだろう。
しかしその運命は、言ってみれば自分たち人間が創造した制約だ。
改めて確認するまでもなく、ここは六階だ。上から下にかけて建物を半分以上踏破したわけだが、各階ごとに彷彿させられた個人的な体験を除く地理的な特色や扱われている品物の説明と解説を、大将は実際にその目で見てきたかのように淀みなく行ってきていた。それらはいずれも人間の耳で聞いて無駄がなく、二十年来のリピーターの鼓膜には完璧な内容であり、早い段階でこれから先全ての階で行われることだと確信的に予想がつき、果たしてそれから先は裏付けのための行程だった。
無論ポポを初めとする偵察隊の受け売りなのだろうが、それだけの情報を店内に出入りしていた補助犬から仕入れたり空や窓から得ていたりしたというこの計画の入念さを知り、改めて動物たちが掲げる理想郷への真剣さと執拗さに圧倒されて、何度となく唾を飲み下していたのだ。自分たちはそんなことに気付くことなく、注意を払い対策を取り警戒を強めるというその一連全ての行為を怠り、ほんの半日前までいかにも平和にのうのうと馬鹿騒ぎみたいに日々を暮らしていたのかと。
そのツケがこれだ。
そして今もなお、この危機の度合いを察していないで、昨日までの自分の分身のような愚鈍なものたちが町の内外に跋扈しているのだ。こうして危険の中枢の最深部で苦渋を舐めている人間がいるにもかかわらずだ。ありとあらゆる意味で、救いようがねえなと思った。当然自分にも向けられた思いである。
もどかしさをぶつけるようにサラの耳をほじくるうちに、中は綺麗になっていった。気がつくと皮膚が淡く輝いている。ピンクとベージュを絶妙の割合で混ぜたような上品な薄い色。
純平の脇には、サラの耳を不潔に貶めていた醜悪を吸収して、上下の膨らみが黒に近い色に染まった綿棒が四本も転がっている。終わりを告げてそこにほとんど同じものをもう一つ増やすと、サラは名残惜しそうにも満足そうにも聞こえる声を漏らし、両方の耳をもみしだいた。
「よく聞こえるよ」
「だろうな」
「ありがとう、純平上手だね」
お世辞抜きとわかる褒め言葉が少し誇らしかったが、それを態度で示すことはできず、真顔に若干陰鬱さを落とした表情で頷いてやって、何とか返事とする。
待ち構えていたようにポポが戻ってきて、サラの頭の上に降り立とうとした。そのときサラが急に真剣な顔になってびくっと右を見遣った。ポポはうわっとバランスを崩して落ちそうになったが、何とかこらえる。
思わず純平も目を向けたが、修理を待たなければ稼動することのないエスカレーターが奥のほうに見えるだけで、他には特に何もない。
「どうした?」
「ロロだ」
同じほうを向いて耳をそばだてていた大将が、突き出した鼻をひくつかせながら答えた。そういえば、ライオンもネコ科の動物だったっけ。
大将を呼ぶロロの声はだんだん近付いてくる。悲鳴のような切迫感を添えて連発されるそれが純平にも聞こえるほどになったときには、エスカレーターの上に現れてこっちへ羽ばたいてくる灰色の姿も見えていた。
四人の前に到達したロロは一言だけ叫んで右に旋回していく。「人間が攻めてきた!」という言葉だけが羽音の隙間に残された。
純平は思わず立ち上がる。
大将は何、と呟いて駆け出し、ポポは一言も発さずにサラの頭から飛び立って、それぞれロロの後を追った。
サラは純平に合わせてソファーから降りたものの、それきり純平が動こうとしないので、歯を食いしばった形相を不安げに見つめて立ち尽くしていた。
「行かないの…?」
「余計なことしやがって…」
およそ返答とは縁遠い言葉。二人の発声がたまたま連なっただけなので当然だった。しかし純平は改めて問い掛けに答えようとしない。ただでさえ消え入りそうな声だったから聞こえてさえもいなかったのかもしれない。
別段悪いことをしたわけでもないのに、小声になってしまったことを反省するようにサラが項垂れると、純平はいきなり走り出した。サラは慌てたせいで足がもつれ突っ掛かりながらも後に続いた。
ロロに導かれて建物の外周を四分の一回転する具合に通路を走り抜けると、窓の真下に橋が伸び、それを境に左に上流、右に下流が見え、川の向こうにビル街が広がる所にたどり着く。そこにタクローがいた。ソファーの上に立ち、窓に両前足をあてて黒い鼻を押し付けいる。正面からなら瞳を真下に落としたひしゃげた顔がよく見えたことだろう。
ロロは定位置であるタクローの右の肩に着地して外を見下ろした。大将、ポポ、純平、サラの順で到着した四人は、同じように目線を下に傾けた。大将の頭上で羽ばたいていたポポはやはり定位置のサラの頭の上に戻っていく。
向こう側の橋の袂で手に物持った何十人もの人間が蠢いているのが、六つの眼差しに例外なく認められた。こちら側の袂では、やはり何十頭もの動物たちが人間を睨んで固まっているのが見受けられる。ヒトの喚声とケモノの咆哮の混ざり合った奇妙な音響が、ここが六階の分厚い窓の内側だということを感じさせないほどはっきりと聞こえてきており、今にも交戦が勃発しそうだ。
大将が視線を逸らさずにタクローに聞いた。
「状況は」
タクローも窓辺に膠着したまま答える。
「とりあえず守りを固めているところだ。向こうも橋からこっちにはやってこようとしない」
「恐れをなしているのだろう。奴らは俺たちの力を把握しきれていないのだからな」
それらは一瞬のことだった。
純平の脳裏にある映像がよぎる。鎧に身を包み刀や槍を手に持ったこの何百倍もの数の人間が、黄昏の朱で染まった薄っすらと草生した平地を各々がしかし統一されたような鬨の声を上げて一方向に疾駆している、そんな様を鳥瞰している映像だ。実際に目にしたことのある整った映像ではなく、自分の頭の中で映像に昇華させたもの。撮影したのは自分で観賞するのも自分だけ。しかし筋道は考案したものではない。一昨日まで寝しなに読んでいた本の中に、夕暮れの平原だけでなく、朝の雪原や夜の山野やそれ以外の多種の組み合わせで幾度も登場していたことを思い出した。その後兵士たちにどんな運命が待ち構えているのかも。
刹那、純平は真後ろに走り出した。
サラはびっくりしてポポごと頭を後ろに回し、全力疾走で遠ざかる純平の背中に誘われるように窓から離れた。
タクローとロロは訝しげに振り返り、ポポの呼び止めに応じない二人の背を見つめる。大将は咎めるように舌打ちしただけで、人間たちから視線を外そうとはせず、話を続けた。
「武器は持っているか」
「鉄の棒や木の棒ぐらいだな」
タクローは顔を戻して答える。
「刃物を持ってる奴もいるみたいだが、銃の類は見当たらない」
「当然だ。昨日のうちに全て破壊したのだ。もはやこの町には一丁の銃も一発の弾丸も存在しない」
頷いて、大将を覗き込むように横顔を見遣り、尋ねた。
「どうする」
「もう少し様子を見ておこう。なに、生身で戦えば絶対に負けん」
「ねえ! 見て見て!」
ロロが叫んだ。大将は視界の位置を高くするため背を斜めに伸ばし、タクローは顔を戻すだけで、縦に広がったロロの右の翼が示す箇所へ目を向けた。
群衆の後ろのほうで、人間が一人、また一人と、後退りだったり完全に背を向けたりして、そそくさと離れてビル街に吸い込まれていっていた。橋の袂にいる者たちの幾人かも、人波に巻き込まれて後衛へ移っていくようでありながら、実際は自らの足で後ろに下がって集団から外れていく。代わりはすぐに補充されるため最前列で動物たちと対峙する人数は変化しないが、彼らが作る厚みは上からだと目に見えて薄くなっていく。
不意に大将は鼻で笑い、
「遣り合うこともなく逃げ出したぞ! 他愛もない!」
そばの二人を身じろがせるほど品のない見下した哄笑を始める。ロロと顔を見合わせたタクローは、恐る恐るという具合に頷かれて促されたので、激しく波打つ背中を戦きながらも突付いた。大将はぴたりと声を止め、ようやく窓から顔を逸らし、こちらを見据えてくる。もはや笑ってなどいなかった。
「全員で襲い掛かるぞ」
強い殺意を孕んだ低い声に、タクローが了解を示すために頷こうとした、そのときだ。
「大将!」
後ろからポポの声がした。
「大変だ! ちょっとこっちに来て!」
三人が振り向いたときには、ポポの尾羽だけがあり、今来た道を一直線に戻っていくところだった。
ポポを追い越し中央のエスカレーターを横切ったところで、ちょうど真向かいの橋を一望できる場所の純平とサラを発見した。純平はソファーを踏みしめて背もたれに足をかけ、サラはその左隣に背もたれをつかんで膝立ちになって、揃って窓の外を見下ろしているのだ。四肢の筋肉が一層膨張し、伴って速度が増し、すぐに二人の背後に到達する。
「どういうことだ」
腹立たしそうな大将の声に振り向いた無表情の純平は、一言も発さずに指をさして顔を戻した。大将は純平の右隣にしがみつきサラとよく似た体勢になる。
すらりと伸びた純平の指先の向こう、橋の先にある繁華街の始まりの建物の陰に、見える限りで十数人もの人間が隠れ、デパートのほうをじっと注視している姿があった。大将は息を呑み、場にいた誰もがその困惑する気配を感じた。
「一方に引き付けておいてもう一方から挟み撃ちにするつもりだろう。向こうはどうなってる」
「たった今、人間たちが逃げ出した」
大将の右隣に飛び乗って窓の外を見下ろすなり、呆然と言葉を失っていたタクローが慌てて答えた。純平は「やっぱりな」という言葉のとおり平然と頷いた。
「追い討ちをかけさせておいて、後ろから襲撃して、ここを占拠しようってとこだ。手薄になった所を攻め落とすのは簡単だからな」
「もし全員で襲い掛かっていたら、奴らの思う壷だったってことか」
「ああ。最も初歩的な戦術だ」
「もし全員で襲い掛かっていたら、アジトを奪われてた…」
「一巻の終わり、だな」
「ふざけやがって…」
二人で消え入りそうな唸り声を見下ろすと、うつむいてわなわな震える大将の前足に爪を立てられたソファーが、悲鳴を上げる口を持たないために黄色い綿をこぼれさせて、苦痛を吐露しているところだった。大将は顔を上げ様にタクローに叫んだ。
「両方から打って出て皆殺しにしろ! 一人も逃がすな!」
「それはやめたほうがいい」
振り向き様にまた叫ぶ。
「俺の命令にケチつけんのか!」
「作戦を考えろと言ったのはお前だ! 奴らの単純な罠も見抜けなかったくせに出しゃばんな!」
純平は人相が変わるほど顔面に力を入れて激しくなびくたてがみを睨み付け、大将は皺の寄った眉間に飛び掛からんほど逆上していく。だが、サラに後ろからしがみ付かれたりタクローとポポとロロに上から押さえ付けられたりして、またその様を見合ったことで、ともに幾分か落ち着きを取り戻した。
「それなら聞こう。どうしたらいい」
純平は頷いてサラをどけると、指を建物の中央へ伸ばし、その先のもう一つの橋のほうを指し示した。今頃群衆が雲散している頃だろう。それからタクローを見遣った。
「何人か引き連れて逃げた奴らを追え」
「俺と何が違う!」
「追い討ちかけるフリをするだけだ。最後まで聞いてろこのバカ」
大将をたしなめるついでに悪口を添えた一言を加えてから改めてタクローを見、
「橋を渡ったら川を回ってこう戻ってこい」
と、指先を川に沿うように前から後ろに向けて半回転させ、
「おそらくお前らが追ってくるものだと思って、逃げた奴らがあいつらに連絡をする」
と、ここからでは見えない橋から離れていく人間たちのほうを突付き、
「そしてあいつらが攻めてくる」
と、物陰に隠れている人間たちに指先を戻し、勢いをつけて落下させた。
「そこを挟み撃ちにしろ」
「やり返すってことか」
「そんなところだ。間違っても全員で行くなよ? あっちが手薄になって攻め込まれたら、元も子もないからな」
「俺はどうしたらいい」
「お前は入り口の辺りで待ち伏せして、奴らが橋を越えてきたら襲い掛かれ。それから」
純平が言い終えないうちに大将はタクローとポポとロロを跳ね飛ばして駆け出していた。床に落下したタクローが悲鳴を上げるのに構わず騒々しくエスカレーターを降りていく。
「最後まで聞けってあのバカ…!」
純平は舌打ちして早口になる。
「タクロー、これが一番大事なことだ、絶対にこれを守れ」
「あ、ああ」
尻餅をついたタクローは頷くと同時に急いで立ち上がる。ソファーに立っている純平とは背丈があまり変わらない。純平はタクローの目を正面からじっと見据え、左の肩を叩いてしっかりと握る。
「頼むぞ」
真剣な眼差しを浴びたタクローは神妙に姿勢を正し、一度だけ強く深く頷く。純平が口を開く。
「人間を殺すな」
「よしわかった。なに?」
反射的に答えて反射的に聞き返した。純平は続ける。
「できるだけ傷つけず、絶対に殺すな。生かしたまま捕まえてくるんだ」
「逃げられたらどうするの?」
「少しぐらいなら構わない」
タクローの右肩に戻りながらロロが尋ね、純平は即答してあごをしゃくった。
「ほら、早くしろ」
「あ…ああ…」
タクローは要領を得ずにためらっていたが、純平に促されると歯切れの悪い返事を残し、首をかしげながらもエスカレーターに走り出した。ロロも飛び立ち何度か純平を顧みつつ、タクローに続いて狭い吹き抜けを垂直に降下していく。
「よし、ポポ。お前も仕事だ」
「僕も戦うの?」
サラの頭に降り立つ寸前でつかみ取ってそれを阻み、純平は頷いた。
「今言ったことを大将に伝えてきてくれればいい。あいつ、俺が言う前に行っちまったからな」
「そういえばそうだね、わかった」
純平はポポを放ち、ポポは返事をして飛んでいった。ロロがそうしたようにポポもエスカレーターの隙間をくちばしを下に向けて落ちていき、羽音はすぐに聞こえなくなる。そして。
辺りは嘘のように静かになった。それでも純平は念のため確認しておいた。
「もう全員行ったな?」
サラは目を閉じ、じっと耳を澄ませて匂いを嗅ぐ。そして答える。
「うん、誰もいないよ」
「よーし…」
純平は大きく息をついて、脱力したようにソファーに座り込み、ウサギの耳ごと帽子を外して汗だくになった額を袖で拭った。サラは膝を曲げて正座し、心配そうに純平の横顔を覗き込む。
「あんなこと言ってよかったの? 人間を殺すな、だなんて…怪しまれちゃうよ?」
「それなら見捨てろっていうのかよ」
純平の睥睨にサラはうつむいた。耳もぺたりと伏している。不安なときのネコはそうするものだ。
「なに、ちゃんと言い訳は用意してる」
純平は笑みをこぼし、耳をつまんで引っ張り起こしてやった。
「後は奴らが俺の言ったとおりにしてくれればいい。そうすれば、奴らがいくら死んでも人間は死なずに済む」
「………」
「人間が死んじまったら俺たちの負けだ。だが、生きてさえいれば、とりあえず負けにはならない。今の俺が一人でできるのは、こうやって人間を生かしておくことだけだ」
純平はウサギの耳を握り潰し、最後に呟いた。
「奴らなんかに殺されてたまるか」
「………」
その姿を何も言えずに見つめているうちに、サラの耳はほとんど無意識のうちに、まただんだんと伏していった。
背後にその敷地を広げていく繁華街の末端にある、シャッターの閉まった商店の陰。道を一本隔てた場所にある橋の袂と、その先のデパートの大きなガラス扉の入り口を見渡せる所。しかしデパートのほうからちょっと見たぐらいでは、そこに誰かが潜んでいたとしても見落としてしまいそうな所。そこに一人の少年がいた。
幼児とは言わないが、それでも小学校低学年ぐらいだろうか。茶色い髪を生やした、あどけなく可愛らしい顔立ちだ。襟を立たせた白いシャツにデニムの長袖を羽織っているが、ボタンを閉じていないので、ベージュのチノパンを吊る深緑のサスペンダーが自身の動きや風の軌道で時折露になっている。
少年の真後ろには二人の男が控えていた。一人は膝を曲げて手持ち無沙汰に折り畳み式のナイフをかちゃかちゃ開いたり閉じたりしており、もう一人は木刀を腰に当て、さながら侍のように壁にもたれて静かに佇んでいた。さらにその後方には十数人の男たちが、建物や電信柱の陰に隠れていた。いずれも二人の男に倣ったみたいに、金属バットだとか、包丁だとか、いざとなれば武器になるものを手にしている。すでに手のひらに軽く叩き付けて重みを確かめたり、前方に振り回して空を裂いたりしているものもいた。みな大柄で屈強な体格を備えているか、小柄であっても敏捷に優れた肉付きを帯びているかで、どちらにしても戦闘に適した者たちである。
そんな物々しい雰囲気を発散している大の大人の男たちに混じって、しかもその先頭で、丸腰の少年は腕組みしただけの直立不動の姿勢で聳え立つデパートを窺っているのだった。
入り口に人気はなく、ここから見える限り店内も含めて無人だった。動物の姿は一つもない。それが作戦の成功のためなのか別の要因が働いているからなのか、今の段階ではこの場の誰にもわからない。だが少年は前者を疑っていなかった。動物なんかに僕の作戦を見抜く知能はないんだ。
やがて、その自信を裏付けるように、連絡が少年のズボンのポケットに届いた。興奮しまた嬉々とした男の声は、動物たちが追い討ちをかけてきたと早口で叫んだ。
少年は返事をせずに片方の唇を吊り上げ、携帯電話をしまい込んで振り返った。ナイフの男は手の動きを止めて立ち上がり、木刀の男は横目で少年を見下ろし壁から離れる。後方の男たちも彼らに従い身構えた。少年は男たちをなぞるように目配せしてから一度だけ頷き、体勢を戻し様に身を低くして駆け出した。
大人顔負けの速度だった。突風のように道を横断し、音もなく橋を駆け抜け、開いたままの自動ドアを通過して建物の中に進入するまで、数十メートルはあろうかという距離を十秒足らずでこなすと、外からその姿を確認したときにすぐにここを用いようと決めていたとおり、両側の壁に一つずつ置かれた観葉植物の植えられた円筒形のプランターの左のほうのそばに屈み込んだ。ただでさえ天井に届くほどの背の高い樹木なので、支える土を詰める陶製のプランターもそれだけで大きい。床に尻をつけた少年では目から上しか出すことができず、しかし相手に見つからないようにその相手を窺うには最適だった。
葉と葉の隙間を指先で広げる。一階の店内が見え、その手前から輪形の通路が左右に伸びていくのが認められた。両手で葉を掻き分けたり、注意深くプランターから顔を出すなどして、動物が見当たらないのを念入りに確かめてから、外に向けて腕を内側に回した。
すでに少年に続いていそいそと橋の袂までやってきていた男たちは、それを合図に大急ぎで橋を渡る。誰もが作戦の成功と勝利を信じて疑わない、誇らしげでどこか見下した笑みを湛えている。そして人気のまったくない建物の中に足を踏み入れようとした、そのとき。彼らの足が一糸乱れぬタイミングで一斉に停止し、表情が凍結した。
何かが彼らの正面遥か先のエスカレーターを駆け下りてきて、同じ距離を隔てた向こうに位置する彼らを発見するや否や、雄叫びを一声上げてスピードを一気に加速させ、猛スピードで走り寄ってきたのだ。金色の体躯と特徴的なたてがみは、遠目からでもその正体をライオンと認識させるのに十分だった。
ライオンの出迎えはそれだけで作戦の頓挫を意味していたが、それ以上に男たちはこれだけ殺気に満ちたそれも百獣の王と称賛される動物が牙を剥いて迫ってくる姿に狼狽し、また恐慌して、色とりどりの絶叫と悲鳴を重ねた。彼らの手の中に収められた武器として用いられるはずだった品々は、彼らの士気の下降とともに殺傷力を萎ませ、あるいは手放されてそれを消滅させた。
ほとんど一つに固まっていた彼らは、その塊のままで進む方向を逆転させ、喚き散らしながら走り去っていく。ところが橋の中央に差し掛かったところで、一人の男が不意に足をもつれさせてあっという間もなく倒れた。彼の手からこぼれた折り畳みナイフは乾いた音でバウンドし、自然に停止するまでコンクリートの上を滑っていった。
先を進んでいた男たちがようやくのことで、建物へ駆け出したときは少年に続いて先頭に位置していたため今やしんがりになっていた彼の不運に気がついたのは、彼を除いた全員が橋を渡り切ったところでだった。
それだって全ての者が気付いていたわけではない。ほとんどが振り返ることなく繁華街のほうへ消えていってしまったし、気付いた者の多くは速度が増しさえして、厚情にも足を止めたのはたった三人ほどだった。
その三人だって、慌てて逃げようとするものの慌てるあまり手付きが覚束無くなって立ち上がることすらできずに余計慌てふためいている必死の男の後方を視界に入れてしまっては、とても身を挺してまで救出に行くことはできず、その場に立ち尽くしたまま更なる彼の不運を想像して顔をしかめるのが精一杯である。
ライオンは入り口からはなお深い所でそんな情けない有様を眺めていた。逃げ出した人間たちをそのまま追撃しようとしたが、すっ転んだ間抜けが出たために思わず立ち止まってしまい、自然と顔中に嘲りが潮のように満ち、倒れた男にしっかりと狙いを定め、その背に追いすがって爪を立ててやろうと身を屈めたところだった。
これらとまさしく同時の今この瞬間に、少年はやっとライオンが現れたことを知った。突然人間たちがスケールの小さな阿鼻叫喚と化して橋を戻っていった時点では何が起こったのかを把握できておらず、こうして訝しげに葉を指で掻き分けてみて、すぐ目の前に身を屈めたライオンを発見したのだ。少年の歯がぎりりりりりりりと工業機械のようにけたたましく軋む。
万が一を考えて慎重に進入したわけだが、儀礼のような配慮だったのでこうなるとは全く考えていなかったし、見える所に動物がいなかったのでやらなくてもよかったと考えていたぐらいだ。作戦を見破られていたことがとにかく悔しかった。勝利を逃しただけではない。人間が動物に敗北したのと同じような気分だ。その元凶であるあのライオンを殺してやろうと決意した少年の両手には、自分の背丈と張り合えるほどの大きさの、細長い銃身を持つライフルが握られていた。
少年の位置からも橋の上でもがいている男の姿は確認できる。葉に遮られているので手や指を用いなければ見えないが、ライオンが屈んでいたのがそこへ襲い掛かるためだということは察しがつく。少年はプランターを背にして、入り口のほうへ銃口を斜めに向け、引き金に指をあてた。ライオンはすぐに駆け出す。そのとき横っ腹が無防備に左右に広がる。そこへ弾丸をぶち込んでやる。
「大将!」
店内から声がした。首を後ろに曲げたが少年には声の主は見えない。
葉に阻まれてもどかしそうに歪む幼い視線の先では、大将が不意の呼び掛けに拍子抜けしたようにひとまず体勢を戻し、振り向いて叫んでいた。
「何だ!」
「伝言。人間を殺すなって」
「なに!」
少年も同じことを思ったが、どんなに目を凝らしたところで茂みの間から確かめることができるのは別の葉っぱとその明るい緑色だけだ。今はただ焦慮に耐えて二人のやり取りにじっと耳を傾けるしかなかった。
「どういうことだ! 説明しろ!」
「できるだけ傷つけないようにして、絶対に殺すなって。生かしたまま捕まえてくるんだ、だって」
「あいつがそう言ったのか!」
「うん。大将に伝えてきてくれって頼まれたんだ」
「あの野郎…何のつもりだ!」
建物の中へ駆け出していくライオンの足音と、「ちょっと! 追わなくていいの?」という驚いた調子の呼び掛けに続いてぱたぱたという羽音が遠ざかっていくのが聞こえた。
少年はライフルを下ろし首を戻した。橋の上の男がとっくにいなくなっているのと、その向こうにも誰もいないのを見るともなしに確認してから、少しだけ顔を出して一羽のハトを確認し、それがライオンに続いてエスカレーターの上空を登っていくのを見届けてから、プランターの陰から這い出てきた。
そのときの少年の手からはライフルが消えていた。銃身に添えられた左手も引き金に食い込んだ右手も手ぶらで腰の横に伸びている。しかし、それを気に留めるものはどこにもいない。
少年は息をついて考えた。
大将と呼ばれていたあのライオンは、その呼び名や種から鑑みても動物たちのボスなのだろう。そのボスに対して人間を殺すなという指示が与えられた。ライオンに「あいつ」とか「あの野郎」と口走られた、何者かが別にいるということだ。百獣の王に指示を出すことのできるだけの動物がいただろうかという疑問がもたげかけたが、それを深慮する場合ではない。
首を垂直に曲げた。ただでさえ高い天井がこの上に十数階に渡って積み重なっていることを、内部からでは実感できないものの外観から把握している。
一人でもこの広い建物を占拠することは可能だ。だがそんな行動は予定にないし当初から選択肢にさえなかった。追い討ちをかけてきたという連絡があったのだからそっちも気掛かりだ。何かがボスにまで殺害を禁じたとはいえ、他の動物たちに徹底されているのかどうかは判然としない。となれば逃げた人間たちを確実に守るべきだ。攻め込むのはまたいつでもできる。たった一人でも死者を出したら、そのときこそ人間は、自分は、本当の敗北を味わうことになってしまう。
そこまで思い至らせた少年の元に、また連絡が届いた。先ほどと同じで興奮したしかし今度は切羽詰った男の声は、焦燥のせいでどもりながら、動物たちがそっちへ向かったという旨を叫んだ。
作戦の失敗どころか、まんまとそれを返されたということだ。一瞬回路が停止して立ち尽くした少年は、直後に歯を軋ませて全力疾走で建物から退く。勝利を逃したなどという生易しいものではない。これで完敗の危機が現実味を帯びた。いやもうすでに敗れ去ってしまっているのかもしれない。僕がついていながら!
橋を駆け抜けて繁華街に差し掛かり、飲食店の裏口に挟まれた食材の入った段ボール箱やポリバケツが思い思いに居場所を占めている細い小道に忍び込み、左右に太く伸びる大通りに出ようとして、少年は慌てて体を戻した。それからそっと通りを覗き見た。
繁華街は町の他の多くの地域とともに、前夜のうちに動物が人間を襲い人間が動物に追い散らかされた箇所である。場所柄も手伝って人の数が多かったこともあり、動物たちに真っ先に狙われた場所でもある。その幹線とあっては被害も顕著で、傷跡のない店は一つもない。夜の店のカラフルなネオンは壊され、そこから覗いた地味な白い電灯だけが明滅しており、少年の正面のそれのように、沿線のコンビニは無人となってその全てのガラスが砕けている。
時刻以上に深刻な理由で殷賑も喧騒も消え失せた大通りには、そこら中に人間が倒れていた。うつ伏せていたり向こうを向いていたり仰向けだったり、あるいは意識の剥離した眼差しでこっちを見ていたりするのは、どれもこれもついさっきこの道を進んでここまで一緒にやってきた仲間たちである。一人として生死も定かでない。はっきりしているのは追い討ちをかけると見せかけてこちらへ赴いてきた動物たちの襲撃をまんまと受けてしまったということだけだ。それだけで敗北には十分で、もしもあの中にすでに息のないものがいたならば、もはや人間の勝利は永遠に絶たれたことになる。少年はぎりぎりと歯を軋ませたが、飛び出すことはできなかった。彼らの周りのあちこちに動物たちがたむろしているのだ。
一番近くにいるのはシロクマとトラとオオカミだ。彼らの体を前足で揺さぶったり鼻先で突付いたりしており、どうやら動かないのを確かめているらしい。
三頭が全くそれをしようとしないでまたいだり通り過ぎたりしていく、妙に鈍い光を放っている見覚えのない薄緑の仲間がいるなと思ったら、それは不意に這うように動いた。しかしそれでも三頭が気に留めないのでよく見てみると、その正体はワニだった。ワニもまた長い顔の先端で人間の体に触れて反応を確かめているのだった。
気配を察して反対側を見遣ると、向こうのほうからゴリラが肩に一人を担ぎ、傍らのサイの背にくの字にうつ伏せになった二人をずり落ちないように押さえて歩いてきていた。シロクマが二頭に声をかける。
「殺してないだろうな」
「ああ、手加減して気絶させている。どうやらこれで全部だ」
「でもどうして助けるんだ? どうせいつか殺すのに」
「俺にもわからん。まあとにかくそういう指示だからな」
ゴリラが答え、サイが問う。シロクマは両前足を人間が腕組みするようにねじらせて首をかしげた。少年も同じ理由で首をひねった。
動物たちの口振りでは、彼らは辛うじて生を約束されており、この後もしばらくそれが続くようだ。あのハトが大将と呼んだライオンに告げたのと同じ、何者かが命じた指示が、他の動物たちには行き渡っているようだ。しかしなぜ今更になって助けようとしているのかわからない。もちろん殺されないのに越したことはないが、どういう風の吹き回しだろう。
これは敗北だろうか。無論動物たちを壊滅させていないので勝利ではない。だが死者がいないのであれば自分が定義した敗北とは異なる。彼らを救出して敗北を確実に免れたいのは山々だが、今ここで戦闘になったら彼らを巻き添えにしかねない。自分自身が人間の敗北の引導を渡しかねない。下手に暴れるわけにはいかない。仕方ない。一旦このまま退かなきゃならない。
ぱたぱたぱたという軽やかな羽音に少年は顔を上げた。狭い空の真ん中に一匹のハトが飛んでいた。忙しなく首を動かして辺りを注視していたハトはその行動の一端として地上を見下ろした。そこで二対の目線が交錯した。
ハトは目を見開いて首を正面に向け、女の子の叫び声を発した。
「タクロー! ここにも一人隠れてる!」
少年は歯軋りし、すかさず右手をハトに向けた。その手にはいつの間にか、黒光りするピストルが握り締められていた。
純平はソファーの上に立ち、波止場の男さながらに背もたれを踏み締め、少しでも高い場所に視界を置いて橋を見下ろしていた。建物の陰に身を潜めている人間たちを発見したときと同じ格好だが、視線の対象は、風景は微妙に、実質は正反対に異なっている。
サラが後ろから駆けてきて報告した。
「大将がうまくやったみたい。みんな逃げてっちゃった」
「こっちも大丈夫だ。その後攻めてくる気配はない」
純平は体を半回転させて落ちるように座り込み、背もたれに寄りかかって息をついた。サラは隣に膝立ちして外を見下ろす。
さっきまで聞こえていた喚声は嘘のようになくなっていた。橋もまた、こちら側の袂には列になった動物の姿が見受けられるが、向こう側には防ぐべき人間はいないという有様である。その下では川が素知らぬ顔で、左から右へと静かに流れているだけだ。
「成功だね」
「まだだ。あいつらが俺の言うとおりにしてなけりゃ、何の意味もない」
「そっか…」
膝を回し、サラも体の向きを百八十度変える。二人きりということもあって、純平は一体となっているウサギの耳とニット帽を腹の上に押さえていた。元の格好であり本来の姿である人間の純平を眺めているうちに、サラの口からはふっと感嘆のため息が漏れた。
「やっぱり純平って頭いいんだね」
「何だよ急に」
「私、あんなこと思い付かなかったもん。人間が動物を挟み撃ちにしようとしてるなんてことにも全然気がつかなかった。純平ってすごいね」
「よせよ」
純平はしかめっ面を逸らして手を振った。にべもないが気分を害したわけではないことはわかる。
「どうしてわかったの?」
それが証拠に純平は満更でもなさそうに種を明かす。
「今読んでる…というか読んでた本でな、似たような場面があったんだよ。戦国歴史小説なんだけどな」
そこで体を起こした純平の表情は、いつの間にか輝くように明るくなっており、話には楽しくて仕方ないという様子で身振り手振りが交えられた。
「敵を攻めるときに軍を二つに分けて、一方を敵の背後に隠しておく。伏兵って奴だ。残った軍勢で正面から攻めて、適当に戦って退散する。すると相手は敵が逃げ出したと思って全員で追い討ちをかけてくる。そこで空っぽになった陣地や城を伏兵に占領させる。まあ、よくある戦い方だ」
サラは圧倒されたみたいにぽかんと口を開け、感心して頷いた。
「すぐに気がついてやり返せるなんて、さすがだね」
「よせって、それもよくある手段だよ」
純平は苦笑いの前で虫でも払うように軽く手を振ると、サラに背を向ける形で体勢を横にし、背もたれに横から寄り掛かって頬を掻く。背中がかすかに上下する弾みで揺れ動くコートの襞を眺め、サラは、照れなくてもいいのにと、くすりと微笑した。
「まあ人間だからかな」
「………」
そこでサラの笑顔は、急速に冷えて固まった。
「あいつらみたいなバカ共とは、ココの出来が違うんだよ」
「………」
側頭を指で突付きながらの吐き捨てるような純平の言い分は、動物たちを、ことのほか大将を否定するためのものだった。誰かに説くことより、自分に言い聞かせることで自分自身の士気を高めるためのものだった。人間たちの作戦に気がつかなかったのが大将たち動物だけではないことを、また同時にサラが自分とは違う種であるということを、すっかり忘れていなければ行い得ない演繹だった。
「やっぱり…そうなのかな…」
「そうだ」
「………」
嘲って微笑む純平のまぶたに映っているのは、大将の失態とそこから派生した醜い激昂だけだ。真後ろにいるにもかかわらず、あるいはだからこそ、サラのことは視界に入っていない。だからこそまた、サラが背中の先で、つまらなさそうに尻尾を振って、改めて何もない自分の頭上を見遣り、次に自身の両手を見つめていることを知らない。その顔がとても寂しげだということも。
でもサラはすぐに、もげそうになるぐらい大きく首を左右に振ってから手を下ろした。どうせわかっていたことなんだからと、吹っ切れたように微笑んで、その笑顔はまた凍り付く。
「大将が来る」
「早いな」
エスカレーターのほうを見つめてサラが早口で言い、純平は少し不愉快そうにそそくさとウサギの耳とニット帽をかぶった。
程なくしてエスカレーターを駆け上がってきた大将は、一目でそれとわかるほど激怒していて、まっしぐらに迫ってくるとそのまま仕留めてしまうかのように純平の胸倉を両前足で押さえ付けた。
純平にとってはとっさのことでもあったし、警戒していなかった代わりに油断もしており、当然避けようともしなかったのでそうなってしまったのだ。だが押し込まれた勢いで一回咳き込んだだけで、苦しさや痛みはそれほど感じず、そのせいか不思議と恐怖も覚えず、ただひどく困惑だけをして、何とも不可解という具合に顔をしかめた。
急いでサラがソファーから降り大将を後ろから抱き締めた。どうやら引っぺがそうとしているようだが、振り落とされないように必死の形相で背中に抱き着いているだけにしか映らない。それほど大将の力は強いのだ。実際純平の胸にかかる負荷に変化はないし、大将も蚊が止まった程度にしか感じていないのだろう、サラを顧みもせず純平に叫んだ。
「どういうつもりだ!」
「何のことだ」
「とぼけるな! 人間を殺すなとはどういうことだ!」
「言ったとおりにしたんだろうな」
「それは貴様の返答次第だ! 行くかどうかはそれから決める!」
「?」
ますます怪訝そうに純平の眉間に皺が集い、尋ねかける目線はちょうど上空に現れたポポの瞳と合わさった。
ポポは小さく呻いて顔を歪めているサラの頭の上に降り立って翼を閉じると、尖った声でさらりと言った。
「大将、追い掛けなかったんだ」
純平は途端に目を剥いた。
「手前! 何もしないで戻ってきたのか!」
大将も負けじと牙を剥き出しにして純平に顔を近づける。
「お前がわけのわからん指示を出すからだ!」
純平も純平で怯む素振りもなく牙と触れるほど前歯を剥き出しにして顔を寄せてやる。
「手前が人の話聞かねえでさっさと行っちまうからだろうが!」
もはや言葉はいらなくなった。大将は一介の獣に戻り、純平は眠っていた野性に目覚め、それぞれ自分勝手に放たれた二色の唸り声が不思議なハーモニーを奏でる。
今にもどちらかが相手に噛み付きそうに睨み付け合う両者の目と目の間に、灰色の翼の表と裏が差し込まれたのはそのすぐ後だ。大将の首に飛び乗ったポポが大将の両目を覆うようにして大将を引き離そうとしたのだ。
「邪魔だ! どけ!」
大将は顔を後ろに向けようとするが、ポポはしっかりとうなじにしがみついているのでその怒号を浴びていない。
「これは大将が悪いよ」
「なに!」
大将は声のほうへ顔を向けるものの、ポポはそれによって後ろに回ることになる。大将はなかなかその法則に気がつかないで頭を振り回し、ポポは尾羽を引いてくる遠心力とそれをもたらす大将の怒気にほとほとうんざりした様子で続ける。
「大将が自分で決めたんでしょ? 二人は僕らと違って頭がいいから作戦を考えてもらうことにするって。その二人が決めたことなんだから」
そこまで言ったところでポポはふわりと浮かび、次の瞬間には純平の胸の上に叩き付けられていた。体を両翼ごと大将の両前足に微動だにできないぐらいしっかり挟まれており、食いしばった牙が眼前に現れる。鋭い視線も瞳に突き刺さって、辛うじて絞り出された最後の声は、震えて消え入りそうになっていた。
「それには従わなくちゃ…」
「俺が命じたのは人間を殺す作戦だ! 生かす作戦など求めていない! なんだ!」
大将が後ろを向いて叫んだ。サラがポポのしたように、大将の目を手で覆ってみたところだったのだ。サラは半ばたてがみに埋もれて隠れた、全体の様相からは不釣合いな可愛らしい真ん丸の耳に口を近づける。
「純平の話も聞いてあげて」
「ああ?」
「ちゃんとした考えがあるの」
「考えだあ?」
「さっき私に話してくれたもん。ね、純平」
まだ話してないぞと眉をひそめた純平は、念押しの添えられたサラの目配せに合点がいったことも含めて頷いた。「ああ」
大将はしばらくの間低く唸りながら、サラの手の中から三人を見回してから、ようやく純平の上から離れた。
純平はこれ見よがしに咳払いをしてから舌打ちし、中央に皺の寄ったコートを整える。奇跡的にボタンは全部くっついていた。サラはその隣に素早く陣取って抱き着くように背中をさすってやり、大将に解放されたポポは急いでサラの頭に避難した。
「いいだろう、その考えとやら、話してみろ」
大将が相変わらずの威圧的な口調で促すと、
「俺にも聞かせてもらおうか」
いつになく荒っぽいタクローの声がそれに続いた。
純平は心持ち首を伸ばして正面の視界を開き、残り三人も同じほうへ視線をなげうつ。
行きと同じようにエスカレーターで戻ってきたらしいタクローは、通路の中央に二本足で立っており、ヒトが大切なものを両手で運ぶように、くっつけた両前足を胸の前に置いていた。
タクローはその場でゆっくり膝をつくと、広げた両前足の上に置いていたものをそっと床に下ろした。横たわったロロだった。天井を向いた左の翼が広範囲に渡って赤く染まっているのが誰の目からも確認できた。
「ロロ!」
血相を変えるなり一声叫んで、ポポは飛び立った。ほぼ同時に大将とサラも駆け寄る。
思わず純平も立ち上がったものの、立ち上がっただけでそのまま動かなかった。動けなかったようなものだ。なぜなら赤い沼の中心にあるその傷跡は、獣医になってからこれまでに一度も目にしたことのない奇妙なものだったのだ。よく見れば遠目からでもわかることだが、ロロの翼は綺麗な赤ではなく薄汚い赤黒さが占めている箇所がある。それが血を吐き出す傷だ。しかしそれは切られたものでも殴られたものでもなさそうだ。純平は深い擦過傷だと診断した。しかしその奥行きはここからでは窺い知れない。
ロロのそばに降り立ったポポは、縋り付くようにしてロロの名を叫びまくった。サラと大将も周りを挟んで座り込み、心配そうに、あるいは黙って、二人を見下ろしている。しかしくちばしを半開きにし、目を閉じたままのロロは、ほんの一言の返事はおろか、わずかな反応もその体に示してくれなかった。
「人間に撃たれたんだ…畜生…!」
タクローがそう言って、人間の拳骨さながらにすぼめた前足で床を殴りつけた。
「奴ら…どこかに銃を隠し持ってやがったんだ…畜生…! なのに…恐くて追えなかった…畜生…!」
タクローはもう二回床を殴りつけると、前足をリノリウムにねじ込ませたまま、今にも泣き出すのではないかという顔をふっと上げ、戸惑いを隠せないでいる純平を睨んだ。
「なぜあんな指示を出したんだ、純平。返答次第では、捕らえた奴らを皆殺しにするぞ!」
純平は言葉に詰まってうつむいた。大将の話から銃器は無いものと信じていた純平にとっても、こんな展開は期待していなかったし、何より想定外だ。
そしてそんなことはタクローの知る由ではない。タクローは人間に襲い掛かる代わりのように叫んだ。
「答えろ純平!」
「聞く必要はない」
大将はタクローを見、タクローは怪訝そうな顔を大将に向ける。
「人間たちは今どこにいる」
「とりあえず…地下二階に運ばせてるところだ…あそこには何もないからな…」
大将は頷き、続いてポポを見た。ポポはとっくに悲しみとか怒りとかを通り越してしまったような、放心したみたいな顔を大将に向ける。
大将は目を細め、一言だけ告げた。
「殺すように伝えに行け」
「……わかった!」
ポポはその言葉で怒りを回復させて、高く高く首を持ち上げてから勢いよく落下させた。
大将は目を見開き、もう一言だけ加えた。
「これから先は何があっても手加減などするな!」
「わかった!」
ポポは今度は素早く頷くと、大きな動作で力一杯翼を広げて天井を見上げた。
「待て」
言葉とともに手のひらで制され、ポポは反射的に飛び立つのをやめる。
純平はようやく駆け付けて膝をつき、サラの隣にしゃがむと、ロロのくちばしの少し先に手を差し出した。無風とほとんど変わらないようなか細い微風が、神経を集中させた指先の間に泳いだ。
「まだ生きてる」
「どうせ死ぬに決まってる…!」
「ロロは人間に殺されたんだ!」
「俺たちも奴らにやり返す」
ポポとタクローと大将の、涙声と怒声と呟きを聞き流し、純平はロロの傷口を軽く撫でる。生まれて初めて銃撃の跡に触れて感じたのは、その熱だ。肉が焼かれたのだということを触感で認識でき、辺りに漂っていたきな臭い匂いに今ようやく気がついた。問題は傷の深さだ。傷を悪化させないように、慎重に指を滑らせてそれを確かめたところで、純平は感心したように頷いた。
「うまく避けたんだな。出血は多いが、ちょっとかすっただけだ。サラ」
「えっ?」
そして隣を見遣る。心配そうにロロを見つめていたところを不意に呼び掛けられたサラは、目を丸くして純平を見返した。
「脱脂綿と包帯と傷薬、上から持ってきてくれ」
「……うん…」
途中で天井に向けて突き立った純平の人差し指の先を焦点の定かでない暗い眼差しで見上げてから、サラはやけに力のない返事で小さく頷いた。如何を尋ねられるより早く腰を上げ、エスカレータをぱたぱた駆け上がっていく。
「治せるのか」
祈るようなタクローの問い掛けを一瞥すると、純平は深いため息をついてからしかめっ面を帯びさせ、改めてタクローの顔をじっと見据えた。
「こんな傷でびくびくすんな。野生の動物なら舐めて治すぞ」
「そんなこと言われたって…」
「所詮動物園の動物だな、人間がいなきゃ何もできねえか」
タクローがいたたまれずに項垂れ、純平が鼻で笑った、そのときだった。ロロの傷に触れる純平の手に温もった何かがぶつかってきた。
純平がその正体を満面に怒気を湛えた大将の顔だと悟ったときには、もはや手を引く間もなく、純平の手は激しい音を立てて食いちぎられる代わりに、体半分がのけぞるほど強い勢いで押し戻された。
前触れのない唐突な行動を前に呆然とする三人を尻目に、大将はまるで喉の渇きを潤すために水溜りから水をすくい取るように、大きな桜色の舌をロロの傷口に這わせた。力が強すぎるのか一舐めでロロの体が前に動いてしまったので、両前足で頭と尾羽をしっかり左右から押さえてやって、何度も舐める。執拗なほどに、何度だって舐める。そこからは獲物を食むのとは百八十度異なる、しかしそのときと変わらないほどの必死さが伝わってくる。
「僕もやる!」
ポポが思い出したように叫んで飛び立ち、大将の向かいに降り立った。翼を閉じるより早く大将の額に頭をくっつけて、布の切れ端ぐらいの頼りない小さな舌を、それでも妹を救おうと、くちばしの先から傷に向けてちろちろ伸ばす。
「俺も…! ああ…! どうしよう…! ああ…! どうしよう!」
入っていってやりたいもののタイミングと場所を見つけられないらしく、タクローは二人をおろおろ見回しながら周りをうろうろし始める。
純平は息さえ潜めて、それらの様を黙って見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「もういい。後は俺にやらせろ」
大将とポポ、ついでにタクローが動きを止める。
「薬のほうが効果がある。包帯ぐらいは巻いたほうがいい」
ポポは名残惜しそうに、しかしおとなしくロロから離れた。だが大将は純平を見据えたまま、再び舌を活動させた。
「どけって」
大将は一言だけ言い返すために動きを止めた。
「人間の道具はいらん、俺たちだけで治す」
「人間の道具がどれぐらいのものか、わかってんだろ」
「………」
「意地張んな」
「………」
「ほら」
大将はもう一度だけ、少しだけ動きを止めた。
「やるときに言え」
そして治療を再開する。まるで、この行為がロロの生死を分けるのだと信じているみたいに。ポポも戻ってきてそれに加わり、タクローはまた慌て出す。
それぞれが一生懸命で、一心不乱だった。同種であるか異種であるかに関わらず、仲間だという共通項のみにおいて、一つの命を救おうとしている。それが自分たちを滅ぼす目的のためであると承知しているために末恐ろしくもあったし、それにもかかわらずどこか胸を揺さぶるものがあった。
純平はしばらくしてから、ようやく了解を示すべく一回頷いて、それきり何も言わなかった。
純平の名を呼びながらエスカレータを駆け下りる音が響いてきた。
両腕いっぱいに物を抱えて戻ってきたサラは、純平のそばにたどり着くなりそれらと一緒に膝から落ちた。薬の箱が大量に散らばり、サラは四つん這いになってはあはあ息を切らしながら尋ねた。
「これでいい?」
「ああ、こんなに多くなくてもよかったけどな」
純平はその中から脱脂綿を取り除き、二、三枚を一度に摘み取っておいてから、残りの異常に多い薬に手を伸ばした。
本当にこんなに多くなくてもいいのになと思いながら、こんなに多いものなのかなと思いながら、縦長の箱を開けて指を入れると、両目をはっきり二回瞬かせてそれを取り出した。白い錠剤の詰まった透明なビン。ラベルを読んでみた。
「頭痛時成人一回二錠」
床に滑らせるように後ろに放り投げて次を取った。
「胃のもたれに」
また捨てて一気に幾つか手に取り口に出すなり手放していく。
「下痢止め腹痛二日酔い目の充血に風邪に早く良く効きます…」
最後の一つなどもはや読む気にもならない。
「サラ!」
サラはびくりと体を縮めて目をつむり、耳を伏せて尻尾を太くした。
「傷薬つったろうが!」
「だって…」
サラは小さく言い返してうつむくと、言いづらそうに続けた。
「私…文字は読めないんだもん…」
「……何だって?」
そこで弁明する瞳を上目遣いに向けた。
「だからせめて、目ぼしいのを全部持ってきたんだよ?」
道理でおにぎりを割っていたわけだ。そうやって中身を確かめて、自分の食べられそうな、自分の好きそうな具を選んでいたのだろう。ようやく謎が解けた純平は、ははあと頷きながら『ぢ』と大きく書かれた細長い小さな箱を放り投げると、思わず苦笑して一際大きな袋を手に取った。
「だからってこんなもん何に使うんだ」
「知らない。何に使うの?」
純平はぎょっとして押し黙る。
「ねえ」
「………」
「ねえってば!」
「…血を」
「うん」
「…止めるんだよ」
「じゃあそれでいいじゃない!」
「意味が違うんだ! コレとソレとは!」
純平は半ば顔を赤らめて、生理用品をとびきり遠くへ放ったところではっと気がつき、その手で一つの箱を摘み取った。
「これだよこれ!」
純平は照れ隠しのように「すり傷切り傷に」と記されている部分をサラの目の前に突き付け、困った顔をますますすくませる。
中から商品名のロゴの入った白いプラスチックのボトルを取り出すと、素早く蓋を開けて逆さにし、指が湿るほど中身を脱脂綿に染み込ませながらどくように言った。大将はポポと一緒に、今度は素直に応じてロロから離れた。
脱脂綿を傷にあてると、意識を喪失したままにもかかわらずロロの口から呻き声が漏れた。
瞬間、大将の純平を見る目が鋭利になり、タクローが眼前に腕を突き出して取り成した。大将は落ち着きを心がけ、何かをするつもりがないことを首を振って示し、タクローは手を下ろした。
ポポはロロの耳元で元気付けてやろうと何かを囁いていて、時折くちばしで顔を撫でている。
サラは手馴れた手付きの純平を、しかし尻尾を不安に揺らして、心配そうに見つめていた。
何度か脱脂綿を交換するうちにロロの体から赤い色は見えなくなっていき、元の灰色の翼が戻りつつある。一方で白を赤に変えた脱脂綿は、純平の傍らに嵩を増していた。
「なぜ人間を助けるのか、教えておこう」
純平が話し始め、大将とタクローは純平を見た。サラもぴくりと傾いた耳とともに純平のほうを向き、ポポもロロに呼びかけるのを中断した。
「人間を人質にしておくんだ。そうすればそう簡単に他の人間たちが攻め込めない。そうすれば無駄な戦いを防げる。そうすれば犠牲も出ない」
そうすれば人間を助けられる。という続きが、サラには聞こえた。思わず尻尾をぴたりと止める。
純平は片手でロロを胸の前まで持ち上げ、もう片方の手で包帯を伸ばし、傷口を覆うように縦に巻き付けていった。
「サラ、これここで切ってくれ」
そうして数周したところで包帯をサラに差し出した。サラは頷いてそれを受け取ると、純平の人差し指と親指に挟まれていた箇所にそっと牙をあてて噛み切った。軽い礼を言ってロロを床に戻す。
「仲間を救い出すために全力で襲ってくるということはないのか? 俺だったらそうするぞ」
「それでも殺すのはいつだってできる。違うか?」
大将の問い掛けに答え、また問い返しながら、純平は包帯の両端を固く結んだ。簡単な作業は考え込んだ大将の答えを待つより早く終わった。
「これでいい」
治療の完了を口にして、純平はロロの頬を指先でくすぐるように撫でてやる。まるで示し合わせていたみたいに、ロロのまぶたが微動して、それから薄く持ち上がった。医者と患者を除く息を呑むような四人の歓声が、ほんの一瞬だけ重なった。
「ロロ! 僕がわかるかい?」
「……お兄ちゃん…?」
すかさずポポが絶叫してロロの視界を封じ、ロロは突然現れたポポをじっと見つめて呟いてから、顔をしかめて問いただした。
「私…撃たれたのよ…? どうしてお兄ちゃんがいるの…? お兄ちゃんも死んじゃったの…?」
「何言ってるんだ…」
ポポはため息を、それでも嬉しそうについて、翼でロロの頭を撫でた。ロロはまだ状況を把握し切れていないらしく、弱々しく瞬きしてなおも尋ねた。
「私……生きてるの…?」
「そうだよ! まったくもう…みんなに心配かけて…」
「どうして生きてるの…?」
「どうしてって…どうしてって…」
ポポは呆れてしまい、その上感極まり、その先はもう言葉にならない。代わりにサラがむせび泣くポポの後ろに微笑を差し込み、その後を継いでやる。
「純平が助けてくれたんだよ」
「純平が…?」
ロロの目がちょっと大きくなって、きょろきょろ動く。包帯を認めたのと同時にそれが体に巻かれていることを悟った。続いて夢心地のように幸せそうなタクロー、柔らかな笑顔でこちらを見守っている大将、そして当然の結果に誇らしげに唇を片方吊り上げている純平を見つけ、視線はそこで止まる。ロロはほっと目を細めた。
「ありがと…」
純平は頷き、丸い結び目をちょんちょんと触った。
「しばらくすればまた飛べるようになる。ゆっくり休んでろ」
ロロは小さく頷いて軽く目を閉じた。
大将も大きく頷いて、心底安堵したあまり床にへたり込んだままのタクローに目をやった。
「ロロの世話を頼みたい。仕事を増やしてすまないが、やってくれるか?」
「任しとけ」
タクローはひょいと体を起こして胸を叩くと、背中を曲げてロロに口を近づけた。
「よし、折角だから俺も舐めてやるよ」
「あ。よせ!」
純平が手で制して叫んだが遅かった。タクローは包帯の上からロロの傷を舐め、その際に包帯にたっぷり染み込んだ傷薬を舌ですくい上げてしまった。
この世のものとは思えないような絶叫が、上下三階分ぐらいは建物の中に響いた。
タクローは全員から離れて一人、通路の隅のほうで四つん這いになり、喉の奥まで至ってしまった苦味を必死でなくそうとしていた。
口の中が涸れてしまうぐらいに唾を吐き散らし、しかしそれだけでは足りず、口の中に前足を突っ込み、飲み込んでしまった薬を拭き取ろうとし、そんなことできるわけもない。突如顔色が変わり、慌てて足を取り出し、激しくむせる。なのにその作業を繰り返す。
酔っ払いの末路のような惨めな醜態を尻目に、純平と大将は床に座ったままで向かい合っていた。話題は捕らえた人間の処置についてである。
「どうしても生かすべきなのか」
「大事な人質だ」
「いずれは殺すんだぞ」
「それはいつだってできる」
「それはいつだ」
「俺が決めたときだ」
「………」
「死なせちまったら何にもならない」
「ならば…どういう待遇にすればいい…?」
「食事はしっかり確保しろ。布団や毛布は山ほどあるから使わせてやれ。便所に行きたいって奴は行かせてやれ」
「そこまでするのか…」
「当然だ」
「………」
「お前らはどうだった」
「何…?」
「動物園ってのは、そんなに扱いが悪かったのか?」
「………」
「食うものにも事欠いてたのか。望むときに糞も小便もできなかったのか」
「………」
「人質を粗末にすると、ロクなことにならないぞ」
「……サラはどうだ」
大将は身じろぎしない純平の眼差しから顔を逸らすようにして、サラに問いかけた。
サラは看護婦が怪我人を寝台に横たえるように、ロロをソファーの上に移してやってから、自分は床に膝立ちになり、傍らに陣取ったポポと一緒に頭を撫でたり言葉をかけたりして、ロロの看病をしていたところだった。そこへいきなり呼び掛けられたので、びっくりして振り向く。
「え? 何が?」
「人間をどうするかだ。お前の考えは」
「私も純平と一緒」
サラはくるっとロロのほうへ舞い戻り、大将は黙ってため息をついて項垂れる。
「不満か」
純平の問いにもちらりと上目を向けただけで答えず、逆のほうへ顔を背ける。
そこへタクローの咳が数度に渡って轟いた。
一斉に視線が集中するが、誰一人いたわりや気遣いを見せず、意を決したような大将の発言も、それとはまったく別のことだった。
「純平、サラ、ちょっと来い」
そう言った大将はすでに歩き始めていた。
遮蔽がなくなった形なので、顔を戻した純平と振り返ったサラが互いを見合うことになった。
純平はどうしたらいいかを尋ねるサラの視線に頷いてみせると、鼻からため息のような息を吐いて立ち上がる。サラはロロの頭をぽんぽんと撫でてからその後を追い、ポポもロロと言葉を掛け合ってからサラの頭に着地する。
そこで大きくむせる音がして全員が振り返った。だが誰もがまあいいかと思って先を急いだ。
「もし生かすとしても、見張りぐらいはつけておくぞ」
大将の通告を、純平は黙って鑑みる。
「あまり自由にさせておくわけにはいかないからな。便所も単独では行かせない。誰かに付き添わせるようにする。危険な物や通信手段も今のうちに排除しておく。下手に暴れられたり外部と連絡を取られたりしたら厄介だからな。銃器を隠してる奴がまだまだいるかもしれんしな」
「そうだな…そうしておこう…」
これ以上拒んだらさすがに怪しまれるだろう。ある程度の譲歩は仕方がないと諦めて、純平は同意した。
大将は案内の続きをするわけでもなく、五階の家電売り場、四階の食器売り場を、脇目も振らずに通過していった。後に続いて三階のスポーツ用品売り場を頭上に通り過ぎていくところで、不審そうに純平が尋ねた。
「どこ行くんだ」
「地下だ」
二階のカー用品売り場に目もくれずに一階に到着すると、大将は階段を降りるのをやめて店内に入っていった。純平の不審はますます強まり眉間の皺が多くなる。
「このまま降りればいいだろう」
地下へ続く階段のそばに控え、純平は問いかけた。大将はすぐ歩き出せるように前足を片方上げたままで振り向いた。
「暇があったら見ておくといい。地下まで行けるのはこっちからだけだ」
言い終わらぬうちに前足を先へ下ろして進んでいった。純平は理解不能という感じで首を振り回したが、サラに背中を押され、渋々歩き出した。
一階は食品街になっている。全国各地の名店や、作り立ての惣菜を並べた惣菜屋、焼き立てのパンを売るパン屋、他にもショーウィンドー一面にケーキやゼリーやプリンを並べた洋菓子屋、あるいは饅頭や大福やどら焼きを並べた和菓子屋、横二列になった樽に溢れんばかりに詰められた売り物を量り売りする漬物屋、鰻屋、豚カツ屋など、それぞれ個別に営業している店舗が乱立するフロアだ。いつもはどこもかしこも近くの店からの芳しい匂いと威勢のいい売り子の呼びかけが満ちているここも、これまでの他の階の例に漏れず、ディスプレーが片付けられていたりショーウィンドーにカバーがかかっていたりする店じまいの跡のまま、沈黙を守っていた。空気も寂しいほど澄んでいた。
大将に従って、墓場の墓と墓の間を縫うような気分で歩いていく。図上では斜めに通り抜ける軌道であり、途中にエスカレーターがある。そこに差し掛かったときに、初めに異変に気がついたのはサラで、純平は肩を叩かれて顔を上げたところでそれを目の当たりにし、たじろぐように足を止めた。
エスカレーターは、階上に通じる部分に変わりはないが、地下に通じる部分は足場も吹き抜けも区別なく、上りのほうにも下りのほうにも、様々な物が詰め込まれていた。冷蔵庫や洗濯機やテレビやパソコンといった電化製品のほか、洋服ダンス、食器棚、机などの大き目の家具を中心に、アイロン、ハンドクリーナー、折り畳まれた折り畳み椅子、収納ケースなどの小さ目の物が、隙間を塞ぐために縦に横に斜めになって、さながらパズルのように組み合わさっていた。その量は手すりすら見えないほどで、到底上から下りることも下から上ることもできそうにない。
初めて見る光景とはいえ通常のものだとは捉えておらず、また物の巨大な集合体にはどこか恐怖さえ感じるらしく、サラは純平の背中でコートを握り締め、耳と尻尾を伏せて縮こまっていた。同じく初体験の純平も何かの都合で崩壊するのを警戒し、ある程度の距離を保ったままそれ以上は歩み寄ろうとしない。
「さっきの階段も、踊り場から下はこんな風に堰き止めてるんだ」
ポポの言に納得して、純平は渋い顔を頷かせた。
ほんの二、三分前、下に向かっている道すがら流し見た五階の中に売り物が一つもないように見えて首をかしげたのだが、見間違いではなくこのせいだったのだろう。十三階の家具が昨夜から異常に減っていたのも、こういう理由からなのだろう。
目的を尋ねようとポポのほうを向いたところで早く来るように促された。声こそ大きかったが怒気や威圧感が含まれていなかったこともあって自然に詫びの言葉が口から出、そのそばから懐柔されてしまったみたいな気がし、自分がどことなく嫌になった。随分遠ざかってしまった大将のところへ小走りに駆け寄る間、内心で強く自戒していたためか、不可思議なエスカレーターについてのことはふっと忘れてしまった。
位置的には川の下流から見て左にある階段を降りていくと、ようやく地下一階にたどり着く。
食料品売り場を隔てる大きなガラス扉の外に位置するそこは、若干広めのホールになっていて、他の全ての階と同様、階段のそばに壊れたエレベーターがある。
ちょうどトラやオオカミやワニやゴリラなどの猛獣が合わせて十頭近くたむろして談笑していたところで、その中のチーターが一行に気がつくと、下に続いていく階段をあごで示し、低い女の声で大将に尋ねた。
「人間たちはここにいるけど、本当に助けるの?」
「まだ決定はしていない」
大将はそう答えると、頭で扉を押し開けてフロアの中に入っていく。続いて中に入りながら、純平はため息混じりに嫌みったらしく投げ掛けてやった。
「随分と厳重な守りだな」
大将は怪訝そうに振り返る。
「あいつらの役目は人間の見張りじゃないぞ」
チーターの言葉で勘違いしてしまったが、大将が見張りをつけておくことを決めたのはつい今しがたで、そのことを知っているのはこの段階では自分たちだけだ。
純平は一瞬でそれに気がつき、思わず振り返った。向こうを向いて扉を閉めたサラがガラス越しに手を振って動物たちと微笑み合っているところだった。
「勝手に食い物を持ち出す奴がいないように見張っているんだ。使える階段をここだけにしているのも同じ理由だ」
そうか、そのついでにあいつらに見張りを任せればいいな。
そんなことを一人ごちて大将は歩き出し、純平も続く。ポポに頭を突付かれ、振り返って二人が先に行っていることに気がついたサラも、慌ててその後を追った。
初めにたどり着いたのは精肉と鮮魚の区画だ。いつもなら商品が陳列されて冷気の出ている棚は、どちらの敷地のほうも空っぽで、近くを歩いているのに冷たくない。その先には野菜や果物の売り場がある。そこにも売り物は見当たらない。
純平は首をひねった。これまでの人生で得てきたスーパーやデパートの食品売り場の知識は客としての表面的なものしかないから、店としての実際のところは確かなことなど何もわからない。それでも軽い疑問を覚える。肉や魚が並んでいないのは、前々日の閉店後に在庫を片付けた名残なのだろうと想像できるが、野菜や果物までいちいち片付けるものなのだろうか。
そして近くに来て気がついた。離れたところからでは死角になっていて見えなかったが、それぞれの棚には手前のほうにその四分の一ほどのスペースを占有する形で、野菜や果物が並んでいたのだ。
野菜屑一つ転がっていなかったなら、なるほど毎日片付けるものなのだと納得することができただろう。売り物が詰まっていたなら、やっぱりそんな手間のかかることはしないものなのだと推測の的中をささやかに誇っていただろう。しかしこんな中途半端な形にしておく理由はわからない。何一つメリットが感じられない。
ふっとよぎっただけの違和感は確信的に膨らんできて、その原因を悟った途端に萎むこともなく消えた。これは動物たちによって食い荒らされた跡だ。
フロアの奥のほうには従業員専用という但し書きの記されたステッカーと円い窓を備えた鉄製の扉がある。
通常客が入れないその中はバックヤードと呼ばれ、肉や魚や青果といった生鮮品の下ごしらえをするための部屋で、精肉部と鮮魚部と青果部でそれぞれ作業場が分かれている。流しが幾つもあり、まな板の据え付けられた台があり、包丁を磨ぐ研磨盤があり、肉をミンチにする機械があり、魚の身を締めるための塩水を入れる窪みがあり、ラップを貼る什器があり、品名や目方や賞味期限やバーコードの記されたシールを作る道具があり、出来上がった商品を売り場へ運ぶ何層にもなったカートがある。
純平にはそのほとんどのものの用途が不明だった。推測してみたうちの幾つかは正解で残りの幾つかは誤っていたが、それを採点するものもいない。
精肉部の隅にある厚いドアの前に来ると、純平の腰の位置にある窪みに大将が前足を引っ掛け横にずらした。軋る音でドアが開き、途端に隙間から白い冷気が煙のように漂ってくる。教わらずとも冷凍庫だと確信する。
どうやら共に苦い経験があるらしく、大将は冷気から逃げるように場を離れ、ポポもサラの頭から大将の頭へと場所を移した。
二人を尻目に純平は一歩だけ足を踏み入れ、そこで留まる。すぐ右に折れていく内部は狭く、それだけでも全容を見渡すには十分で、同時に暗く、ここからのほうが外の光を頼りにでき、何より寒く、それ以上中に入っていく気になれなかったのだ。今の時期の深夜の屋外でもここまで温度は下がらないだろう、厚着の上にコートを羽織っている純平ですらほとんど自然に肩をすくめた。毛皮や羽毛だけでは逃げたくなるのもよくわかる。
一方でサラは相変わらずの好奇心を見せ、純平を押し退けるように新しく開けた道に飛び込んだ。手足剥き出しでは気体になった氷を素肌に押し当てられているのと変わらない。サラは目を見開き顔を強張らせ尻尾と耳を突き立てて文字通り震え上がると、慌てて振り返って飛び出そうとして純平にぶつかり、再び純平を押し退けて外に出ると、コートを握り締めた手を支点にくるりと反転した。そこなら体が外に出ているので暖かく、更なる暖を求めて純平の背中にしがみ付いた。間一髪で救出された遭難者のごとくほっと息をつく。
一方、わずかな間に二度押し退けられて大きくよろめいた体勢をやっとのことで持ち直した純平は、当人と自分への愚行をちっとも省みていない真後ろの張本人を呆れと不快の半分ずつで細くなった目で見遣ってから、ようやく顔を戻した。
冷凍庫には塊になったままの様々な部位の牛肉や豚肉や鶏肉が、天井から吊るされていたり棚の据え付けられた壁に並べられていたりする。しかしいずれ商品となるはずだったそれらの在庫は室内の半分ほどしか満たしておらず、その半分はどれも一目で獣の牙で食いちぎられたとわかるぎざぎざの跡がついていた。やはり、と純平は顔をしかめる。
鮮魚のほうの冷凍庫も大将が同じように開いた。今度はサラも大将とポポと一緒にドアから離れ、純平は一人で内部を観察した。そこも肉のところと似たようなもので、多くの種類の魚が一尾丸ごとか切り身になって保存されており、案の定、半分かそれより少ないぐらいしか在庫はなかった。
バックヤードの最も奥には倉庫がある。そこには冷凍保存の必要がない多種の青果であったり、生鮮品以外の食品や日用品の色々が、段ボール箱に詰められて保管されていた。
どれも規則性というか合理性というか、いつでも商品を補充できるように几帳面に整頓されているが、その一角に品物をただ詰め込んだだけというような、不思議な山があった。一つ一つは袋入りだったり箱入りだったりと差異があるが、それらはある一点で共通していた。どれも健康食品なのだ。
「七階の薬局から運び出したんだ」
純平は頷いた。確かにあの階には異常に異質な雰囲気を発していた、何も陳列されていない棚があった。なるほど、これも確かに食べ物だ。
「レストラン街から掻き集めた食い物や、一階に残っていた食い物もここへ運んだんだ。もう残っていないがな」
純平はもう一度頷く。これで厨房の冷蔵庫や冷凍庫が空だった理由がはっきりした。そして大将の言うとおり、それらの面影はどこにも見受けられなかった。
バックヤードから出て散策は続く。
次に差し掛かったのはペット用品だ。やはり通じるところがあるのか、棚はどこも荒らされており、破れたドライフードの箱やひしゃげて開いた缶詰が洗ったみたいに綺麗になって通路に散っていた。
所々思い出したように品物が残っているだけでほとんど空白の棚を眺めていた純平は、いつも買っているみーこの大好きなキャットフードの箱の最後の一つが横になっているのを見つけ、思わず足を止めた。そこへ何かが背中にぶつかってきた。振り向くとサラが鼻をさすりながら上目遣いに睨んでおり、とっさに止まることができなかったのだと知った。一言だけ謝って先を急ぐ。
その次は菓子売り場だった。まだターゲットになっていないのか荒らされた痕跡はなく、通路も汚れていない。
辺りを見回していたポポが何かを呟き、サラが立ち止まって同じほうを向いた。そこにはスナック菓子の棚があり、カラフルなデザインの袋が上下左右に整然と並んでいる。
しかし先頭にいた大将はおろか二人のすぐ前にいた純平すらも、ポポの言葉にもサラが足を止めたのにも気付かずに、そのまま先へ進んでいった。
店内は、一事が万事そんな状態だった。
冷凍食品やインスタント食品は陳列棚の奥の壁が見えるほど減っており、米の棚やパンの棚も目に見えて少なく、弁当や惣菜の棚も、これは二日前の閉店後のままなのだろうが、閑散としている。それら略奪されたところはその通路もパッケージや袋で散らかっている。
そうかと思えば昆布や海苔や干し椎茸などの乾物売り場は綺麗なもので、乳製品も食い破られた牛乳パックが数えられるほど見受けられるぐらい比較的穏やかで、朝食に出てきた二百ミリリットルパックは二つ分減っているだけだった。
食べ物と認識していないらしく調味料の棚は欠けた箇所もなく整然としている。
酒のコーナーも別世界のように荒らされていない。しかしその隅にあるおつまみは、肉や魚を中心に乏しく、大量のビーフジャーキーやサラミの袋が床を汚していた。
フロアを一周した辺りで、大将は純平を顧みるように立ち止まった。
「俺が人間を生かすべきではないというのは、こういう理由からだ」
純平には早い段階で大将の言わんとしていることがわかっていた。そのために伏し目がちで表情は渋く沈んでおり、今もまたようやく留まることができたというように重い足取りを落ち着かせたところだった。
「ここの外にも食い物はあるだろう。しかし人間たちと鉢合わせしないように、安全に飢えをしのぐためにはここの食い物を利用するしかない。長期戦になることを見越して、できるだけ節約して、それでも今日の朝飯一回でこの有様だ。わかるな?」
純平は顔をますますうつむかせる。それから、「ああ」と小さく息をついた。
「人間たちを生かすということは、奴らを養うだけの食糧が必要になるということだ。俺たちだけでもどうかというのに、奴らの分まで入れるとなると、早い時期にここの食い物は消え失せる。後は飢えていくだけだ」
純平は大将の視線を見ないように、「わかってる」と頷いた。
「それでも人間を生かすべきか?」
「ああ…」
「俺たちが飢えてもか?」
「ああ…我慢してくれ」
「………」
「………」
「………」
「……すまない」
「………」
「………」
「わかった、それならそうしよう、お前たちに作戦を一任したのだ、それに従おう」
大将は覚悟を決めたように力強く頷き、自分に言い聞かせるように熱のこもった口調で言ってから、まだ顔を上げようともしない純平を見据えて続けた。
「ただし、これから先の俺たちは決して満腹にはなれない。それだけは覚悟しろよ」
「わかってるさ…」
「よし…それじゃあ案内の続きをしてやろう…あの二人はどうした?」
その言葉にようやく顔を上げ、首を横に伸ばして自分の背後を見つめる大将を認めたところで、純平も振り返った。さっきまで後ろにいたはずのサラとポポがいない。
菓子の棚に挟まれた通路の真ん中に、正座したサラとポポが向かい合って居座っていた。二人に前後から挟まれる形で、中央を左右に大きく裂かれたポップコーンの袋が置かれている。
「こんなことしてたら怒られちゃうよ」
「だってお腹空いてたんだもん。おにぎり二個なんて少なすぎる」
サラは悪びれる様子もなく、次から次へとポップコーンを鷲掴みしては、端からこぼれ落ちるのも構わずに口の奥へと押し込み、大きくあごを上下させてからそれらを飲み込んで、手のひらや指先をぺろぺろ舐め、それを繰り返している。床にこぼしてしまったのも忘れておらず、合間合間に拾っては口に運んでいた。
「それに、ポポが言ったんじゃない。これ美味しいんだよって」
「食べようって言ったわけじゃないじゃないか…知らないよ僕…」
そう言うポポも顔を袋の中に突っ込んでは、一粒一粒ついばんでいた。サラの一回の間にポポが四、五回といったところ。
「へーきへーき、気付かれないようにぜーんぶ食べちゃえば」
そこまで言ったところでサラの耳は隣の棚のほうへ傾いた。
次の瞬間サラはさながら本物のネコのようになり、四つ足で後ろに駆け出して音のしたほうとは反対の棚へ姿を消した。
「何してる!」
天から落とされた雷のような大将の怒鳴り声がポポの背中に突き刺さったのはその直後だった。
ポポは電流が全身を駆け抜けたみたいにびくっと体を震わせ慌てて顔を上げたが、残り少ないポップコーンを奥へ奥へと求めていたせいだろう、袋が首に引っ掛かって頭が抜け出ない。
「え? ちょっと、あれ? ぎゃっ!」
最後のは大将の前足で床に押し潰された悲鳴である。
「盗み食いとはいい身分だな」
「いや…その…あの…ほら! ロロにさ! お土産にしてあげようと思ってさ!」
「怪我人には特別待遇をするから必要ない。第一お前が食っても仕方ないだろう」
「それはそうなんだけど…」
大将はポポをくわえて持ち上げると、その状態のまま器用に話を続けた。
「お前は今日一日メシ抜きだ」
「そんなあ…!」
「これでみんな肝に銘じるだろう、勝手に食い物を持ち出したらこうなるってな」
「開けたのはサラなんだよ? 食べ出したのもサラだし…」
「それを止めるのがお前の役目だろう。何のための見張りだ」
「それもそうなんだけど…」
ポポは釈明を諦めたらしく、ポップコーンの袋を頭からぶら下げた体を預けたままで、おとなしく大将に連れて行かれていった。
後ろで一部始終を眺めていた純平は、万感のこもったため息をつき、それに導かれるように静かに歩き出した。
そこで何かを蹴り飛ばしたことに気がついて足元を見下ろす。少し前方にくるくる横回転しながら床を滑って離れていくものがあり、近づいていく間に動きが止まった。サラが床にこぼしたポップコーンのうちの一粒だ。あつらえたように親指と人差し指の間にぴったり合うそれをつまみ上げ、じっと眺めるうちに、純平はもう一度ため息を漏らし、その沈んだ気持ちの原因を思わず口にしていた。
「食い物か…」
そこで肩を突付かれた。
振り向くとサラがいた。大将から逃げるために隣の棚を回り込んでここまで戻ってきたものだ。
サラは何も言わず、また純平に問われるより早く、ぱかっと口を開いた。尖った二本の牙と行儀よく並んだ歯と大きく形の整ったピンク色の舌が覗く。目は光を受けた宝石のようにきらきら輝いていたが、鼻から抜けるような声であーんと言いながらそれを軽くつむり、純平に顔を突き出した。
純平は胸いっぱいに息を吸い込むと、もう一度、一際大袈裟に、より一層大きく、それまでとは意味合いの異なる長い長いため息をついてから、ポップコーンをサラの口の中に落としてやった。
サラはすぐに口を閉じ、頭ごと上下させてよく噛んでから、ごくりと喉から音をさせて、それを飲み込んだ。
純平は、サラが満足そうに息をついてにっこり微笑むところまで見届けてやってから、おもむろに踵を返した。サラも遅れないようにその後に続いて歩き出した。