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獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
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第一章

 全身で包み込むようにタクローの背中に腹這いになっているため、純平の体は胸板や腹を中心に温もっていた。

 天然の毛皮に接していない両手足も毛むくじゃらの巨体にしがみ付かせているし、裸の背中もほんの一枚きりだがコートに覆われているため、冬の冷気は夜の手を借りた上でも、純平を芯まで凍えさせるのには力不足だった。ため息にも似た純平の吐息は、口から出るとすぐに白さを失い、闇に溶けていく。

「さあ着いたぞ」

 タクローが言った。それまでのような、手を離すなだとか、捕まってろだとかいう指示ではない、ただの呼び掛けだ。もう終わったのだろうか。

 純平は久し振りに目を開いて顔を上げる。若干ぼやけた視界には特に何も映らず、視線を高くするために体を起こしてタクローにまたがる体勢になる。ほぼ同時に目の前の霞が晴れ、そこにはよく見知った建物があった。

 仕事帰りや休日を問わず、週に何日も買い物に来ているカラム百貨店という名の十五階建ての大型デパートだ。デパートなだけに高価なブランド品を扱い、デパートのくせにタイムサービスには食品売り場がごった返す、そんな節操のなさを重宝している。今身につけているバニーガールの衣装もその上に羽織っているコートもここで買ったものだし、みーこのエサも安売りのときにここで買い溜めすることがほとんどである。

 専門書や図書館の借り物を除き、ここ以外で手に入れた本が家にあっただろうか。思い当たるのは卑猥な雑誌の類だけだったし、実際そのとおりだった。あれだけはそれ専用に贔屓にしている本屋がある。いつ行っても髪のない老人がカウンターでうたた寝をしている今にも潰れそうな場末の店だ。デパート内の本屋の若い女性店員に女の裸体を差し出すのはどうも気が引けるのだ。

 真下からだと実数以上に高く聳えて見える塔の外壁は、レンガのような色の石材と外周を円く連ねる凹型の窓が交互に積み上げられて構成されている。その姿は全体的には満月に朧に映し出されており、窓の周りだけが外へこぼれる室内の光の欠片を受けて明るく照っている。

 純平の正面にある大きなガラス張りの自動ドアは開いたままになっていて、盲導犬や介助犬を連れての入店を認許することを示すイヌの略画のシールや、店内撮影禁止と店内禁煙を示すカメラやタバコのイラストに赤い斜線の入ったシールが貼られており、それとは別に今日の臨時休業を告知する貼り紙が目立つところにあった。ついこの間バニーガールの衣装とプレゼントを買いにきたときにもそれがそこに居座っていたことを思い出した。

 ドアの前は普段と異なり、右脇で直立不動の警備員が建物の内外を行き来する人々に何気なく目を光らせている代わりに、中央でチーターやワニやゴリラといった動物たちがたむろしていた。

 それでも役目は同じらしく、こちらのほうを見張っていた彼らは、突然の来訪者にとっさに身構えた。だがそれがタクローだと認めるや警戒を解いて近付いてきて、思い思いに出迎えてくる。

「お帰りタクロー」

 チーターは黄色の地に黒い斑点をびっしり蓄えた頭を白い頬に擦り付けながら大人びた女の声で言い、

「怪我はないか」

 ワニは鋭い縦長の瞳で白い顎先を見上げて高い男の声で尋ねる。

「何言ってんだ、人間なんかにやられるもんか」

 タクローの返答にそりゃそうだと二人は大笑する。

 一人だけ無言でタクローを通り過ぎたゴリラは、毛むくじゃらの手をタクローの背の上に伸ばし、あえて言い表すならウサギの耳が生えた人間といった男の、胸や腹や足を、甲と指と手のひらで叩き突付き撫でてみた。

 男は今にも危害を加えられることを恐れてか、呆然と息を潜めて目を閉じ、強張った顔を逸らしており、まるでそうすることで触覚を放棄して、触られていることを無効にしようとしているかのようだ。

 事実純平はチーターとワニとゴリラを発見したところで、もう生きた心地がしなかった。その上ゴリラのいかつい手に体中を触れられているのだから、時間の問題だと。しかし悪い方向への想定とは裏腹にそれ以外のことはされず、またそれすらもされなくなったので、かすかに目を開けて細い視界を得ると、じっと正面から自分を見つめていたゴリラの視線と交錯した。跡形もなく心臓が消滅しそうになる。

「こいつはなんだ?」

 ゴリラがいかにも老けた男の声を発すると、タクローは首を曲げて純平を見遣った。

「助けてやろうと思ってさ」

 純平は我に帰ってタクローを見返した。タクローはチーターとワニのほうへ顔を戻したところだったが、ほんの少しだけ見えた横顔は微笑んでいたようだった。

「大将は帰ってるか?」

「ついさっきね」

「もう大分カタがついたらしい。ひとまずここまでにするそうだ」

「偵察隊が伝達に行ってるはずだぞ」

 チーターとワニとゴリラが答え、ゴリラだけが続けて尋ねた。

「聞いていないのか?」

「俺はこいつを連れて来るために戻ってきただけだからな。そうか、それなら今日はこれで終わりか。何なら応援に行くつもりだったんだが」

 そんな会話を交わしながら、タクローは純平をつれてドアをくぐっていった。


 動物たちは外のものたちだけではなく、建物の中の至るところにもいた。

 純平が出会ったのとは違うらしいトラやサイやオオカミがいたかと思えば、リスのカップルと擦れ違った。所狭しと天井を旋回した後で、キリンの頭の上で小休止を取るタカがいた。じゃれあって遊んでいるヒョウの子供たちがいたり、母親のゾウに付きっ切りの小ゾウがいたりした。

 暗がりの中で大きな目玉を光らせて、それだとわかった瞬間に純平を身じろがしたフクロウがいれば、どこからともなく飛んできてタクローの顔面にへばりつき、驚いたタクローに剥ぎ取られて放り投げられ、それを利用して滑空して逃げていくところを怒鳴られるも、意に介さないでけらけら笑うムササビがいた。

 他にも大あくびするカバがいて、ぴょんぴょん飛び跳ねるカンガルーがいて、幾つもの原色をまとったヘビが這っていて、ペンギンが隊列を作って行進していて、シカがいてウシがいてウマがいてロバがいてシマウマがいて、ちゃんとした名前はわからないがそれらの仲間だろうというものもたくさんいて、とにかくトリの一種だろうというものも溢れていて、そして、目まぐるしい動物たちの乱舞に、ややもすれば忘れてしまいそうだが、股の間にはシロクマがいた。

 彼らの一部は話していた。内容は様々で、笑い転げているものたちがいれば、神妙な顔を寄せ合って密談よろしく話をしているものたちがおり、タクローに話しかけて返答をもらうものもいて、愛の語らいを聞きつけたタクローが踵を返し回り道を選んだりもした。彼らはみな、口調、声質、声色、その全てがそれぞれ異なっていながら、いずれも共通して人間の言葉を用いていた。純平は生まれて初めてメエメエと鳴いていないヒツジとヤギを目にしたほどだ。

 そんな異常事態かあるいは夢の中のような出来事を、この世のものとは思えないように凝視しながら頬を抓り上げる自分の姿は、しばしば振り向いて様子を窺うタクローにもよほど奇異に映っていたらしい。ついに心配そうに尋ねてきた。

「どうかしたか?」

 もちろん人間の言葉で。

 頬から指を離したものの、相変わらずあちこちを見回すだけで無言のままの純平に、やがてタクローはその原因を察知して説明をしてやった。

「ここにいる奴らは、ほとんどみんな動物園にいたんだ」

 声こそ出なかったが、純平は聞き返さんばかりに剥いた目をタクローに向けていた。会話はそれだけで十分に成立する。タクローは返事をもらって嬉しそうに笑い、続きを言う。

「檻の中にいなかったのはロロみたいなハトや、スズメやカラスぐらいなんだ」

 いずれみんなを紹介してやるよ。という締めの言葉は、辺りには広がったものの、純平の鼓膜には届いていなかった。

 動物園という単語を耳にして、純平が思い浮かべていたのは、この辺りで一番近いそれである、円川動物園だった。動物園自体、純平にとって足繁く通った思い出の地ではないし、いつの頃からか子供の行く場所であるという認識を抱いてからは、他の園に訪れたことはない。そこ以外に想像を働かせることのできる記憶はないのだ。

 初めて行ったのは小学校に入った年の遠足。その次はいつだったろう。覚えているのはそれだけだし、もしかしたらその一度だけだったのかもしれない。雪を見たような気がするが、それ以上に腕を蜂に刺されて泣いたことを覚えてる。それが原体験となって動物園を忌避していたような気すらしてきた。ということは長袖ではなかったはずだ。ならばどう考えても雪の降るような季節ではないし、何かとごっちゃになっているのだろう。

 カラム百貨店と双璧を成す円川町の名所でありながら、先の理由と、近場過ぎるためにわざわざ訪れることがほとんどなくて、だから中がどんな感じだったのかは思い出せない。だが都会のど真ん中を占有する広い敷地の周りを迂回するのはしょっちゅうだ。その入り口の近くにはいつも大量のハトがうろうろしていて、よちよち歩きの幼い子供が彼らを追い立てていて、それ用のエサやポップコーンを売っている露店がぽつりぽつりと身構えているのだ。一方でスズメやカラスなんてのは、動くことのない町並みと大差ない。探さなくたって目に入る代物である。

 こんな近代的な建物に、それとは正反対の、棲息地域だってまちまちの動物が、これだけ多く集まっているということに、地に足がつくとまではいかないが、つま先がかすめるぐらいには納得できた。

 動物たちは脱走したのだ。

 しかしすぐに新たな疑問が浮かぶ。

 それならば、何のために。

 タクローは話し始めるよりも前から階段を這い登っており、話し終えた今もそれは続いていた。やがて銀に光る鉄製の数字の十四が壁にかけられたところで止まると、雑貨売り場だということを示す看板の下を進んでいく。

 最上階の一つ下のせいか、大動物はもちろん小動物も全く見当たらない中、停止しているエスカレーターを通り過ぎ、タオルと石鹸の陳列棚に挟まれた通路を抜けていき、フロアの一角の、関係者以外立ち入り禁止という札の貼られたドアの前でようやく立ち止まる。

「降りてくれ」

 タクローは首を曲げて言ったが、純平は眉をひそめてうつむいた。タクローは警戒心を感じ取り、困った声を紡ぐ。

「殺したりしないから心配するな」

 何にしても逆らいようもないので従うことにする。

 タクローの背中に手を置いて、慎重に冷たいリノリウムに足をつけると、もう足がすくんでへたり込むということはなく、きちんと立つことができた。

 タクローは二本足で起き上がりつつそれを見届けてから、前足で器用にドアノブをひねって手前に引いた。

「すぐに戻ってくるからここにいろよ。くれぐれも逃げたりするなよ。逃げたりしたらお前を殺さないといけなくなるかもしれないからな。いいな」

 念入りに釘を刺しておきながら返事も待たず、タクローは純平の背中を軽めに押してドアを閉めた。鉄扉一枚後ろの気配は、純平からゆっくり遠ざかっていく。

 部屋は事務所のような所なのだろう。電気はついており、突き当たりには書類か何かが詰まっているらしいファイルの詰まった棚が一つ。手前には肘掛けのついた二人掛けの革張りのソファーが左右に一台ずつあって、膝の高さほどの長方形のテーブルを挟んで向かい合っている。テーブルの先に人一人は軽く通れる隙間を隔て、電話とパソコンの置かれた灰色の事務机が一台こっちを向いており、ここからではよく見えないが、そこを右に折れた所にも、部屋は続くようだ。

 純平は向かって左のソファーに吸い込まれ、眠りにつこうとするように腰を下ろして背もたれに体を預けた。自分の意思とは関係なく深い息が出る。

 やっとのことで人心地がつくと、純平の脳裏では、十字路でロロというハトに助けられてからの動物たちのやり取りが、自然と思い起こされてきた。

 どうやら動物たちには自分を傷付けたり殺したりしようという意図は無いようだ。入り口でヒョウとワニとゴリラに遭遇したときも、こっちが勝手に不安を感じただけで、その素振りは微塵もなかった。タクローに至っては助けてやるとか殺したりしないとかいう言葉をはっきり口にした。

 真っ先に感じたのは少しばかりの安堵だった。もしかしたら生き延びられるかもしれないという淡い期待によるものだ。その次に現れたのは疑問だった。なぜ自分だけが助けられるのだろう。

 純平は、今度は意識的にため息をつき、体を前に起こした。

 思考は疑問の関与を受けずにひとりでに派生していく。傷付いた友人たちや、もしかしたら知り合いがいたかもしれない通りの惨状、自分の目の前で切り裂かれた中年の男、その後で不定期に続いた阿鼻叫喚が鼓膜にも蘇る。

 どうか無事であって欲しいと切望する一方で、何もできなかった自分への苛立ちと落胆が起こり、ここで初めて、特別みたいに五体満足でいることができている自分と、それを臆面もなく迎えようとした本心に気がつく。それを知って平然でいられるほど、図太くもない。

「クソっ…」

 そのまましばらく黙してから、舌打ちとともにもう一度ため息を吐き出し、顔を覆って項垂れた。しかしそれが何になる? それが何になるんだ?

 申し訳なく思い、それが何になる? 情けなく感じ、それが何になる? 深く恥じ入り、それが何になる!

 無力で無神経な本当の自分を責め苛み想像もつかないような緊急時なのだからと言い訳しようとした自分をまた責める。他人だったら殴り付けていたかもしれないのに自分だからそれもできない。下唇に食い込む前歯を唯一の罰のように装うだけ。それで一体何が解決するんだ! やがて矮小な自分自身に向けられた言葉が純平の口をつんざいていた「クソお!」

 一、二度鼻をすすり、湿った吐息を漏らす。

 頭を叩こうと振り上げた拳を握り、その力を緩めていって、結局腕を垂らす。

 卑怯者め…。

 純平はもはや何に嘆いているのかもわからなくなっていた。自分の本性なのか、動物たちなのか、状況を把握しきれていないことへのもどかしさなのか、やはりこの異常事態の元凶に間違いないあの動物たちなのか、それで明かされてしまった自分の本性なのか、だから動物たちが憎らしいのか、何よりも今自分の周りで何が起こっているのか、何もわからない。終点を見渡せず起点も見失うほど思い詰めていた。

 そのせいだろう、奥の部屋からやってきた気配には、この瞬間になってさえも、全く気付かなかったのだ。


「大丈夫?」

 女の声に純平が顔を上げると、すぐ真横に声の主と思われる、異様な生き物が突っ立っていた。

 それは自分より十ぐらいは年下の外見をした、若いというよりむしろ幼く見える少女だった。袖と裾が肩と膝のところでそれぞれ破けている白いブラウスとジーパンを着ており、ギザギザの縁からは太くはないが細くもない手足が伸びていて、靴下は履いておらず、紐のないスニーカーが床を踏み締めていた。とてもこの時期に似合う格好ではない。

 しかし純平の目に異様と映ったのは真冬らしからぬ服装ではなく、黒いショートカットのてっぺんに突き立つ黒い毛皮のネコの耳と、腰からしなやかに伸びた黒く長い尻尾の先端がこちらを向いていることだった。口の両端からは八重歯が一本ずつ、まるで牙のように短く飛び出ており、これも少女の風貌を異なものに近づけている。

 少女は前屈みになって純平のしかめっ面を心配そうにじっと見下ろしてから、その隣に膝から、座るというより登ると、膝から先を腿より外に開き、足首と足首の間にお尻をつけた、正座を崩したような座り方をし、両膝の間に手をついた。それからまた背中を曲げて純平と目線を同じ高さにした。軽く握った右手を純平の顔に伸ばし、人差し指の第一関節と第二関節の間の平らなところで、目尻を垂れかけた水の粒を拭い、中指と薬指の同じ箇所を動員してその周りを慰めるように優しく撫でると、手を上に伸ばして親指を除く第一間接と手のひらでつかむような動きで頭も撫でた。

 およそ人間の手の形状にはそぐわない動きであった。だが純平は少女の姿の異形な部分に目を奪われており、触られていることにも気がつかないぐらいだったので、そんな瑣末なことに頓着する余裕はなく、結果的にされるがままでいた。一方で少女も自身に対する純平の不審など知る由もなく、慈愛の込めた笑みを浮かべて慰撫を続けていた。

 やがて少女は前髪から頭頂部へ手を進ませる。指先がウサギの耳に触れ、それも撫でようと根元を優しく握ったその瞬間、唐突にその顔色が変化した。凍り付いた表情のまま膝立ちになって、恐る恐る開いた両手で両方の先端をつまみ、ぐいっと引っ張った。耳はいとも簡単に取れた。

 少女は胸の前でゆらりゆらりと左右に揺れる、宙吊りになった作り物のウサギの耳のついたカチューシャをまじまじと見つめ、耳の部分だけを伸ばしたり縮めたり寄せ合ったり離したりしてみた。少しして、耳と耳の間からこっちを見つめている、相も変わらない冷めた視線に気が付くと、その双眸を見据えた。

「あなた、人間なの?」

 純平は意図がわからず戸惑ったが、すぐに我に帰って問い返した。

「他に何がある」

 少女はうつむき、ウサギの耳をテーブルに置いて、寂しそうに呟いた。

「そういう生き物…」

 その受け答えと目の前にちらついたネコの耳が腹立たしく、純平はまるで八つ当たりするようにその耳に両手を伸ばした。

「くだらねえモンつけてんじゃねえよ!」

 そう怒鳴って耳を両手で鷲掴みするや剥ぎ取ろうとし「痛い!」ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴で頭がこっちに近付いただけでそれが取れなかったことの驚きにとっさに手を離した。

 少女は逃げるように体を反らした。勢いあまってソファーの上に尻餅をつき、肘掛けに背中をぶつけたみたいになる。そのまま両手で耳をしっかり押さえると、それをさすってもみほぐしながら恨めしそうに純平を見遣る。

「何するのよお…」

 今にも泣き出しそうな声に返事をできず、純平は毛皮の感触がかすかに残った両手とひくひく呼吸している半ベソを怪訝そうに見回しながら尋ねた。

「本物か…?」

「他に何があるのよお!」

「………」

 純平は再び腕を伸ばす。少女は自分の耳を狙う手を認めるや目を剥いて叫んだ。

「いや!」

 そして両手で後ろ手に握り締めた肘掛けを、正面を見据えたまま後ろ向きにぴょんと飛び越え、その陰に小さく身を潜めた。

 実に身軽で正確かつ素早い動きに驚かされつつも、純平は腕を宙に這わせる。少女はなおも見開いた目で伸びてくる手を凝視し、左手で肘掛けを握り締めてますます縮こまりながら、右の拳をネコが爪で引っ掻くみたいに純平の手の甲目掛けて振り下ろした。その回数だけ「イテッ」「イテッ」と漏らしながらも純平も引き下がらない。

「もう一度触らせてくれ、どうなってるんだイテッ!」

「いや! 来ないで!」

 何発目かの少女の拳を、純平は引っくり返した手のひらで受け止める。小さい悲鳴が噴き出した。

 少女は立ち上がり様にその場から離れようとしたが、体の一部を握り締められているので出来るわけがない。すっ転んで事務机の角に顔から激突するのを純平に引っ張られて免れたぐらいだった。振り向いた涙目に純平は告げる。

「ちょっとでいい、ちょっとだけだから」

「いや! 痛くするからいや!」

「悪かった、もう痛くしないから」

 振り上げられた少女の左手が頭上で止まった。純平もソファーに寝そべったままで、しかしもう片方の手は伸ばそうとしていない。

「……本当?」

「本当だ」

 不安と疑いを隠さずにいる少女に真剣な眼差しで頷き、そっと手を離してやると、少女は後ろに小さく跳ねてから、手首を入念に揉みほぐした。まだ怯えの視線を外さないままだ。

 純平は体を起こし、普通にソファーに腰掛けると、空いた場所をぽんぽんと叩いてやった。少女はいつでも逃げられるような体勢を保ち、隠し持っている武器を探し出すように周りを見渡しながらも、そろそろと純平のそばまで戻ってくる。

 少女は相変わらずで、広げた両手を顔の横に上げている純平に露骨な用心と警戒を続けたままだったが、やがて意を決したのか、再び純平の隣に膝から座って前屈みになり、目を閉じあごを引き頭をそっと突き出した。

 純平は左足をソファーに持ち上げて体を向けた。少女はその気配に不安を回復させられたのか、すぐに潤んでしまいそうな上目遣いの視線を送って懇願した。

「優しくしてね…?」

「ああ」

 純平は頷くと、ゆっくり手を伸ばし、指先から少女の耳に触れた。了解はしたものの予想以上に驚きがあるらしく、体と顔が硬直してぴくりと震えたが、それは一瞬で収まった。

 純平はあまり刺激を与えないように、なぞるようにしてやった。大きさは、ネコのものと比較すれば、顔全体がネコより大きいのだから、当然大きい。指を増やし、摘まむように、そして揉むように全体を触ってみる。みーこもそうだが、ネコの耳は温かいものではない。この少女も例外ではなく、冷たいぐらいだった。またぺらぺらの頼りない厚みも、ぐにぐにと折れる柔らかい感触も、ネコのそれと変わらなかった。

 付け根を触ってみる。髪の毛は普通の人間の髪の毛と変わらない感触。耳はその髪の毛の下の皮膚から伸びている。しかし耳を覆う薄い毛皮は一変して、ネコのそれだ。

 付け根の耳の後ろの部分を人差し指と中指と薬指で押さえて内側を親指で倒してみる。めくれた。内側が天井を向いた。ぺろっと音がしてすぐ元に戻った。もう一度めくってみる。また内側が天井を向き、またすぐに戻った。両方を同時にめくってみる。右、左の順に元に戻った。

「遊ばないでよ」

 怒ったような口調と上目遣いに思わず手を離すと、耳はネコが音を聞きつけるように、そこだけ別の生き物のようにぴくぴくと動いていた。右に傾き左に曲がり、伏せたり見合ったり背を向け合ったりした。

「どう?」

「どうって言われても…」

 純平は少女の頭を両手で軽く押さえ、支えにもして膝立ちになる。後ろから、そして横からと、改めて耳全体を見回し、見えたままを答えた。

「耳アカ溜まってるな。すっげきたね」

 少女は急に首を振る。そうして純平の手を払うと、少しむくれた表情で止まった。

「本物でしょ?」

「……そっちは?」

 純平はあごをしゃくった。少女は後ろをちらりと見、そのままくるっと半回転して軽く腰を上げる。尻尾の先端が純平の目の前に現れ、左右に動き始めた。

 純平は前髪や額や鼻先をかすめながら宙を泳ぐ尻尾に戸惑い、「動くな」とその動きを緩やかにさせると、おもむろに両手でつかんだ。それから手を握ったり開いたりして豊かな毛並みと温かい皮膚と薄い筋肉と細長い骨を確かめてから、先端から根元に向かってしごいていった。

 黒い毛皮は少女の気分を不快にさせながら順々に逆立っていくが、これが逆撫でという言葉の語源であり、ネコの嫌がる行為であることを知っている純平は、その都度下から上にしごいて、少女の機嫌とともに毛並みを戻してやっていく。

 少女は純平の気遣いに安心して、いつしか体を預けていた。心を込めて上手に撫でてもらうのは気持ちがいいものだ。幸せなときのネコがそうするように、自然と尻尾が突き立った。ところが純平の手がある一点に差し掛かったとき、少女はびくっと体を震わせて振り向き、少し赤らめた顔で純平を睨んだ。

 しかし純平は、少女の尻尾の付け根にあたる部分、ジーパンの、ヒトで言えばちょうど尾骶骨の箇所に開いた、尻尾の直径と同じ大きさの穴を撫で回すのに熱心で、その視線に全く気付く様子がない。それどころか首を傾げながら、穴の隙間をこじ開けて指先をねじ込もうとまでしていた。

 とはいえ、純平には少女を嫌悪させるような意図はなかった。だが抱き抱えられるのを喜ぶネコと嫌がるネコがいるように、受け手の反応が送り手の望むものと必ずしも重なり合うわけではない。少女は純平を拒むように身をくねらせたが、その手付きは留まるどころかむしろエスカレートしていく。邪魔される上に隙間が狭すぎて、穴を広げられないと見るや、背中を押さえて前屈みにさせて手のひらをお尻へ押し当てた。

「なっ…! ちょっ、やっ!」

 少女の狼狽などお構いなしで行為は続く。指を伸ばし、ジーパンの隙間に指を挟み、下着にまで五指を滑り込ませたところで、思い切り両腕を下げた。

「何するの!」

 素肌が露になるより一足早く、鞭のようにしなった尻尾が純平の頬を殴った。うおっ? と声を上げて手を放した純平は横から背もたれに埋まる。

 少女は素早く体勢を戻して純平に向き直ると、なぜそうなったのかわからずにきょとんとしている純平を直視できず、桜色に染まった顔をうつむかせて呟いた。

「やらしい…」

「――――ば………バカ野郎!」

 それでようやく少女の気持ちを悟った純平の顔も赤くなる。照れ隠しについ口調が荒くなった。

「俺はただなあ、そ、それが本物かどうか、確認したかっただけだ!」

 どもりながら伸ばした人差し指は不自然に震えていた。少女は振り向き、手持ち無沙汰に床をさすっている尻尾を確認した。

「そんなつもり全然ないし、興味だって全くない! ってこともないけど……とにかく、そんなつもりはない!」

 少女は肩口で上に向けて手のひらを広げると、振り上げた尻尾の先端をそこに寝かせて純平を見つめた。

「本物だったでしょ?」

「……ああ」

 純平は、落ち着きを取り戻した静かな声で頷いた。衣服をめくってこの目で確認することはできなかったが、それでも尻尾が作り物なんかではなく、少女の腰から伸びている体の一部なのだと認識することはできた。そうなると、目の前の少女がそのまま巨大な謎に変身する。

「お前……一体何なんだ」

「何なんだろうね…」

 少女は悲しそうに答え、手を放す。尻尾はテーブルを這い、ウサギの耳をなぞり、ソファーに移って背もたれを滑り、宙に浮かんでまたテーブルを撫でてソファーに戻る。少女の腰の位置からその長さの分だけ自由に動き回って、そこから先へはどこへも行けない。

「名前はサラ…」

 少女は唐突に呟き、続ける。

「そういう生き物なの…」

「そういう……生き物…?」

「そう…人間と黒ネコを融合させた生き物…」

 耳慣れない言葉とその組み合わせ、そしてそれが事実ならこういうことなのではないかという仮定に、純平は眉をひそめ、目を少しばかり見開いて、翳りのあるうつむいた顔を問いかけるように見下ろしていた。その視線に気がついたサラは、顔を上げ、改まって言い放った。

「私は人間の手で作られたの」

 それはそっくりそのまま純平が思い巡らせて導いた、こういうこと、だった。しかし想像が的中したことには不具合しか得られなかった。本人の口から直に聞いたところで合点のいくものではない。信じられない。これまでに培ってきた常識がそんなことあるわけないと否定しようとする。が、それらの個人的な意思など、当人を目の前にしている段階で、自分ではない何者かによって捨てられている。耳と尻尾の感触も手のひらに復活していた。

「どうやって」

「どうやってかは…」

 サラは困った顔を横に倒す。

「…よくわからないけど」

 純平は頷いた。聞いたところで理解できるとは思えない。その代わりというようにサラは話し始めた。

「私はね、すっごく頭のいい人に作ってもらったの。その人はすごい科学者でね、私も詳しくは知らないんだけど、色々なことの研究とか、実験とか、発明とか、開発とかをしててね、私とか、ロボットとか、他にも色々なものを作ってるの」

 詳しく知らないと言うだけのことはある取り留めの無さだ。純平は若干の苛立ちを隠して聞いてみた。

「色々ってのは何だ」

「だから、色々」

 隠し切れなかった苛立ちが滲み、それを感じ取ったのだろう、サラは急いで付け加える。

「人間のためになるものなら、何でもよ」

「人間のためになるもの……」

「そう、それなら何でも。どんなものでも」

「それじゃあお前は」

 そこで言葉を止めた純平は、聞こうとした自分を詰るように首を振った。

「いや…何でもない…」

 その動きに導かれたように左足を床につけた。前を向いて普通に腰掛ける体勢になり、それによってサラから顔を逸らすこともできた。

「なーに?」

 だが飲み込んだ言葉を促されると、ちょうど面と向かっていなかったからだろうか、他人に意見を請うように続きを言った。

「お前を作ったことは…………人間のためになるのか…?」

 途中まで口にしたところで、言う前から感付いていたことが正しかったのだとはっきり悟った。それでも最後まで口走らせたのは、自制できなかった好奇心のためだ。

 これはサラの誕生と存在を根底から否定しかねない危険な質問だ。

 お前が産まれたことに何の意味がある?

 そう問い掛けるのと大差ない。

 言い終わったそばからやめておけばよかった、せめて途中でやめておけばと思ったが、もう遅い。吐き出した声を吸い込んで何も聞かせなかったことにはできない。だが純平の心配とは裏腹に、サラは大きく頷いた。

「私を作った目的は、人間の能力を証明するためだって言ってた」

 サラは自分の誕生と存在の意義をプロパガンダさながらに力強く唱えた。

「人間の能力を証明するため…」

 だが純平にとっては言葉の意味がよくわからず、置き去りにされている大衆みたいな形容しがたい表情で、右から左へ抜け出ていきそうな発言を何とか引き戻して反芻しては眉間の皺を深くしていた。そしてサラは主張だけを連発する政治家とは違い、「そう」と頷いて説明を施してやる。

「まったく何もないところから命を作り上げ、まったく新しい生命体を作り上げる。そうしてできた私という存在は、人間はこれだけのことができるんだっていう証明になるんだって」

「……ほお」

 わかるようなわからんような言い分に、純平はずっと首をかしげている。

「だけどね、私は失敗作なの」

 それは、突如として一切の感情が消滅した、抑揚のない声だった。

 純平は顔を戻し、その位置と体勢のままで今一度サラの耳と尻尾、そして体中を可能な限り見回していた。

 黒ネコだと言われれば納得できる、黒い毛皮をまとった耳と尻尾。自分の手を殴りつけてきた、人のものと変わらない拳。尻尾の付け根を確認しようとしてまさぐることになった、背中と尻。

 それらの感触は確かにネコから見てもヒトから見ても本物だったはずだ。そうか、ある意味では作り物なのか。いや、それとも作り物だから偽物になってしまうのか。そもそも本物ってのは何だ。はじめからそんなもの存在しないじゃないか。

 基準がわからないので何とも言えないが、たとえ作り物だとしても、とても精巧にできているように思えた。まったく何もないところから作り上げたのならばなおさらだ。純平は左右に首をかしげる。

「どこが失敗なんだ」

 サラは両手を純平の前に広げてみせると、互いの手のひらを突っついた。

「ネコってここに肉球があるでしょ? 私にはそれがないの」

「それだけか…?」

「ううん。それに……ほら、ここにもないでしょ?」

 サラは靴を脱いで肘掛けに腰を預け、呆れて物が言えないでいる純平に足の裏を見せた。それもまた性別を鑑みれば少し大きいだろうかというほかに、ヒトのものと変わるところはない。

「だから失敗作なの」

「………」

 純平からますます言葉を奪いつつ、サラは靴を履き直しながら言った。

「だから、もうちょっとで処分されるところだったの」

 純平の顔色が変わった。

「処分…ってのは…」

 悲しげな顔を小さく頷かせて、サラは正座に戻る。

「いらないものは捨てるしかないんだって」

 見る見るうちに表情を強張らせた純平は、舌で大きな音を立てた。

「自分で作って自分で殺すのか。なんて奴だ」

「だから逃げてきたの」

 サラは深く息を吸い込むと、「はあ」と大きく肩を上下させて吐き出した。

「研究所を抜け出したところまでは良かったんだけど…外に出るのは生まれて初めてだから、どこに行ったらいいのかもわからないし、そもそもどこに何があるのかもわからないし、適当に歩いてたら動物たちに見つかってね。それでここに連れて来られたの」

 次に「はあ」と言ったのは純平だった。動物たちという言葉に促され、タクローと別れてサラと出会う直前の一人きりで過ごしたわずかな時間の続きが、不意に訪れてきたのだ。

 しかしすぐ隣に自分と同じ境遇に陥った誰かがいてくれることは心強かった。自己嫌悪によってではなく、ただただ自分の置かれている状況のみを辟易したために曇った顔を両手で覆う。そして顔を洗うときのようにそれを上下に擦りながらぼやいた。

「そもそもあいつら何なんだろうな。動物園にいたとか言ってたけど、どうしてそんな奴らがこんな街中をうろついて、こんなとこに集まってんだ。一体何が起こってるんだ」

「戦争」

 サラは重い単語を事も無げに軽々と言い放った。純平は喉が潰れたように押し黙る。

「そこまで聞いてないの?」

 不思議そうに見つめる視線が、下がっていく手から現れた瞳と交じり合った。その目に催促されて、サラは続ける。

「さっきここに来るまでの間にね、ロロっていうハトの女の子に聞いたの。これは動物たちの戦争なんだって。人間を滅ぼして、動物だけの世界を築くための戦争なんだって。そのために動物園から立ち上がって、まずこの建物を占拠したって言ってた。広くて見晴らしがよくて、食べ物もあるからアジトにするのにうってつけで、その上一年に一回ぐらいお休みするらしいから、ずっとずっと前から目を付けてて、その日を狙ったんだって」

 それがたまたま今日だったということか。こうなることは偶然ではなく、必然だったのか。いたたまれずに目を逸らす。

「全ての人間は敵だって言ってた。私もここに来るまでの間に倒れてる人をいっぱい見た。血を流してる人もいっぱいいた」

「俺もだ…」

 動かなくなっていた友人たちや大通りの惨状や目の前で背中を切られた男や数多くの悲鳴を再び思い返して幾度も頷くうちに、純平はずっと脳裏に漂っていた疑問を改めて発見し、ふと口にしていた。

「なんで俺は助かったんだろう…」

「人間だと思われなかったのよ」

 サラが即答で教えてくれた。言われてみれば動物たちはそんな会話もしていた。人間だと思ったとか人間だと思わなかったとか。

「私もね、人間じゃないから助けてやるって言われて、ここに連れてこられたの」

 サラはテーブルの上のウサギの耳を手に取ると、

「無理もないね。私だって私と同じ生き物が他にもいたんだって驚いたんだから」

 前後を確認してから純平の頭に乗せた。

 見る見るうちに純平の顔が歪むが、目線を耳の揺れる頭上に向けているサラはそれに気付いていない。

「似合ってるもん」

 純平は離れたばかりのサラの手をかすめるほどの勢いで素早く耳の部分を鷲掴みすると、遠慮なしに床に叩き付けた。

 プラスチック製のカチューシャが固い音で弾み、耳は身悶えるようにくねって先端でテーブルの縁をなぞってから、左が前に右が後ろに折れ曲がった格好で、ソファーの傍らの二人から同じぐらいの位置で停止した。

「つけてなきゃ駄目よ」

 サラは背中を曲げてそれを拾い上げると、軽くほこりを払ってカチューシャの部分を両手で持った。

 純平は頭に戻されるより早く、手を振り下ろすように耳の部分をつかんでひったくるや、その反動で勢いを付けて出来るだけ遠くという大雑把な目安を立てて放り投げた。耳は向かいの壁に跳ね返り、奥の部屋へ斜めに落下して、二人の視界から外れていく。床からの滑走音はものの一秒半で途絶えた。この世から消滅させたいほどの理想とは程遠いが、この室内での最大限の形ではあった。

 さすがのサラもわざわざ取りには行かず、壁越しにその軌道を見届けてから、困り果てたような顔を戻した。純平は腕組みして背もたれに寄りかかったところだった。

「あなたはどういう人なの? 名前は?」

「榊純平…獣医だ」

「純平」

「ああ」

「獣医って、確か、動物のお医者さん」

「そうだ」

「なにするの?」

「そりゃ動物の病気を治したり、怪我を治したりだよ。注射打ったり、薬飲ませたり、手術したりしてな」

 純平は体を起こし、手振りを交えて仕事の詳細を教えてやろうとする。見えないネコを押さえて前足に注射する姿や、見えないネコの口を開かせて錠剤を投下する様子を演じてみせた。知らず知らずみーこをモデルにしていたため、ネコを抱える仕草は必然的に大きなものだった。それから、麻酔をかけて仰向けになっている体を押さえ、しかしそれはみーこではなかった。メスを握った手を一旦開く。

「ついこの間はな、顔馴染みの大型犬が急患で運ばれてきてな、車に轢かれて瀕死になってたんだが、手術して三日三晩付きっ切りで看病してやって」

「静かにして」

「お前が聞いてきたんだろ…」

「後で聞くからちょっと黙ってて」

 サラは片手で背もたれを飛び越えて颯爽とソファーから降りると、着地と超短距離の全力疾走を同時にこなして横顔からドアに激突した。そのまま頬擦りするように壁との隙間に顔を近付け、目を閉じ鼻をひくひくさせる。こちらに近い耳も心なしか同じほうを向いていた。

 純平は突然の異常な行動に息を詰めるほど驚き、理由と目的が不明瞭なために恐怖にも似た感情を抱いたが、すぐにそれは侮蔑を多く含んだ呆れとなり、せっかくの話の腰を折られたことへの報復として鼻で笑ってやった。

「何か聞こえんのか? それともいい匂いでもするのか」

「動物たちがやってきてる音がする。匂いもしてる」

 皮肉が伝わらなかったのがまた面白くない。純平は顔を逸らして舌打ちし、ため息混じりに呟いた。直後にサラが振り返る。

「バカバカしい?」

 純平は仰天してサラを見返した。たった今自分が言った言葉を聞き返されたのだ。

「私はネコの五感を持ってるのよ。あなたたち人間より耳も鼻もいいの。つべこべ言わないで黙ってて」

 そう言うとサラは体勢を戻し、純平は口をつぐんだ。そして試してみた。

「なに?」

 自分の名を呼ばれたので、当然サラは聞き返した。その口調には黙っててって言ったじゃないという怒気が籠っていた。純平は納得できるだけの間を置いてから、自分にも聞こえる声で尋ねた。

「何が聞こえるんだ…?」

「足音よ。動物のね」

「何の…」

「さっきのシロクマと…これは多分…」

 そこまで言ってサラは唾を呑んだ。顔立ちが変わるほど目を固くつむり、隙間に鼻の頭をつけて嗅覚にも手伝わせて確信を得ると、義務のように続きを言う。

「ライオン…」

 つくづくメチャクチャだ。純平はため息を吐き尽くす前に顔を覆った。サラは同化するほどドアに顔をくっつけ、早口で告げた。

「こっちに来る、早く耳つけてきて」

「ふざけんな!」

 思わず怒鳴り声が飛び出た。サラの耳は髪の上にぺたりと伏し、尻尾はうなじのところまで突き立ちその毛は逆立つ。

 純平はそれがネコの怯えたときの反応だと知っているし、そうでなくても恐る恐る振り向く姿にバツが悪くなり、落ち着きを取り戻した。それでも顔を逸らして小さく叫んだ。

「俺はウサギじゃねえんだよ」

「今はウサギでいいじゃない」

 サラはそう答えて早足で純平の前に歩み寄ると、不服そうな顔をじっと見つめてその肩を前後に揺さぶった。

「まだわかってないの? 純平はあの耳のおかげで助かっただけなんだよ? 人間じゃないって勘違いされただけなんだよ? 私と同じ生き物だって思われただけなんだよ? 人間だってことがばれたらすぐに殺されちゃうんだよ? それでもいいの? 助かりたくないの? 殺されても」

 そこまで言ったところで何かが聞こえたのだろう。サラの耳はドアのほうを向き、導かれるように走り出して頬がドアに吸着する。

 あんなものを身に着けるなんて奇行、二度とやりたくない。考えただけで不愉快だ。しかしそれをしなければ殺される。秤にかけるまでもない。仮に計量したならば命を載せた皿が降下する一方でプライドは空気のように上昇していくだろう。それが何よりも悔しかった。それを打破できないこともまた。

 純平はわずかに沈黙したあと、サラだけに聞こえる声でクソッと叫んで奥の部屋に駆けていき、重い足取りで戻ってきた。

「これでいいのか?」

 ソファーにふんぞり返りながら絞り出された、横柄で投げやりな純平の声に振り向くと、サラは目を剥いて叫んだ。

「逆!」

 純平は頭上に手をやり、そこで理解した。耳が後ろ前だったのだ。慌てて引っぺがし、今度はちゃんとピンク色の内側が前になることを確認して、慎重に頭に乗せた。

 サラはその姿をしっかり見届けると、焦りの混じったそれでも満足そうな表情を頷かせ、向かいのソファーにドアのほうに体を向いて正座した。思えばサラはずっとこうだ。

 わざわざこんな不自然な座り方をするのも、ネコが混じっているせいなのだろうかと、純平は頭の中で取り留めのない疑問を呟いた。


 程なくしてドアが開く。

 二本足のタクローが頭をぶつけないように首を縮めて入ってくると、そこで止まって道を空け、片方の前足でドアを押さえた。その直立している足元を四つ足で横切って現れたのは、一頭のオスのライオンだった。サラの言った通りだ。頭から尻尾までが部屋に入ったのを確認してからタクローは前足を離した。ドアはひとりでに音を立てて閉まる。

 ライオンは黄褐色に精悍に輝く、太く長く逞しい体躯をして、先端に黒い房状の毛を持つ細長い尾を伸ばしており、額から肩口まではオス特有の豊かなたてがみに覆われていた。いつか円川動物園でライオンを見たはずだ。それはこれなのだろうか。そうかもしれないしそうでないかもしれない。どちらも特徴らしい特徴を備えていないのだ。図鑑や映像で目にするような、判で押したような典型的なそれなのだ。

 しかし純平は息を呑んだ。ついさっき襲ってきたばかりのタクローが温和な顔立ちに見えるのに対し、ライオンのそれがどことなく恐かったからである。名詞の先入観だけではない何かが、誰が目にしても感じられるほどに、確実にそこに鎮座していた。

「タクローだったよね?」

 サラが親しげに話しかける。タクローはきょとんとしてサラを見つめ、目をぱちぱちさせた。

「俺、名前教えたっけか?」

「さっきロロと呼び合ってたでしょ? 覚えちゃった」

 サラに向けられた眼差しは尊敬を帯び、合点がいったようにゆっくりと何度も頷いた。

「お前頭いいんだなあ。俺なんてお前と会った後なのにさ、そいつのこと人間だと思って殺そうとしちゃったんだぜ」

「危ないなあ。気をつけなきゃダメだよ?」

「そうだなあ…ロロに止められてなかったら今頃どうなってたか…さっきは悪かったな」

 タクローはサラと会話を交わしながら中に近付いてくると、純平の肩に手を置いて謝った。しかし純平の反応は全くなかった。純平はライオンと見つめ合っていたのだ。

 気軽な様子のタクローと異なり、ライオンは部屋に入るなりドアの前で佇んだまま、しかめっ面で二人をじっと睨み回していた。

 直後にサラとタクローが話し始めたために、純平は特に多くライオンの視線を浴びていなければならず、ついには目が合った。

 弱味を見せたらその瞬間に襲われるような気がしてしまい、しかし向こうが目線を外さないのでこちらも外せずにいて、生きた心地がしなかった。

 そんな事情で内心怯えて萎縮していたものの、それを感じさせないように涼しげにライオンを見返していたので、触られても声をかけられても、それに気付いてすらいないみたいに、返事を出来なかったわけである。

「ああ、こいつか」

 タクローは二人の間のただならぬ空気に気がついて、ライオンのそばへ戻った。片膝をついて首に前足を巻き付けると、ライオンは迷惑そうにそっぽを向く。

 純平はやっと顔を逸らすことができた。細い息で深呼吸すると、まるで止まっていた心臓が自分の役割を思い出して脈動を再開させたようだった。鼓動が激しさを増すうちは恐怖の段階としては低いらしい。ある一点を越えると鼓動はひどく減り、そのまま停止しそうになる。まさしく今がそれだった。

 ライオンはなおも、たかってくる虫を払い除けるように首を振ってたてがみを散らしているが、タクローは構わずライオンの頭を抱き寄せて紹介する。

「こいつは俺たちのリーダーだ。みんなは大将って呼んでる」

「よろしくね、大将」

 サラは笑顔で手を振った。大将は暴れるのをやめて冷めた目線をぎろりと戻す。サラの背中で尻尾が逆立つのを純平は見逃さなかった。サラとしては友好的に接することで危機を回避しようとしたのだろうし、タクローにはまんまとそれが成功したが、大将に対してはものの見事に失敗したようだ。

「ほら、純平も」

 いかにも無理して作ったというような引きつった笑顔に唐突に呼び掛けられ、純平はぎょっとする。横目は自分に向いたばかりの大将の目と再会し、前で何かが動いたのを反射的に確認すると、二人に背を向けたサラが、自分だけに見えるように申し訳なさそうな顔を謝るみたいに前に傾けつつ、さりげなくソファーから降りていくところだった。

 そそくさと事務机のほうへ去っていく背中を一頻り睨んでやってから向き直ると、大将はまだこっちを見ていた。仕方ないので軽く手を上げてすぐ下げた。

 大将は呼び寄せられたかのように首を縮めてタクローの前足から離れると、ソファーとテーブルの間のわずかなスペースにテーブルを押し退けつつ頭から侵入してきた。純平の膝にたてがみをかすめさせた所で立ち止まり、左に向いて腰を落とす。たてがみの一部と胸から下の体の半分以上がテーブルの下に潜り込む格好となった。

 純平は腹の高さから品定めするように見上げられ、負けじとそれを見下ろしながらも、内心手なんか上げんじゃなかったと後悔しつつ、余計なことをしてくれたサラを恨みつつ、背もたれに密着していた。再び心音の間隔は今にも止まりそうな具合に緩やかになる。

「見てのとおりだ」

 タクローに言われると、鷹揚に頷いてから、大将はタクローを見た。

「お前は女をやれ」

 野太い声だった。大将はそう告げるなり、後ろ足だけで純平の頭上まで立ち上がった。琥珀の背中がテーブルを吹き飛ばし、サラのいたソファーを乗り越えて上を下にして床に落ちた。

 同時に地響きのような咆哮を効果音にして、右前足がコートの上から鳩尾に落下した。ボタンが辺りに飛び散る。純平は一回大きく咳き込み、歯を食いしばって両手でそれを押し遣った。伸び切った足は離れるどころか曲がりさえしなかった。

 大将は悠然と左前足を振り上げる。先端からは鋭い鉤爪が飛び出る。タクローが駆け寄ってそれを制する。

「何するつもりだ」

「殺すんだよ」

 口早に問われて即答した。タクローは全身を強張らせる。しかし必死の形相で全力で前足を抱き抱えているにもかかわらず、大将は涼しい顔色一つ変えることなく、苦しさと痛みと恐怖で歪み尽された純平の顔面目掛け、タクローの体ごと爪をゆっくり下ろしていく。ビデオのスローモーションのようなそれはだんだん再生速度に近付いていく。タクローは熱心に訴えかけた。

「みんな言ってるだろう、二人は半分動物だ、だから俺たちと同じだ、殺すべきじゃない」

「だが半分は人間だ。全ての人間は敵だ。こいつらは俺たちの敵だ」

「それがどういうことだかわかってるの?」

 その一言で一時停止がかかった。大将は前足の動きを止める代わりに目線を右に移した。純平もタクローも声のほうを向く。

 サラは、どんな風に一連の状況を見届けていたのかはわからないが、事務机の前で縁に後ろに手をついた格好で佇んで、嘲るような眼差しで大将を見据えていた。大将に瞳を鋭く見返されても、けして怯まず、落ち着いた様子で話し始めた。

「あなたの言うとおり、私たちは半分人間。でも、だからこそ、頭はいい。あなたたちの誰よりも賢くて、誰よりも人間のことがわかる」

 そこでサラは打って変わる。あーあーあーあと抑揚のある長いため息を吐き出し、その反動で天を仰いだ。

「ま、殺したいならそれでもいいけど。あーあ。もったいない」

 大将は顔をしかめた。命乞いは予想していたし、それを無視する心積もりも十分だった。しかし真意の見えない一方的な言い分と諦念の吐露は、想定外だったこともあって胸の内に引っ掛かる。苛立ちを隠すように唸りを上げた。

「何が言いたい」

 待ってましたとばかりにサラは片方の唇を吊り上げた顔を戻し、ウインクを添えて言い放った。

「協力してあげる」

 純平は目を見開いた。聞き返したかったが声は出せず、その分こぼれ落ちそうになるほど眼球を露出させた。サラはその問いただすように血走った視線を一瞥しただけで構うことなく大将に向き直る。

「私たちは半分人間。だけど半分は動物なの。だからあなたたちの仲間よ」

 それきり二人は黙った。真意を探るかのように互いの瞳の奥を、あるいはその先で繰り広げられている思考の渦を無言で睨み合ったまま、どちらも動かない。

 純平の口からは今にも途絶えそうな切れ切れの呼吸が小さく荒く続いていて、大将の前足にはなおもタクローが引っ付き殺意を引き離そうとしている。

 やがて大将はその力を手伝わせて前足を振った。払い除けられたタクローは後ろによろけ、ソファーにぶつかり腰を落としたところで止まった。場が緊張を回復させる。

 大将は純平を切り刻む代わりにそこから離れ、サラに体を向けた。サラは嬉しそうに歯を見せた。純平は前足に押し付けられた箇所に手を添えるや、激しく咳き込み、タクローは急いで純平の後ろに駆け付けて、曲がった背中をさすってやった。

「私はサラ」

 サラはそう言って胸元に手をやり、それから純平を指差した。

「そっちは純平。よろしくね」

 大将は返事をせず、一瞬だけ純平を見遣ると、残りはずっとサラを睨みながら告げた。

「妙な素振りを見せたら、命はないと思え」

「わかってる、もちろんよ、そんなの当然じゃない」

 ゲホゲホむせながら呼吸を整える純平はそれに答えられないが、サラはコクコク頷きながら二人分以上の返答をした。

 大将はゆったりと踵を返し、ドアの前で中腰の体勢になると、器用に両前足でノブをひねってドアを押し開け出て行った。

「タクロー、こいつらを着替えさせてやれ。それから俺のところへ来い」

 その言葉を部屋の中に迎え入れてからドアは閉まった。

 サラは示し合わせたみたいにタクローと同じタイミングでほっと息をつくと、机から離れて純平の隣に滑り込んだ。

「純平、平気? どこも痛くない?」

「何とかな…」

「また上に乗るか?」

「いや…いい…」

 落ち着いてきたとはいえ、純平はまだ荒い呼吸を続けている。サラも純平の背中に手を置いて、上下に動かしながらタクローを振り返った。

「大将って恐いね…」

「何せ百獣の王だからな。とても強いがプライドも高い。あんまり逆らわないほうがいいぞ」

「うん…そうする…」

 サラが熱心に頷くのが背中越しに伝わってきた。しかし純平はタクローの忠告に応えなかった。その代わりに、まるで仇敵にでもするかのように、歩くたびに左右になびくたてがみを、いつまでもドア越しに睨み付けていた。


 今日が丸々休業だったためか、動物たちがこの建物を占拠したときは、エレベーターとエスカレーターはどちらも動いていなかったという。

 ハトやスズメやカラスの報告から、その存在と役割と使い方をある程度知っていたものの、稼働のさせ方まではわからず、それにもかかわらずあれこれ操作しようとしたが、どちらもウンともスンとも言ってくれず、しばらくしてからようやく壊れたことだけには気がついたのだという。

「ここだけの話だけどな」

 トドメを刺したのは大将だということだ。ただでさえ山のようにあるボタンをいくら押しても思い通りにならないことに腹を立て、挙句の果てにわめきながら大暴れし、警備室はさっきまで煙が出ていたそうだ。それが収まったときにはもう、店内を映していた数十個のモニターは全て消えており、試行錯誤の産物として見つかった、それらを操るスイッチを今一度押しても、真っ暗なままだったという。タクローが純平を背中に乗せて階段を這い登っていったのも、今こういう形で階段を伝い降りているのも、全てそのせいだという。

 純平は自分の足で階段を一段一段踏み締めて下に向かって歩いているが、純平を人間と勘違いして傷付けようとしてしまった失敗談と、その後で腰の抜けてしまった純平を背中に乗せて連れてきたことを道すがらタクローから聞いたサラは、途中からタクローの背中にまたがり腹這いになっていた。

 それはジェットコースターの降下に似ているのかもしれない。斜め下を向いたままの体が自分の意志の及ばないところでその位置を下げていくのが楽しいらしく、毛むくじゃらの首筋にしがみつき、タクローが一段降りる弾みでわずかに背中が浮かぶたびに歓声を上げて、幸せの証である突き立った尻尾をぐねぐね泳がせていた。

 そんな無邪気な様子を、純平はしかし後ろから白い目で眺めていた。それは惨劇の跡を練り歩き、その周りがまた惨劇と化していく小一時間前の異常な行脚を想起させられるからだけではなかった。

 やがて十一階にたどり着いた。フロア全てがカジュアルな服や小物を扱う量販店というこの階から、十階紳士服、九階婦人服と、三階に渡って衣料・装飾品売り場となる。

 大将の前足の餌食となった純平のダッフルコートは、全てのボタンがちぎれてなくなり、その下のバニーガールの衣装は純平を確実に押さえ付けておくために伸ばした爪によって切り裂かれていた。奇跡的に皮が薄く剥けた程度で済んだ胸板を露出させないためには、まさに今そうしているようにコートのポケットに両手を突っ込んでそれらを交差させるほど内側に寄せ合わせておかなければならない。大将が命じなかったとしても、純平は勝手に着替えに来ていたことだろう。

「好きなものを選んでいいぞ」

 タクローはサラを降ろしてからそう言うと、言い付けに従って大将の元へ向かうらしく、下の階へ降りていく。

 純平は下の階に獲物を探しに行くようにその後に着いていき、白い巨体が婦人服売り場を下っていくのをしっかり見届けてから、猛ダッシュで十一階まで戻った。

 サラはすぐに見つかった。階段を上り切ったところからも姿が見えた。財布やサングラスなどの小物を陳列している辺りで、ちょうど特売の札の貼られたワゴンに山積みになった帽子の中から黒いニット帽を一つ引っ張り出したところで、こちらに気がつくと手招きしてきた。

 サラの身振りとは関係なく、純平はバニーガールにならないように小走りで駆け寄った。

「これかぶったほうがいいよ」

「なぜあんなこと言った」

 目の前にニット帽を差し出そうとしたサラの手を、純平は問い掛けとその口調に見合った視線で阻んだ。伸ばしかけた腕をそのままにして、目をぱちぱちさせるサラに、冷静な怒りを露に続ける。

「協力するだと? あいつらの目的わかってんだろ? 人間の俺に、人間を滅ぼす手助けをしろってのか」

「それじゃあ」

 サラは小さく反論したが、滲み出た怒気に気圧されたのか、しょんぼりとした顔を耳や尻尾と一緒にうつむかせ、ついでに体ごとそっぽを向いて、悲しそうに尋ねた。

「他にどうしたらよかったの?」

 純平は口ごもり、何も返せない。サラは恨めしそうに横目を送り、純平をうつむかせると、なお追い討ちをかける。

「私たちはもう少しで殺されるところだったのよ? 助かるためにはあれぐらい言うしかなかったじゃない。違う?」

「………」

「ずれてる」

 サラはニット帽をくわえて向き直ると、純平の頭のウサギの耳に手を伸ばした。カチューシャごと右に曲がっていた耳をまっすぐに直すと、ニット帽のてっぺんから左右に少しのところを、それぞれ牙のような八重歯で噛み切った。

「何してんだ」

「取れにくくするの」

 そしてそれを純平の頭の上のウサギの耳の上に精一杯背伸びしてかぶせ、小刻みに位置をずらしながら下に引っ張る。

「純平はこれのおかげで動物たちから私と同じ生き物だって勘違いされてる。だからこれを取っちゃ駄目だよ。これが取れたら純平が人間だってことがばれちゃうんだからね。そうしたら純平、殺されちゃうからね。せっかく殺されずに済んだんだから、利用できるものは何でも利用して、とにかく生き延びようよ」

 やがて二つの穴からウサギの耳が現れ、ニット帽の縁は純平の頬まで到達した。サラは耳の根元を強めに引っ張ってみたが、ぐにゃぐにゃとしなるだけである。ずれるのはもちろん、ニット帽ごともぎ取れるなんてことは、まず起こらないだろう。

「これで取れにくくなった」

 サラは一仕事終えて満足そうに微笑むと、すぐさま真剣な表情に戻った。

「いいね? 絶対に動物たちのいるところでこれを取っちゃ駄目だよ?」

 そこまで念を押してもらわなくてももうわかっている。純平はサラに劣らない真剣な表情を見せ、力強く頷いた。


 純平は以前この階で買い揃えた、おそらく別々に購入したのだろうが実際のところは記憶にない、とにかく今日の朝から着ていた服を探し出すことにした。

 こんな状況下であってもこの格好を着替えられるのはやはり嬉しかった。その状況下でスーツなんかを着る気はないし、その状況下でなくても婦人服には用はない。財布は友人の家の洗面所で脱いだズボンのポケットの中なので、無人のレジを通り過ぎるごとに罪悪感を覚えたが、そんな悠長なことを言っていられる状況下でないこともわかっている。

 厚手の長袖のTシャツ。パーカー。長ズボン。靴下。マジックテープで留めるスニーカー。しばらく身に着けていなかったので忘れるところだったがトランクス。いずれも柄は無地の黒。自他共に認めるセンスのない無精者なので家にも他の色がない。そこへ神経を注ぐのも煩わしい。偶然とはいえサラが差し出してくれた帽子が黒で良かったと思う。それらを次々に両手で抱え、試着室に入ってカーテンを閉めながらコートを脱ぎ捨てた。

 全てのタグを外し、あるいは包みを取り除いてから、下着上着と装着し、靴下がこんなにも足に温もりをもたらしてくれるものなのだということに深い感銘を受けつつ、最後にスニーカーを履いた。忘れ物がないかどうかコートのポケットをまさぐってタバコとライターを取り出すと、その分だけ軽くなったコートをバニーガールの残骸の上に放った。

 随分暖かくなったがそれでもまだ寒いので、同じダッフルコートを探すことにした。当然黒。丁寧にタグを取り、タバコとライターをポケットにしまい込み、ボタンを丁寧にはめながら一番近くの姿見の前に立ってみて、やはり異様な生き物だと思った。それでもバニーガールよりはましだろうか。などと比較できてしまうのがまた情けない。

 鏡の中に佇んでいるのは、ニット帽から作り物とはいえウサギの耳を生やし、その下はダッフルコートに身を包んだしかめっ面の全身黒ずくめの人間である。そこにもう一人似たようなのが後ろから加わった。サラは何も変わっていない。純平は鏡の中に尋ねる。

「寒いだろ」

「うーん」

 サラは首をかしげてから、

「ちょっとね」

 こくりと頷いた。

「でもね、どの服にも尻尾を出す穴が開いてないの。このお店品揃え悪いね」

 不満を通り越して呆れた様子である。本気なのか冗談なのかわからないのでそこには触れないことにしておいた。

「上に何か着たらどうだ」

「動きにくくなるのは嫌なの」

「風邪引くぞ」

「そのときは純平に治してもらう」

 サラはにこっと笑い、純平は眉をひそめる。

「動物のお医者さんなんでしょ? 純平。私も半分はネコだし」

「でも半分は人間だろ。俺は人間は専門外だ。おまけに動物は保険が効かねえから人間より高いんだぞ」

 言いながら純平はきょろきょろ辺りを見回しており、目に付いた長袖の水色のトレーナーを棚から引っ張り出すと、襟のタグを乱暴に引きちぎった。

「ほら、これでも着ておけ」

 サラは目の前に押し付けられたそれを気乗りしない様子で見つめていたが、放られると慌てて抱き止めた。仕方ないというように袖を広げて後ろから首に巻き付けておく。

「タクローたちが来た」

 不意に階段のほうを睨んでサラが言った。

 純平はとっさにウサギの耳に触れ、不備がないことを確かめた。真っ直ぐ正面を向くように微調整を行なう。サラはそれを見届けて合格を示すように頷いた。

 程なくタクローが二本足でやってきて、二人の前で止まった。左右の肩には一羽ずつハトが宿っている。タクローは二羽の頭をそれぞれ、それだけでそれらを覆ってしまえるほど大きな前足の指先で撫でながら聞いてきた。

「どっちがロロだかわかるか?」

 純平にはどっちもロロに見えるしどっちもロロじゃないように見える。唐突な出題に考えたり答えてやったりする精神的な余裕もない。しかしサラは向かって左のハトを迷わず指差した。

「こっち」

「せーかーい! よくわかったね」

 左のハトはロロの声で拍手するように両翼を叩いた。

「匂いがするもん」

 サラは誇らしげに種明かしをすると、右のハトを指差した。

「それじゃあこっちは?」

「私のお兄ちゃん」

 ロロが答えると、そのハトは右の翼を胸の前に添えて、恭しく頭を下げた。

「初めまして、偵察隊のポポだ」

 妙に大人びている割に男の子のような声だった。ロロが自慢げに付け加える。

「これでもリーダーなんだよ」

「そうなんだ。すごーい」

 ポポは照れ臭そうに笑むと、

「そんなことないよ」

 と答え、

「そんなことあるよ」

 と声を荒げられた。

「何怒ってるんだ」

 その口調にポポは強く応え、

「怒ってなんかない」

 素早く言い返される。

「怒ってるじゃないか」

「怒ってないよ」

「いーや怒ってるね。僕にはわかる」

「お兄ちゃんが怒ってるんでしょ! おっきな声出して!」

「お前が大きい声で言うから僕もそうなったんじゃないか!」

「ほらまたそうやって大きい声出す!」

「ええいうるさい!」

 間で顔を挟まれていたタクローが二人の頭を両前足で同時にはたいた。二人は左右対称に全く同じ形によろめき、悲鳴の合唱がハーモニーで響いた。

 楽しいというより心温まる光景だったのだろう。思わずこぼれたサラの優しい笑い声に包まれて、やはりシンメトリーに翼で頭をさすりながら、ようやく二人は黙り込んだ。

 不思議なもので、純平には二人がどことなく少年と少女に見えてきた。立派なお兄ちゃんであろうとする兄と、それを盛り立てようとする妹。園児という形容が似合いそうなあどけない感じだ。サラにつられたこともあって微笑んでしまったほどである。

 タクローは二人を交互に見回して彼らの保護者のように問いただした。

「まったく…何が原因なんだ」

「お兄ちゃんが怒ってるって言うから怒ってないって」

「それはもうどうでもいい!」

「原因は…」

 タクローがロロを黙らせると、ポポは左の翼でサラを指し示した。

「わ、私?」

 サラは自分に回ってきたことに戸惑いを隠せず、目を丸くして自分を指差した。ポポは頷いて続ける。

「僕をすごいって言うから、そんなことないって言っただけだよ」

「そんなことある!」

「どうしてだ?」

 何だか面白そうなので、純平は一喝したロロににやにやと聞いてみた。ロロは純平のほうを向き、ポポを翼で指し示して、「そんなことある!」第一の理由を高らかに告げた。

「ここをアジトにしようって提案したのはお兄ちゃんなんだよ」

 純平は自分の立場を思い出した。なぜ忘れてしまったのかと表情が固くなる。ロロはそれに気がつくこともなく熱弁を続ける。

「建物の中のことを盲導犬や聴導犬から聞き出したのもお兄ちゃんだし、エレベーターやエスカレーターの使い方を調べたのもお兄ちゃんだし、お兄ちゃんがいなかったら戦争が始まるのがもっともっと遅くなってた」

「それだけで褒められても困る。僕らの目的は人間たちを絶滅させることなんだ」

「でもお兄ちゃんはすごいもん」

「そのすごいお兄ちゃんが何の用だ」

 お前らの武勇伝なんか聞きたくもねえという気持ちが純平の口をつんざいていた。

「忘れるところだった」

 ポポは思い出しように呟くと、タクローの肩から飛び立ち、サラに向かってゆっくり羽ばたいた。

 航路を空けてやるためにサラが膝を曲げて首をすくめると、ポポはサラの頭の上に、耳と耳の間に降り立った。サラは目をしばたかせてから、目線を真上に持ち上げる。

 ポポは左回りに足踏みし、サラと同じ方向へ体を向けたところで、おもむろにうずくまった。そして首を下と横に曲げて、サラと純平の顔を交互に見回した。

「これからは君たちと一緒に行動させてもらう」

「なに?」

 純平は思わず聞き返していた。一方のサラは両手でポポを頭から離すと、純平の予想と期待を裏切り、満面の笑みの前でくるりと反転させて顔を突き合わせた。

「私はサラ」

 それから純平へポポを向ける。

「こっちは純平」

「サラと純平か、よろしく」

「うん、よろしくね」

 サラは伸ばした指で顔や翼を撫でながらポポを頭の上に戻してやり、そのままポポの体を撫で続ける。虫唾の走る思いでその様を眺めていた純平は吐き捨てるように言い放った。

「悪いが邪魔だ。帰ってくれ」

「そうはいかん。これは俺が決めたことだ」

 振り返ると、大将がのそのそと近付いてきているところだった。

 怒りは恐怖をも凌駕するものらしい。復讐心に近い感情が純平を支配し、それ以上の接近を禁じるかのように大股で立ちはだからせると、おもむろに腕を組ませ、不審そうに歩を止めて見上げてきた大将を睨むように見下ろさせた。なおも刺々しく口を開かせる。

「俺が必要ないって言ってんだ。いいからとっとと連れて帰れ」

「俺の命令だ。お前らは黙って俺に従えばいいのだ」

「何だと?」

「不満そうだな」

 純平は舌打ちして目を剥いた。大将も視線の尖端に鋭さを増し、低く唸って今にも飛び掛かろうとするように身を屈めた。純平も相手がライオンだということに少しも頓着せずに拳を作って身構えた。

「喧嘩しちゃダメよ」

 そう言うとともにサラが駆けてきて二人の間に割って入り、純平をなだめようと肩口を押さえた。

 タクローとポポとロロはそれより何倍も慌てた様子で一斉に大将に飛び掛かった。まともにやったところで純平に勝ち目はないと考えたのだろう。ポポとロロは両前足を、タクローはたてがみごと大将の首を押さえ込み、一人純平を顧みてまくし立てる。

「よく聞いてくれ純平、ポポはお前たちの見張りなんだ、お前たちは賢いから、放っておいたら何をしでかすかわからないって大将が言うから、念のためにやっておくだけなんだ、あくまで念のためなんだ、俺たちだって本当は嫌なんだ、仲間を疑ってるみたいだから」

「俺は嫌じゃない」

「大将…!」

「俺はお前たちと違ってまだこいつらを信用してないんでな。それとも…」

 大将はタクローを睨んでから、改めて純平を見遣った。

「見られていては困ることでもあるのか?」

 純平は大将を留めつつ自分を訴え説き伏せようとする必死の形相から、今すぐにでも殺意に変身する準備のできている嘲笑に目線を移し唇を噛んだ。

 忌々しげに狭まるその視界に、サラがさりげなく背伸びをして進入してきた。

 サラは、上目遣いに見つめていた。見るというよりは睨んでいた。その瞳はたしなめるように、死にたいの? と叫んでいた。ようやく理解した。サラだって心からポポを受け入れているわけではないのだ。そういうことなら。

「そういうことなら構わねえよ」

 一点の曇りもない笑みが純平の顔面で弾けた。動物たちは呆気に取られて目を丸くし、大将に至っては拍子抜けした。もう少し抵抗や拒絶を示すと思っていたのだが。

「それならそうと早く言えよ」

 純平はほっと息をつき、軽く顔を上げる。

 理由がわかって安心できたという口調とは裏腹に、純平の表情は穏やかに憤っていた。固く前歯を食いしばり、広大に見開いた両目で木目調の高い天井を、そこに動物たちがいるかのように睨み付けているのだ。

 しかし屈んでいる大将を始め、それを押さえているタクローとポポとロロには、純平の真意とあわせて、その忍耐に満ちた表情を見届けることができない。確認することができるのはサラだけだ。サラは純平の体を押さえながら、同情するように暗い顔で視線を落としていた。

 大将の言い分を受け入れてくれたことに安堵して、タクローは立ち上がろうとし、ポポとロロも大将から離れた。純平は剥き出しの前歯を唇で覆い、本心を封印する。

 身軽になった大将は踵を返し、そこで振り向く。

「それじゃあポポ、任せたぞ。何かあったらすぐに俺に報告しろ」

「了解」

 大将はそう告げると、ポポの返事を受ける前に歩み出していた。ポロシャツの積み重ねられたずっと向こうの棚を曲がる。

 その姿が気配とともに完全に場から消えてから、ポポは飛び立ち、サラの頭に戻ってきた。

「そういうわけ。でも僕のことは気にしないでいいよ。僕も二人を信じてるからさ」

「うん、ありがとう」

 サラはポポを撫でながら本当に嬉しそうにお礼を言った。一方で純平は無言だった。これ以上の芝居はできそうになかったし、もうその必要もなかった。


 大将は見張りをつけておく以外にも二人の処遇を「命令」し、それをタクローに処理させることにしていた。と言ってもそれらは、初めに連れてこられた十四階の事務所を二人の居住地にさせることと、今日はもう休ませろということであり、それから先は明日以降に決めるということだった。

 それに従ってタクローに十四階に戻る前に、二人は十三階に連れてこられた。家具・寝具売り場だ。この階は家具のエリアと寝具のエリアに中央で二つに分けられ、階段を上ってフロアに差し掛かったここは、ちょうど寝具のエリアに当たる。取っ手のついた厚手のビニール袋に収められた敷布団が壁に面した棚に積み込まれ、重ねて紐で結わえられた掛け布団が通路と交互に設けられた棚に並んでいる。同じ柄の敷布団と掛け布団が一つのセットになったものもあった。

「好きなものを選んでいいぞ」

 タクローは服のときと同じことを告げて、その後に付け加えた。

「夜は寒いからな」

「これも命令?」

「いいや?」

 サラが仰いで尋ねると、質問されたこと自体に不思議を感じたように、タクローは聞き返しながら首をかしげた。ロロは巨大な頭に押し潰されないように同じ向きに体を傾ける。

「いいの?」

「させるなって言われてないし、いいだろう。ここはもう俺たちのものだ。中にあるものを使わせてやるぐらい問題ない」

「でも…」

 それだけ言うと、サラは軽くうつむいた。タクローの目の位置からだと膝を曲げない限り表情は伺えないが、不安げな顔色は力なく伏した耳からも想像できた。

「大将に何か言われたりしないかなあ? 勝手なことするな、とか、とっとと戻して来い、とか…」

「そのときは俺が許可したって言ってやるよ」

 耳と一緒にサラの頭が持ち上がり、ずり落ちそうになったポポが軽く羽ばたいてその場に堪えた。サラを包む感情は見る見るうちに驚きから謝意へと変化する。

「ありがとう。タクローって優しいね」

「仲間だからな」

 にっこり笑いかけられると、タクローは憚ることなく胸を張った。

 それならばとばかりにサラはくるりと体を回転させ、ポポを頭に乗せたまま走り出した。とりあえず目に付いた布団に袋の上から抱き着いたり棚から床に落として覆いかぶさったりして、厚みをチェックし始める。良さそうなのは袋から取り出して直に感触を確かめて、次から次へと移っていく。

 ポポがサラから離れた。そして別の布団を踏み締めたり翼で撫でたりくちばしで突付いたりして気に入ったのを勧めると、ロロもタクローの肩から別の方角へ飛び立って同じように品定めしては意見を言った。タクローも奥からもっとたくさんの種類を持ってきて、袋を引きちぎって中身を床にばら撒き、弾力と争うように前足を押し付けては、これなんてどうだと申し出た。

 サラはそれらを自分で味わいながら、硬すぎるとか体が沈んでしまうとか柄が好きじゃないとかもうちょっと厚いほうがいいとかまあまあいいかもとか感想を言い、誰かがそれら同意したり否定したりまたそれに誰かが反論したりした。

 四人の意見はなかなか一致を見ることがない。却下されるものは大体固まるが、決定するものとなると票が割れる。一対三でもめげずに良し悪しを主張し我を通そうとすれば、二人ずつで分かれてメリットデメリットを言い合って、その言い分に納得して攻守が入れ替わったりもした。それでも異なることを話し合えるのが楽しいというように、議論は円満に進行していく。

 やがてサラは面白くなさそうに突っ立っている純平に気がつき、声をかけた。

「どれがいい?」

「どれでもいい」

「じゃあこっちで決めちゃうね」

 純平はにべもなく返したが、サラは気にせず討論に戻った。思いのほか冷淡だったことが少し不満であるが、気にしないよう努める。代わりにタクローとポポとロロを眺め、自分とサラだけが使うものでその自分が選択権を放棄したのだから、サラがいいと思うものにさせればいいだろうと心の中で呟いた。しかし口に出すのは億劫だったのでそのまま黙っていた。

 白熱の言い合いはしばらくしたところで、硬軟のバランスがいいとタクローが推したウール入りの敷布団と、触り心地が抜群だとポポが言うシルクのシーツと、色が綺麗とロロが勧めたピンクの毛布と、サラが第一印象から決めていた羽毛の掛け布団で落ち着いた。

 それら二通りの合わせて八枚の寝具は、タクローがまとめて抱え上げ、それをしんがりに一同は十四階に向かった。改めてサラはタクローに感謝し、タクローは誇らしげに微笑する。

 事務所の奥の部屋はどうやら給湯室らしい。隅に小さい冷蔵庫が据えられて、突き当たりに布巾のかけられた流し台があり、その傍らにはポットの置かれた戸棚があって、ガラス戸の向こうに急須や湯呑みやコップや洗濯バサミで止められた茶葉が入っているのが見える。先ほど純平が放り投げ自ら取りに行ったウサギの耳は、これと床の隙間に食い込んでいたのだ。

 他には何もない広々とした空間なので、そこに寝床を設けることにした。サラはタクローと手分けして二枚の敷布団を横に並べ、ポポとロロはくちばしでシーツを覆う手伝いをする。途中でタクローは何か足りないのに気がついて立ち上がった。

 一方その頃、純平は事務所のソファーにもたれて固く目を閉じていた。寝具の選択をサラに一任した後は、誰も話しかけてこなかったこともあって一言も喋らず、戻ってきてからもずっとこのままだった。

 とは言え茫漠とその体勢を保っているわけではない。頭の中は急ピッチで回転して様々な思考を巡らせている。そのためには一人でじっと集中しているほうが都合が良かった。しかしそれを傍から見ると何もしないで休んでいるようにしか映らない。

「手伝ってやったらどうだ?」

 戒めるような声で言われて顔を上げると、長いこと目をつむっていたためにぼやけた視界に、ちょうど部屋から出て行くタクローがいた。

 腰を上げて奥に行くと、サラが二枚目の掛け布団を毛布にかぶせており、ポポとロロは一枚目の掛け布団を踏み付けて皺を丁寧に整えているところだった。

 思わず立ち尽くす。やることがない。

 手持ち無沙汰に軽く息をつき、そこでふと気がついて、事務所に戻りドアから出た。しかしそこでも大量の枕を抱き抱えて戻ってきたタクローと遭遇したので、結局何もしなかったことになった。まあいい。

 給湯室を舞台に枕を巡って再開された論争は、サラがようやく、

「私と純平が使うものなんだから」

 と根本的なところに気がついて、早々と終結した。

 自分たちは動物より頭がいいというサラの言は、純平も人間として自覚していたつもりだが、あながち間違いでもないのかもしれない。あまりにも見事に真理を言い当てられた気分で目から鱗が落ちたのだろう、魂が抜けたみたいな顔でしかしどこか満足そうに納得している動物三人の姿を眺めて、純平は侮蔑にも似た優越を覚えるより先に呆れを感じた。

 それなら布団もシーツもサラの一番気に入ったのに変えてこようと誰かが言ったが、手間を考えたサラはそれを遠慮して、枕だけを二つ選んでそれぞれの布団の上に並べた。

 そうして寝床が完成すると、サラは、やはり邪魔なのか、トレーナーを剥ぎながら立ち上がった。給湯室と事務所の境で佇んでいた純平は、自分もコートを脱ぎながら場所を空けてやった。

 だがサラは事務所までは戻らず、純平のいた場所から丸めたそれを放り投げた。水色のいびつな球体は事務机を飛び越えたところで失速してソファーに届かず床に落ちた。やはり思い入れは無いらしく、サラはそんなことに頓着する様子も見せずに給湯室に戻る。

 純平は畳んだコートをテーブルに置いておくついでにそれを拾って、サラがそうしたかったようにソファーの背もたれにかけておいてやってから後を追うように戻った。

 サラは靴を脱ぎ捨てたところだった。後ろに蹴り飛ばされたスニーカーが立て続けに壁に当たって滑り落ちる。裸足で床を跳ねて手前の布団にダイビングするようにうつ伏せに倒れ込み、体を横に回転させてその中に潜り込んだ。終始にこやかだ。

 ポポはとっくにサラの頭から右の枕元に場所を移しうずくまっていた。当然といえば当然だが寝るときも一緒らしい。だがもう何も言わない。それが見張りの役目なのだろう。

 純平も奥の布団の足元で靴を脱ぐと、ウサギの耳を帽子ごと押さえ、掛け布団と毛布の下に体を滑り込ませて、両手ごと枕に頭を乗せる。

 二人が横になったのを見計らって、タクローは残った枕を抱え上げた。

「ゆっくり寝ろよ」

「うん、ありがと」

「また明日ね」

「お兄ちゃんお休み」

 純平を除く四人が存分に言葉を交わしながら、タクローは給湯室と事務所を去っていく。電気を消すのはロロの役目だ。ソファーを通り過ぎた辺りでタクローの肩から飛び立ち、翼を羽ばたかせて宙で停止したままドアのそばのスイッチを二つくちばしで突付く。二つの部屋の光源はわずかな間を置いて順に絶えた。

 ドアが開き、外からの明かりが事務所の中に入り込み、給湯室からも光の筋がかすかに確認でき、すぐにそれは途絶え、事務所からも押し潰され、ドアが閉まった。

 こうして空間は暗闇と化したが、無のような完全なそれとは程遠い。旋律を伴った吐息や衣服と布団の擦れる音は間断がない。

「今日は疲れたなあ」

 少ししてから、ポポがしみじみと呟いた。

「ずーっと飛び回ってたもんなあ」

 サラがくすりと笑う。

「お疲れ様」

 そして頭から背中にかけてを撫でてやりながら、続ける。

「リーダーだもんね」

「そんな偉いものじゃないけどね」

「でも、リーダーはリーダーでしょ?」

「誰よりもこの町のことを知ってるってぐらいさ」

「やっぱり凄いよ」

「凄くないって」

「私はこの町のこともよくわからないもの。どこに何があるのかも知らない」

「いい町だよ。人間が住むにも、僕らが拠点を置くにも」

 そこで布団が剥ぎ取られる分厚い音がした。純平が跳ね起きたのだ。それだけで二人は押し黙り、辺りが一瞬静まり返ったが、舌打ちと忌々しげなトーンの吐息と頭をかきむしる音が混じりながらその後に続いた。

「寝かせてくれ」

 ただでさえ久し振りの発言である上に直前の行動に起因していた感情を裏付けるような脅迫めいた口調だ。

 サラはそこから離れるために素早い動作によって布団で頭をすっぽり覆い、残されたポポも「うん、ごめんごめん」と早口で返事をして、それきり室内は微風のような息遣いと寝返りだけが時々響く、ほぼ完璧な静寂を身にまとって簡素な闇を迎え入れた。




「うん?」

 しばらくの時間が経過した頃、くぐもっていないよく通ったサラの声が、寝返りの音に続いた。そしてもう一言継げられる。

「うん。起きてるよ」

 そのすぐ後に、サラは純平の真意を悟った。拒むことを許さないような冷たい口調で沈黙を要求した理由を理解した。今し方の自分がそうだったように、話をしている間はなかなか寝付かないものだ。動物たちの戦勝の話題を終わらせる以外の目的が、あの発言にはあったのだ。

 確かな返事のために、サラには若干の猶予が必要となる。耳をそばだてて熱心に確認し、念のために軽くではあるが触れてみた。さしたる反応はない。指には穏やかな一定のリズムで低く起伏する筋肉の反動が伝わってくる。

 やがて、九割以上の自信と残りの若干の不安を込めて、少し抑え気味な声で、返答を赴かせた。

「うん…寝てる…多分…このまま朝まで起きないよ…」

「そうか…」

 自然に出てきた相槌に、純平はほっとする。自分に聞こえないぐらい小さな声というのは、ちゃんと届いているのかどうかわからなくて、心配になるものだ。自分の声を自分で聞くというのは、自分のためにも必要なことなのだ。これでようやくまともに話ができる。

「やっぱり疲れてたんだろうね」

 ポポをねぎらうかのようなその言葉には、純平は何も答えない。

 ネコの視覚は暗いところがよく見える。猫と同じ五感を持つサラの視覚にもその特性は備わっており、それから先の純平の仕草は、横になったままのサラにも見えていた。

 純平は起き上がって布団の上にあぐらをかいた。そしておもむろにニット帽の隙間に指を入れ、ウサギの耳ごと脱いで膝の上に置いた。見開かれたサラの目は反射的にポポに向いたが、ポポはそんなサラの不安などに気がつくことのない深く安穏とした眠りの中におり、細められた目で詰るようにサラに見返された純平もまた、その姿が見えないために、頭や額を濡らした汗を両手や袖で拭き取っているところだった。それでもその動きは、出来るだけ迅速に行おうという意志が反映されて慌ただしかった。

「俺は決めた」

 眠っているポポに感付かれないように、できるだけ小声で切り出して、純平は続ける。

「俺は人間を救う。こんな風に俺だけ生き延びたってしょうがない。絶対にあいつらの思い通りにはさせない。絶対に俺の手で人間を救う。どうすればいいのかまだわかんねえけど、必ず救ってみせる。とりあえずこれ以上の被害は絶対に食い止める。あいつらが俺を仲間だと見なしてる限り、俺があいつらに殺されることはないんだ。それをとことん利用してやる」

 そこまで言ったところで語るのをやめ、純平はサラのほうへと顔を向けた。

「協力してくれるか」

 それは力強く意気込みを言い放った直後とは思えないほど情けなくも映る表情での懇願だった。

 実際は即答に近かった。しかし純平にとってはほとんど停滞している遅々とした流れに服従させられている気分だった。それぐらいのわずかな間を置いて、サラの返事が届いた。

「私は最初からそのつもりだよ」

「そうか…」

 純平はゆっくりニット帽を頭に戻すと、手探りで耳の位置を整えながら毛布と掛け布団をかぶり、枕に横顔を乗せた。

「それ聞いて安心したよ…ありがとう…」

 サラの目には、その言葉どおり安堵と感謝に満ちてこっちに向けられている純平の顔が、よく見えていた。

 しかし、その対象である当のサラは、それとは正反対にひどく沈鬱で不安そうな表情を浮かべていた。

 そしてそれは、光の協力があって初めて事物を見届けることのできる視覚しか持たない、ただのヒトである純平には、見えていない姿なのだった。


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