打ち上げ話
榊動物医院を初めて訪れた飼い主の多くは面食らう。
その名の記された曇りガラスの扉を開けると、その時間帯によって言葉の変わる挨拶を投げかけてくるのは、大抵の場合、頭に黒い猫の耳を生やした女だからだ。
「おはようございます」
「こんにちは」
「こんばんは」
生えているのは猫の耳だけではない。動きやすい半袖の白衣の腰からは、黒い尻尾も伸びている。
「今日はどうなさいましたか?」
飼い主によっては踵を返そうとするものの、彼らが連れてきたペットたちは、そこで例外なく抵抗する。
大型犬はリードを振り切ってでも彼女に駆け寄ろうとするし、ケージに入れられた小動物はそれを突き破らんばかりの勢いで体当たりする。そして切なそうに彼女に向かって鳴き喚くのだ。
戸惑う飼い主をよそに、彼女は彼らに声をかける。
「暴れちゃダメよ。どこか悪いんでしょう?」
それで彼らは静まる。
飼い主が怪訝そうにペットを自由にすると、彼らは飼い主に対するのと同様に彼女に懐き、彼女もまた彼らを愛おしく迎える。彼女の尻尾が彼らと同じように忙しなく動くことには、飼い主は目をつむるようになる。
とにかく患畜からの支持が絶大であることは、遅からず飼い主の信頼を得ていく。他の病院だとあらん限りに抵抗する動物たちも、榊さんのところに行くよと声をかけるだけで、自らケージに入るなどするという。
獣医の腕もいい。妻ほど愛想は良くないものの、実力で信用を得ていく。
もっとも本人は、まだまだ未熟と卑下するし、事実、手に負えないと歯噛みして頭を下げることもある。
それでも動物たちとの意思疎通は円滑で、まるで言葉がわかるようだともっぱらの評判である。そのために誤診の類は一度もなく、彼が名医として紹介する、かつての勤め先であった手練の獣医師も、独立してからのほうが精度が増したと感心しきりだ。
建物は住宅街の一角に位置する二階建てである。一階が医院になっており、二階は獣医とその妻、そして飼い猫の住居である。
その立地と構造もあって、手が空いてさえいれば真夜中だろうと休診日だろうと急患を受け付けるというフットワークの良さも重宝がられている。奴らが求めているのだから仕方ないと、疲れた顔でも寝ぼけまなこでも、二人は笑って患畜を受け入れる。
診療時間外には夫妻が近辺を連れ立っている姿がよく見られる。
通りすがりに挨拶された、付き合いの浅い飼い主が怪訝そうに応えることも少なくないが、それは妻の格好のせいである。
妻はいつもと異なり、きまって頭をすっぽり覆う帽子を被り、足首まで隠すスカートを履いているために、耳も尻尾も生えているようには見えないのだ。
いずれそのことに気がついた飼い主は、院内でのあの珍妙な格好は、仕事のときの扮装なのだと理解する。
実際は外出するときの格好のほうが扮装なのだが、それを知っている人間はごくわずかだ。
逆に、患畜を含めた動物たちは、一頭一匹一羽の例外なく、そのことを知っているのである。
そんな榊動物医院に作者が現れたのは、診察時間も終わろうとしている、ある日の夕方頃だった。
「いらっしゃい」
サラが挨拶にそぐわない言葉をかけたのは、その相手が飼い主や患畜でないことを認めたからだ。前もって来訪と来意を伝えられており、もうじき来るだろうということを知っていたから、自信をもって言うことができた。
「純平は?」
「奥で処置してる。もうすぐ終わるから、上で待ってて」
サラは作者とともに外に出た。
曇りガラスの戸の隣に木目のドアがある。ここが住居の玄関だ。開くと上に伸びる階段があり、右手奥にはエレベータードアが見えた。知ってはいたが思わず嘆息する。
「おおバリアフリー」
「みんとの飼い主が付けておけって。ベビーカーを階段で下ろすのは大変だろうからって」
「アテあるのか?」
「どうだろう。マスターがどこまで私に生殖機能を付けてたのか、私にはわからないからね」
「俺にもわからん。今の今まで考えてなかった。今後リライトするとしても、そこには触れないだろうな。およそロクでもない展開にしなきゃならんだろうし、テーマが薄まる」
サラが医院に戻り、作者は一人階段を上る。
上りきったところがキッチンを備えたリビングダイニングになっており、ソファーやテーブルが絶妙の位置に置かれていた。調度品の趣味もよい。奥には二人が寝室としている和室や、物置代わりになっている洋間、そして洗面所やバストイレがあることは聞いている。
作者とはいえ、物見遊山で愛の巣に立ち入る気もなければ、無用の用を足すつもりもなく、二人掛けのソファーの片方に寄って腰を下ろした。
見るともなしにキッチンを眺め、純平やサラは料理をしているだろうかとふと思う。純平にできそうな予感はしないし、サラは不器用そうだし。でも、こんな家で二人で暮らすのだから、変われば変わるかもしれない。特にサラは食べることが好きだろうから、もしかしたらとも思う。そしてふと気が付いた。
食べることが好き。それは別のことを好きだということにもなる。それはいいことだろう。そう言わなければならないだろう。
奥の部屋から気配がした。
見るとみーこが目を細めながらのそのそと現れ、空いているほうのソファーに飛び乗り、それから膝の上によじのぼってきて丸くなった。ごろごろと喉を鳴らし、軽く撫でてやると一層励んだ。
「あいつらは幸せそうか?」
みーこはうっすらと目を開けて作者を見上げると、一声答えた。
「みー」
しばらくすると、純平とサラがやってきた。
二人とも着替えを済ませており、純平は相変わらずの黒ずくめ。サラは半袖で、帽子とスカート姿を身に着けていたが、部屋に入るなり帽子とスカートを外した。黒い耳と、短いジーパンから伸びた尻尾が、露わになる。
「打ち上げって、なんの打ち上げだ? お前が俺たちの話を書き上げてから、大分経ってるぞ」
「一応、『投稿した』ということで、やることにしたんだ。打ち上げと称してこうして登場人物に会い、作品の打ち明け話をすることが、俺なりの後書きなんだよ」
「それで、打ち上げ話、なのね」
「そう。打ち上げでも、打ち明け話でもなく、打ち上げ話」
「作品ごとにこれやるのか?」
「そのつもり」
「まあいいや、こっちも聞きたいことがあるし、話したいこともあるんだろう。わざわざ来てくれたんだ。付き合ってやるよ」
純平とサラがテーブルを挟むように座り、作者はみーこを膝に置いたまま二人と向き合う。みーこの喉の音が静まった。
「この物語のプロットは、当初はずっとシンプルだった。
①動物が人間に反乱を起こす。
②余興でバニーガールのコスプレをしていた男が動物たちに『人間ではない』と勘違いされてアジトに連れていかれる。
③その男が仲間になると見せかけて、動物たちの目を欺きつつ、人間を守るために暗躍する。
これだけだ。当時は結末もできていなかった」
「随分膨らんだな」
「陽動作戦を逆手に取る場面は書くつもりだったけどね」
「コスプレをしていた男って、純平のことでしょ? 私は?」
「最初はサラはいなかった」
「ひどおい」
「プロットを積み立てていくうちに、『捕虜にした人間を飢えさせないようにするために、動物たちの食糧が減っていく』という現実に気が付いた。
そんなところを活写する必要はないが、むしろそれをこの話のテーマにしたらいいのではないかと思った。
生きることは食べることであり、食べることは殺すことである。
生きることは殺すことだし、食べることは生きることであり殺すことだ。
この、『食べる=生きる』、そして『食べる=殺す』という図式を追究したかった。特に後者。
『日々何気なく食べている我々は、日々何気なく殺しているのだ』。
それを主題にすることにした。
『食べる=殺す』ということを自覚し、狼狽し、絶望し、『それでも生きるのだ、生きるために殺すのだ』と、苦しみながら生きることを選ぶ主人公の姿を書きたかった」
「若かりし日のお前が抱いた青臭い悩みを俺たちに仮託しやがって」
「アマチュアの創作なんてそういうもんよ」
「ねえ、私どこにもいないんだけど。私はいつ出てきたの?」
「サラがどのタイミングで出てきたのか、今となってはもうわからない」
「本当にひどいね」
「だが、サラがいたから話がスムーズに進んだのは事実。
純平一人だとこうはできなかっただろうし、野郎一人なんて潤いがなさすぎて書いてて面白くない」
「悪かったな」
「そういえば、タバコ吸わないんだな」
「あの後ですっぱりやめたよ。サラが嫌がるし、俺もサラを嫌がらせたくない」
「いい男選んだな、サラ」
「(。・ω・)(。-ω-)ぅなぅな」
「というより、何で俺にタバコを吸わせた。このご時世に。お前も吸わないってのに」
「ライターを持たせるためだ。
日常的にライターを携帯していることに合理的な理由があるのは喫煙者ぐらいだ。
純平がタバコを吸わないのに、ポポの肉を炙る場面でいきなりライターを出したら不自然だろう。何でライターなんて持ってんの? って。少なくても俺はそう思った。
だからむしろあの場面を書くために、タバコを吸わせたわけだ。
おかげで他にもライターを使う場面を入れることができた」
「人間たちのアジトで瑠香に閉じ込められたときだな」
「私と純平のファーストキスね」
「あまり思い出したくないだろう」
「あのときはそうだったけど、今はいい思い出だよ」
「あのときはあのときで、暗闇で交錯する純平とサラの心情の行き違いを描けて良かった」
「私がタバコを吸う場面は必要あったの? 食べ物だと思ったら違って、すごいむせたやつ」
「その後で純平を一人きりにする必要があったからな。
もしあのままあの場にサラがいたら、瑠香が純平と一緒にサラのことも見つけていただろう。それを避けるために必要だった。
もちろんあの場面そのものを書きたかったというのもあった。あれ書いてるときの俺は純平とおんなじ顔して笑ってたわ」
「悪趣味…」
「しかし反省点も多い。
全体的に冗長な感が否めない。
一つ一つの文章が長すぎる。
一方で、これより前に書いていたものは、もっと粗雑だったという自覚もあって、それを乗り越えるために細かい描写を心掛けたものだった。その点では成功したといえる。
特に最近は創作のときに、語彙や表現が浮かびにくくなってる。
これだけ書けるようにもう一度なりたいが、それだと進歩がない。
理想はもっと緩急をつけられるようにするということだ。
自画自賛ながら、いい描写だと思うところも少なくないしな。
反省点を個別に言うと、サラに文字を教える場面。
あれは蛇足だったと思う。今回読み返してそう思った」
「大将が雌ライオンの尻追っかけてサバンナに行くというのも取ってつけた感があるよな」
「私は純平の趣味を知ることができてよかったけど」
「もうやめて」
「一方で、ロケットの扉を開くパスワードとして使うことで無駄にはなってないとも思う。
というより、そのためにあのくだりを入れたような気もしてくる。
全てが終わった後で大将がサバンナに旅立つきっかけとか、純平の趣味とかはおまけみたいなもんだ」
「おまけで俺の趣味を設定するな」
「なにぶん古い作品でな。その辺の当時の記憶はあやふやなんだ。
あと、これは本当に失敗だったと思うのは、純平の友人たちに名前をつけなかったことだ」
「帽子、赤ら顔(白い顔)、セミロング、眼鏡。どれが誰だよ」
「俺も把握しかねた。読み手はもっとそうだろう。
あの頃は、主要人物以外には固有名詞をつけない、みたいなことをしていて、あんなことになっちまった。
大将だって、もっと名前らしい名前があっても良かったと思う。
こういうときって小説の限界を感じるよな。漫画だったら『ただいま独身中』みたいなことができるのに。
「そのたとえわかんねえ」
「辻灯子の」
「わかんねえっての。次行け次」
「動物たちの反乱で死者が一人も出なかったというのは、不自然と言えば不自然」
「それはでも…」
「なあ…」
「そう。致し方ない部分もある。
『もしもこの作品が現実だったら』なんていうのは馬鹿馬鹿しいことだが、それでももしもそんなことがあったら、動物たちみんな無事ではいられまい。そっちのほうが不自然になる。この顛末だって、リアリティがあるとは言えないところだ。
それでも作中の死者は、リュウゾーとポポとマスターに限定したかった」
「みー…」
「一方で使わなかったものもある。
タクローをコミカル担当で重宝したんだが、タクローの飼育係の『ななみ』という女を出そうと考えたことがある。
だが、今そのときの案を確認すると、飛び飛びすぎてわからん。
いきなり書かれてる『瑠香を殴る』ってなんだ」
「俺たちが知るかよ」
「あーなるほど。読み進めていくと見えてきた。
①リュウゾーの飼い主。
②タクローの飼育係。
③タクローのキャラの引き立たせと動物園に動物たちが戻るための伏線。
④純平とともに瑠香に動物たちを殺さないようにと説得し、純平は地下の一室にぶち込まれるも、ななみは瑠香に『みんなを説得するから殺さないであげて』と懇願。
⑤動物たちが純平とサラの奪還に人間のアジトに訪れたときに、手負いのタクローを仕留めようとした瑠香をデッキブラシで殴打して阻止。
…ここから後は案が分かれるようで、タクローの手引きでペット軍に保護されるとか、再び人質となって動物たちのアジトに行くとか、色々あったみたいだ。
後者だと、純平たちがマスターのところに行った後で、残されたタクローやロロに、純平が人間であるという証言をするとかしないとか、また案がある。
いずれにしても、純平とサラを軸にして物語を進めるために、脇役とはいえ人間のキャラクターは邪魔になりかねないから、ななみには没ってもらったわけだ。
ただ、三つ編みお下げでデッキブラシを得物にしている飼育員という容姿が気に入ったから、何かで出したいって、昔の俺が言ってる。そうなの?」
「知らねえよ。さっきから俺たちに聞かれてもわかんねえことばっか聞くなよ。打ち上げ話でも後書きでもいいけど、所詮一人遊びしてるだけだろお前」
「そうでもないさ。そうでもないから楽しいんだ。
俗に言う、『キャラクターが勝手に動く』というのは本当にあるんだ。
俺は君たちでそれを経験したんだ。
この物語のハイライトは、ポポの亡骸を食糧とした場面。ポポを食べることを嫌がるサラと、窘める純平のやり取り。その締めのセリフいってみよう。さん、ハイ」
「殺したところで終わりじゃねえぞ、食ったとこから始まるんだ」
「生きていくって、難しいね」
「その言葉は自分が考えて書き出したとは思えない。
あのときに純平とサラが自然に口にしてくれた言葉だった。
あのときに初めて、俺は君たちと出会えたんだよ。
こうしてもう一度会えて、本当に良かった」
「うん…」
「…リュウゾーみたいなこと言うなよな、お前」
「そのセリフも、まさに今俺の口をつんざいたよ」
「…そうかい」
「一つの話でこんなに長いのは、今のところ、後にも先にもこれだけだ。
短編連作だったらもっと長くなりそうなものもあるが、どれも完成はしていない。
そういう面でも、この作品は大切なものだ」
「また俺たち、出る予定があるんだよな?」
「いつか、ずーっと先に、あるかもしれないし、ないかもしれない」
「もうあんな大変なの嫌だよ」
「大丈夫、君らじゃなくてもいいようなチョイ役だから。
もっとも、その話自体、完成には程遠い。
君たちはここでずっと幸福に平穏に暮らしていけばいい」
作者が二人の元を去るときには、すっかり夜が更けていた。
二人は玄関まで見送りに来て、サラはみーこを横抱きにしている。
「次は誰に会いに行くんだ?」
「死神の鎌」
「そうか、あいつか。あんまりこっちに来ないでくれって、伝えておいてくれ」
「自然の摂理に逆らうなよ。生き物はみんな、殺して、食べて、生きて、死ぬんだ。よくわかってるだろ」
「ねえ、あれって、タイトル変でしょ。『に』じゃなくて『の』でしょ」
「いや、あれはあれでいいんだ」
「どうして?」
「読めばわかるよ」
作者は簡単な別辞を述べて、外に出た。純平とサラも同様に答え、みーこは一声鳴いた。
ドアが自然に閉まるまで、純平はこちらを見つめて軽く手を挙げ、サラはみーこの片方の前足を持って一緒に手を振っていた。
空には三日月が浮かんでいた。
彼女に会うには絶好の夜だと、作者は思った。




