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獣人-ケモノビト-  作者: 蠍戌
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プロローグ

 ドアの中央には、天井から床にかけて、緩やかな波型の窪みが走っている。

 その脇に据え付けられた、四角いボタンが幾つも並んで構成された横長のスイッチを、少年は荒々しく、しかし手早く、正確に叩いた。

 ボタンは少年の連打と同じ数だけ、過不足なく、統一された甲高い機械音を鳴らす。それはピアニストみたいな少年の指捌きと相俟って、さながら楽器だった。たった一音だけの、スピーディーな演奏。

 やがて最後のボタンが少年の指先に力強く押し込まれる。高音は、ボタンがへこんでいる間の長さ続き、離れていく少年の指に追い縋ろうとするようにボタンが元の高さに戻ると同時に途絶え、コンサートは終演となった。

 ドアは波線を中心に、無音を残して左右に分かれて開け放たれ、薄暗い部屋とその外を一つに繋ぐ。

 狭い室内の光源は低い天井に据えられた一本の蛍光灯だけで、今にも息絶えそうな点滅を繰り返している。それは長年風雨にさらされた天然の岸壁のごとく黒ずんでいるコンクリートの四面を浮かび上がらせ、この部屋を無用のものにしないために存在している唯一の物体を照らしていた。

 部屋の中央には鈍色を輝かせる鉄の檻がある。高さと幅が同一、奥行きはそれよりわずかに伸びた程度の直方体で、この狭い室内でも辛うじてではあるが同じものをもう一つ並べたり重ねたりすることができる程度の、けして大きくない体積。

 しかし何かを閉じ込めておくためのその中には何もおらず、本来の役割すら果たせていない。こちらに向かって開け放たれた扉がかすかに揺れており、その揺らめく影に覆われて、円柱型の三桁のシリンダー錠が一つ横になっているだけだ。まだ落下してからさほどの時間は経ていないらしく、揺れるように左右に転がっている。

 部屋の外で、その内部を無人だと十分に見渡せる位置で、少年はぎりぎりと歯を軋ませた。

「逃げたか」

「申し訳ありません」

 背後からのその一言に反応し、少年は振り返り様に頭を下げた。垂れた前髪を白衣の裾がかすめる。

 白衣は部屋の中に入ると、檻のそばの解かれた錠を拾い上げた。じっくり眺めながらその全体を両手で撫で回し、ククッと笑うように呟いた。

「見直したぞ。これぐらいの知恵はあったんだな」

 ようやく頭を戻した少年は白衣に体を向け、小刻みに震える背中に尋ねた。

「どうしますか」

「何も変わらんよ」

 停止した背中は垂直に伸び、白衣からは襞すら消えた。

「あんなモノが人間たちに紛れていては邪魔なだけだ。一刻も早く処分しろ」

「わかりました」

 少年は会釈してから踵を返し、速い足音を置き去りに離れていく。床を踏み付けていく乾いた音は徐々に遠くなり、やがては聞こえなくなる。

 白衣は錠から片手を離し、残った手で握り締めるや、その腕を足元目掛けて力任せに振り下ろした。破裂音がひとしきり響いた後で、感情を持たない低音が轟く。

「人間をなめるな」

 白衣は思い出したようにくるりと振り返り、外へ向かう。黒い艶のある革靴が、進路に侵入していた四散した金属の破片を踏み潰して部屋を出ていくと、開いたときと同じように無音でドアが閉じた。

 室内では、慣性で揺れるように左右に転がっていた錠の欠片が、かすかな音を最後に沈黙した。蛍光灯は点滅のために消え、蘇ることなくそのまま果てた。




 今にも降り出してきそうな満天の星の下を、時折腕時計を確かめてはスピードを上げて、純平は走っていた。

 街灯に照らされた、あるいは光の届かないアスファルトを踏み締めるたびに、黒いダッフルコートの紡錘形のボタンが胸から腰にかけて弾み、白い吐息が顔を洗う。

 大通りですら車の量も人の量も少なくなっており、ほとんどの店のシャッターはとっくに閉まっている。反比例して住宅街の人家の窓はどれも明るかった。

 四車線から二車線の道路に、さらに二車線から一車線に移っていき、やがて人一人がかろうじて通れる路地の中に吸い込まれて、吹けば飛びそうな木造モルタルの二階建てアパートにたどり着く。

 立て付けの悪い引き戸を両手に力を込めて開き、季節柄虫のたかっていない肌色で灯る裸電球の吊るされた玄関で靴を脱ぎ捨て、元の色が予想できないほどに暗く変色した廊下をみしみし軋ませ、一階の一番奥のドアの鍵を開けて中に入ると、暗闇の中に手を伸ばして電気の紐を引いた。

 毎日のことなのに壊れているのではないかと不安にさせられるほど何度も点いたり消えたりしてから明るくなった六畳間は、中央をコタツが占有している。卓上は割りばしの刺さった空のカップ麺やコンビニ弁当の容器が何層も重なっているほかに、縦になったり横になったりしている空き缶と空きペットボトルが数本ずつ、ティッシュの箱が一つ、タバコの空き箱が数箱、吸殻が目一杯詰まった灰皿などがごちゃごちゃに密集しており、もはや木の肌は見えない。

 床も同じようなもので、高く積まれた革のカバーの分厚い学術書を始め、図書館で借りてきた数冊にも及ぶ歴史小説の文庫本、三ヵ月分の週間住宅情報誌、そして、ヒョウ柄の下着一枚という格好で胸を手で隠した女が表紙になっているグラビア雑誌といった読み物と、様々な用途で使用されて丸められたティッシュ、上に厚いほこりが雪のように積もってネコの足跡の部分だけそれがない部屋の隅のテレビ、もうどんな洗剤でどのような方法を用いても汚れの落ちなさそうな万年床、その周りに散乱するいずれコインランドリーに放り込む予定で脱ぎ捨てられてから長い間そのいずれを待っている衣服や下着などで、それらを支えている畳はどこにも見えない。

 入ってすぐ隣の流しも随分前に机から引っ越しさせられた空のカップ麺と空のコンビニ弁当で占領されていて、一口だけのガスコンロには底の焦げ付いた小さなヤカンが置かれている。

 その隣のツードアの冷蔵庫の傍らには、売り物のような空のプラスチックの深皿と、膜になった水の入ったそれが並んでいる。部屋全体は綺麗でなければ片付いてもいない、絵に描いたような一人暮らしのろくでなしの住み家だが、ここだけは最低限衛生さを保とうという意志の元にできている。

 純平は残った水を流しに捨ててから、擦ると音が出るほど念入りに皿を洗うと、満杯に注いだ水をこぼさないように慎重に元の場所に戻した。空の皿も同じように洗ってから、こちらはティッシュ二枚で水滴を拭き取ってから元に戻し、そのティッシュは畳を隠すゴミの一部となった。

 流しの下は戸になっている。そこには棚があり、中ぐらいのサイズのフライパンとその中に収まったそれより一回り小さい鍋があって、それぞれ得体の知れない臭気が漂ってきそうな汚れがこびり付いている。その左のほうには、食用油や微々たる種類の調味料がボトルや袋のまま置いてあった。純平がそのさらに奥にあるキャットフードの箱を取り出し、中から洗濯バサミで止められた銀色の袋を取り出したところで、後ろからみーみーと野太い鳴き声がした。

 万年床に接するカーテンのない窓は、ネコ一匹通れる隙間が開いている。その先には床下に伸びていく、いかに足が細くても人間では立つのがやっとというほど狭い幅の、雑草だらけの地面があり、さらにその先には、この部屋の日当たりを建物ごと完全に遮断する隣のアパートのブロック塀が、窓の三分の二の高さで立ちはだかっている。

 その塀の上を伝って、短毛で尻尾の長い太った三毛ネコがのそのそ現れたかと思うと、ネコは部屋のほうに身を屈めて地面に降り立ち、よじ登るようにして窓の隙間をするりと入ってきた。

「遅くなってごめんな」

 ネコは純平の声に返事をするように、やはり低い声で、みー、と一鳴きした。

「みーこ、悪いけど俺また出かけるから」

 純平が後ろを見もせずにキャットフードを水の隣の皿に山盛りに流し込んでやっていると、それが終わるより早いぐらいの勢いで、みーこが皿に顔を突っ込んだ。

 純平はキャットフードを流しの下にしまい、戻ってきて再び膝を曲げる。

「前から言ってたとおりだ。帰るのは朝になるだろうけど、辛抱しろよ」

 純平はみーこの頭を両耳ごと揉むようにしながら、もう片方の手で背中から腰にかけてを撫でて尻尾をしごいてやった。

「メシ多めに出しておいたから、俺が帰ってくるまで持たせとけ。いいな」

 みーこは純平の手に頭をぐりぐり押し付け、喉をごろごろ鳴らして、それでも食事は続けた。

 純平はしばらくの間そうしてみーこを撫でていたが、やがてはっと腕時計を見て、いけねっ、と呟いた。

 最後にみーこの頭を軽くぽんぽんと叩いて立ち上がり、電気を消すと、何日も前から忘れないようにドアのそばに置いておいたカラム百貨店の紙袋をひったくって外に出た。

 そのままアパートを飛び出して走り出すうちに、純平はふと気がついて首を真上に傾けた。

 そこには群青色の空と、明滅しながらそれを彩る無数の星があり、それら全てを従えるようにして、ただの一度も薄れることのない一定の光度を保ちながら、純白に輝く満月が鎮座していた。

「ウサギになるには絶好の夜だな」

 白いため息とともに言葉がこぼれ、純平のスピードは緩んだ。


 みーこは半分ほどキャットフードを食べ尽くすと、後のために残しておくつもりで、水をぴちゃぴちゃ飲み始めた。ほぼ満腹だったし、純平の言い付けを守っておこうというつもりでもあった。

 後方の塀の上に気配が現れた。隣のアパートのほうの地面から飛び乗ったものだ。

 条件反射で耳が後ろに傾く。

 気配はこちらへ近づいてきて、そのまま通過せずに窓のところで留まった。

 舌の動きが鈍る。

 二つの建物に挟まれた数十センチもない隙間に差し込む月明かりは、すぐにでもまた動き出せるように四つん這いの姿勢を保っている、引き締まった体に丸く短い尻尾を付けたネコのシルエットを、純平の部屋の中へ映していた。スリムなネコの顔は窓の隙間に向けられて、青く光る一対の目は暗がりの中のみーこを捉えていた。

「みーこ、みーこ」

 若い男、といった声がした。

 みーこには後に続く言葉と、それによって伝えられる状況が予想できた。すでにそれを耳にしたかのように、舌は完全に停止し、水音もしなくなる。

「ついに始まった。奴らはもう暴れてる。すぐに来るんだ」

 今にも何かに追い着かれそうな焦りに満ち、口調もまたひどく急いでいる声によって放たれた言葉は、果たして、具体性に欠くことのみを除き、みーこの想像の枠の中に十分収まるものだった。

 シルエットは塀のネコとともに向こうの建物のほうに降りて消える。

 みーこは水の皿から顔を離し、キャットフードに顔を移した。皿の三分の一ほどの残りを猛烈な勢いで口に入れると、ほとんど噛まずに飲み込んでいく。

 たったの三回でそれらを一かけらも残さずに食べ終えると、流しに向かってゴミの床を走り抜けてぴょいとジャンプし、流しの下の棚の取っ手に両前足を絡めた。

 膨らんだ腹がびたんと激突し、その反動で戸が開く。しかしみーこは衝撃で前足を離してしまい、辛うじて後ろ足から着地したものの、踏ん張りきれずに仰向けに倒れて潰れた悲鳴を出した。

 すぐさま体を反転させて起き上がり、キャットフードの箱にしがみつくと、自らの重さでそれを引き出し、箱に潰される形でまた背中から倒れた。今度は悲鳴を堪える。

 またも同様の形ですぐに起き上がるや、箱の中に顔を突っ込み、銀色の袋を牙に引っ掛けて取り出した。それをくわえたまま窓の外に向かって再びゴミの中を駆け抜け、窓辺から地面に降りることなく塀の上に飛び乗った。

 体型に似合わない素早い動きは、そこでようやく留まった。みーこはその場所でふっと振り返る。

 暗闇をも見渡せるネコの特性を有した、みーこの黄色い目には、多くのゴミと一部の嗜好品とほんのわずかな生活必需品とが密集してできた、ある種の前衛的な芸術か、あるいはただのゴミ捨て場かという部屋の中が、隅々まで見渡せていた。

 そして他のネコには誰にも見えない、みーこだけの特性が備わった黄色い目にはまた、汚い布団で寝ていたり、見るともなしにテレビを見ていたり、コタツに入ってこちらに背を向けて、カップ麺を啜ったり本を読んだりしている純平の姿が、今そこにいるみたいに、鮮明に映っているのだった。もちろん、その腹の上や膝の上で丸くなっている自分も、その重さに唸る純平の声と一緒に、頭の中に現れる。

 もう、ここに戻ることはできないかもしれない。

 そんな悲しい予感が、みーこをその場所に釘付けにしていた。

「早く!」

 男の声は、さっきよりも大分焦りの度合いが強くなっていた。

 我に返ったみーこは下を見て、頷くように首を縦に振り、その方向へ飛び降りた。もういくら振り向いても塀に阻まれてしまい、思い出深い住処も最愛の飼い主の姿も見えない。


 純平は住宅街の一角の、円川ハイツと刻まれた金属製の看板を掲げる、三階建てのアパートに到着した。

 道に面した入り口には扉や戸などの遮蔽物はなく、昇降手段は中に入ってすぐ右にある階段だけで、まっすぐ縦に伸びる通路の左手には、それほど広くない一定の間隔で鉄製のドアが五枚ずつ並ぶという、小さな四角い建物だ。

 階段と消火器とドアを四つ通り過ぎたところにある、最奥の部屋のチャイムを鳴らす。はいはーいと女の声があり、こちらへ駆けてくる足音が聞こえてきた。向かいの壁にもたれて息を整えていると、ガチャリと鍵の開く音がしてドアが開いた。

 出迎えたのは、白い毛糸のセーターを着て、色落ちしたジーパンをはいた女の、むくれた顔だった。紙製の円錐の帽子がその頭に乗っていて、通路を照らす蛍光灯に金色に光っている。

「遅いよ純平」

「悪いな」

 純平は一言謝りながら、紙袋の一番上に乗せておいた、カラム百貨店の包装紙にリボンが巻かれた平たい箱を差し出した。

 女は目線を下げ、予定の範疇だったにもかかわらず、一瞬戸惑ってから上目遣いに微笑み、それを丁寧に両手で受け取って形ばかりの会釈をしながら「ありがと」と軽い礼を言った。女がノブを離したために、迫ってきたドアを止めるのは紙袋を提げた純平の拳になる。

 踵を返して戻っていく女に続いて中に入り、ドアと鍵を閉めると、足元に男女の靴が入り乱れた三和土がある。純平はそこに自分の靴を混ぜた。

 奥からは楽しげに騒ぐ笑い声が響き、エアコンだけでは供給できない暖気が漂ってきているが、純平は框に上がってすぐ左に曲がり、ユニットバスが右手に見える洗面所にひとまず紙袋を置いてから、そこへ向かう。

「みんなー、純平来たよー」

 女は一足早く喧騒にたどり着いてそう言ったところだった。

 二人分とは思えないぐらい賑やかな男女の歓声と拍手が上がり、コートのボタンを外しながら純平が現れると一際それが大きくなり、不愉快そうにオレンジジュースを飲んでいてそれに参加しなかった眼鏡の男がその歓声を打ち消した。

「こんな時間まで何やってた」

「帰ろうとしたら急患が入った」

 その声の苛立ちは無遠慮に対する謝意で薄まった。

「平気なのか?」

「平気だから来たんだよ」

 純平は素気無く答え、自分用に空いている一番手前のクッションにコートを折り畳み、玄関のほうに戻ろうとしたところで引き止められた。

「純平」

 振り向くと、自分の席の隣であぐらをかき、とっくに顔が赤くなっている男が、赤ワインの入った紙コップを口に運びながら、ズボンのポケットから何かを取り出して放り投げてきた。

 眼前でそれをキャッチして手を開いてみると、人差し指ぐらいの黒光りする円筒形がそこにある。思わず目を剥いた。心なしか手も震える。

「前の休暇ン時にカラムで買っておいた。それ使えよ」

 夢なら覚めてほしいという絶望の表情などお構いなしで赤ら顔は言い放ち、その向かいから茶色いセミロングの女が素直な気持ちを口にした。

「いいなあ純平。それ冬の新色だよ?」

 思わずそれごと拳を握り締め、いかにもめかしたレディーススーツを睨み付けると、赤ら顔とセミロングが早くしろよとか遅れてんだからとか続けざまに文句を言ってきた。純平は二人の顔を一通り睨んでから洗面所へ戻っていった。

 総フローリングで1DKのこの家は、玄関から見て右にドアの閉められている部屋があり、左には洗面所とユニットバスがあり、奥がキッチンを備えたダイニングになっている。

 ダイニングの一番奥には、開放されている青と白のチェックのカーテンがかけられた、ベランダに繫がる窓がある。キッチンは玄関を結ぶ廊下のそばにあり、電子レンジと冷蔵庫がその脇に控えている。窓のそばにはテレビを載せたビデオがある。

 ほぼ中央には脚の低い長方形のテーブルがあり、クッションに腰を下ろした四人の若い男女がそれを囲んでいた。廊下から見て左に眼鏡の男、その隣にセミロングの女、その隣に帽子の女、右のクッションには純平のコートが主人の代わりに居座っていて、その隣に赤ら顔の男という並びだ。

 テーブルの上は何種類もの食べ物と飲み物とそれらを飲食するための道具で隙間なく占められている。とは言えすでにかなりの時間が経っているので、見る影も無い。

 例えば一番目を引くべきホールのショートケーキは、「happy birth」の文字とその前に書かれていたローマ字の名前はすでになくなるほど切り取られていて、もう「day」の部分しか残っていない。

 同じように、大きなアルミ皿一面に仕切りごとに小分けになった洋風と中華のデリバリーのオードブル料理も、どれもこれも半分以上減っていて、もはや空になっているためにそこに何があったのかを窺い知ることができないものも少なくなく、残っているものでさえほとんど冷めてしまっているという有様だ。

 他にも、スルメやピーナッツやビーフジャーキーの袋は無残に開け放たれ、中のものがはみ出るなどしており、数種類のスナック菓子が一堂に会する大きな深皿は底が見えつつあり、隅のほうに一つにまとめられて置いてある何種類かの酒のビンと缶とオレンジジュースの1,5リットルのペットボトルは、外から見えるものも見えないものも含めて、量の多少はあれど、容積の半分以上が空気で満たされていた。

 五つの席の前には紙コップが五つずつと、割り箸とプラスチックのフォークの乗せられた紙製の皿がそれぞれ一枚ずつある。

 紙コップはオレンジ色が波打つ眼鏡の前の一つを除き、生ビールか焼酎か赤ワインのいずれかが入っていて、皿は食べかけのオードブルやケーキを備えたものもあるが、純平のところだけはコップも二枚の皿も空っぽで、割り箸は折られてもおらずに紙の包みから頭を出していて、フォークもビニール袋に閉じ込められたままだ。

 ハイハイで純平の席にたどり着いた帽子は、純平に確認した上でビールの缶を手に取って見回してみたが、そのどれもが空だった。なので後ろの冷蔵庫から新しい缶を一本取り出し、膝立ちの背中に立て続けに頼まれたので、ビールをもう一本と6ピースチーズを取り出して、依頼主のセミロングと赤ら顔に前者と後者をそれぞれ渡して、残った一本のフタを開けて空のコップに注いだ。

 帽子は今度は許可を求め、もちろん了解されたのだが、実際には純平の返事が届くより早く、純平の割り箸を折った。残っているオードブルを適当に取り分けてやり、袋を破って取り出したプラスチックのフォークで「day」の部分のケーキ一切れをもう一つの皿に取り分けておいてやる。

 ついでにもう一切れケーキを取って、生クリームが少量残っているだけの真向かいの皿に乗せてやった。

「誰の誕生日なんだろうな」

「いいのいいの」

 眼鏡が自責気味に呟き、帽子は全く気にしていない様子で屈託なく笑った。

「そういえば純平」

 突如出現したケーキにフォークを突き刺して、眼鏡が洗面所のほうに声をかけた。

「前の奴はどうした」

「前のって?」

 チーズをかじり始めた赤ら顔の後ろを、行きと同じようにハイハイで通過して席に戻りながら、帽子が話に入る。眼鏡はフォークを口に入れたまま眉根をひそめ、真一文字の唇からそれを引き抜いた。

「あれ、なんだったっけ? 事故だっけか?」

「交通事故だ」

「そうだそれだ」

 眼鏡は思い出したように一回頷き、帽子を見る。帽子もつられて頷いた。

「それで家に帰れないからって、俺がみーこのメシやりに行ってやったんだよ。そいつはどうなった?」

「後ろ足が折れて腹が破れて大出血してた。内臓もちょっと飛び出てた。すぐに緊急手術だ」

「ねーそんな話やめよーよ」

 セミロングが言った。紙コップの中身をぐっと飲み干して、しかしさほどの効果はなかったらしく、新しいビールに手を伸ばす。

「気持ち悪くなってきちゃう」

「仕事の話して何が悪い」

「悪かったわね、サボりまくってて」

「ああ最悪だ」

 口答えをにべもなく純平に非難され、セミロングはむくれた顔のまま、缶に直接口をつけてビールを飲み干した。

「それで、どうなった?」

 眼鏡がケーキを一口大に切り分けつつ、話の続きを促した。

「助かったのか?」

「三日三晩寝ずに看病して、ようやくな。大型犬だから体力はあったんだ。この間飼い主のところに戻ったよ」

「そりゃよかった」

 安堵の色を浮かべてケーキの切れ端を飲み込みがてら頷いたところで、わずかにそれが曇った。

「ああそうだ純平、それで思い出したけど、ちょっとは部屋片付けとけ。みーこが病気になっても知らねえぞ」

 純平の返事はなかった。かといってこちらへやってくる様子もない。四人は例外なく不思議そうに洗面所のほうを見遣り、口をつけたところだった焼酎を急いで飲み干して、帽子が声をかけた。

「純平? 何かあった?」

「鏡の中に……」

 絞り出すような声はそこで留まる。眼鏡が続いた。

「鏡の中に? なんだ?」

 唾を嚥下する音が、心なしかこちらにまで聞こえてきたようだった。四人は呼吸さえ控えるほどに動きを止めて、見えない純平を見つめる。

 やがて、泣き出しそうに震える純平の声が、ダイニングに届いた。

「異様な生き物が…」

 途端に家は、絡み合い重なり合い混ざり合ってできた四人分の爆笑に包まれる。それだけで鏡を見つめる純平の姿が全員に想像できてしまったのだ。

「早く出て来いよ」

 ひとまず笑うのを堪えて発した赤ら顔の呼び掛けに従うように、純平はダイニングに戻ってきた。

 その瞬間、直前のそれが失笑に聞こえるほどの四色の声が外にまで響いた。セミロングと赤ら顔は床をばしばし叩き、帽子は身を屈めて両腕で腹を抱え、眼鏡は見ないように見ないようにと顔を逸らしながらも笑い続け、幾分収まってきたところで再び一瞥するなりまた吹き出した。

 彼らの目線の先にいる純平は、訪れたときの格好ではなかった。

 女物の黒いレオタードを素肌に着て、肩は剥き出し。背中はホックのついた紐の部分を除いて腰から上が露になっており、股間は鋭い角度で食い込んでいる。素足は厚手の靴下の代わりに網タイツで覆われて、首の前には深紅の蝶ネクタイが舞い、頭のてっぺんには白とピンクの毛皮製のウサギの耳をあしらったカチューシャが乗っかって、腰にはまんまるの白い尻尾がくっついていた。当然と言うべきか、唇は冬の新色で真っ赤だ。

 純平はなにもそういう仕事を生業としている人間みたいに、両腕を後頭部に重ねて平たい胸を精一杯突き出しているとか、男臭い体を艶かしくくねらせてウインクしているとか、硬い唇から投げキッスを披露しているというわけではない。仏頂面で腕を組んでいるだけなのだ。それでも友人たちは笑いを抑えることができずにいるわけだ。

 笑い声だけでも腹が立つのに、きれー、とか、かわいー、とか、似合うぞ純平、とか言われ、挙句の果てには赤ら顔の携帯電話のレンズがこちらを見つめているのに気がついて、とうとう純平は爆発した。直後にシャッターの切れる音がする。もぎ取った耳を遠慮なしに叩き付けた瞬間の怒りに染まった表情は、赤ら顔の手の中にわずかなブレもなく残った。

「何で俺がこんなことしなくちゃいけねえんだ!」

「ジャンケンで負けたんだからしょうがねえだろ」

 そう答えて携帯電話をズボンのポケットにしまった赤ら顔は、足元に滑ってきた耳を拾い、軽く払いながら息を吹きかけて立ち上がった。

 純平はこの催しを発案した赤ら顔と面白そうだとそれに乗った眼鏡を思い出していた。俺になったら嫌だからと拒むとセミロングに罵られたので、ついかっとなったのが失敗だった。力強く振り下ろした拳は二つの手のひらに迎えられたのだ。よもやあの前に談合があったのではないかという疑いが確信に近い勢いで噴出してきて、忌々しさを増幅させた唸り声を返事の代わりにしながら、純平は素肌の袖で唇を擦る。血を擦ったみたいに腕が真っ赤になったのが気持ち悪かったが、

「あーあ、似合ってたのに勿体ない」

「知るか!」

 心底残念そうなセミロングの声でどうでもよくなった。

「お前今日一日この格好だからな」

 赤ら顔はそう言って耳を純平の頭に戻し、間近でその姿を見た分一層笑い転げた。わざと大袈裟にやった節もあり、目の前の相手にもその意図が伝わった。

 純平は乱暴に赤ら顔を押し退け、クッションにどっかと腰を下ろすと、料理を取り分ける際の帽子によってテーブルの下に移されていたコートを引っ張り出し、左右のポケットからタバコの箱と百円ライターをそれぞれ取り出した。ライターはひとまずテーブルに置いて、箱は中身を一本前歯で取り出してからポケットに戻す。

「純平、悪いけどあっちで吸って」

「匂いついちゃうからね」

 ほぼ対角線上の位置で帽子が窓を指差していて、斜め前のセミロングはコンパクトを手に乱れた前髪を整えながらそれに続けた。正面の眼鏡はスナック菓子を頬張っているために言葉こそ発していなかったが、頷くことで二人に同意している。

 ライターを握ったところだった純平は、タバコの両脇から仕方なさそうにああ、そうだなと返事をすると、立ち上がり様にコートを羽織ってベランダに出た。

 エアコンの効いた部屋から寒空の下に移動するというのは、春から夏と秋を一気に飛び越えて冬になったぐらいの温度差がある。それもこの格好だ。実際肌に感じる寒さは真冬並のそれだ。しかし他に誰も吸わないんだからしょうがない。

 頭上に無人の物干し竿がある、白く塗られた鉄製の足元は、網タイツだけではそのまま凍り付きそうなぐらい冷たかった。手を伸ばせば届くところにある自分の胸の高さの白い柵の先はもう公道になっていて、その道の向こうの一軒家のブロック塀が見える。

 今通行人が来たら気まずいだろうなと思って大急ぎでボタンを留めていると、背後でガタッと嫌な音がした。振り返ると赤ら顔がニッと笑ってサッとカーテンを閉めた。反射的にタバコを取る。

「お前! おい!」

 窓に激突して両手でアルミサッシを動かそうとしたが、ぴくりともしない。もっとも、開きでもしたら大変なことである。そこへ赤ら顔の声がカーテンと窓を通り抜けてやってきた。

(玄関から入って来いよ。鍵開けといてやるから)

「………」

 要するにバニーガールの扮装にコートを着込んだだけの姿でベランダから飛び出て冬の屋外を走り抜けて戻って来いということだ。

 ここが赤ら顔の家だったらガラスを割ろうとしていたかもしれないほど怒り心頭だった純平は、望むところだとばかりにタバコとライターをポケットにしまうと、何の躊躇もせずに柵を乗り越え、網タイツだけの足の裏でアスファルトに着地して駆け出した。左にそびえる同じ造りのベランダを四つ通過して、二回左折して戻ってくるという算段である。玄関から入ってくるならそれが最短距離になるのだ。

 カーテンが開いて鍵が開き、最後にアルミサッシが開いた。しかしにゅっと伸ばした首を赤ら顔が左右させても、まさかと思って上下させても、純平はベランダのどこにも見当たらない。呆れるあまりこぼれたため息は、煙のように白く溶けていった。

「あいつマジで行きやがった」

「やり過ぎだよ。いくらなんでもかわいそう」

 セミロングはそう詰りながらコンパクトを閉じて窓の先の横顔を見遣り、帽子はセミロングと立ち上がった眼鏡の後ろを走り去っていった。出迎えてやるつもりで腰を上げかけたものの、その役目を帽子に奪われる形となってしまった眼鏡は、まだ半分も残っているコップにジュースを継ぎ足してから座り直した。少し前に純平がチャイムを鳴らしたときの再現をしているようだった。

 玄関を開錠して帽子が戻ってくると、アルミサッシが勢いよく開いて窓枠に跳ね返る音が、室内への若干の震動を伴って聞こえてきた。四人は一斉に玄関のほうを見遣る。

「何の音?」

「向こうから入ってきたんだろ。そっちのほうが早いからな」

 思わず振り返った帽子が少々不安げに言い、家主である眼鏡が答えた。

 この家は角部屋なのでベランダのほかにもう一箇所窓がある。それが洗面所の向かいの部屋の窓である。そこから侵入するつもりなら、純平はベランダから出て右に向かっているはずだが、カーテンの先で純平が左に走り出したことを、本人以外の誰も知らない。

 セミロングはテーブルの下からブランド品のハンドバッグを取り出した。

「謝ってきたら?」

 そこへコンパクトを戻しながら言うので、赤ら顔は窓を閉めて振り返り小走りになる。

「純平! わりいわりい! 俺たちもちょっとやり過ぎた!」

「お前だけだ」

 洗面所の向かいに到着した赤ら顔が、ドアを押し開けて部屋の中に入っていく前にそう呟いて、眼鏡はジュースを飲み始めた。

 パチッと電気のスイッチの入る音がすると、それに続いて間を置かずに、轟音のような絶叫がほんの一瞬家中を支配した。それは、辛うじてではあるが、赤ら顔のものだとわかる声をしていた。

 三人は再び驚かされ、届かぬ目線を送った。が、もう飽きていたり、それを通り越してささやかに憤っていたりしたため、示し合わせたように揃って顔をしかめる他にさしたる反応はなかった。

 帽子は席に戻り、セミロングはバッグをテーブルの下に押し遣り、眼鏡は一息で中身を飲み干した紙コップを底がひしゃげるほど強くテーブルに叩き付けると、口元を拭いつつそっちへ歩き出した。

「お前らいい加減にしろよ」

「純平は関係ないんじゃない?」

 セミロングの言葉が終わるか終わらないかというぐらいだった。眼鏡が赤ら顔のものと大して変わらない叫び声を上げたのだ。さすがにセミロングも声を荒げる。

「何なのようるさいわね!」

 鋭い視線は、腰を抜かせてべたりとへたり込んでいく眼鏡の背中を怪訝そうに追ったので、それを捉えることがなかった。

 しかし、眼鏡が落ちていったために視界が開け、それを目の当たりにすることになった帽子は、目を見開いて呼吸が止まった。

 セミロングもその気配に促されるように目線を上げてようやくそれを認めると、途端に身じろいだために帽子の胸に背中があたった。

 三人の位置からだと、玄関と洗面所とダイニングともう一つの部屋をつなぐ廊下がよく見渡せて、赤ら顔の入っていった洗面所の向かいのその部屋は、ドアごと見えるようになっている。

 赤ら顔が中に入っていったときに、押し開けられたままの戸口から這うように出てきたそれは、部屋から漏れる光とダイニングの明かりを浴びて必要以上に全貌が窺える。濃い黄色の地に黒い横縞の入った毛皮を全身にまとい、左右からは細長い曲線のひげ、上には丸い耳を二つ生やした丸みを帯びた顔を持ち、腰に長い尻尾を携えた、ネコを大きくしたような体躯の生き物。這うように見えたのは四つ足だからである。紛れもなくトラだ。

 三人の脳裏に、なぜこんなものがこんなところにいるのかという当たり前の疑問が、思考を共有しているように一斉に浮かぶ。驚きと恐れと希薄な現実感も共通した。それは赤ら顔が抱いた気持ちとも同じであった。そして赤ら顔と同じように、彼らに話したり考えたりする時間を与えずに、トラは身を屈める。そしてトラは、三人のうちの誰もが、これまでの人生で一度も聞いたことのない咆哮を発し、それをも追い抜くように、ダイニングに飛び込んできた。

 全ては疾風が吹き抜けるように行われた。

 眼鏡は両前足で押し倒され、左前足で右の肩を押さえ付けられたまま、叫んだ。飛び立つように浮かんだ右前足が左の肩から腰にかけてを一閃し、中途半端なところでその声は停止する。そのまま腰を押さえ付けられて、同様に振り上げられた左前足で右の肩から腰にかけてを裂かれたときには、衝撃で浮いた体が床に落ちる音以外にもはや何も聞こえない。

 セミロングは息も漏らせずにテーブルを見つめていた。食べ物と飲み物と食器とそれらを支える合成樹脂の台によって、見えていた惨劇は弾んだ両足だけなのに、まるで特殊な視力を有しているかのように、血まみれになった上半身と血しぶきを浴びた台の裏を呆然と見つめていた。

 帽子がその腕をつかみ、立ち上がるのと走り出すのを同時に行なった。紛れもない現実を突き付けられての反射だった。セミロングもほとんど無意識に従いクッションの柔らかさに突っ掛かりながら腰を上げて駆け出す。

 帽子はもう一方の手で力いっぱい窓を開け放ち、冷気に突進するようにベランダに飛び出ながら、セミロングの袖を握り締める腕を自分のほうへ戻そうとした。しかし、セミロングは帽子に引っ張り出されるより早く、トラの牙を右の肩口に受けて倒れ込んだ。

 弾みで帽子はよろけ、また袖から手を放してしまった。甲高い悲鳴を水平の位置を目指して緩い傾斜になっていく背中に浴びつつ、頭や顔を防ごうとする本能が身をよじらせ、鉄の柵の下の辺りに左腕から激突した。腕を押さえて呻いたところに、グルルルル…という低音が重なる。

 振り返った帽子の視線は、頬ひげの根元と口から下を赤く汚したトラの顔を捉えており、恐怖で揺れ動く瞳に映るトラの姿は、それが激しさを増すのに比例して、大きくなっていった。


 純平はもぎ取れんばかりの勢いで玄関のドアを開け放つと、革靴というところで赤ら顔のものに間違いないそれを丁寧に左右とも踏み付けてから框に降り立った。

 エアコンの熱に迎えられ、大して温かくもないフローリングが床暖房のようにも感じられたが、一刻も早くあのバカをとっちめてやらなければという使命にも似た一心に、存分にそれを味わいたい希望をひとまず押し遣らせる。

 大股で廊下を歩み、さっきまで開いてなかった洗面所の向かいの部屋の扉が開いているので、ふとその中へ目線を送りつつそこを通り過ぎた。そして跳ねるように戻ってきた。

 隅にシングルベッドが据えられているその部屋は、向こうに設けられた胸の高さの窓が開いていて、そこから暖気と寒気が居場所を交代しようとしている。初めの来訪直前に外を通り掛かったときには点いてなかった明かりの真下で、赤ら顔が両手を伸ばしてうつ伏せになっていた。

 落ち着いて見ていると、赤ら顔に対してはもちろん、天井を仰ぐ白い靴下の裏を目にして慌てて舞い戻ってしまった自分までもが情けなく思えてきて、怒りはどこかに消え失せた。ここまでできる情熱にある種の尊敬すら覚えたほどだ。

「もういいって」

 純平は赤ら顔の背中にそう言った。しかし微動だにしない。心からのため息をついて中に入り、つま先を腹の下に滑り込ませ、蹴り上げるように引っ繰り返した。

 赤ら顔の顔はそこから酒が消えたかのように青ざめており、その代わりに胸元が真っ赤に染まっていた。何かがその上を走り抜けた跡のように、トレーナーの英字のロゴが一センチ程度の幅で三等分に断裁されており、その縁では赤く濡れた繊維が短く毛羽立っていた。

 純平はそれが血であると直感で認識していた。作り物とは思っていない。だからこうまでする理由はない。そしてこうまでなる理由もない。何がどうなっているのかわからない。

 疑問符の出来損ないを頭上にあしらって、時間にすれば一秒あるかないかというほど立ち尽くしたところで、帽子の悲鳴が耳をつんざいた。振り返る。この場所からならダイニングのテーブルが見える。そこに大の字に仰向けになった眼鏡が確認できた。

 駆け寄って近付いたところで、眼鏡の肩から腰にかけての長袖のシャツが、赤ら顔のそれのように三本ずつの太い直線が二つ交わってできたバツ印で赤くなっているのを見えた。ほぼ同時にこちらに投げ出されたセミロングのスカートが見えて立ち止まった。

 セミロングは窓の敷居に胸をつけて倒れていた。うつ伏せでそこから上はベランダに出ているために見えないが、こっちに向けられた右の肩は、熟れすぎて腐り切った果物のような濃さで、ピンクのスーツごと赤くえぐれていた。

 またほんのわずかな時間を立ち尽くしていると、果物が影に覆われた。傷口をまたいでベランダから現れたのは、一頭のトラだった。純平は友人たちと同じようになぜここにトラがいるのかという疑問を抱き、夢でも見ているような感覚に包まれた。

 トラの右前足には金の帽子のゴムが引っ掛かっている。誕生日を迎えた友人が自ら頭に載せていた、あれだ。それは今彼女の頭上ではなくトラの足にある。

 トラは虫でも払うように前足を振った。帽子はテレビの上の壁に当たり、紙のひしゃげる音を立てて、壁紙の一部を赤くしてから、いくつかに裂けながらふわりと床に落ちて転がった。赤絵の具を散らしたような内側の白いボール紙が見えた。

 純平はそこでトラと目が合った。その瞬間に真後ろへ走った。反射だった。何かを考えてなどいなかった。例えこれが夢の中だとしてもそうしていた。

 純平は左右に注意を払うことなく、廊下を走り抜けて框にたどり着くと、数足の靴ごと三和土を飛び越え、宙を舞ったままノブをひねり、浮いたままドアを押し開け、着地と同時に外へ出た。

 ここで初めて知恵が回った。振り返りざまにのろのろと閉まっていくドアを思い切り押し込んだ。大きな音を響かせてドアと壁を一つにすると、それより大きな音がそこへ激突してくる衝撃と一緒に両手と片足に伝導してきた。鉄扉という遮蔽物があるとは思えない咆哮が轟く。

 寸前で逃れることに成功した危機にまだ怯え、この場から離れることだけを考えて走り出した純平は、敷地から出て二回右に曲がったところで、それでも自宅のほうへ進もうとしていた。ペット可の物件さえあればすぐにでも引っ越したいと常々思っているあんなボロ家のことを、聖域のように必要としている。そこに求めるのは精神的な安定だった。あそこにいれば何とかなるという根拠の乏しい自信のためだ。

 右に五件分のベランダが立ち並ぶ、たった今逆方向に駆け抜けた道を再び走りながら、何気なく、その直前まで自分の身があった最後のベランダを視界に入れるため、視線を右に送った。

 道に出るために乗り越えた際に手のひらと足の裏に固く冷たい感触を残したものと同じ形の鉄柵が四つ続き、その最後の一つ、純平の肉体の末端のそれぞれに硬度と温度を記憶させた特別なそれには、別の理由で他の四つと違いがあった。帽子の後ろ姿がもたれていたのだ。

 帽子の体は重力に抵抗する術を喪失したか、あるいはその手段を放棄したみたいに、両手は肩から垂れ、首も力なく項垂れ、部屋から漏れる明かりで黒く輝く髪の毛も垂れ下がっていた。

 さっきまで彼女の頭上に居座りその黒髪を覆っていた金の帽子はなく、その今の居場所が部屋の中のテレビの傍らだということを、図らずも見届けたために知っていた。そこへ移動させたのがあのトラの右前足だということも。そして彼らがあのトラの襲撃を受けたために、変わり果てた姿と化してしまったのだということもまた、その瞬間を間近で目撃したようにわかっていた。

 純平の顔は足の筋肉とともに強張りそのために速度は増していた。よろめくように右に折れ、直線を疾駆するのに適当な体勢に体を持ち直そうとしたところで、転倒しそうになるのを阻止する形で急停止した。

 前方にトラがいた。赤ら顔が倒れていた部屋の窓のサッシに両前足を揃え、顔から首までを外に出していて、さらに身を乗り出すように胴を伸ばし、今にも地面に前足をつけて脱出を遂げようとしていたのだ。同じ箇所から侵入したのだということに何となく気付いた。そしてみんなが襲われたのだと。

 純平は自宅と逆方向だと承知の上で再び真後ろへ走った。

 街灯に照らされる突き当たりの丁字路の、暗闇に吸い込まれて延びていく左右の道を、追撃から逃れることのできるたった一つの方法を選り抜くように迷い続けたために、ようやく左に折れたのは街灯への衝突寸前でのことだった。

 そのすぐの曲がり角は余裕を持って右に折れ、次の次の街灯の真下に一頭のサイの姿を認めた。身じろいで転びそうになるのを肩から壁にぶち当たることで何とか防いだ。

 サイは明かりを浴びて硬く粗い皮で覆われた全身を灰色に反射させており、特に遠目からでも純平に一目で正体を悟らせるに至った、額から突き出た太く尖った角の尖端には光が集中し、それそのものが発光しているようでさえあった。

 純平の肩と壁が接触して起こった潰れた音に、こちらへ体を向けていたサイは痛みにしかめた純平の顔をより精確に発見した。体を屈め、自然と点ほどの角の頂点は殺気を伴った双眸とともに対象物を捕捉し、助走のために後ろ足でアスファルトを蹴り付け始め、きっかり三度目で突進を敢行する。必死に体勢を直そうとする純平の姿はサイの視界の上下で頭と足が途切れるほど大きくなり、重なり合う直前でそこから左に消えた。

 間一髪でサイの角を免れた純平は、背後で巨大な物体が躊躇なく勢いよく壁に激突する地鳴りのような音と、それに続いて固いものが破砕し崩落する大粒の降雹のような音を聞きながら、それを遠い場所の出来事にさせるために全力で手足を前後に振り、右に曲がった方向にいるはずのトラと再会しないために丁字路を直進し、続いて差し掛かった十字路を、サイの視界からの完全なる脱出を狙って左折した。

 瞬間、まるでそれまでずっと自分の行動を見張り、ここでじっと待ち構えていたかのような研ぎ澄まされた一撃が、耳を突き抜ける雄叫びとして出迎えてきた。もはや驚愕による悲鳴と足をもつれさせての尻餅を防げない。

 実際は相当向こうにいたそれは、幾つもの街灯の光と月の光を交互に受けて、濃く淡く灰褐色の肉体を映し出しながら、猛スピードで迫ってきていた。正体をオオカミだと正確に認識できたのは、体内にまで続いていきそうに整然と奥に並んでいく無数の牙を両側上下に備えた縦長の口が、ぱっくりと開いたままで眼前に飛び付いてきたところでだった。

 純平は自然に目と歯を食いしばって身をよじっていた。牙は耳元で金属同士が擦れるような高音を響かせ背中の先に遠ざかる。十字路の中央を跳躍し後方の道で着地したオオカミは前足を軸に後ろ足を半回転させた。再び雄叫びが上がり、動物性の鉱物が喉笛を求めてくる。純平は顔面を硬直させたまま、できるだけ縮めた身をオオカミに向けて押し倒した。顔や手のひらや足の甲の熱をアスファルトが吸い取り、背中を飛び越えていく気配で回避できたことを悟った。

 這いずるように立ち上がると、正面の十字路の三つ先の街灯の明かりにトラの視線を確認できた。十字路の中央付近にサイの視界に背を向ける体勢で戻り、直進しようと足を一歩踏み出したところで、二歩目はいつまでも地面から離れようとしなかった。

 一頭の真っ白い何かがこちらへ向かってきていた。姿は月明かりだけでもよく見え、街灯の下でその正体が鮮明に証明される。四つ足で小走りに駆けるシロクマだ。

 前方にシロクマ。左にはとっくにこちらに向き直り、身構えて唸り声を放つオオカミ。右からはトラが闊歩してきており、まださほど近づいてきていないものの、そこまでの距離に逃げ道はなかった。振り返ると、サイが緩やかながらも確実な足取りで差を詰めてきていて、丁字路を通過したところだ。

 まるで四方に目がついているみたいに、あるいは高い所から見下ろしているみたいに、十字路の中央のそのど真ん中にいる自分を目的に、四頭の獣が迫ってきているのがわかった。それも、その目的を害そうという明確な意志と、それを遂げるに足りる十全な能力を持って。

 今の純平は宣告された瞬間から秒単位の短時間で刑罰の内容を自ら選ばせられる死刑囚に似ている。それも冤罪である。吟味する余地も承服する気もなく、何より選べるわけもない。猶予はすぐにリミットを迎える。

 純平は巨大な影に自分と自分の影をそっくり覆われて、振り向いた。クリーム色のむく毛の壁が、わずかに前後に伸縮しながら、鼻先に在った。

 首を垂直にして、地上からの距離が二メートルを優に越える位置にある壁の最高部に到達して、ようやくシロクマの顔が確認できる。シロクマは四つ足の体勢から後ろ足だけで直立していた。夜空は見えず、無限のようだった星たちも、唯一絶対に堂々と佇んでいる満月も、空と一緒に純平の前から失われていた。

 シロクマは純平の頭上二十センチ弱のところから雄叫びを上げて、純平の頭上一メートルほどの高さに掲げた両前足を垂直に振り下ろした。

 純平は爆音のような声だけで失神するみたいに腰を抜かして後ろに倒れ込んでいたため、偶然殴打から逃れることができた。しかし純平自身がその状況を把握するより早く、シロクマが空振りの勢いを利用して覆い被さってきた。みーこが腹に居すわるときの何十倍もの重量が両前足を受け止めた左右の肩口に圧し掛かり、やはりみーこのときより激しく呻き声が滲む。

 シロクマの顔面が視界を占領した。深い呼吸に伴って、白く荒い鼻息に呆然と歪む顔が撫で回され、あるいは引っ張られた。通常より高速の鼓動を維持するのに必要な酸素をほとんど得られず、動悸はより激しさを増す。

 やがて、純平が覚悟を決める時間を経ずして、シロクマはぱかっと口を開いて背中を反り返らせた。オオカミのそれより太く尖った牙の、オオカミのそれのように狂いのない隊列は、ほんの一瞬でだけでも見届けられた。悪あがきのような防衛本能は、歯を食いしばらせ、固く目をつむらせ、全身を萎縮させる。

「待って!」

 聞き覚えのない女の子の声がした。

 それきり、大した時間は経っていないのだが、どうやら無傷のままでいるらしいことを、純平は感じていた。

 恐る恐る目を開けてみると、シロクマは背中を反らせたままの形で首を回し、宙を見渡している。今の声に従って自分への攻撃を止めているようだ。

 すぐに一羽の灰色のハトが、シロクマの右の肩に降り立って首を伸ばした。純平の目にはシロクマの背中からひょっこり頭をもたげる形でその姿が出現した。

 ハトは体を縮めて目線をできるだけ下に向け、不安と怪訝の混濁した純平の目線をじっと見つめてから体を起こし、おもむろに首を曲げてシロクマと見合い、そして、

「殺しちゃだめよ」

 純平は目を剥き耳を疑った。ハトがくちばしをぱくぱく動かすと、たった今聞こえたのと同じ、人間のものと変わらない、女の子の声が、そこから発せられたのだ。

「どういうことだ、ロロ」

 今度はシロクマが不服そうに顔をしかめ、口を開閉する。男の声がハトへの詰問を行う言葉を添えて放たれた。

 ロロと呼ばれたハトは羽ばたき、純平の顔のそばに降り立つと、純平の頭の上の、今は地べたに寝そべっているウサギの耳を、くちばしで突っついた。シロクマははっと目を見開いた。

「本当だ」

「あいつと一緒の奴か」

「危なかったなあ後一歩だったぞ」

 頭上から右手から左手から、周りを取り囲むようにサイとトラとオオカミが現れて、声音の異なる男の声で口々に言った。頷いて純平から起き上がりつつシロクマが続ける。

「それならそうって早く言ってくれりゃいいのに」

「何呑気なこと言ってんの!」

 すかさずロロが叫んだ。

「私が止めてなかったら、今頃死んじゃってたよ? 大の大人が四人もいて、どうして誰も気付かなかったの!」

 ロロが四頭を順繰りに見回しながら詰ると、彼らはバツが悪そうにしかめっ面になったり、その顔をうつむかせたり見合わせたりし、挙句の果てにはお互いをあごでしゃくり合っては首を振り、持ち上げた片方の前足で指し示し合ってはそれを左右させていた。

「まったくもう…」

 ロロは項垂れた頭を翼で押さえてため息をつくと、気を取り直してその翼で純平の頬を優しく撫でてやった。

「ごめんね、もう平気だからね。立っていいよ」

 打って変わった優しい口調を受けたものの、どうしたらいいのかわからない上に、どうするべきかも導けていないため、すぐには動けなかった。ただ、とりあえずこのままでいるよりはましだろうと思って、両手を地面につけ、上半身を起こし、そこから片足をつけて全身を持ち上げたが、足がすくんですぐに膝をついてしまった。自分の体ではないように力が入らない。

 ロロはもう一度特大のため息をついて、高い位置のシロクマの顔を見上げた。

「タクローが脅かしすぎたんだよ」

「俺かよ!」

 タクローと呼ばれたシロクマは呆れた態度でトラとサイとオオカミのほうを前足の爪の先で突付いていたところだったが、寝耳に水という感じで目を見開いて聞き返した。責任の擦り合いをしていた他の三頭はここぞとばかりに「そうだタクローだ」「タクローが悪い」「タクローのせいだ」と異口同音に賛同する。タクローは狼狽して全員を見回し、純平にまでも否定と庇護を懇願するような視線を向けた。

「あんな大声で叫ぶからよ」

「しょうがねえじゃねえか…人間だと思っちゃったんだから…」

 ロロが詰り、タクローはしょんぼりと言い返す。

「二回目でしょ? それもついさっきのことじゃない。いい加減慣れなさいよ」

「二匹もいるなんて思わなかったんだよ!」

 さらに強く責められると逆上のように声が荒れた。

「これじゃ私だけで連れて行けないよ? どうするの」

「うん…」

 気にする様子もなく、ロロは四つん這いになったままの純平に目を向けた。タクローも落ち着きを戻してその背中を見下ろし、やがて頷いた。

「しょうがない、俺が連れて行こう。みんなはこのまま続けてくれ」

「よっしゃ」

「任せたぞ」

「それじゃしっかりな」

 サイとトラとオオカミは各々了解の返事を残し、それぞれ来た道を駆けていった。タクローはのそのそと純平の後ろへ回り込む。

 黙って聞いていた動物たちの会話そのものとその内容も手伝って、ひどく混乱し、未だにどうしたらいいのかわからずどうするべきかも導けていないままの純平は、突然両脇腹を物凄い力で持ち上げられた。

 驚いて声を出すと、二階の窓のような眺望が開けていた。周りのブロック塀より高いところに足が浮いている。そうかと思うと脇腹を解放されてすとんと落ちた。

 思わず前のめりになった両手はタクローの首筋を押さえており、太ももからふくらはぎにかけては網タイツの細かい網目から伝わる深い毛の感触で温かかった。同時にロロは純平がタクローの背中にまたがったのを見届け、タクローは四つん這いになった背中に純平が着地したのを感じ取っていた。

「気をつけてね」

「お前もな」

 二人は声を掛け合ってから、夜空に飛び去り、また十字路を直進していった。


 商店街に出た。

 多くが今日の営業を終了させている店に挟まれた二車線の通りは、車道と歩道の区別がないほど、あちらこちらに多くの人体が散らばっていた。

 それらは文字通りの老若男女で、ほとんどが腕か足か首か胸か腹か背中か、その幾つかか、あるいはその全てといった風に、部位を問わず爪の跡か牙の跡を単数ないし複数持っており、そこからは多少の差はあれど例外なく血が流れ出て、薄暗いアスファルトに赤い図形を作っていた。

 彼らの姿も様々だ。地面に口付けしていれば、全身で空を仰いでいたりもする。横を向いていたり、くの字だったり、肉体の限界に挑戦した後のような言い表しようのない形だったりもする。薄い血溜まりに外傷の確認できない仰向けの女が浮かんでいたりもする。明るい店の中に入ったところでかばうように男の子に折り重なっている男女は家族だろうか。倒れているだけではない。電柱に片手でしがみつく真っ赤な男の背中があったり、エンジンの鳴動に合わせて揺れているガラスというガラスが砕け散った車の中で、粉のような破片にまみれてシートにもたれた女がいたりした。

 純平はタクローの上から、絶望の瞳でそれらを俯瞰しながら、生きているのかいないのかもわからないぐらい動かない、かすかに悶えているようにも見えるが気のせいかもしれない、そんな数え切れない人や血の流れを幾つも通り過ぎ跨いでいく。左の胸は激しく脈打っている。それでも動物たちに襲われたときよりは大分穏やかだ。

 静かだった。ただでさえ強烈な血の匂いを持つ湯気のような熱気を遠くから近くへ近くから遠くへと運ぶ冬特有の夜風が時折立たせる音以外はしなかった。それすらも聴覚が感じ取れるほどの音量ではないために実質無音だった。市街戦の跡を捉えた写真の中に閉じ込められた気分だった。

 やがてタクローが前を見たまま言った。

「捕まってろ」

 そして走り出した。

 一般的に、体格に似合わずシロクマは敏捷であり、タクローもその特性を窺わせる疾走を始める。純平は反動で後ろに浮きかけると、その速さに振り落とされないように、すかさず腹這いになってタクローの首筋に両腕で抱きついた。従ったつもりはないが結果的にそうなってしまった。

 ずっと向こうに、あちこちを注意深く、しかし正面だけを見回しながら、忍び足で歩いている人間の背中が見えた。あっという間にその後ろ姿だけで厚手のジャンパーを着込んだ中年の男だと把握できるところまで距離が縮んだ。タクローは彼を狙っていた。純平もそれに気がついていた。男は気配を感じたのかそれとも殺気を悟ったのか、こっちを振り返り、途端に白い息を叫び、わめき散らしながら駆け出した。

 両者の速度には、二足歩行を覚えたばかりの赤ん坊と世界記録を弾き出した瞬間のスプリンターぐらいの、比較するのが滑稽なほどの問題外な差があった。

 トップスピードに乗っていたタクローはすぐに男に追い付き、立ち上がりざまに鉤状の爪を剥き出しにした右前足を高く振り上げる。落下しないように両腕に力を入れた純平の頭は自然とタクローの左の肩口に突き出て、次の瞬間前足が眼下に振り下ろされた。

 男は背中を裂かれ、聞くに堪えない悲鳴を上げ、メートルに届かないほどの距離を吹っ飛んだ。受け身も取らずにひしゃげた音で顔面からアスファルトに着地したときには辺りに漂っていた悲鳴の余韻も消えていた。それきりぴくりとも動かない。ジャンパーを破り去った四本の太い線だけが、見る見るうちに赤く滲んで溢れてきた。

 四つん這いに戻ったタクローは一瞥すらせずにその傍らを通り過ぎ、純平は首を後ろに曲げて、合流したり分流したりしながら地面に広がっていく血の川を恐々と見つめていた。

 ここへ至ってようやく、今はただ、されるがままになっているべきだと悟り、それしかできないことも悟っていた純平は、もう何も視覚を通して記憶することがないように、固く目を閉じ、さらに顔をうつむかせた。

 しかし時折タクローの指示に従ってその都度首筋にしがみつくために、塞ぐことのできない剥き出しのままの耳の奥に無防備に控える聴覚は、色とりどりの絶叫や悲鳴を一つ残らず味わうことになった。

 純平は伝染する恐怖を少しでも減らし、自分の中で増殖させないようにするように、じっと身をすくめ、数え切れない多くの人々の襲撃を、やり過ごそうとしていた。

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