第一話 夏樹、怒っています。
目が覚めた時、最初に思ったことは、頭が重い。というか、体がだるい。
「なんだこれ、まぁ、そんな日もあるよな」
走ってシャワー浴びれば治るだろ。そんな精神論を自分に振りかざす。似合わない事を言っているなと思いながら走ろうと思う、心配をかけるような事をしたくない。
でも、思うように走れない。すぐに歩いてしまう。それを繰り返して、仕方ないから神社の手前で引き返す。いつもより遅い。これは、流石に陽菜にも気づかれる。
少し小走りをする。陽菜に怪しまれれば、すぐに病院に連行され、そのまま部屋に軟禁され、静養を言い渡されるだろう。
ありがたい事だ、でも、余計な手間を二人に掛けたくない。
「よし! 根性だ」
その時、ポーチに入れてあるスマホが鳴りだす。
「もしもし」
『やほー、おはよう。夏樹だよ』
「おはよう」
『今走ってる?』
「うん」
毎朝、夏樹は決まった時間に電話をかけてくる。大丈夫なのだろうかと思う反面。声が聞けて嬉しいし、時間がわかるし、何だかんだ、楽しみにしている自分がいる。
逆に言えば、来なかったら少し不安になる。けど、こちらからかけて良いものだろうかともどかしい気分にもなる。
時報と呼んでいる僕がいた。
歩きながら帰る。夏樹の声を聞けば元気になると思っていたけど、体調が回復するわけじゃない。
「駅でまた待ち合わせだね。楽しみにしてる」
「うん。僕も楽しみ」
これは、這ってでも行かなくてはならなくなってしまった。心が会いたいと叫んでいる。
朝ご飯、無理矢理食べる。美味しいごはんも、食欲が無ければ……。
「先輩、今日の朝ごはん……」
「大丈夫。問題ない」
乃安に怪しまれる前に機先を制して何も言わせない。もはや、ただの意地だ。
大丈夫。夜になって寝れば、だから、寝るまで粘れば良いだけ。授業中も眠れば大丈夫だ。僕の精神力が試される、そんな戦いだ。
陽菜はどうすべきかと考えているように見えた。隠し事が下手な僕、流石である。いや、陽菜が流石なのか。どっちでも良いか。
ベッドで寝てしまいたい欲に駆られる。
陽菜は無理に休ませようとはしなかった。言っても聞かないと思ったのか、それとも夏樹が家まで看病しに来るのを危惧してか。真面目だけど、真面目ゆえに、夏樹が学校休む可能性を考慮したのだろう。
駅で君島さんと合流して電車に乗る。陽菜が無言で差し出したマスクをつけた。
駅の改札、定期を改札に通して出口に向かうその途中、見慣れた後ろ姿がせわしなく改札の方を眺めては出口に向き直るのを繰り返していた。
「夏樹」
「おっ、おー、相馬くん。景色見て優雅に過ごしていたら気づかなかったよ~」
「なぜに棒読み」
そわそわしているように見えていたのも気のせいじゃないだろうし。優雅とは程遠い表情だ。
「三人もおはよう」
「おはようございます」
「おはようございます。先輩」
「どうもです」
三年生になって、もう夏だ。空の青さが眩しい。あと一か月もすれば夏休み。だけど、結局は毎日学校に行って勉強することに変わりはない。
「先輩方が卒業した後、私、とても寂しいです」
「乃安ちゃん。莉々がいるよ」
「はい。とてもありがたい存在になる事でしょう」
日差しを浴びて、制服自体が熱くなる。制服の黒がこれでもかと熱を吸収する。歩いているだけで汗ばんでくる。
「……日暮相馬。あんた……」
「何も言うな、これは、僕の戦いだ」
「ふぅん。馬鹿な戦い。そのままあの世にでも逝ってどうぞ」
辛辣だな、相変わらず。まぁ、言い返すつもりも元気もないけど。
しかし、いつも歩いている道が、いつもより遠い気がしてくる。座って休みたい。こんな状態だと鍛えた体力も形無しだ。
何で素直に休まなかったのか、わからなくなってきた。
そんな、自問自答の果てに、学校にたどり着き、腰を落ち着けることを達成した。太陽にすっかり熱された体が気持ち悪い。体を引きずるように扇風機の前に移動して、服の中に風を送り込む。隣に来た夏樹も同じことをする。
「夏樹、見えてるよ」
「? 何が?」
「下着。ピンクなんだ、今日」
叩かれた。良い音が出た。
「デリカシーだよ、相馬くん」
「それはごめん」
扇風機の風に乗って、夏樹の、多分柔軟剤の香りがした。何の匂いなのかな。詳しくない僕にはわからないけど。
「風邪? マスクつけてるけど」
「高所を再現して、訓練しているんだ。持久力の」
「へぇ、ストイックなことするね」
夏樹が苦笑いで答える。
「まぁ、ね」
涼しい風が気持ち良い。夏樹が顔を寄せるのに合わせて、少し距離を空ける。怠いだけで咳がでるわけでもないが、万が一というものがある。
夏樹がさらに距離を詰める。
「暑くないの? そんなに近づいて」
「全然」
「さいですか」
「おー、お二人さん。朝からお熱いねー」
「あぁ、お前ら野球部、尊敬するよ」
「そういうことじゃねぇよ」
京介が野球鞄を床にドンと置くと、扇風機を自分の方向に向けて汗拭きシートで体を拭き始める。まぁ、ここは譲ってやろう。
さて、持って来た枕よ、仕事の時間だ。
「相馬くん、ねぇ、おーい。ふむ……フゥッ」
「あひゃあ!」
耳がぞわっとした。思わず飛び起きた。僕の反応を楽しそうに笑う乃安がいた。
「夏樹先輩だと思いましたか? 残念、乃安ちゃんでした」
「なんだそりゃ」
「お昼にしませんか? 莉々もついてきてくれたのですよ」
「へぇ」
目を擦りながら体を起こす。結局、午前中の授業を全て寝て過ごしたことになったみたいだ。よく指摘されなかったな。
いつも通りの席、夏樹の隣に腰を下ろす。……あれ?
既に、夏樹は、斜め向かいにいる。その隣は乃安が座っている。僕の隣にいるのは陽菜だ。夏樹はこっちを見ようとしない。
君島さんが笑いを全力で堪えている。京介はやれやれと言った感じだ。
さて、体調はほんの少しだけ良くなり、少しは働くようになった頭で考える。夏樹は、多分、授業を寝て過ごしたことに怒っているのだろう。
そりゃそうだ。夏樹は、真面目な僕らの委員長だ。怒って当然である。これは、素直に謝るべきことだ。
僕は知っている。謝る事を引き延ばすと、謝りにくくなると。
「その~、夏樹さん。授業中、寝ていた事。謝ります」
僕がそう言った瞬間、隣の陽菜が、目の前の夏樹が、右斜め前の京介が。乃安の後ろの君島さんが、同時に頭を抱えた。
「……えっ?」
夏樹の目から光が消えた。
「相馬くん。怒っている原因を考えられるようになったのは、成長だね。嬉しいよ。でも、違うんだよなぁ。相馬くん、私が怒っているのは、そういう事じゃないんだよなぁ」
えっ……それなら、うーん。頭を回す。ダメだ。本気でわからない。わかるのは、夏樹のご機嫌を僕は損ねてしまったという事だけだ。
いや、ここで諦めて、夏樹の事を待ったら、だめだ。それでは前とは変わらない。僕は、僕から歩み寄らなければ。
よし。ちゃんと、自分の行動を振り返る。そして、それでもわからなかったら夏樹にちゃんと聞こう。方針が決まった僕は、乃安が作ってくれた弁当と向き直り、食べ始める。体調自体は未だに悪い。食欲が少し出てきたくらいだ。早退も視野に入れてはいたが、迎えに来てくれる親なんていないから、その選択肢は無いのだ。
さて、今度は僕は何をやらかしたのやら。
こんな僕を好きになってくれた夏樹のためにも、せめて誠意をもって付き合いたい。そう願う僕は、こうして、日々の成長を目指すのだ。
陽菜達はもうわかっているのだろうか。わかっているのだとしたら教えて欲しいものだと、頭の隅では思っているのだけど。