第十七章・前 縮めたい距離感
夏。
早いもので、私が魔法使いの奴隷となり、屋敷に来てから三ヶ月が過ぎた。
屋敷の家事雑事は早朝に終わり、昼過ぎには屋敷に持ってきた学院の事務処理が終わる。授業のある日はそこから授業を受け、ない日は家で庭仕事。まだ植物は植えられていないが、芝生の整備だけはやっておく。温室にはトマトでも植えたいな。
魔法使いからは簡易テレポートを習い、書類程度のものなら屋敷で学院との送受信が出来るようになった。ソッチの気がありそうな、あの女性研究員に事務書類を送ってもらっている。
ドラコ達は先月の頭に次の仕事先が決まったらしく、屋敷を出ていった。魔法使いに何とか戦闘の基礎を教えられたようだった。
ハイルディは時々屋敷を訪れている。盗み聞きをする趣味はなかったが、たまたま聴こえてきた魔法使いとの会話で、ヴェルがどうのこうの、というのが聴こえた。近況報告も兼ねているのだろう。ただ、「とうとう言ったんだ! 良くやったヘタレ!」とか、「まだヤってないの!? ダメじゃんヘタレ!」とか聴こえたのはなかったことにしておく。
リットやファフナー、リスティナとは、授業の後や休日に魔法使いから許可を貰って街に行っている。ファフナーの見立てる服がたまるばかりだ。
そして、一番重要な、彼は…
「そこの魔法式は、それでも良いけど、クラウスラワ定理で出ていたのを使った方が良い。複雑化して、別ベクトルで働く可能性がある」
「あ、じゃあ、その時の出力係数は…」
夜。晩御飯を食べたあとの屋敷のリビングで、彼と私は机に向かう。
「うん、その通り。あとは事象化できるように…」
その机には、魔方陣が描かれた大きな紙が置かれ、会話の度に式が削られ、書き加えられていく。
授業の始まった当初、大幅に他の生徒と知識の差があった私は、魔法使いから屋敷で補習を受けることになった。その結果が、身体強化の諸呪文であり爆発の呪文であり基本魔法陣だ。
その差も現在では縮まったものの、惰性と自学のために続けている。
「じゃあ、ここはどうする?」
魔法使いが魔方陣の欠けたスペースを示した。
「そこには…」
紙面に転がっていた鉛筆を取り、古代語をそこに綴る。
「うん、その通り。よくできたね」
笑顔になった魔法使いがこちらの髪をワサワサと撫でる。気持ちいい。
補習を続けている理由は、
――こういうことも、狙ってたり…。
少し火照った顔を魔法使いに見られぬよう、やや俯いた。
あの、中庭での告白の仕合いから二ヶ月近く。私たちの関係は、何だか説明しづらいものになっていた。
互いに互いが好きなことは知っている。けど、一歩は踏み出せないし、踏み出したくない。そういう協定だ。
まるでぬるま湯に浸かっているような関係。けど、どこまでも溺れていたいような雰囲気。
「そろそろ終わりにしようか。明日の予習もまだだろうし」
「あ、はい! ありがとうございました!」
夜中にしては少々近所迷惑な声でお礼を言い、机の上の筆記用具を片付ける。
「手伝うよ」
魔法使いも紙類をまとめていく。
「ありがとうございます」
片付ける途中で、肩や手が触れ合い、鼓動のリズムが速くなる。
――…結局、奴隷からは離れちゃったな。
これでいいのか、と思うが、ハイルディにも言われた通り、奴隷ということはそこまで意識しないでいく気だ。
自室に戻り、ベッドに腰掛けた。予習はもう終わっている。体も洗って、あとは寝るだけだ。
ふぅ、と溜息をついて横になる。
――…距離が、縮まらないな。
確かに、『見守っていて』と言ったのは自分で、実際その必要はあると感じていた。このよくわからない彼との距離感も嫌いじゃないし、あの青い瞳をジッと見ているのも悪くない。ただ、
――もっと、早くケリがつくかと…。
一年でも十年でも――そうは思ったけど、本当にそんなに待たされては生殺しに等しい。それに、
――…もっとイチャイチャしたい。
まあ、早い話が、年相応、思春期な我儘だ。
――手をつないだり、抱き合ったり、キスしたり、
「したいなー…」
そして、その先は――
『男と女の臭いのする部屋で――お互いを求め合い、慰め合い――』
浮かんだ想像に、きゃあ、と紅潮した顔を抑えてベッドの上を転げまわる。
――ま、まだ、そういうことは早いかなッ!?
そんな発想が浮かぶあたり、まだまだ自分は大人じゃないのだろう。
――研究室でのあのキスは事故だし! 添い寝は全然して…!
そこまで思って、はたと気付く。
――…抱き枕、要らないのかな?
あの日から、一度も一緒に寝ていない。それまでは、頻度が減ってきていたものの、何日かに一回は抱き枕になっていたのだが、あれからは全く呼ばれていない。
――…避けられている、のかな。
それもそうだ、わざわざ『大好き、だけど好き勝手しちゃいそうだから落ち着くまで待って』と言った相手に『一晩付き合えよ』と言えば、性的な意味じゃなくとも『なんだこいつ』となるだろう。そうなったら、本当に最悪に節操のない最低な人間だ。なまじそれを了承してしまったため、こちらとしても言いづらい。
――…どうしようかな。
顔を上げると、ベッド脇の机に置いた熊の生首を見つける。以前に狩った熊の剥製だ。洗濯して綺麗にした後、自分の抱き枕にしている。
それを抱き寄せ、ギュウと顔を埋めさせる。薄くなった獣の臭いに爽やかな石鹸が混じった香りがした。
灯りを消し、ベッドの中に入った。
――まあいいや…。
時間はある。いつかちゃんと、抱きしめてもらおう。
目を瞑る。
――おやすみなさい。
ゆっくりと、眠りの中に落ちていった。
想像してください。
大きなふかふかのベッドに眠る、あどけない少女。金色の長い髪が束ねられ、頬は布団の暖かさで上気する。そして、彼女が抱えるのは、その身長の半分はありそうな、ヨーロッパヒグマの生首…。
シュールだね。




