第九章・後 何事も起きず
――眠い…。
まどろみの中、少女の頭の中をとりとめのない記憶や情景が舞う。
『些か胸がお粗末…』
『お母さんはおっきいから! 娘のあなたもいつかおっきくなるわよ!』
『ぬしは体が平坦で着替えがさせやすいな』
――なんでこんな記憶ばっか出てくるんだ!? もっとマシなのあるだろ!
ぐるぐると記憶が回り、因果関係の繋がらない景色が浮かんでは消えていく。自分の部屋、空、ベッドの上、炎、教室、星、事務室、路地裏――
――ああそうだ、私、暴漢に襲われ掛けて…。
魔法使いが来て、膝枕で、青くて…よくわからない。まあいいや。今は眠い。何も考えたくない。
もう一度眠りの中に落ちていく。
そこからは、眠りの海を潜ったり浮かんだり…。
浮かんだ拍子に、どこか遠いところから誰かの知っている声が聞こえてくる。
「朝食なに奢ってもらおう…あ、この子が寝てるんだっか、応接間。起こしたら室長にまた拳骨食らうな」
潜ったり、浮かんだり…。
「まだ寝てる…。昼も近いしそろそろ起こして…。あ、やばい、警備部にもう行かないと」
潜ったり、浮かんだり…。
「ハアハア…カワイイ幼女の体を、好きなだけ拭ける…! それに、寝てるから、もっとイイコトを…ダメ、私! そんなことをしたら、また室長に…。でも、ちょっとぐらいならイイよね…?」
フヒ、と荒い鼻息が聞こえた気がする。 潜ったり、浮かんだり…。
照らす光は、一度強くなったあと、緩やかに暗くなっていく。
「…この子、とうとう一日中寝ちゃったよ…。栄養は魔力エネルギーの直接注入で何とかなるけど…。いいや、今日は久しぶりに抱き枕にさせてもらおう」
暗さに、暖かさが足された。
潜ったり――そして浮かんでいく。
起きて最初に見たのは、魔法使いの寝顔だった。
――!!??
近い。鼻先数センチのところに、浅い寝息をたてて眠る顔がある。
狭いソファを二つ繋げて眠る彼の手は、抱き枕にしていた名残のように、優しくこちらの腰におかれている。
――なんでこんな体勢で…?
とりあえず起きないと、と彼の体を軽く押して起き上がる隙間を作ろうとすると、
「ん…」
寝ぼけているのか。彼は、手でこちらの腰をぎゅっと引き付け、体ごと自分に近付ける。まるでダンスに誘うかのようその動作が生み出したのは、
――唇が…!
引き付けられた拍子に、相手と自分の唇が触れ合う。
押し退けよう。頭では思うのだが、体に力が入らない。
彼の唇は、触れあったあと、こちらの上唇を優しく啄み、舌の先で一通り舐めてくる。
ハイルディがしたのとは全く違う、優しく人を「堕とす」キス。
最後にもう一度、ちゅ、と唇全体を軽く啄んだあと、魔法使いの唇はからかうように一度弱い吐息を出して、離れていく。そのまま彼は寝返りをうち、向こうを向いた。
時間にして数秒。だけど、私にとってそれは数十分、数時間。恐ろしく濃密な熱をもって認識された。
そして、状況に脳みそが追い付き、体を動かせたのは、やっとその五分後。
――なんて寝相してるのよ!?
ガバリと飛び起き、ソファに上に立ち上がる。魔法使いは変わらず眠ったままだ。
――こいつは…!
殴る蹴る殺すという選択肢が頭に浮かぶが、身分を考えて食いとどまる。
はあ、と諦めの溜め息をつき、ソファから床へと移動する。
――…今、何時だろ。
窓の外を見る。真っ暗な空を背景に何百何千という星が浮かんでいる。月が見えないあたり、日付から判断して深夜三時を回っているだろう。
――…唇。
やや湿度を感じる唇を右の人差し指でなぞる。先程の感触がフラッシュバックして顔に血が昇る。
――ああいうことをされるのは覚悟してたし、ハイルディさんに比べれば随分大人しいキスだったけど…。
自分の唇の経験人数は、これで三人。父、魔女、そして彼――身内しかいないぞどうなってんだ。
ハイルディに突撃ディープキスをされたため、いまの出来事には動揺はない。ただ、
――お父さんは肉親で、ハイルディさんはハプニングで…つまり…。
異性としてのキスは、魔法使いが初めてとなる。
認識した瞬間、一気に頬が熱くなるのを感じた。
――別に、寝ぼけてされただけだし! 奴隷にそうしない方がおかしいんだし!
いろいろ言い訳をしながら、顔を洗うために給湯室へと向かう。
誰もいない給湯室だが、非常灯か何かが備わっているようで、足元が朧気に照らされている。
静かに水道の蛇口を捻り、顔を洗う。置いてあったタオルで拭きつつ鏡を見た。
――ちょっと顔色良くなったかな。
新生活が始まってからこっち、精神的にも肉体的にも疲労は溜まりっぱなしだった。
――寝ながら聞いてたけど、一日中寝てたらしいし…。
何か体におかしなことをされていたような気もするが、深く思い出さない方が精神衛生に良いだろう。
体の関節を一通り鳴らしたあと、再び応接間へと戻る。
――…またここで寝るのか…。
魔法使いは、少し体勢を変え、合わさったソファの端の方へと動いている。しかし、かといって余裕を持って人が二人寝るスペースはない。
――…背中合わせならいいか。
魔法使いの背を押し、自分の入る隙間を作る。
静かにソファへ横になり、感じることができたのは彼の背中の温度だけ。
――暖かい…。
少しの温さと恥ずかしさを感じて目を閉じる。
――明日は…いや今日か。授業を受けて、実技が始まるんだっけ…。
魔法の使い方とかちゃんと教えてもらえるんだろうか。ただの農民にそんな技能ないぞ。まあだけど、
――この人なら、ちゃんと私のこと見ててくれそう…。
不安と一緒に安心を感じて、もう一度睡眠の海に潜っていった。
間抜け面間抜け面言ってるけど、別にあいつそこまでバカでもバカな顔でもない件について。
やや童顔なだけです。




