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0081  作者: 北川瑞山
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第九章

 合宿が終わり、夏の華やいだ空気も薄らいでくると、大学でも授業が再開され始めました。もっとも僕は大学に通う事が出来なくなっていました。僕は集団の権力の無意味さを知ってしまった以上、部室に屯することもなくなりましたし、何よりも自然の権力の残酷性を知ってしまい、外を歩く事すら難しい状況に陥ったのです。自然の権力を持たぬ者程辱めを受ける存在はありません。その存在自体が既に恥というものです。無言の嘲笑、侮蔑に晒されながら公衆の面前を歩けるはずもないのです。増してそれを自覚してしまった以上は…。

 晩夏には有終の美があります。草花は自己の心の弱さを投影したかのごとくか細い哀愁を得て、冷たい風に震える様になります。そういう街の様相が僕の心の底に氷片の如く清冽なほんのひとかけらの光の種を落とし、一層憂鬱になった朝の匂いがその萌芽を育みました。僕はいつしかある種の希望を持っていたのです。

(僕も自然の権力が欲しい)

時に攻撃性は夜明けの澄明の如く憧憬に転化する様でした。そもそも僕の言う自然の権力とは、後天的に取得したものであってはなりませんでした。従って僕のこの望みはあまりにも報われない望みに思えていたわけで、それはその時にも何ら変わる事はありませんでした。しかし自然の権力を擬似的に模倣する事が出来れば、それは自分に何らかの変化を及ぼすのではないかという希望が何となしに心の底からわき上がって来たのです。自然の権力とは、先天的に持って生まれた能力であれば何であっても構わない訳です。つまりその中で最も模倣しやすいものを選び抜く事が僕の喫緊の課題でした。その際にまず気をつけなければならない事は、手垢にまみれたものは良くないという事でした。例えば「頭が良い」という自然の権力があります。確かに先天的に頭の良い者はいます。しかし世の中にはそうでない者が殆どです。そういう者が勉学に励む事によって頭の良い者を懸命に模倣する訳ですが、問題はそういう者があまりにも多いが為に、却って頭の良い者、すなわち自然の権力の価値が損なわれているという事です。模倣者が多いと希少価値は失われるのです。そしてもう一つ意識すべきは、あくまで「自然の権力」に拘るべきであり、誤って「不自然の権力」を選び取ってはならないという事でした。芸術的才能などはその代表格でしょう。芸術という文化、つまり人間の作り出した不自然な環境の中でしか真価を発揮できない権力など自然の権力と呼ぶに値しません。それは美しさの欠片も持たぬ醜悪な権力です。社会的地位、名誉、富、その他諸々の俗にいう「権力」はこの類です。それでは自然の美しさを得る事が出来ません。

 結局僕が選出したのは、「肉体の美しさ」という自然の権力でした。「それこそ充分に手垢にまみれているではないか」という批判は分かります。しかしこれほどに「比較的」という言葉が許される分野があるでしょうか。基準がはっきりしない分、ある程度のところまで努力をすれば報われるのです。またこれほどに他人が判断しやすい分野があるでしょうか。初対面の人間でも自然の権力を感じ取れる分野はそう多くはありません。それに模倣者が意外にも少ないのです。確かに肉体の美しさを模倣する女はこの上なく多いです。しかしそれと違い男の模倣者は少ないものです。恐らく男は肉体の美しさで人生を左右される事が少ないと、一般的に考えられている為でしょう。しかしそれこそが盲点です。そう考えている男が多いという事は肉体の美しさに無頓着な男が多いという訳で、そんな中で差別化を図る事は容易いのです。まるで日本人の中では英語が話せるというだけで無条件に価値のある人材と見られる様に。ですからむしろ男こそ肉体の美しさを追求すべきでしょう。それに男も肉体の美しさで大いに人生を左右されます。それは肉体の美しさそれ自体によってではなく、それによって得た自然の権力を持つ者の自尊心によるものです。と言って僕には肉体の美しさを元来持っている訳ではありませんから、やはり模倣が必要なのです。そうして僕は大学の地下にある人気のないスポーツジムに通う事になったのです。蛍光灯の薄明かりがじめじめと照らすジムの室内は、まるで拷問器具の並べられた部屋の様でした。いつも二、三人の運動部の学生と見られる集団がいましたが、それ以外は大抵僕一人しかいませんでした。「模倣者が少ないであろう」という僕の目論みは当たっていた様でした。僕はそこで無心に身体を鍛え始めました。己の身体を傷つけ、再生する。この繰り返しで筋肉は大きくなります。僕の思考は自傷への背徳感と自然の権力への憧憬の間を絶えず往来し、一種のマゾヒズムに陥りました。

 そうして木の葉が赤く燃え上がる中、僕はジムに通い必死で身体を鍛えた訳ですが、何もそれしかやっていなかった訳ではありません。僕が家庭教師のアルバイトをしている事は前にも述べましたが、僕はそのアルバイトに一層明け暮れる様になりました。というのも、僕には金銭が必要であったからです。整形手術を行う為の資金です。僕は自然の権力を模倣する為であれば、手段など選んでいられませんでした。僕はそれ以上自分の恥ずべき存在を晒しながら生きていくのに耐えられなかったのです。

(何をやってでも自然の権力に近づいてやる。それが叶わなければ、僕に明日はない)

こんな事を絶えず陰鬱な秋の空に呆然と呟きながら、僕はその時を生きていました。自然の権力こそが僕の全てだったのです。

 これは余談ですが、当時の僕の銀行口座の暗証番号、自転車の錠の暗証番号、それは全て「0081」でした。どういう意味かって?それは「大きいおっぱい」の意です。下品だと思われますか?しかし誰にも推測されず、かつ絶対に忘れない番号となるとこれしか思い浮かびませんでした。つまりそれほどに僕にとって乳房は自然の権力の象徴でした。自然の権力が生活の全てであった当時の僕に、それが忘れられるはずがありませんでした。僕はアルバイト先に自転車で向かう時、銀行で預金残高を確認する時、この番号を目にする事で肚の底から温まる様な勇気を得ていたのです。


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