第八章
僕は部屋に戻って、あらん限りの想像力を駆使して妄想に耽りました。松井さんが排便する姿を執拗に想像していたのです。スローモーションの様にゆっくりと盛り上がった肛門、それがめくれ上がると、中からゴツゴツとした筋肉の様な便が長々と絞り出され、紅潮した顔は、眉間に皺が寄り歯を食いしばり、苦痛に歪んでいました。僕はそれを繰り返し反芻する事で彼女に人間的な醜さを演出させ、自然の権力を踏みにじっていたのです。しかしそれはあくまで想像上のものでしかなく、全く無意味な努力でした。そればかりか彼女の自然の権力を蹂躙すればする程、帰ってその権力の強まる一方である事を、僕はすぐに認識したのです。と言って僕はこの憎悪を諦める訳にはいきませんでした。例え権力が得られなくとも、自然の権力と言うこの残酷な代物を否定する事が自分の使命である様に思えたのです。僕は咄嗟に彼女の入浴姿を覗く事を思い付き、一人部屋を出ました。僕が毎日入浴していた男性用大浴場には大きな窓があり、女性用のそれも同じ造りであるならば、覗く事は造作もない事であると思われたのです。僕が大浴場の前まで歩いていく途中、不思議と誰とも会いませんでした。天のお導きを感じて、僕はそれに背中を押される様にそこまで突き進むと、女性用大浴場の入口の奥の突き当たりに、外に繋がっている出口を発見しました。そこから外へ出ると、外は闇で、轟音を鳴らすボイラーが熱風を放射していました。僕は熱風に煽られた埃を吸いながら、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣を払いのけ、浴場の裏に回りました。外は蒸し暑く、草むらは露をたたえ、土が湿っていました。草の葉が風にそよいで「卑怯者」と僕に囁いている様でした。しかしそれこそが僕の狙いでした。卑怯者に一糸纏わぬ姿を盗み見られ、その尊厳を奪われる。そしてその事を知らずに今後生きていかねばならぬ理不尽。自然の権力に対する冒涜としてこれほど快いものはありませんでした。僕は構わず裸足でそこを通り抜け大浴場の裏手に当たるであろう外壁まで辿り着きました。松井さんの白い身体が柔らかな湯に浸り、その実りを惜しげもなく晒す光景を想像し、僕は心臓の鼓動が高鳴るのをこの耳で聞きました。しかしどうでしょう。窓があると信じていたその場所には、白煉瓦が飄々と積み重なっているだけで、窓といった窓はどこにもありませんでした。頭上の換気扇だけが轟々と湯煙を吐き出し、そこに微かなシャンプーの香りを漂わせているだけでした。僕は落胆し、泥だらけになった足を洗う事もせずにうなだれて部屋に戻りました。間抜けにも僕はその間に体中至る所を蚊に食われていました。僕は何をする気力も失い、部屋で布団を被って眠りに落ちたのでした。
次の日、この日が合宿の最終日だったのですが、その日の夜は予想通り宴会になりました。と言ってもただの宴会ではなく、各々が楽器を巨大な防音室に持ち込み、そこで酒を飲みながら思い思いにセッションに興じる、音楽系サークルらしい宴会でした。僕はギターを持ち込み、酒を飲んでいたのは良いのですが、セッションにはなかなか参加できずにいました。僕はそれほどギターの腕に覚えがある訳ではありませんし、それ以上に人前で即興演奏する度胸がなかったのです。僕はスポットライトを浴びて好き放題に演奏する部員達の姿をただ呆然と眺めていました。セッションの中心には常に橋本がおり、一年生だというのに絶えず喝采を浴び続けていました。僕はさも自分がそこに立てない事を気にしていないかの様に、相澤と酒を飲み談笑し、時折舞台の方を向いては軽い拍手などを送っていたのです。「その他大勢」に紛れてしまった時程疎外感を感じる事はありません。権力を持つ者として舞台に立つ事が出来ないばかりか、権力を持つ者を肥え太らせる為だけに存在する群衆。そこには何の見返りも期待せずに敵に塩を送る者の自己欺瞞が蔓延しています。それで良いはずはないのですが、そうする事でしか自己顕示欲を満たせないのです。僕は談笑しながら、自分の存在そのものが無意味に思え、消え失せてしまいたいという欲求で体中を満たしていました。ところがそうした絶望は、時にある種の希望を与えてくれるものでもありました。普段では持ち得ない程残酷な攻撃性が、その時僕の中に宿っていたのです。勿論その攻撃性は以前から僕が有していた攻撃性と同種のものですが、それはまだ成熟しきっておらず、未だ成長期の段階にありました。つまりこうした絶望がその攻撃性を残酷性にまで至らしめたのです。スポットライトの光の当たらぬ薄暗い闇の隅で、僕は一層深い心の闇を宿していたのでした。
ところが、そうした時に、僕に声をかけてくれた先輩がいました。
「よお、見てばっかりじゃつまらないだろ。一緒にステージに上がろうぜ」
見ると僕の目の前には山上さんという一つ上の先輩が立っていました。僕が初めて部室に入ったとき、話を聞いてくれた眼鏡の先輩です。僕はこの先輩を密かに敬愛していました。日頃から僕の様な権力を持たない人物の世話を率先して引き受けている先輩でした。かといって松井さんの様に自然の権力を持つ者が他の権力に逆らって権力を得るというメカニズムを利用している人でもありませんでした。僕には山上さんの優しさこそ純粋な慈愛だと感じていました。僕には彼の様な生き方は出来そうにもありませんでしたが、彼を尊敬する気持ちは確かに存在したのです。僕は山上さんに促され、ギターを持っておどおどとステージに上がりました。その時です。
「俺、もう疲れたから」
とそれまで演奏に興じていた橋本が言い、ステージを下りたのです。橋本は疑いようもなく、僕と一緒に演奏する事を拒んだのです。橋本の目の奥に宿る権力を持たぬ者への侮蔑の色を、僕は見逃しませんでした。僕は合宿初日に橋本の優しさに触れたときの事を思い出し、同時に
(裏切られた)
という思いで一杯になりました。そして山上さんの一言で暫し鎮静していた攻撃性が再び蘇りました。しかしそうして繰り返し呼び覚まされる事によりその攻撃性が徐々に強くなっていく事に、僕は充足感を抱く様になったのです。日に日に成長する心の悪魔が愛おしくて止みませんでした。結局山上さんの機転で新しいドラマーを据えてセッションを行い事無きを得ましたが、僕の自然の権力に対する攻撃性はこうして事あるごとに強まっていったのでした。