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0081  作者: 北川瑞山
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第六章

 そのペンションについて最初に発覚したのは、温泉街にあるにも関わらず温泉が湧いていないという事でした。これには皆大変がっかりしていましたが、とは言え僕の興味はそこにはありませんでした。僕の視線の先には、常に松井さんがいました。食堂で食事をとる時、階段ですれ違う時、ロビーで寛いでいる時、とにかく松井さんが部屋の外を歩いている時は、その背後で僕が猫の様に目を光らせていました。彼女はいつも他の女子部員と連れ立って歩いていました。その一群は僕にとって権力というものの権化でした。彼女達の身体の隅々が僕と現実世界を隔てていました。現実世界から隔離された僕はその中に入っていく事が出来ず、彼女達の生き生きと健康的な様子が自分の不健康さを映し出しているようでした。朝日にきらめく彼女達の放つ光明の末端で、絶えず超えられない透明な権力の膜が存在し、そのずっと後方にいる僕の存在を絶えずかき消すのでした。そんな感触が、僕にとってある種の幸福であり絶望でした。そして何よりも、彼女達が惜しげもなく晒す権力の中核を成しているのは、やはり松井さんの胸元でした。Tシャツの中で絶えず過不足なく揺れてはぴたりと元の位置に収まる二つの肉塊の前では、周りの女子部員ですら霞んで見えました。目も開けられないその閃光と羞恥に、僕は思わずその場を離れた事も間々ありました。更に言えば、松井さんはファッションにはかなり無頓着でした。本当にどこにでもありそうなTシャツとジーンズといった出で立ちなのです。しかし余分な権力を纏わないだけ、彼女自身の権力は一層力強く前方へせり出しているのです。僕はいつの間にか、四六時中その残像に執着する様になりました。僕はいつしか部屋で布団を被り、その柔らかな余韻に浸っていました。しかしそんな僕を怪訝に思ったのか、相澤が声をかけてきました。

「おい、具合でも悪いのか?」

僕はいかにも気怠そうな声で、

「ああ、風邪を引いたかも知れない」

と殆ど機械的に答えました。僕はそれほどまでに一人になりたかったのです。集団の権力を死守しなければならないという危機感はその時の僕にはありませんでした。僕は既に、集団の権力など無意味だと気付いていたのです。ある集団に帰属したところで、その集団の中でまた複数の集団に細分化され、その繰り返しの末に結局権力の所在は個人に帰着します。つまり集団の権力など個人の権力の集まりでしかない訳で、それだけを求めたところで何にもなりはしないのです。僕は女の、とりわけ松井さんの持つ強大な権力を目前にしてそれに気付き、一人になりたくなったのです。

 しかし僕の意思に反して、相澤はなおも僕に話を振ってきます。

「そう言えばさ、聞いたか?一男ランキングの話」

「いや、知らない」

僕は素っ気なく答えました。すると相澤は苦笑いをしながらこう言いました。

「ある女子から聞いたんだけどさ。女子部員達が集まって俺たち一年生男子のランキングを作ってるらしいぜ」

「ランキングって、何のランキング?」

僕はその答えが薄々分かっていながらも、わざととぼけた表情を作って聞きました。

「何のって、まあ人間そのものの総合的なランキングだろうな。平たく言えば女子の人気ランキングだ」

相澤の言った事をもっと適確に言うならば、権力のランキングでしょう。その時、僕には先に述べた一夫一妻制の弊害が一層真実性を帯びて呼び起こされました。女は本能的には勝者に群がる習性を持つのですが、一夫一妻制によってそれが阻まれます。そこで苦肉の策として男の権力に序列を付け、出来るだけ序列の高い男を狙うのです。その序列は女同士で共有されていないと意味がありませんので、公に認められるランキングといったものを仲間内で作るのでしょう。相澤は苦い表情のまま言いました。

「それによれば、このサークルの男子部員は橋本を頂点としたピラミッドなんだとさ。なあ、陰険だと思わないか?」

僕は

「ああ、陰険だね」

と答えましたが、内心ではちっとも陰険だとは思いませんでした。むしろ女が可哀想だとすら思いました。国家の施策によって彼女達は生殖本能をねじ曲げられ、要りもしない男と付き合わされるのです。もっとも陰険だとは思わないにしても、醜いとは大いに思いました。自然の摂理に逆らう醜さでしょう。

「全く女ってのは何考えてんだか分かんねえよな」

相澤はそう言うとベッドに寝転がってギターを弾き始めました。僕はそんな相澤を尻目に、立ち膝になって出窓の縁に寄りかかり、外の景色を眺めました。虹色の日光を透かした窓ガラスが僕の視界を覆うと、その向こうに水しぶきを上げるプールが見えました。

(自然は美しい。知恵、つまり人工は醜い)

そんな言葉が僕の脳裏を過りました。自然の摂理に任せればそのような醜い争いが起きないものを、一夫一妻制などという言わば人工の生殖メカニズムを強制する事によってこれほどまでに醜く変貌してしまうのです。あろう事か世間ではそんな醜いものを「自由恋愛」等と謳っているのですから、目も当てられません。僕の意識は現実世界から次第に遠のきました。背景の山々が霞み、流れる雲を仰ぐ緑の大地をぼんやりと見下ろしながら、僕は考えていました。

(権力は自然だろうか?人工だろうか?)

権力とは人間本来の自己顕示欲によって求められるもので、つまりは本能から作り出されるものです。よって権力は自然である様に思えました。かと思えば、人工、つまり知恵によって作為的に象られる権力もある様にも思えました。例えば音楽が良い例です。音楽などというものは本来「音」という空気の振動の集まりに過ぎません。そんな何ら意味を持たない「音」を「音楽」足らしめているものは、やはり権力です。権力が「音」に意味付けをして、「音楽」にしているのです。例えば悲しい音楽を生まれたばかりの赤子に聞かせて、「悲しい」と感じる事が出来るでしょうか?それが出来ないとすれば、その音楽は何らかの権力によって後天的に「悲しい」という意味付けをされたものでしょう。他の例を挙げれば、ビートルズが無名のミュージシャンだったら、彼らの熱心なファンは現実同様に彼らの音楽を愛せたでしょうか?とてもそうとは思えません。ビートルズという権力に酔いしれている人は数多存在するに違いありません。つまり音楽は知恵によって作られた権力なのです。どうやら権力には自然によるものと知恵によるものが混在する様でした。

 その時、僕の目の前のプールに一際大きな水しぶきが上がりました。いつの間にか女子部員達がプールで遊泳していた様でした。その中にいた松井さんの存在を、僕の目は素早く捕らえました。彼女の白い肌は眩しい日差しを浴びながら、きらきらと光の粒を絶えず周囲に撒いていました。透明の雫を幾重にも滴らせた彼女の上半身が、水面の光の輪から突き出ていました。周囲のあらゆる存在が彼女に効果を集中させ、彼女の上半身を際立てているかの様でした。印象派の絵画のごとく甘美な風景が僕の脳裏を刺激し、僕の思考は内側からその美しさに支配されました。そして彼女の乳房の上半分は白く露出し水上をたゆたい、水面がそれに合わせて波紋を広げ、また彼女の乳房を隈取る陰影は、ゆらゆらと涼しげに揺れる光をたたえていました。それは他でもない、自然の美しさでした。

(自然の権力はこれほどに美しいものか!)

僕の心は躁状態に襲われ、身体には戦慄が走りました。一瞬の衝撃に僕の聴覚は奪われ、賛美歌の様な旋律が頭の中を駆け巡りました。薄暗い部屋の窓から、僕は神の世界を垣間見たのです。


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