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0081  作者: 北川瑞山
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第五章

 大学が夏期休暇に入ると間もなく、サークルの夏合宿がありました。新潟県のとある温泉街にある合宿所に一週間泊まり込み、そこで音楽漬けの日々を過ごすのです。無論僕にとってそれは大きすぎる試練でした。一週間片時も一人になる事が出来ないという状態は、一週間サウナに入り続けるよりも無謀に思えました。しかしこの試練を超えなければ、どのみち僕に未来はありませんでした。

 真夏の日差しが街路樹の木漏れ日となって路面を黄金に染める中、僕は魂の抜けた身体を引きずって歩きました。季節の色彩はいつも決まって僕を憂鬱にするようでした。憂鬱なのは何も季節のせいばかりではありませんでした。僕はあの日以来、僕に声をかけて来た女子部員の事が頭から離れずに、夜も眠れぬ思いをしていたのです。彼女は松井さんと言って、僕より一つ上の先輩でした。どちらかというと少し太めの体格で、大勢の中ではあまり目立たない地味なタイプの人でしたが、それがまた彼女の魅力を引き上げている様な気もしました。もっとも彼女についてそれ以外の事は全く分かりませんでした。僕は名前以外何一つ分からない女の為に季節の彩りを漆黒に染め上げ、幾晩も眼球を血走らせていたのです。

 僕はその頃、家庭教師のアルバイトを始めていました。サークルの活動にはあらゆる場面で金銭が必要であり、さすがに両親からの仕送りだけでは苦しくなって来ていたからです。派遣先は自宅の近くの倉持さんというお宅で、中学二年生の生徒さんでした。僕は週に二回このお宅に自転車で通い、英語、数学などを教えていました。僕は倉持さんのお宅に伺う時は、あまり恐怖を覚える事はありませんでした。自分が何者であり、何の為にそこにいるか限定されている時には、僕の恐怖は鎮静する様でした。恐らくはその立場の権力を背負っているからでしょう。生徒さんは英治君と言って、とても素直で努力家の生徒さんでした。僕は英治君とすぐに打ち解け、特に何の問題もなく授業を行っていました。しかし英治君には申し訳ないのですが、僕は授業の最中も絶えず松井さんの事を考えていました。考えると言っても、僕には松井さんを手に入れたいという様な欲求はありませんでしたから、ただ思い出すだけに止まりました。あの時の彼女の行動の不可解さをどう説明して良いものか、思考の闇を右往左往していて、結局これと言った答えが出なくなると、決まって最後にはあの白く垂れ下がった乳房に思いが至るのでした。二つの肉塊が持つ妖艶な権力の味を脳髄の先端で味わっていると、世の中の善悪を超越した美の象徴を体内に宿した心持ちで朦朧とした幸福感を得られました。ただその造形に少しでも手を伸ばそうとすれば、一瞬のうちに嘔吐が僕の臓腑を迸るものですから、僕は月を見る様にただそれに酔いしれる事しか出来ませんでした。

 ともかく僕はそうして何とか夏合宿の資金を稼ぎ、それに参加する事になりました。出発当日、僕は集合場所の大学付近で、相澤という友人に出会いました。

「岸本、お疲れさん」

このサークルでは疲れてもいないのに「お疲れ」というのが挨拶の慣例になっていました。

「よう、お疲れ」

僕は一人で集合場所に到着する事を免れた事に安堵しました。集合場所に一人で到着すれば、そこから一週間ずっと一人でいる事になりそうな気がしていたのです。相澤は僕に比べてとても大きな荷物をボストンバッグに詰めて持っていました。

「大分大きな荷物だね」

僕は何気なく相澤に言いました。

「ああ、何せ一週間だからな」

相澤の口から出た「一週間」という言葉が、僕を打ちのめしました。恐怖とも期待ともつかぬ、漠然とした悪辣な感情でした。時間の概念とは他人の口から聞いて初めて具体性を帯びる様でした。僕はそれ以降相澤と口をきく事もなく集合場所に到着しました。集合場所には既にバスが止まっており、その付近には沢山の部員が群れをなしていました。複数の群れは相変わらず権力の構造をそのままに成していました。僕は点呼係に出席を告げると、乗車前にトイレを済ませようと逃げる様にそこから離れました。暫くして僕がそこへ戻ってくると、既に群れはバスの中に乗り込んでいました。僕がバスに駆け込むと、既に殆どが着席しており、僕はやむなく空いている席に座りました。隣には橋本が窓の外を見ながら座っていました。この権力の塊の様な男の隣に誰も座っていないのが、僕には意外でした。が、すぐに理由は分かりました。一つにはその権力に気を遣いながら長い道中を辛抱する事の苦痛から逃れる為、もう一つには露骨に権力に媚びる姿を見せないよう、皆が譲り合っているうちに遂には誰も座らなかった、という事でした。権力を求める僕も、多分皆と一緒にバスに乗っていたら橋本の隣には座らなかったでしょうが、遅れて乗り込んで来た事で期せずして僕は権力の隣に座る事を許されたのです。

 サークルの一行を乗せたバスは、都心部を抜けて間もなく高速道路を走り出しました。僕はその間、橋本と一言も口をききませんでした。橋本は相変わらず窓の外に流れる風景を見ているし、僕は僕で特段話題もなく、それ以上につまらない事でボロを出してはいけないという警戒心から、橋本を一瞥する事すら出来ずにいました。が、僕が山々の稜線の限りなく広がる風景に見とれていると、ざわついたバス内の騒音が一瞬静かになりました。そのとき陰になった橋本の美しい顔の輪郭が微かに動いたのです。

「岸本君、ギターずっとやってたの?」

突然の一言に僕は周りの景色を忘れて、果敢に咄嗟の一言を探しました。

「うん、まあ少しね」

そのあまりにも気の利かない返答に、僕は自分の凡庸さを呪いました。

「ふーん、いつもどんな音楽聴くの?」

立て続けに橋本は僕に質問を投げかけてきました。

「まあ、色々と。最近はウェス・モンゴメリーとか聴いてるかな」

僕は恐る恐る言いました。僕には内容云々よりも声を絞り出すだけが精一杯でした。しかし橋本からは予想外の反応が得られました。

「へえ、ジャズ聴いてるのか。俺もジャズが好きなんだ」

橋本の口元は微かにほころび、静かにですが僕に嗜好を合わせてくれたのです。僕は飛び上がりたい程の驚喜に駆られ、心中歓喜の声を上げました。

「そうなんだ。でも僕はそんなには詳しくないけど」

僕は要らぬ謙遜をして、口から自己の飛び出すのを抑制しました。

「ああ、そうか」

と橋本が言うと、そこで会話が終わってしまいました。橋本とはそれっきり会話がありませんでしたが、僕はこの権力の化身に今まで持ち得なかった好感を抱く様になりました。僕はゲイではありませんが、この男に抱かれるところをすら想像しました。権力を注入される妄想は決して悪い気持ちのするものではありませんでした。僕は女の気持ちがこのとき少しだけ分かった様な気がしたのです。

 目的地に着くと、サークル一行はぞろぞろとバスを降り、思い思いに歓声をあげたり、伸びをしたりしました。僕もバスを降りると、その風景の美しさに目を見張りました。僕らが宿泊する真っ白なペンションは山肌の高台に位置し、快晴の空に雲を纏って突き出た山々の頂を丁度目線の高さに臨み、その間を縫う様に黄緑色の平地が流れていました。手前には長方形のプールがあり、青い水底とプールサイドに水面の光を揺らしていました。僕は先ほどの出来事とこの風景に励まされ、少しだけ一週間を乗り切れる勇気がわいてきました。その後僕らは各々に割り当てられた部屋に入り、荷物を置きました。部屋は五、六人の相部屋であり、やはりこれも権力の構造を如実に表していました。僕は相澤を含め五人の部屋でしたが、上級生や女子部員が宿泊する建物とは別棟であり、隔離された場所でした。僕も頑張ってはいましたが、僕の権力などたかが知れている様でした。勿論橋本はその部屋にはいません。きっと部長や副部長の集う幹部部屋にいたのでしょう。まあそれは良いのです。僕はこのサークルで権力を得る事が目的ではありませんでした。そういう生活に慣れる事が目的でしたから。かくして、僕の苦悩の一週間が始まったのです。


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