第二章
思えば、権力に従う事はそれほど難しい事ではないはずでした。それは僕であっても無意識に行っている事だからです。例えば大学に入学したのも学歴という権力を得る為に大学という権力に従った行為でしたし、第一全く権力に従っていない人間であるならば、街を裸で闊歩しようが、通りすがりの女を群衆の前で犯そうが、それこそ電車内で痴漢行為を行おうが構わなかったはずです。僕がそれをしないのは国家権力に従っているからに他なりませんでした。人は国家権力に従って初めてその国の人間として生きる権利を得るのです。つまり権力に従う事は生きる為に必須の事であり、何も悪い事ではないのです。むしろ権力に従わない事の方が「悪」と呼ばれて然るべきなのです。しかしそういう考えが僕の胸の内で反復される度に大きくなっていき、次第に権力の存在を素直に認めてこなかった、すなわち「悪」であった自分が集団の中に入って突然何食わぬ顔で「善」の顔を出来るのか、不安になりました。そのせいか、その日大学に行く道のりはとてつもなく遠く感ぜられました。
大学の敷地の隅っこに、薄汚いぼろぼろの建物がありました。その建物こそ大学内のサークルの部室が集まる建物だったのです。建物の周りには樹木の枝葉が鬱蒼と覆い被さり、淀んだ色の外壁にはスプレーで落書きがされており、割れた窓ガラスがガムテープで修復されている様な、人間臭い、とてつもなく恐ろしい建物でした。果敢にも、僕はそこに一人で入っていったのです。例え僕が監獄に収監されたとしても、この時程の震えを催さなかったと思います。しかしそう言う意思に反して、僕の足は前へ前へと滞りなく進んでいきました。立ち止まればどんな視線が僕を襲うか知れなかったからです。建物の中は蒸し暑く、砂埃だらけの狭い廊下を蛍光灯の明かりがチカチカと瞬きをする様に照らし、その両側にいくつもの部屋が並んでいました。僕が部屋の前を通り過ぎる度に学生達のはしゃぐ声が聞こえ、それがこの建物により陰鬱な様相を付加していました。目的の部屋は、その廊下の奥の方にありました。部屋の前には「音楽同好会」と書かれた大きな看板が立てかけてありました。都合のいい事に、その部屋のドアは開け放たれていました。もしこのドアが閉まっていたら、ノックをして中に入る勇気は僕にはなかったでしょう。事実、僕は開かれたドアの前に立つ事が出来ず、引き返そうかと思っていました。しかし立ち止まって躊躇する僕の姿を部屋の中の者に見られてしまったら、話しかけられてしまうかも知れない。あるいは好奇の視線を注がれてしまうかも知れない。そういう危惧が僕の背中を押し無理矢理部屋の中に押し込んだ形で、僕はいつの間にか部屋の中に立たされていました。部屋の奥にはテレビゲームに興じている小柄な男がいて、その手前には読書をしている眼鏡をかけた男がいました。
「すみません、入部希望なんですけど」
僕は殆ど自我を忘れてこう口にしました。すると手前の眼鏡の男が気さくに対応してくれました。
「ああ、ほんとに。まあ座って座って」
彼は笑顔でそう言ってくれました。それを見た僕も慌てて笑顔を作りました。顔の筋肉が軋む様な感覚でしたが、笑顔という権力に誰も逆らえない事を僕は知っていたのです。
「ここには誰か知り合いがいるの?」
「いいえ、この間広場でやっていたステージを見て」
それは勿論僕が嘔吐を催したステージでしたが、あのステージに現実世界の縮図を見て僕がそこにやって来た事は嘘偽りのない事実でした。
「そうか。楽器は何かやってるの?それともヴォーカルかい?」
「ギターを少しやった事があります。殆ど素人ですが」
「ギターか。ここにはね、全く楽器を触った事のない人も入ってくるんだ。心配しなくて良いよ」
彼は極力僕を入部させたがっているようでした。どうせ一人入部するごとに入部費などと言って金を取るつもりだろうと、僕は推測しました。事実そのずっと後で入部費として五千円、部費として月に千円取られる事を告げられたのですが、この時の僕にとって金の事などは大した問題ではありませんでした。僕はその後すぐに入部の意思を伝え、正式に入部することになりました。入部に際して、何も複雑な手続きはありませんでした。口頭で意思を伝えるだけで、僕の用事は済んでしまったのです。僕は帰り際、
「それでは失礼します」
と言って、やはり笑顔で深々とお辞儀をして退室しました。愛想が良く礼儀正しいという性質ほど手軽に得られる権力はありません。僕はそういう権力を振りかざす事で、一人の人間として扱われる事が出来たのです。しかし部屋を出た後、僕は一目散に廊下を走り、トイレに駆け込みました。そして便器の中に勢いよく嘔吐したのです。僕は物理的には権力に追従する事が出来ましたが、精神的にはまだ不慣れであったようです。僕は自分がこれから無事に集団生活を送っていけるかどうか心配しながら、しかしそれでいてある種の興奮を味わいながら、洗面台で口の周りを洗っていました。ふと見上げた鏡には、現実世界、すなわち「善」に一歩近づいた「悪人」の虚ろな目、下卑た笑みを浮かべる口元が映っていました。