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0081  作者: 北川瑞山
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第十五章

 僕は以前の様に、繁華街を放浪する生活に戻りました。もう僕の心中には自然の権力を追い求める気力はどこにもありませんでした。その脆さを知ってしまったからです。本来的に絶対の存在である自然の権力は、社会環境や経済環境など、人間の作り出した所謂「世間」というものに簡単に屈服し、ひれ伏してしまうのです。それは百獣の王であるライオンがひ弱な人間の網に捕らえられ、檻に閉じ込められる様に不自然な倒錯でした。人間の知恵は自然の力を超えてしまったのです。そればかりか、知恵は自然を支配し、利用するまでに至っています。この街には檻に閉じ込められた自然の権力に値札が貼られ、それが金銭に変えられる事があたかも自然の理であるかの様に振る舞う欺瞞が満ちあふれていました。僕は自然の権力があっけなく商品になってしまう貨幣経済というものの残酷さを呪い、その内にそれを利用してやろうと考える様になりました。

 ある冬空の晴れた日、僕はある繁華街の一角にある風俗店に入りました。無論そのような店に入るのはそれが初めてでした。店の階段を恐る恐る上ると、むせ返る様な香水の香りと共にいかがわしい笑顔を浮かべた男達が出て来て、部屋の奥に僕を案内しました。部屋には数多くの女達が前屈みのポーズで撮った写真が並べられていました。自然の権力は小さな額縁に収まって、卑屈な笑みを浮かべていたのです。その笑みは本来必要のない物であり、専ら金銭の獲得の必要性に強要されたものである事を考えると、陰険な自虐性を帯びて見えました。僕は松井さんの幻影を探しました。その容貌、髪型、体型などなるべく松井さんに似ている娘を指名し、金を払い、ホテルの場所を丁寧に案内されました。店を出て街の往来に立つと、そこに水商売風の若い女達が性的なファッションに身を包み歩いていました。僕が彼女達に触れれば何らかの社会的制裁を受ける事でしょう。例えそうでなくとも、彼女達自身が何らかの抗議をしてくるに違いありません。とにかく触れる事のできぬその強大な女の権力。それを僕は金銭を支払う事でいとも容易く触れる権利を得たのです。金銭という不自然な醜い権力で、女という自然の権力を支配する事は物悲しい歓びでした。決して侵される事のない聖域に、その資格のない者が横柄に土足で上がり込み、大いに汚していく事が許される悲しさ。それは今しがた女を買った僕をして不条理を感じて止まない悲しさでした。

 目的の小汚いラブホテルに着くと、僕はフロントで無愛想な管理人に部屋代を払い、部屋の鍵を渡され、エレベーターで目的の階にまで上がりました。僕があてがわれた部屋番号のドアを探していると、僕のすぐ横の部屋からこのホテルの従業員と見られる小柄な老婆が汚れたシーツの入った袋を手に下げて出てきました。その表情は疲れきっており、もはや手入れをしていないであろう白髪は乱れ、シミだらけの黒ずんだ皮膚は皺がたるみ、女の権力などは欠片も残していませんでした。女の権力は時と経るに連れ衰え、やがてはその面影すらなくしてしまう様でした。その時を見据え、女は自然の権力を持つうちに、男の持つ変質しにくい不自然の権力を取り込む事に血道を上げるのでしょう。所謂結婚という儀式がそれです。結婚など大いなる枕営業と言うべきでしょう。そのメカニズムから漏れてしまった女が、やがては自然の権力も不自然の権力も失い、悲惨極まる結末を迎える事は想像に難くありません。一夫一妻制により自然淘汰を免れた男は、一夫一妻制により取り残された女を見向きもしないでしょう。自然の権力とはともすると貨幣経済に取り込まれ、かつ時限付きのバブルの様な、極めて脆弱な存在であるらしいのです。その脆さたるや、もはや憎む気も失せる程の儚さでありましょう。ただその儚さが故に強大な権力を持つとすれば、その上澄みだけ頂いてしまう男とは桜の枝を折って持ち帰る者の如く不届き者である事は間違いなさそうでした。そしてその不届きが男にとってある意味最も効率の良い生き方である事。そして自分も男としてそういう生き方を学ぼうとしている事。残酷極まりない様に思われた自然の権力も、それを利用する側と比べればただ哀れという他ありませんでした。僕はくすんだ色のドアを開けると、部屋に入って照明を点しました。そこは綺麗に掃除の行き届いた生活感のない空間でした。自然の権力を差し出す女とそれを貪る男を幾多も見てきた部屋。その欲望の交換の儀式を無表情に包含してきた部屋。そこは人工的な香りに満ち、感情を失った様な疲れきった薄明かりが灯り、粗末な内装はその部屋の目的の合理性、その残酷さを映し出すかの様に無表情な死の様態を晒していました。僕はその部屋のベッドに腰掛け、自然の権力を差し出す為だけに訪れる女を待ちました。彼女を待つ僕の気持ちは何だったでありましょうか?まるで空虚な、それでいて満たされた、死を待つ人間の気持ちでした。物事の始まりは終わりである様でした。自然の権力を享受する傍らで僕の何かが終わりを告げようとしている。それは春の訪れと共に通り抜ける喪失感と類似している様に思われました。しかし僕の春は歪んだ形で訪れようとしていました。そこには春雨が薔薇の幼い棘を包み込む優しさはなく、ただ無機質な、純粋な権力の授受があるだけでした。

 やがて廊下の方から鳴り響く靴音が近づいてくると、部屋の前でぴたりと止まり、部屋のドアがノックされました。その瞬間、無意味なこの部屋の壁面が一つの目的を持つ戦場の様相を宿しました。僕は立ち上がると、恐る恐るドアに近づき、ドアノブに手を伸ばしました。覗き穴は故意に塞がれ、事前に外に待ち受ける女の顔を確認する事は出来ませんでした。ドアノブにかけた手を震わせて運命を待ち受けるこの瞬間の儚さを慈しんでいると、二度目のノックが眼前に響きました。僕は慌てて一気にドアを開きました。するとそこには一人の女の身体が差し出されていました。他でもなくこの僕に。その女はまるでそこに漂着した藻の様に平然と黒い髪を靡かせていました。

「初めまして」

女は恭しく礼をして、臆するでもなく部屋に踏み入れました。その挙動、容貌、声の質感は驚く程松井さんを思わせる何かを纏っていました。と言ってもただそっくりであったという事ではありません。単なる類似性を求めるのであれば、文句の付けようはいくらでもありました。ただその権力の様式は女という、松井さんを筆頭とした権力者の形式に他なりませんでしたし、僕の認識を通してその女を見れば、まるで松井さんの残像がその女を象っている様に見えてなりませんでした。僕はその認識を疑うでも正すでもなく、懐古の眼差しで愛しく包み込みました。松井さんが屈んだ隙に盗み見た白い権力の曲線、夏合宿で見た近づく事の許されぬ澄輝。学園祭の夜に人知れず覗いた谷底の匂いやかな闇。それらが今こうして僕の前に差し出され、蔑視の欠片も見せずに対等に位置し、僕の存在を許容しているのです。初めて人の世に生まれて来た感触は母体を突き破った歓びとなって僕を高揚させました。それはあの女子部員から誘いを受けた感触と似ていました。僕はこの暗く湿った小さな人工の部屋の中でのみ人間としていられたのです。そこには存在の恥ずかしさは一片もありませんでした。僕と女は二、三言の社交辞令をかわしてから裸になり、連れ立ってシャワールームへ入りました。

 そこで僕は女の掌で身体の隅々を洗われました。ボディーソープをふんだんに塗った女の手は僕の身体の表面を心地よく滑っていきました。その微かな摩擦は感覚的な快楽に過ぎません。何より僕を恍惚とさせたのは女の掌の皮膚でした。その世にも高貴なありがたい細胞の襞が僕の下劣な皮膚に傷つけられ、その細胞の粒子を僕の身体に残して過ぎ去っていく事。僕は既にその時女の権力を全身で浴びていたのです。

 僕と女はシャワールームを出ると、ベッドに横になりました。女は仰向けになり、露になった波打つ肉体の隅々が僕の視線を浴びる事を黙認していました。湯気の立つ様な女の肉体の生々しさがベッドの白いシーツに沈んで、何かの儀式の様に神聖な印象を僕に与えていました。部屋の薄明かりが壁面に映し出す僕の影が少し動きました。殆ど同時に僕はその女の乳房を鷲掴みにしました。僕の手で制しきれない程の豊満な乳房は僕の指の間からその存在を主張し、僕の加えた圧力を嘲る様に形を変えてその質量を保っていました。僕はそのたゆたう液体の入った白い皮膚の袋の感触を掌で味わい、指先で戯れました。柔らかな権力の象徴を弄んだのです。

 そうして僕が女の乳房を揉み続けて暫しの時間が経ちました。僕は自分の身体の血の気が失せるのを感じました。何とも惨めな事に、僕の初めて女の乳房に触れたときの感動と高揚は次第に薄らいできたのです!両手で制した二つの肉塊も、終いには単なる脂肪のかたまりとしか認識できなくなり、自分の尻の肉を触る事と何ら変わりのない無感動を僕に与えるのみとなりました。僕は焦燥を隠しきれず、息も絶え絶え、とうとう女を全身で抱きしめました。猫を拾い上げる様な気軽さで。腕を女の背に回し、足を絡み付け、ぴたりと全身を密着させました。全身で女の権力を感じようと努めたのです。僕は鼻先を女の髪に埋め、その香りを吸って女を認識しようとしました。女の香りは確かに僕の鼻腔を通り抜けました。しかしそれが僕の脳髄に辿り着く頃には、それは何の喜びももたらさず、ただの頭の脂の匂いとしか識別できなかったのです。僕が抱きしめたその容れ物は、魂のない空っぽの抜け殻でした。僕はふと芥川龍之介の『芋粥』の話を思い出しました。自然の権力とは、触れた瞬間に無意味と化し、引き付けた者を虚無へと突き落とす罠だった!その時、僕は強烈な吐き気を催し、シャワールームへと駆け込んで、嗚咽と慟哭の闇に葬られました。


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