第十四章
大学で後期の授業が修了し、定期試験までの冬期休暇に差し掛かった頃、僕は相澤と大学構内のベンチに腰を下ろし、沈痛な面持ちのまま沈黙を保っていました。薄曇りの冬空は寒々しく、殊に九州出身の相澤は肩をすぼめて身を震わせ、幾分か唇が紫色に変色し、普段の軽躁さは身を潜めていました。僕はそんな相澤の中に寒さのせいばかりではない、相澤の常ならぬ出来事を想像しました。僕はその日相澤に呼び出されてそこへ行ったのでした。
「俺さ…」
力なく呟く相澤の言葉の端に、僕は恐怖を禁じ得ませんでした。
「この間、松井さんに告白したんだよ」
僕はこの時、軽率な言動は慎もうと、言葉少なにいる事を決意しました。
「そうか…」
相澤は自嘲気味に結果を報告しました。
「惨敗だったよ。まあ仕方ないけどな」
僕は傷ついた友の心を労ってやりたい気持ちと同時に、安堵の念が湧き上がるのを感じました。いや、その安堵の念が為に友の心を思いやる同情の念が育まれたと言うべきでしょう。僕はそういう自分の心情をひた隠すべく、沈黙を守りました。相澤は物憂げに話し続けました。
「その時に松井さんと少し話をしたんだけどさ。前の彼氏への未練をまだ引きずってるんだとさ」
僕の気持ちは先刻まで持っていた安堵を忘れ、一転して血みどろに傷つきました。そしてそういう僕の心の変転に気付かぬまま、とうとう相澤は言ってはならない事を易々と口にしたのです。
「その前の彼氏っていうのが、山上さんらしいんだけどさ、あの人実はとんでもない巨乳フェチらしくて…」
その後相澤が何を話したのか、僕の記憶には全く止まっていません。僕は果たして、松井さんが処女である事を信じていたのでしょうか?恐らくそうではなかったと思います。松井さんが処女でない事くらい、僕は無意識のうちに了解していました。しかしながら然る汚辱が得体の知れぬ何者かではなく、あまりにも凡庸な隣人によって成されたものであった事に、僕は侮辱以外の何物をも感じ得なかったのでした。僕は時間も空間も超えて、自分の内面に逃避しました。僕が日々育んで来た自然の権力への憎悪の核心に自然の権力への憧憬があり、その更に中核には絶えず松井さんの存在があったのです。その存在に今まで気付かないでもなかったのですが、僕はその存在を認めようともせず目を背けてきました。それは仏閣の奥深くに秘められた阿弥陀如来の如く神聖な存在でした。それを平凡な男が欲望に任せて汚し尽くす有様を、僕は図らずも想像しました。崇高な美を曝け出されたその姿は単なる雌となって獣の充溢する欲望の前に差し出され、その思うがままに形を変えて一人の肉欲を満足せしめ、絶えず征服され、蹂躙される歓びに満ちていました。白き関門は一人の男を聖地へと誘い、そこへ続く階段を花の匂いとともに晴れやかに昇っていくのでした。それは正に地獄絵図でした。
(聖なる、無上の歓びを享受する資格が彼にあっただろうか?自然の権力、またはそれに匹敵する模倣の権力を彼は果たして持っていたのだろうか?その行為とそれによってもたらされる幸福がどれだけの人間を犠牲にし、不幸ならしめる事により成就しているのかを彼は知っているのだろうか?そしてその幸福の高笑いが人々を死の瀬戸際まで追いつめている事を知っているのだろうか?)
僕のその思いを嫉妬と呼ぶのであれば、嫉妬ほど敬虔な心情もないでしょう。僕のその狂おしい心情は昂ったまま冷める事を知りませんでした。僕は夜も眠れず、時折理由の分からぬ涙が滂沱と頬を伝い、その忘我自失のうちに、遂に僕は音楽サークルを辞退したのでした。