第十二章
学園祭は僕にとって徒労に過ぎませんでした。自然の権力の絶対性を認識した事以外には、何一つ収穫はなかったのです。しかし考えてみれば、あの夥しい不自然の権力の頂上に自然の権力の曙を目にした事は、僕にとって大きな事件であったかも知れません。その赤光の神秘性を認識するには、正にあれ以上の環境はあり得なかったと思います。その証拠に、あの日を境に僕の中には絶えずレクイエムが流れるようになっていました。僕の人生は終わったのです。自然の権力は僕の人生の外側で絶えず光の尾を引きながら旋回しており、僕はそれを指向することで生きていかねばなりませんでした。つまり僕は自分の人生の外側を生きていたのです。それは例えようもなく孤独でした。しかしその孤独には何にも代え難い忘我の喜びがありました。自分を忘れる程の価値の虜になれる人間は幸せだと僕は思いました。そんな人間が一体どれほどいるでしょうか。僕にはそういう盲目の喜びに満たされて、視界の中央を占める光を絶えず追いかけていたのでした。
冷たく肌を刺す風が冬の到来を予感させるある日、僕は貯金を崩し、整形外科に向かいました。「0081」の暗証番号を脳の網膜に焼き付ける事で、躊躇など胸奥から吹き飛んでいました。
小さな整形外科に入ると、暖房の効いた小綺麗な受付には二人の受付嬢がいました。二人とも明らかに整形を施している様でした。僕は受付を済ませて小さな個室の待合室に入ると、小さなソファーに腰をかけ、持って来た本を読みながら名前が呼ばれるのを待ちました。この手狭な一人の空間が僕にとってこれ以上なく居心地の良いものであった事は言うまでもありません。暫くすると、一人の看護婦がやって来て僕の顔を見て色々と相談に乗ってくれました。ちなみにこの看護婦も整形手術を施しているらしく、術後の瞼を裏返して僕に良く見せてくれました。話し合いの結果、とりあえず僕は瞼の脂肪を吸引、二重瞼にし、鼻にはヒアルロン酸を注射する事で鼻を高くしてみることにしました。僕は医師と話し合いをした後、手術室に案内されました。手術台に寝かせられて、目と鼻の部分に穴の空いた手術用のマスクを顔に被せられた時には、僕もさすがに緊張をしました。身体が小刻みに震え、肩が怒り気味でした。執刀医が気を遣って僕の肩を叩き、
「大丈夫。そう気構えなくても」
と声をかけてくれました。僕はそんな執刀医に更に気を遣って、
「大丈夫です」
と目で笑いかけました。
瞼の表裏に麻酔の注射針を刺されるときは、ピクッと身体が反応しました。瞼の裏側の神経は麻痺し、僕は自分が目をつむっているのか開いているのかも判然としなくなりました。しかしそれ以後はまるで朝飯を食う様にものの二十分程で手術は終了しました。
「はいお疲れ様。終わりだよ」
執刀医はそう言って手鏡を僕に手渡しました。鏡を見ると、自分の顔は心持ち余裕ぶった表情でこちらを見つめ返していました。瞼はくっきりと二重になっていましたが、酷く腫れ上がっていました。鼻は根鼻がすらりと高く持ち上がっていました。それが僕の新しい顔でした。
その後看護婦から説明を受け、腫れが退くまで腫れ止めと痛み止めを飲むように言われました。僕は医師と看護婦達に礼を言い、すごすごと腫れた瞼で整形外科を後にすると、喫茶店に入って冷たい紅茶を注文しました。酷く喉が渇いていたのです。僕は間接照明を揺らす店内で紅茶を一気に飲み干すと、窓の外を物憂げにぼんやりと見ていました。窓から見る新鮮な街の風景は見開かれた大きな瞳にすっぽりと収まり、それを映す僕の内面までが瑞々しくなった様な気がしていました。僕は自然の権力を模倣しました。僕が垣間見た神の世界。それを手にする事は出来なくとも、ほんの少し近づく事が出来たのです。僕の心を満足に至らしめるには、それで充分でした。