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0081  作者: 北川瑞山
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第十一章

 学園祭当日、僕は予想以上の嘔吐を催していました。集団の権力には慣れたとは言え、さすがにあれだけ大量の権力の連鎖を見せつけられてはたまりません。大学の敷地内はおびただしい数の畜群が犇めいていました。誰もが楽しそうな表情で僕の眼前を行き交うのは、もうそれだけで嘔吐の対象となりました。そもそも「楽しい」とは何でしょうか?誰かと一緒に集団を形成し、「楽しい」と言われている行事に参加し、その狙い通りに楽しい表情を作り上げる。そしてその気持ちを他人と共有する事で更に大きな集団の権力を得る。そういうサイクルを経て権力を指向する事が快い。それが「楽しい」という心理の正体ではないでしょうか。僕にはこの行事自体が「楽しい」という権力に向かって運航する大船の様に思えてならなかったのです。

 音楽同好会のライブ喫茶は実に閑散としていました。来訪者の立場に立ってみればそれは当然で、洞窟の様に得体の知れぬ真っ暗な部屋に好き好んで入る変人はそうそうお目にかかれるものではありません。部屋のせいばかりではありません。そこは空気の感触自体が排他的でした。その空気の源泉は他ならぬ権力の連鎖でしょう。権力のない人間がふらりと入っていけば、たちまちのうちに軽蔑、嘲笑の視線を浴びてしまいます。そんな空気が渦巻いているただ中に入っていける人間などいないに決まっています。また権力の連鎖は、外部の人間にだけではなく、内部の人間にとっても切実な問題でした。例えば権力を持つ者がステージに上がっている時、沢山の部員達が観客席に座って声援を送っています。とりわけ橋本がステージ上にいる時などは皆ステージの前列にかじりついて権力にすがろうとするのです。ところが、権力を持たない者がステージで演奏している時、誰も観客席に座ろうとしません。皆どこかへ消えてしまうのです。つまり観客席に座る人の数で権力の強弱が分かるのです。その為か部員達は常に権力に敏感になり、その殺伐とした空気でその部屋の隅々が張りつめていました。そのようなところに部外者が入って行けるはずもありませんし、第一部員である僕自身がそこにいる事で精一杯でした。

 夜の帳が下りると、賑やかだった学内も次第に閑散として、静けさが次第に滑らかな冷たい風と共にその場を支配していきました。閉店したライブ喫茶は、部員達の酒盛り場に変わっていました。煌々と蛍光灯の明かりの付いただだっ広い部屋に無造作に並べられたテーブルで、部員達は酒を酌み交わし、騒いだりしみじみと語り合ったりしていました。部屋の隅では、日中の疲労から早々に眠っている部員もいました。僕は部屋の片隅で、相澤と二人でビールを飲んでいました。僕らは秘密を共有した事で、より緊密な友情を結ぶようになっていました。友情とは個人の悩みを共有する事でより強固になるものの様でした。つまり友情とは極めて個人的で、図々しい集団の権力らしいのです。

「しかし体力的にきついもんだな。学園祭ってのは」

相澤は肩を落として言いました。

「精神的にもきついさ。これだけ賑やかな所に一日中いるんだからな」

僕は事実疲れきっていました。蛍光灯の澄んだ光が一直線にまぶたに重たく突き刺さる様でした。

「このきらびやかな世界が四日間続くんだ。舞台裏の人間にとっては正に地獄だな。ディズニーランドで働く人もこんな気持ちなんだろうか」

「まあこういうのが好きな人もいるんじゃないのか。俺らだって考えようによっては楽しくできるかも知れないし」

「考えようによればね…」

僕はそんなつもりではなかったのですが、相澤は明らかに松井さんの事を思い出している様でした。松井さんと丸四日間一緒にいられるというのは、相澤にとってこの憂鬱をかき消して余りある程のやり甲斐だったでしょう。ただ僕の中にも同じ気持ちが少なからず存在する事がその時認められ、僕はその事に嫌悪を感じました。自然の権力に対する膨大な憎悪の核心に、自然の権力への揺るぎない憧憬が存在し、それが絶えず見え隠れしているのでした。その存在を明らかにせず、ひたすら憎悪で塗り固めている分、僕の憧憬は相澤より悪質だったと言えます。

「ちょっとトイレに行ってくるよ」

と言って僕はその場を離れました。僕はそこら中でゴロゴロと転がっている集団の権力を縫う様にして部屋の隅にあるトイレに向かいました。そこで用を足し、元の場所に戻ろうとしました。その時、僕はふと部屋の隅の一角で、椅子に座って一人静かに眠る松井さんを見つけたのです。その場所は堆く積み重なるパイプ椅子に隠れて他の部員達の死角になっている場所でした。つまりこの閉ざされた空間には眠る松井さんと僕しかいなかったのです。僕は辺りを見回し誰も見ていないのを確認すると、一抹の罪悪感を感じながらも、そっと松井さんの寝姿に近づきました。松井さんに近づく度に、周りの空気が張りつめ、僕の下腹が言いようのない浮動感に冒されるのを感じていました。松井さんの襟の広く撓んだ黒のセーターを着た身体は、毛布に包まれて寝息に浮き沈みしていました。遂に僕が松井さんを眼下に見下ろす位置まで来ると、その身体の放つ甘美な誘惑の匂いが僕の鼻腔を刺激し、豊かな想像の内へと僕を誘いました。松井さんの子猫の様に眠るあどけなさの中に、僕はあの嘔吐さえも忘れる不変の価値を見出し、女の持ちうる権力の範疇を一杯に満たしたその求心力を恐れました。決して触れてはならない絶対の掟こそがその求心力の源泉でした。憂鬱と恍惚の間で生温かい曲線の美を堪能し、僕は歯が噛み合わず、口も塞がっていなかったと思います。僕はそっとかかとを持ち上げつま先立ちになり、美の造形に戦慄しながら漆黒の衣装と流麗な髪に包まれて光さえ放つ純白の胸元を覗き見ました。翳る谷間の奥に小さな黒子が秘められているのをその時に発見したのでした。僕の身体のあらゆる神経が麻痺した中、僕はその感覚の末端で秋晴れの日差しの様な柔らかな感触に埋もれました。つま先立ちの僕の身体は次第に大きな震えを催してきました。燃えかすの様な僕の理性が、僕が松井さんに向かって倒れ込まないよう、必死で僕を支えているのでした。自然の権力。憎んだ、心が枯れる程憎んだその自然の権力の象徴を僕はその時直に目の前にし、僕の意思次第では触れる事すら出来る位置にいました。感動という言葉を通り越して、僕の意識は生死の境界を彷徨いました。僕は攻撃的な視線をその青い静脈を浮かせた白い谷間に注ぎ込み、その舌先で二つの滑らかな城郭を嘗め回しました。ところがその奇跡の肉塊は微動だにせず、音も立てないで反発し、事も無げに僕の脳髄に向かって視線の矛先を跳ね返しました。それに貫かれた僕は心にある焦燥が湧き上がるのを感じました。それは嫉妬でした。自然の権力は僕の攻撃性をいとも容易く軽蔑し、僕の心を蝕み、その圧倒的な強さのほんの一角を見せつける事で自己の絶対性を証明してみせたのです。失望とか絶望とかそんな浮薄な表現ではその時の僕の痛みを捕らえる事は難しいでしょう。僕はその瞬間、酩酊のうちに死に値する程の情熱を込めてその場にひれ伏したのです。僕の頭蓋は床のタイルにぶつかり、その冷たさがために僕は地獄に堕ちた者の何もかも捨て去った安堵を催し、緩んだ口元で誰にも聞こえぬ様、密かな笑いを漏らしたのでした。

(自然の権力は絶対であった!僕の判断は間違っていなかった!)

僕は肉体の美しさを模倣する事の正当性を確信したのです。自分の中にわだかまっていた数々の議論を跳ね飛ばし、僕はそこに向かって邁進する事に決めました。


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