第十章
その頃、僕の所属するサークルでは学園祭の準備が始まっていました。お客さんに演奏を聴いてもらいながら軽食をつまんでもらう「ライブ喫茶」なる催しが企画されていたのです。これは一年を通してサークルの一大イベントでした。学園祭直前は朝から晩まで準備に勤しみ、当日は当日で四日連続大学に泊まり込んで活動を行うのですから、何も起こらずに終わるはずがありません。僕などは「学園祭」という名前を聞いただけで嘔吐を催しました。自然の権力とそれに群がる者共をまざまざと想像したからです。楽しいとか明るいとか、そういった印象の全ては僕にとってこの権力の連鎖に他ならないのです。何故楽しいのか?何故明るいのか?それを考えてみれば自ずと分かる事です。そういう印象の持つ権力をおびただしい数の人間が挙って求めているのです。心の底から楽しく、明るく過ごしたいと望んでいる人間が一体どのくらいいるのでしょうか。人間は皆憂鬱を抱えて生きているというのに。つまり学園祭というこの催しは僕の自然の権力に対する憧憬と憎悪をこの上なくかき立てるものであったという事です。
学園祭の準備というのは退屈極まりない肉体労働でした。普段は大学のラウンジとして利用されている何でもない普通の一室をライブハウスの如く仕立てるのです。部屋の全面が窓ガラスに覆われている部屋でしたから、黒い模造紙とガムテープで窓という窓を塞ぎ、部屋が真っ暗になる様に加工し、それからプラスチックのビールケースを積み上げてその上部に木の板を乗せ、ステージにしました。僕は部員達に混じって黙々とその作業に徹していましたが、その作業は日頃身体を鍛えている僕ですら辛い労働でした。他のひ弱な部員は推して知るべしでしょう。そんなにまで辛い労働の先に、部員達は一体何を求めているのか?それは「働き者」の権力です。部員は全員で五十人以上いましたから、一人くらいサボッっていても恐らくバレません。「体調を崩した」とでも言えば休む事も出来たでしょう。しかし誰もそうしないのは、「働き者」という権力にすがりたい自己顕示欲に駆られての事です。額に汗して働く姿は、紛れもなく「善」のイメージです。しかし「働き者」の権力は自然の権力ではありません。労働市場という人間社会が作り上げた「労働は尊い」という観念によって生まれた権力、つまり不自然の権力です。自然の権力を求める僕がその労働に従事する事は大層気力の要る事でしたが、現実世界で生き抜く為には多少の不自然の権力も求めなければなりません。「これも訓練の一つ」と自分に言い聞かせて、僕は笑顔を崩さず、快活に働き続けました。
ある日の舞台設営が終わり、僕がパイプ椅子に腰掛けて休憩していたときの事でした。その時はもう夜も更けていました。
「お疲れ。帰りに飯でも食っていくか」
見ると青白い蛍光灯の明かりの下で山上さんが立っていました。
「ええ、喜んで」
僕は反射的にそう言いました。僕もさすがにその時は疲れていて、一刻も早く飯にありつきたい様な状況でしたし、何より一人で飯を食う苦痛から逃れるにはこの誘いに乗る事が良策である様に思われたのです。
「誰か他の面子も連れてこいよ。二人だけじゃ寂しいだろ」
と山上さんが言うので、僕は近くにいた相澤を誘いました。そうして山上さん、相澤、僕の三人で近くの定食屋に足を運びました。
定食屋は大学の近くという事で、もう夜の十時を回っているというのに多くの学生で賑わっていました。皆学園祭の準備を終えた後なのでしょう。一瞬その中で一人ぽつんと飯を食う自分の姿を想像して、僕は身震いしました。やはり集団の権力が不自然の権力であるにせよ、現実世界においてはそれが必須である事を悟りました。ちなみに僕はこの頃にはこれしきの事では嘔吐を催さなくなっていました。日頃の訓練の賜物でしょう。各々の注文を済ませると、早速三人の前にビールが置かれました。僕らは乾杯をすると、労働の後の一杯を味わいました。
「いや、やっぱり一仕事終えた後はこれに限るな」
山上さんは口元を拭いながら威勢のいい声で言い放ちました。
「本当ですね。最高ですよ」
相澤が相槌を打ちながらそう答えました。僕は相澤の一言に同感しました。と言っても僕には労働そのものではなく、不自然の権力を求める事が一仕事だった訳ですが。
「ところで君たち、そろそろ好きな人は出来たか?」
突拍子もなく山上さんが言いました。学生の話し声でざわついた店内に一瞬の空白が出来た様に、僕と相澤は顔を見合わせました。その時ほんの一瞬だけ松井さんが僕の脳裏を過りました。しかしそれは「好きな人」と言うには限りなく遠い存在の様に思われましたし、第一自分が持ち得ない自然の権力を持つ松井さんを僕は嫌悪すらしていました。好きと嫌いは表裏一体とは言え、「好き」等と絶対に言ってはいけない様な気がしていました。
「いいえ、いませんね。残念ながら」
僕は苦笑いを浮かべながら言いました。山上さんは若干残念そうな表情を浮かべ、
「そうか、相澤はどうだ?」
と質問の矛先を相澤一人に集中させました。すると思いがけず屈託のない面持ちの相澤の口から純粋な答えが飛び出して来たのです。
「実はいます。片思い中ですが」
僕は他人を疑う事を知らぬ様な相澤の告白に感心しました。山上さんも僕もよほど信頼されているのか、それとも内に秘めておけない程に熱烈な思いを抱いていたのか。あるいは両方かもしれません。
「ほう、それは誰なんだ?」
山上さんは待ち構えていた様に顔を突き出して相澤に詰め寄りました。
(嫌なものを見てしまった)
僕は内心そう思いました。他人の秘密を暴こうとする時の人間の表情は卑屈この上ないものです。山上さんのそんな表情は正直見たくありませんでした。
「それは言えませんが、まあ意外な人だと思いますよ。何せ僕とあんまり接点がないですからね」
相澤は照れた様な笑いを浮かべながらそう言うと、ビールを喉の奥に流し込みました。その挙措には何か自白をし終えた人間の爽快さがありました。
「ほら見ろ、岸本。お前も相澤を見習え」
山上さんはあろう事かこんな説教を垂れる様になりました。恋愛沙汰となると人間誰しも醜悪な存在になるのかも知れません。それはそうです。恋愛などは一夫一妻制が強いた妥協の産物であって、それは他でもなく不自然の権力に追従する事なのですから。恋愛を語っている人間は、もしかするとこの世で最も腐乱臭のする汚物なのかも知れませんでした。僕はそんな思いをビールで胸の奥に押し戻し、
「いや、そう簡単じゃあないですって」
とこれまた卑屈な笑みを浮かべて答えたのです。
遅い夕食を済ませると、僕らは定食屋を出て帰路につきました。山上さんは大学の近くに住んでいるので、相澤と僕が電車に乗る前に別れました。静かな駅のホームで相澤と二人で電車を待っていると、相澤が不意に口を開きました。
「さっきの話だけどさ」
僕は相澤の方を向き、わざと
「さっきの話?」
と聞き返しました。何の話かは分かっていましたが、さも気にもとめていない様子を繕ったのです。
「好きな人がいるって言った話だよ。ここだけの話、俺松井さんが好きなんだ」
これは僕が一番聞きたくない言葉でした。自然の権力をこよなく愛する人間を、僕はまた一人知ってしまったのです。それはまるで外から自分を見ている様な気持ちの悪さでした。
「そうなんだ」
僕は嫌悪に顔が歪むのを恐れ、俯いて返事をしました。相澤は堰を切った様に話しだしました。
「確かに松井さんは目立たない存在かも知れない。だけど僕の様につまらない人間を気にかけてくれる。それにこの上ない優しさを感じるんだ。俺は今まで一度だってあんな人に会った事はない。世間の女は大抵男に序列を付けたがる。そして自分に取り込み可能な範囲で序列の高い男を見出す。それ以上の男には愛想を振りまく反面、それ未満の男はまるでゴミ同然の認識しかしない。ところが松井さんからはそんな視線を一切感じないんだ。何故なのか俺にもよく分からないけど、松井さんを初めて見たとき、積年の怨みが晴れた様な強烈な希望に襲われたんだ」
相澤の言う事はもっともだと思いました。が、僕は敢えて相澤に一般論をぶつけました。相澤がどこまで自分の認識と同じ道筋を辿っているか知りたかったからです。
「でもそれは男だって同じじゃないか。可愛い娘には愛想を良くするけど、そうじゃなけりゃ冷たくするぜ」
相澤はそんな僕の一般論を嘲る様に反駁しました。
「同じではない。男は結局誰でも良いんだ。機会さえ与えられればな。女はそうはいかない。量より質を重視するんだ。つまりそれだけ差別的という事さ。その違いは大きい」
(ご名答!)
僕は心中そう叫びました。男は交尾の機会が女よりも圧倒的に多いのです。例え少しくらい意にそぐわない場合であっても、交尾の機会さえ与えられれば喜んで飛びつく事でしょう。増して一夫一妻制の価値観がなくなった日には…。ただし、相澤はある一点において誤算を犯していました。それは松井さんが正にその論理をすら利用しているという点においてです。その論理を逆行する事により、より多くの権力を得られるということを、相澤は知らなかったのでしょう。その逆行の権力に絡めとられたのが他ならぬ相澤であるからです。従って相澤もまた「畜群」の一味に他なりませんでした。
「とにかく、この事はお前にしか言ってないんだ。内緒にしておいてくれよ」
「ああ、分かってる。応援するよ」
事実、僕は哀れな相澤がこれ以上傷つかない様、彼の人生を応援したい気持ちで一杯でした。そこへ銀色の電車が滑り込み、僕らを弱々しく映す窓ガラスが眼前に差し出されました。鉄の塊の様な冷たい苦々しさに包含され、僕らはそれぞれの恋を知ったのです。