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0081  作者: 北川瑞山
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第一章

 東京の空は、あの時と何も変わりありませんでした。僕が東京に来たばかりの頃、同じ様に真っ青で、それでいて曇った表情の空がビルの隙間から覗いていました。

「ごめんなさい…」

ふいに僕はそんな事を呟きました。街の往来には沢山の人が同じ表情で僕の横を通り過ぎていきましたけれども、その中で誰一人僕の孤独を癒せる者はいませんでした。思えばそれもあの時と同じでした。とにかく僕とこの街は何一つ変わる事なく四年の歳月を歩み、共に今日にまで至るのです。僕はその間に沢山の事をしてきたようで、その実は何もしていなかったのです。周りを傷つけ、傷つけられ、僕はその度に一喜一憂し…そんな事を繰り返してきました。けれどもそうした先には何一つ生まれていませんでした。虚しいとか虚しくないの話ではありません。この世にははじめから何一つ存在していないのではないかと、僕は強く思い始めました。僕が存在していなくても、この世は何も変わっていなかったと思いますし、それは全ての人や物についても同じ事が言えると思うのです。またそれを考えれば、今死ぬのも百年後に死ぬのも、大した違いはない様に思われました。そういう気持ちすら、あの時の僕と何も変わりありませんでした。

 四年前、僕は故郷の青森から東京に来て一人暮らしを始めていました。東京に来たのは、大学に進学するためでした。その頃の僕には趣味や特技といった他人に誇れる物は何もありませんでした。その上これから何をしたいとか何が出来るとか、所謂将来の夢や希望といったものも何一つなく、何に対して喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかすら一向に分からない有様でした。大学に合格した時は勿論喜びはしましたが、その喜びも五分と経たぬ間に消えてしまい、それどころか次第に何か大きな物に飲み込まれる様な不安さえ感じる様になりました。僕を見下ろす満開の桜は僕を一層不安にしました。その一瞬の美しさの中に、無常観と言いますか、何か悲愴なものを感じずにはいられなかったのです。やがては全てが無に帰してしまう。それが僕の人生に通奏低音の如く鳴り響いていたのです。そういう僕ですから、まともに他人と関わる事が出来なかったのは言うまでもありません。人ごみの中にいると、自分だけがぽつんと浮いているようで、一人でいる時よりもかえって孤独を感じました。大学の入学式の時など、大学生の群れを縫って歩く事がそれはもう恐ろしく苦痛で、見知らぬ人からサークルの勧誘の声をかけられる度に心臓の縮み上がる思いをしていました。そういう恐怖を取り除くため、僕はなるべく部屋に籠り、寝て起きて飯を食い、風呂に入り、それから少し音楽を聴き、また寝るといった自堕落な生活をしていました。もっとも大学の授業には真面目に出席していました。しかしそれだけで全ての時間を埋められるほど一日は短くありません。午前中で授業が終わってしまった日などは、そのまま家に帰り、まだ外が明るいというのに風呂に入り、布団にもぐってしまいました。そういう時は決まって真夜中に目が覚め、明け方まで時間をつぶすのに苦労したものです。

 朝家を出て大学へ向かうと、外はいつも決まってつんと澄み切った朝の匂いがしていました。その匂いは僕が幼少のときから感じていた匂いで、それはとても憂鬱な匂いでした。また一日が始まってしまう。そういう残酷な匂いでした。大学には電車で通いました。世田谷に住んでいましたので、小田急線を使っていましたが、朝の通勤ラッシュは凄いものでした。乗車率が百九十%を超えているらしいことを知ったのはごく最近の話です。ともかく体が宙に浮く様な人口密度の電車に乗って僕は大学に行きました。もっともこれは体力的には相当にしんどいものでしたが、精神的にはそうでもありませんでした。おしくらまんじゅうの様に詰め込まれて体の自由を奪われるというのは、何も考えずに他の人に寄りかかっていれば目的地にたどり着くという、不思議な安心感がありました。その上隣に女性が乗っていた時などは、こちらが何もしていないのに女性の方から乳房を僕の上腕に押し付けて来る事も珍しくありませんでした。勿論避けられる時は避けますが、そうもいかない時は知らん顔をして正面を向き続け、黙って下半身を硬くしていました。何せその頃は女性の体に触れた事もありませんでしたから。僕は痴漢行為こそした事がありませんが、潜在的にはそういう欲求を持っていたようでした。自己嫌悪など感じませんでした。僕が痴漢行為に及ばないのは道徳心からではなく、単に警察に捕まってしまうのが怖かっただけなのです。僕は夢も希望も持たないとは言え、無欲な人間ではあり得ませんでしたし、それでいて国家権力に楯突く反逆性も持ち得ませんでした。つまり僕は「無」よりも遥かに虚無的だったという事です。しかし本当に憂鬱を感じるのはむしろ大学に着いてからでした。大学生の群れの中に一人でいると、誰もが僕の方を見て嘲笑している様な気がするのです。無論誰も僕の事になど関心を向けていない事は百も承知でしたが、僕の経験上そうあってもおかしくはなかったのです。経験上、というのは、僕のそれまで歩んで来た人生全体を顧みれば、という事です。僕にはこれと言って長所もなく、その代わりに目立った短所もない人間でした。大勢の人間の中にいれば全く目立たない人間のはずなのですが、それでいて絶えず無言の嘲笑というべき空気を纏って生きていました。僕は存在感という存在感を持ち得ず、無色透明の存在でした。そんな透明な存在に容赦なく周囲の価値観が流れ込んでくるのです。それは空気に触れる様に遠慮のないもので、僕の存在など無視したものでした。それが僕にはこの上なく恐ろしく、ただ他人が流れ込んでこない様に壁を作って過ごすしかありませんでしたが、それでも四方八方から様々な得体の知れない個性が投げ込まれてくるのです。それは僕にとっては個性と呼ぶにはあまりに面白みのないもので、紋切り型のものでした。拒絶する理由など見当たらないほどに。ですが僕は自分の内面を何物にも汚されたくなかったのです。そういうある種狂人的な僕の弱さを嘲笑、あるいは軽蔑する視線が絶えず僕の周りには漂っていました。下を向いてそれを切り抜ける度に、僕は呟きました。

「ごめんなさい…」

大学にいる間も、それは変わりがありませんでした。授業中や大学の構内を歩いている時には勿論ですが、とりわけ昼食をとっている時などは、それが強かったと思います。さすがにトイレで昼食をとる気にはなれませんでしたので、携帯電話で話をしている振りをしながら片手で昼食をとった事もあります。それによって僕に浸食してくるものは少なくなる様に感ぜられました。僕の一日はともかく、そういう自己防衛の連続で成り立っていたのです。

 しかしそういった生活にも限界が訪れました。僕は大学から次第に足が遠のきました。僕は大学には行かず、近くの繁華街を放浪するようになりました。目的は何もありません。雑踏にまぎれて時間を潰す事が目的と言えば目的でした。そこでも僕は孤独ではありましたが、不思議と自分を浸食してくる者はありませんでした。そこでは誰もが僕と同じ様に壁を作って往来している様に感ぜられました。つまり僕はそうしている間、無になる事が出来たのです。ただそうしている間にも、人々の笑いや、群れをなして歩く人の塊、その他様々な騒音が僕の神経を度々摩耗させました。僕はその度に目を閉じ、耳を塞いで、その吐き気に耐えていたのです。と言って僕は一人の部屋にいるとたまらなく孤独を感じ、そこにいる事が出来なくなってしまいますので、繁華街が僕の居場所としては適当であったようです。そうして僕は認識される事を恐れ、暫くの間群衆に身を隠していたのです。

 そうして街を彷徨っているうちに、僕は虚無感を味わう様になりました。元々僕は何も持ち得ず、何も思わず、何も出来ない空虚な人間でしたが、それが当たり前であっただけに虚無感すら抱いた事がなかったのです。ですからむしろこうした虚無感が僕の心に発生した事は、僕にとって積極的な心の動きであったと言えると思います。その証拠に、僕には次第に「何か目的のある行為をしなければならない」「どこかの集団に帰属しなければならない」というごく当たり前の欲求が湧いてきつつあったのです。とは言えそういうあまりにも健全な欲求に対して、僕にはなす術もありませんでした。僕は相変わらず朝家を出てから街を徘徊し、夜になると孤独の待ち受ける部屋に戻るという暮らしを送っていました。

 そうして僕が大学に入学して三ヶ月も立つと、大学では定期試験が行われる時期になりました。その直前くらいはさすがに授業に出なければならず、僕は仕方なく、沢山の大学生で賑わう大学構内を相変わらず俯きながら歩き、授業に出ていたのです。その頃になると、周りの学生も大方の交友関係を結び終えたと見えて、大抵の学生は集団で行動をしていましたから、僕は一層孤立した存在になっていました。僕はそんな自分が恥ずかしく、ただ恥に耐え忍んで、自分の一挙手一投足に注意を払いながら、誰からも罵られないよう、誰からも嘲られないよう、必要最小限の、無駄のない完璧な所作を心がけていたのです。

 そしてある日、僕がいつもの様に大学構内を俯きながら歩いていると、中央広場の辺りでとんでもない騒音の群れに出くわしました。僕が恐る恐る顔を上げてそちらを見てみると、何やら広場の奥に特設ステージが組まれ、そこには楽器を持ったバンドマン達が、よく分からない音楽を演奏しているのです。そしてそのステージの下には、彼らの音楽仲間と思しき集団が歓声をあげながら両腕を高々と空に突き上げ、時折バンドマンの名前を叫んでいました。私は思わず嘔吐しそうになりました。そこにいた権力を持つ者と自己顕示欲に駆られてその権力に従う者の構図は、僕が最も恐れていた現実世界の縮図でした。自己顕示欲、それは他ならぬ権力を得る事によって満たされる欲求ですが、それを満たす為に人は権力に従います。そうして上手く権力に従えたものほど大きな権力を手にし、そこにはまた同じ様に自己顕示欲を持った人間が大挙して寄りすがります。現実世界は全てこの連鎖で成り立っています。そしてこの連鎖から漏れてしまった人間は生きる事が大層難しく、どうやら僕はこの連鎖に乗る事が出来なかったようなのです。僕は友情や恋愛などといったものを信用できた試しがありません。こうしたものは全てより大きな権力を得んが為の口実であるからです。僕の周りの人間が群れを成しているのも、集団という権力を形成する為のものなのです。そうであるからこそ、僕の様にいつも一人でいる、つまり権力を持たない弱者は軽蔑や嘲笑の視線を浴びるといった訳です。ともかく僕はそんな権力の連鎖を目の当たりにする事、そして何よりもそれが大空に響かんばかりの大音量で自己主張している事に、嫌悪を通り越して嘔吐を催したのです。僕はその日逃げる様にして家に帰った事を覚えています。その道中で何があったか覚えていないくらい必死で逃げました。しかしそれは自分よりも醜いものから逃げたのか、自分より崇高なものから逃げたのか判然としませんでした。いずれにしてもその触れる事の出来ぬ恐ろしさから逃げ出した事は確かです。僕は部屋に戻ると布団を被り、そのまま寝込んでしまいました。それから暫く大学に足を向ける事が出来ませんでしたから、僕の定期試験の結果は惨憺たるものでした。

 僕は次第に自分の将来が闇に包まれていくのを感じていました。このままでは自分はまともに生きていく事すら出来ない。現実世界に混じってしまう事はたまらなく恐ろしいのだけど、かといって自分の内面に引きこもったままでは外部の世界と折り合いをつけて暮らしていく事が出来ない。僕はそれが不安でした。「何か目的のある行為をしなければならない」「どこかの集団に帰属しなければならない」と、以前よりも強くその必要性を感じる様になりました。それは他ならぬ権力の連鎖に従う事であることは理解していましたが、そうまでしても何とかして現実世界に潜り込める機会がないものか、僕は考えねばなりませんでした。そうした苦悶の末、ある結論に辿り着きました。どうせなら、権力の連鎖に徹底的に従って、そこで生きる訓練をしてみよう。権力の連鎖に慣れ親しんで、それが空気を吸う様に当たり前になれば、きっと自分も現実世界で生きられるに違いない。それはどんな学問よりも役立つに違いない。そう思い至りました。そしてその為に、僕は敢えてあの日見た音楽系サークルに入る事にしたのです。僕にとってこの決断は全く不自然な事ではありませんでした。人間として生きる為の具体策が見つかった事に、僕は希望すら感じていました。僕には父親から譲り受けたエレキギターがありました。趣味と言えるほど弾ける訳ではありませんでしたが、簡単なコードくらいは弾く事が出来ました。そのとき僕にはその古いギターが、自分の内面世界と現実世界とに架かる橋の様に思えたのです。


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