人それぞれを学ぶ。アナタはアナタで、ワタシはワタシ。 異なることを否定しない。
誰かと同じである必要はありますか?
「異なること」=「悪いこと」ではないはず。
「ひとそれぞれ」
「十人十色」
「三者三様」
「百人百様」
「人はみな異なる」という意味の表現は、たくさんある。
人でなく動物・植物でも、
一頭ずつ、一匹ごと、1本それぞれ異なるもの。
みんな同じである必要はない。
子供の頃から
その考えは変わらない。
そんな子供にとって世の中は、
息苦しくて、窮屈で、いやなことばかり。
子供と言われる時代から、
長い歳月が経ったけれど、
ありがたいことに、
長い物には巻かれずにすんだ。
「人それぞれ」
今でも、変わることなく
心地いい言葉だ。
現実では、「人それぞれ」を分かっていない人の方が圧倒的に多い。
多勢に無勢とは、まさにこのこと。
全面勝利と言えるくらい。
私は、圧倒的少数・超マイノリティー・Away、
これはいつものこと。
むしろその方が心地よい性分なのだ。
三つ子の魂百まで。
ことわざは、いつでも真理を照らす。
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分かっていない人というのは、
いつも自分が正しいと思っている。
だから、他者の考え、やり方、好みを否定する。
「おかしい」
「変だ」
「キライだ」
真っ向からそんな言い方をする人が多い。
何が辟易へきえきかというと、
厄介なことに、そういう人たちは強制してくるのだ。
ものすごく迷惑をかけるわけではないなら、
そっとしておけばよい。
好き・嫌いは、
まったくもって「人それぞれ」なのだから。
甘いものを好きな人もいれば、
キライな人もいる。
至極あたりまえのこと。
甘いものをキライ=甘いものをスキな人を否定している、
そういうわけではない。
甘いものをスキ=甘いものをキライな人を否定している、
というわけでもない。
「好みは人それぞれだよね」
そんな風にサラッと流せば平和でよいと思う。
「甘いものがキライなんてあり得ない!」
「こんなおいしいものを食べないなんて、おかしい!」
そんな風にムキになって、
否定する必要は全くないわけだが、
残念ながら、そんな人が多いのが現実だ。
逆バージョンもしかり。
「甘いものがスキなんて変だよ!」
「あんなものを食べるなんて理解できない!」
否定合戦をしたところで、
いいことはなにひとつない。
否定合戦の結末ー
それは、お互い気分が悪い、
そんな最悪の事態に。
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私はお刺身やお寿司のような「生もの」が苦手だ。
子供のころから変わらない。
ウニやイクラを食べなくても、
生きていくうえで、なにも支障はない。
甘エビやカキを食べなくても、
私の人生に何も悪影響はない。
しかしながら、今までの長い人生で、
数えきれないほどの「おせっかい発言」を浴びてきた。
「こんなおいしいものを食べないなんて、
人生の楽しみを知らないってことだよ」
「ウニが食べられないなんて、かわいそうだね」
そのたびに、胸の奥で小さく叫ぶ。
「ほっといてくれ」
決めつけ・偏見・思い込みを全面的にぶつけられ、
ぶつけ返してたところで、
なにも生まれない。
何度も強調する。
「人それぞれ」
「人それぞれ」という言葉を使うたびに、
思い出す詩がある。
金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」
小鳥は空を飛べるけれど、
地面を走るのは苦手。
鈴は美しい音を鳴らすけれど、
歌は知らない。
"みんなちがって、みんないい”
この優しい視点は
今も私の軸になっている。
まさに「多様性=ダイバーシティー」である。
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アナタはアナタでワタシはワタシ
異なる生き物だ。
とてもシンプルな鉄則。
同じ人間であるわけがなく、
異なっているのが至極当たり前。
家族でも、親しい友人でも、恋人でも、
どんなに近しい関係であっても、
同じではなく、異なる人格、異なる人間。
繰り返し強調するが、
誰かと同じである必要はない。
「異なること」=「悪いこと」ではない。
しかし、悲しいことに、
そこに拒否感を抱く人が多いのが現実。
「異なることへの違和感と拒否感」を
無意識にもっているケースが多い。
いちいち否定してくる。
いちいち押し付けてくる。
日常の中で、そんな場面は数知れず。
記憶の糸を辿れば、
誰でも幾度となく経験しているはず。
運動好きな友人にヨガを勧めたところ、
彼女はすぐに体験レッスンを申し込んだ。
ところが、お気に召さなかったと。
その途端に私の目の前でヨガを全否定、
おまけに猛攻撃し始めた。
「宗教みたいな雰囲気があってすごくイヤだった」
「先生が言っていることがスピリチュアルな感じがして超NG」
「キモい感じがして、全然スッキリしなかった」
「やる必要ないと確信したよ」
など延々とー。
何度も繰り返すが、
好みは人それぞれ。
気に入らなかったら、それはそれ。
好きな人もいれば、嫌いな人もいる、
ただそれだけのこと。
好きだと言っている人の目の前で、
なぜ、そんな言葉を並べるのだろうか。
聞き流していたのだが、
少しずつ悪意を感じ始めた。
否定という悪意
楽しみの対象を否定して、
相手の心に水を差すという悪意。
こういうことは、意識・無意識に関わらず、
日常の中でよく起きている。
結果として、楽しい会話にならない。
後味の悪い会話となり、
疲れだけが重く残る。
否定して、自分が正しいと強調したい。
否定して、同調させたい。
否定して、楽しみを潰してつまらなくさせたい。
ネガティブパワーが強い人は、当然のことだが、
「楽しく生きていない」わけで、
「楽しく生きている人」を攻撃するのが常。
もしかすると、
それが楽しみなのだろうか?
「楽しんでいる人」に水を差すのが楽しみ?
「楽しみも人それぞれ」ではあるがー
いや、こういった攻撃は無意識、発作的にすることが多い。
恐ろしいことに自覚がないのだ。
となると「楽しみ」と言うには、
かなりムリがある。
後味の悪い会話の後、
一人で納得した。
ダイエット中には、筋トレに熱心な知人が
食事や運動を延々と押し付けてきた。
「それ食べたらダメ」
「糖質オーバー」
「走る時はナニをこうして、ナニをあれして云々」
「あのマシーンを使う時は云々」
お節介レクチャーはエンドレスー
辟易へきえきレベルがマックスに。
アドバイスではなく、完全にマウントだった。
知識を自慢したい、「勝ち」を実感したいという心理だ。
ほっそりボディーを手に入れた勝利者の傲慢。
他者との比較ループと勝ち負けの沼にハマり続ける者は
「教えてあげる」というポジションを確立し、
自尊心を満足させようとするのだろう。
「何もしなくても自然に元の体重に戻ったよ」
そう言おうものなら、彼女は不機嫌レベル急上昇、
難癖をつけてくるだろうことは簡単に予測がつく。
「人それぞれ」が身についていれば、
人と比較する必要がない。
優劣や序列・上下関係で見たり、
マウントしたいという欲求も生まれないはず。
自分は自分人は人
比較しないこと
それだけで世界は随分と
生きやすくなる。
自分独自のやり方で楽しく生きていれば、
人のことなど気にならない。
自分に集中できる。
やり方も人それぞれ
比較する必要もなし。
比較をしなければ、
優劣も上下もない。
参考になるものは、
どんどん取り入れる、
それでいい。
異なることは、悪いことではない。
むしろ違いがあるからこそ、
世界は豊かになるのだ、
否定さえしなければ。
小鳥も鈴も、私も
できること、できないことが異なる。
だからこそ、それぞれが貴い。
「自分の幸せ」
「自分の生き方」
「自分のやり方」
それでいい。
自分らしく生きる。
辿り着く場所は
いつでもシンプル
ーおわりー




