生首ごろごろ
その、転がる生首の噂が広がったのは、文芸部が発表したある怪談が原因だった。その怪談では、うちの高校が舞台と分かる書き方をしながら、それでもそれを事実とも作り話とも明確には記述していなかった。結果として、それは噂になり、その真偽が話し合われるようになったのだ。
――あの生首の怪談は、二年前に卒業した先輩が体験した実際の話で、その当時は、あまりに刺激が強いので控えられていたが、時間が経ったのでそろそろ表に出しても良いだろうという事になり、匿名で発表されたものだ。
そんな話が、大真面目に語られた。
わたし達は、そんな状況を楽しんでいた。実を言うと、それは文芸部の友達何人かとわたしが計画した、ちょっとした悪戯だったのだ。作り物の怪談を本物にできないか? できたら少し面白いかも。深い考えがあった訳ではなく、そんな軽いノリで始めたものだった。
その方法は単純だった。部で怪談を特集した文芸誌を発行し、普通に噂されている都市伝説なんかに混ぜて、その転がる生首の怪談を載せたのだ。後はわたしが、文芸誌にこの学校がモデルの怪談が載っている、というような噂話を流したら、順調に噂は広がっていった。
誰もが知っているような都市伝説と並べられれば、いかにも本物の一つに思えるし、それに話の中に自分達の知っている場所が出てくれば興味も沸く。作者を不明にしたのも、効果的だったのかもしれない。それは、わたし達が思った以上に上手くいった。ただ、少し上手くいき過ぎた感もあったのだけど。
ある日に、わたしは文芸部の友達たちと共に、先生に呼び出しを受けた。文芸部の顧問を担当している先生だ。名は、根津という。この先生は、文芸部の顧問なんかをやっている癖に、担当教科が物理だったりする変わった人なのだけど、本人に言わせれば、文系だの理系だのという境界線が引かれたのは、近年に入ってからの事で、そもそもそこに明確な垣根などないのだそうだ。
とにかく、根津先生はわたし達を呼び出すと、こんな質問をしてきた。
「ここに書かれている、生首の怪談は君達が創作したものですね?」
先生の手には、わたし達が出した文芸誌があった。わたしはそれを見て、まずいなとそう思う。どうにも、話題になり過ぎてしまったようだ。怒られるかもしれない。因みに、わたしは文芸部じゃないけど、そこにイラストを提供している。わたしが呼ばれたのは、だからだろう。
わたし達が何も答えないのを、肯定の意志表示と受け取ったのか、それから先生はこう続けてきた。
「実は、人間の歴史において、創作物がいつの間にかにその土地の伝説になるのはよくある事なのです。過去など、記録に残っていなければ誰にも分かりませんから、つまりはそれは創作物が事実になったとも表現できる。納得がいきませんか? しかし、それを現実と信じる土地の人達にとってみれば、それは紛れもなく現実なのです」
その説明を聞いて、わたしはおかしいなとそう思う。どうも、叱るとかそんな流れの話じゃない気がする。
「つまり君達は、この怪談を通して、一つの現実を作ってしまった、のかもしれない」
それを聞いて、文芸部の友達の一人がこう返した。反論だ。
「あたし達が作ったのは怪談です。事実ではなく、事実かもしれない怪談を作ったんです。皆は、そんな怪談が本当に自然発生したとは思っているかもしれませんが、事実だったなんて考えていないはずです」
根津先生は、それを聞くと笑顔でこう返した。
「そうかもしれません。しかし、その境界線は曖昧ですよ。噂が浸透していけば、その境界はなくなり、虚構と現実の区別はつかなくなってしまいます」
それから、根津先生は「フフ」と、声を出して笑う。
「こんな話を知っていますか?
英語で、自然法則を意味する“law”は、実は同時に法律を意味する言葉でもある。これは、西欧諸国の言語で共通しているそうです。そしてその語源は、どれも“神の法的規制”なんだそうです」
わたし達は誰もそれに何も返さなかった。多分誰も、その言葉の真意が分かっていなかったのだと思う。
「自然の法則も、社会の法律も、どちらも神の定めた法的規制だというのですね。ファンダメンタリスト。キリスト教原理主義というものがあります。これは、聖書に書かれた内容が実際に起こったと信じる主義です。なんて非科学的な事を言うんだと思うかもしれませんが、理論的な根拠はちゃんとあります。
自然法則を定めたのは神だ。その神にならば、自然法則を一時期的に変えて、奇跡を起こす事など造作もないはずだ。
つまり、自然法則は変化するものだとして、非科学的な奇跡の存在を認めるようとしているのですね」
わたし達は皆、その話を奇妙な顔で聞いていた。
「もちろん、私は神が存在していて自然法則を自由に書き換えられる、などと主張している訳ではありません。もし自然法則が変化してしまうような曖昧なものだったとしたなら、科学など意味がなくなる、とは言っていますがね。そして、自然法則の絶対性と普遍性は証明する事ができません」
そこまでを聞いて、わたしには先生が何を言いたいのかがなんとなく分かってきた。もしも、自然法則が曖昧なものならば、創作された怪談が現実になるような、そんな馬鹿げた現象だって起こるかもしれない。
多分、根津先生はそんな事を言っている。先生は更に続けた。
「量子力学が提示した、不確定性原理というものをご存知ですか? 正確には、今は不確定性“定理”ですが、これは電子などの極細微の世界では、何もかもが不確定だという事を示しています。
電子の位置を定めれば運動量が分からなくなり、運動量を定めれば位置が分からなくなる。また、エネルギーと時間に関しても同じ関係が成り立ちます。
馬鹿げた話だと思うかもしれませんが、これが正しい事は、科学実験で実際に証明されているのです。ただし、その解釈は様々に言われていて、その事実をどう捉えるべきなのかに一致した見解はありません。
そして、そのうちの一つに、確定しているかのように見えている、我々の感じているこの世界こそが幻なのではないか?という主張があるのです」
わたしはその話を聞きながら、なんだか不思議な心持ちになっていた。本当に怪談が現実になってもおかしくはないような。
「実際に、我々は“現実”を決定していますね。例えば、社会規則。信号機が青になったら進んでいい。これはもちろん、自然法則などではありません。神が決定している訳でもないのは当然です。社会という主体がその内部にルールを生成している。私はそれをこういう事かもしれないと考えているのです。何かしらの確定した現実は、主体が存在して初めて決定できる。自然法則とは、この宇宙全体を一つの主体とした場合に決定された現実。社会の法律とは、社会を一つの主体とした場合の現実。夢の中では、個人は自然法則も社会法則も無視してあらゆる現実を勝手に作りだせる…」
最後に、根津先生はこう言った。
「つまりね、主体が曖昧になれば、現実なんてものは極めて曖昧になるのですよ」
結局、根津先生が何の為にそんな事をわたし達に語ったのかは、まったく分からなかった。別に叱る訳でもなく、忠告をする訳でもなく、変な話をしただけ。
ただわたしが、奇妙な予感を覚えたのは確かだった。そして、その日の晩、わたしは夢を見た。こんな夢だ。
わたしは、一人校舎にいた。誰もいない校舎。わたしはそこでわたし達が作った例の怪談を思い出す。生首が転がる怪談を。
怪談の中では、男子生徒がそれを体験するのだけど、ちょうど同じ様に誰もいない校舎にいるのだ。男子生徒は、そこで数ヶ月前に起こった事件を思い出す。ある一人の女子生徒が、首を切断されて死んでいたという事件。殺人の証拠もなにも挙がらなくて、結局は原因不明の事故として処理されたのだけど、不可解な点が一つ。その女子生徒の首が何故か見つからなかったのだ。どこをどう探しても。
そして。それを思い出した男子生徒の耳に、何かが転がる音が聞こえてくる。ごろごろ、ごろごろ、と。それは、まるで生首が転がるような音だった。
わたしはそこで耳を澄ましてみた。生首が転がってくるかと不安になったのだ。しかし、何の音も響いては来なかった。
その男子生徒は、不安になってその場から逃げ出すのだけど、その途端に、何かが転がる音も激しくなった。そして、『ふふふ、お願い待ってよ』という声が。振り返ると、そこには転がりながら自分を追いかけてくる生首の姿があった。
もちろん、それは行方不明になったあの女子生徒の生首だった。
男子生徒は校舎をさんざん逃げ回り、ついには校舎裏に辿り着く。校舎裏には、ゴミを捨てる為の穴が掘ってあって、生首はそこに落ちてしまう。男子生徒は、咄嗟にそこに土をかけて、穴を塞いでしまった。しばらく見守ったが、何も起こらない。しかし、安心して、その場を去ろうとする男子生徒の耳にこんな声が聞こえてくる。
『酷い。あなたの事が好きだったのに』
と。
それで怪談は終わりだ。わたしはなんとなく、その校舎裏に行ってみた。この学校を舞台にした怪談だから、実際に生首を埋めた場所のモデルもあって、そこには怪談の中と同じ様にゴミ捨て用の穴がよく掘られている。わたしは、怪談に出てきた穴の埋め跡を探してみた。もちろん、わたしの中の想像上の。少し探すと直ぐにその埋め跡は見つかった。わたしは、それを掘り返してみた。多分、先生の言葉があったからだろうと思う。わたし達は、怪談を通して現実を作ってしまったのかもしれない。土を掘り返し終わった後で、わたしはこんな声を聞いた。
『ありがとう。あなたは優しい人ね』
そこで、目が覚めた。
その日、実際にわたしがその場所に行ってみると、夢の中で見たのと同じ場所に穴が開いていた。ただ、そこにはよくゴミ捨て用の穴が掘ってあるから、別に奇妙でもない。もっとも、それでもわたしは不気味さを感じはしたのだけど。
それは夢の中の出来事だ。不思議でも何でもない。わたしはそう自分に言い聞かせた。でも、ところが、わたしはその夢を見た日から、時々学校で、奇妙な音を聞くようになってしまったのだった。
ごろごろ、ごろごろ、と。
何かが転がるような。
それは、幻聴なのか何なのか分からないくらいの微かな音なのだけど、日増しに強くなっていくようだった。そしてある日だ。わたしは学校の帰り道にも、それを聞いた気がしてしまったのだ。
まさか、と思う。生首が近くにいる事を想定して、わたしは走って家に帰ると、あわててドアを閉めた。もし仮に、生首が存在していたとしても、これなら家に入っては来られないだろうと考えて。しかし、当然、誰かが帰宅する度にドアは開けられる。弟が開け、母が開け、父が開ける。そのどれかのタイミングで、生首が家の中に入ってきてもおかしくはなかった。そして真夜中だった。
ごろっどっ ごろっど ごろっど
皆が寝静まった後、二階にある自分の部屋のベッドで眠っていると、何か硬くて重いものが階段を昇ってくるような、そんな音が聞こえてきたのだ。
わたしは、ベッドの中で身を固くする。やがて、その音は“ごろごろ、ごろごろ、ごろごろ”に変質した。廊下を転がる音。そして、固くて重いものがドアに当たる音が。
ドン
と。
それは、何度も繰り返された。ごろごろ、ドン。ごろごろ、ドン。わたしはその音が響く中、ベッドの上で身を固くしながら震えていた。絶対に、ドアを開けてはならない。わたしはその晩、かなり遅くまで眠れなかった。朝になって、目が覚めるともう音は止んでいた。だけど、わたしにはあれが夢だったとはとても思えなかった。いや、夢なのかもしれない。しかし、その夢が現実になってしまったのだ。先生の言葉を思い出す。
“つまりね、主体が曖昧になれば、現実なんてものは極めて曖昧になるのですよ”
きっと、わたし達は学校という小社会で、あの生首が現実に存在する事を、決定してしまったのだと思う。現実は、実はとても曖昧なものなのかもしれないから、そんな事だって起こるんだ。
学校。
わたしは、その日、放課後になっても残っていた。生首が現れるのを待っていたんだ。その日の昼の間に、生首についての噂話をわたしは色々とした。もしも、怪談が現実になってしまったというのなら、わたしの他にも体験している人がいるのじゃないかと思って。そして、もしもわたし達にそれを作り出せたというのなら……。
やがて、教室が徐々に薄暗くなり始めた。赤みのある色が、窓の外にほんのりとかかる。多分そろそろだ、とわたしは思う。すると、音が聞こえてきた。生首が転がる音。ごろごろ、ごろごろ、と。来た、とわたしは思う。そう思った瞬間に、わたしは駆け出した。もちろん、校舎裏を目指したのだ。あの“穴”に生首をまた埋めてやる。わたしは、そう思っていた。
『待ってー!』
廊下を走るわたしの耳に、転がる音と共に、後ろからそんな声が迫ってきた。
ごろごろ、ごろごろ、ごろごろ。
生首の癖に速い。
振り返ると、物凄い形相の生首がそこにはいた。間違いなく、わたしを追って来ている。追い付かれたら、どうなってしまうのか分からない。
廊下を駆けている間、誰かが残ってくれているのを祈ったが、誰にも出会わなかった。階段を下るのは流石に遅いかとも思ったけど、難なく生首は転がり落ちて来た。やがて、校舎裏に一番近い出口に辿り着く。
もう直ぐ後ろにまで生首は迫っていた。勢いよく扉を開ける。間一髪、わたしは外に飛び出す事ができた。掘ってある穴にまで、後少しだ。
校舎裏にまど辿り着くと、わたしは穴を跳び越して振り返った。これで生首が穴に落ちてくれれば… しかし、なんと生首はその穴には落ちなかったのだ。穴を迂回している。生首は言う。
『フフフ。同じ馬鹿を、二回もやると思う?』
わたしは愕然となる。もう目の前はフェンスで、わたしに逃げ場はなかった。こうなったら、上手くいくかどうかは分からないけど、奥の手に賭けてみるしかない。
そして、それからわたしはこう叫んだのだ。
「さとしくんが見てる! さとしくんが見てる!さとしくんが見てる!」
と、三回。
それを聞くと、生首の表情が変化した。顔を歪ませている。そして、『その名前は、呼ばないでぇ』と叫んで、そのまま藪の中に消えていってしまった。
わたしはその場にへたり込んだ。
「助かった…」
と、そう呟く。
“さとしくんが見てる”とは、わたしが昼間の内に作っておいた呪文だ。生首が好きだった男子生徒の名前は、“さとし”で、“さとしくんが見てる”と、三回唱えると、生首は退散する。そんな噂をわたしは昼間の内に流しておいたのだ。わたし達に怪談を現実にできたのなら、その退散方法だって現実にできるはず。そう思って。よくある類の呪文だから、噂を広めるのに苦労はしなかった。もちろん、効くかどうかは分からなかったけど。
「ははは。現実を決定できる、と言っても、自然法則までは変えられませんよ。飽くまでそれができるのは、社会法則の範囲内です」
わたしが、怪談が現実になった件について、根津先生に質問しに行くと、先生は笑ってそう答えた。
「はぁ」
わたしはその意外な返答に目を丸くした。でも、実際に怪談が現実になって、とそれからもちろんそう思う。
しかし、根津先生の笑顔を見る内に、本当にそれが起こったのかどうか、わたしは疑問に思い始めた。もしかしたら、あれは全て夢と幻だったのじゃないか、と。その可能性は否定できない。それで、そのまま何も言わないで、わたしは根津先生と別れたのだ。
……だけど。
教室に戻って、わたしは文芸部の友達から話しかけられた。何かと思ったら、怪談の新作ができたのだという。
「どんな話?」
わたしがそう尋ねると、その友達はにこにこと笑いながらこう返してきた。
「前の話の場合、生首は、基本的には正体不明の存在だったでしょう? だから、今回は生首が転がるのが普通の知り合いにしてみたの」
「普通の知り合い?」
「そう。どうしてなのか、普通の友達の首が取れて、辺りを転がるっていう怪談」
わたしはそこまでを聞いて、ハッとなった。
「あなた、まさかその話を他の人に話したりしていないわよね?」
「どうして? もう、色々な人に読ませちゃったけど…」
その返答を聞いた瞬間だった。わたしと話している目の前の彼女の首に、スッと線が入ったのだ。そして、コロンと首が落ちてしまう。
まさか、
とわたしは思う。
『どうして? どうして? どうして?』
それから、そう言いながら、彼女の首は辺りを転がり始めた。ごろごろ、と。そして気付くと、彼女以外の生徒達の首も落ち始めていた。
ごろごろ、ごろごろ、ごろごろ。
たくさんの生首が転がる教室に佇んで、わたしは、もう嫌だ、とそう思った。現実なんか、やっぱりないのかもしれない。現実なんて。
去年が、「首が、ない」だったので、今年は生首にしてみました。