「ごめんなさい」と「愛してる」が言えないの。
公爵令嬢レナエルは、五歳の頃に未来の王太子クロヴィスと婚約をした。
レナエルは聡くはあったが、消極的で口数が極端に少ない少女だった。
彼女の両親は未来で国母となるかもしれない娘へ厳しい教育を強いた。
家の中には安らげる場所も時間もなく、レナエルは失敗を恐れて生きて来た。
彼女の口数の少なさや、受動的な所はそんな幼少を過ごしてきたからこそのものであった。
クロヴィスは勿論、彼女のそんな事情を知らない。
それでも上手く話せず言葉を詰まらせたりするレナエルを受け入れ、婚約者として接してくれた。
「今日も綺麗だね、レナエル」
「あ、ありがとうございます、殿下。でもその、殿下の方がとても麗しいお顔立ちをしていらっしゃると思います」
「俺は多少自覚をしてるけど、君は自覚がない分厄介だよ」
付き合いが長くなるにつれて、レナエルはクロヴィス相手に話せることが増えていった。
厄介という言葉を使ったクロヴィスの言葉の意味が分からず、レナエルは首を傾ける。
「そういうところだよ。本当に、未来が心配だ」
同い年だというのに、まるで兄や父のような言葉を吐くクロヴィス。
彼に頬を撫でられながらレナエルは気恥ずかしそうに笑った。
二人は慎ましくも確かに仲を深めていった。
そして十五になり、王立学園へと入学する。
「レナエル」
「殿下」
元より美しい顔立ちのクロヴィスは、正式に王太子となった事もあり、より注目を集める存在となっていた。
それでも彼は消極的な性格の婚約者を気に掻けてか、休憩時間は必ずレナエルに会いに来た。
「学園はどう?」
「た、楽しい、です。友達もできました」
「そっか。俺も同じだよ」
二人で中庭のベンチに腰をかける。
それから、学園での生活について互いに話を弾ませる。
その最中、レナエルは遠巻きに自分達を見ている令嬢達に気付いた。
彼女達はレナエルと目が合うと嘲笑を浮かべ、ひそひそと何やら話し合う。
(きっと、釣り合わないと思われているんだわ)
「レナエル」
項垂れそうになったレナエルは、名を呼ばれた方を向く。
するとクロヴィスの顔がすぐ傍まで近づき――
――コツン、と額同士がぶつかる。
「俺との話、楽しくない?」
「め、め、滅相もありません……!」
「ほんと?」
「は、はい……」
林檎のように顔を真っ赤にさせるレナエル。
もう長年ともにいるというのに、相変わらず初心な反応を見せる彼女にクロヴィスは愛おしそうにはにかむ。
クロヴィスはレナエルが見ていた場所へ視線を向ける。
陰口を言っていた令嬢たちはクロヴィスと目が合うとそそくさと逃げて行った。
彼女達には二人が口づけをしあっているように見えたことだろう。
「レナエル。君が自分に自信を持てない事は知っている。けどね」
クロヴィスが見ていた方角から、彼が令嬢達を追い払ってくれたらしい事をレナエルは悟る。
申し訳なさそうに眉を下げるレナエルの髪をクロヴィスは優しく撫でた。
「俺は本当に、君を愛しているんだよ。勿論異性として」
「……ありがと、ございます。でも」
「でもはなし」
レナエルの眉が余計に下がる。
「レナエルは、俺の事どう思ってる?」
レナエルは小さく息をのむ。
小さな口が僅かに開かれた。
けれど……言葉は出ない。
彼女には言いたい事が沢山あった。
他の令嬢達から笑われる程に不釣り合いでごめんなさいと謝りたかった。
そして、彼が伝えてくれる愛に同じ様に答えたかった。
けれど、どうしてもできなかった。
幼少のレナエルは両親に愛を求めれば必ず叱られ、拒絶された。
淑女教育で失敗をして叱られる度謝ったが許される事はなく、謝るくらいならば最初からしっかりこなせと余計に怒られた。
クロヴィスに限ってそんな事はないとわかっている。
わかっていても、幼少のトラウマとでも言うべきそれがレナエルの喉を詰まらせる。
「ごめんなさい」と言って許さないと言われてしまったら?
「愛している」と伝えた言葉を拒絶されたら?
きっと、自分の心は砕けてしまうとわかっていた。
レナエルは泣きたいような気持ちを抑えるべく、唇を噛んだ。
「……そんな顔をさせたい訳ではないんだよ」
困ったように笑うクロヴィスを見て、レナエルの心は「違うんです」と叫んでいた。
でもやはり、声にはならなかった。
数年の時が経ち、レナエル達の卒業の日がやって来た。
この日は学園でパーティーが開かれる。
レナエルとクロヴィスは互いに着飾り、共にパーティーを楽しんでいた。
この数年で、二人の関係に大きな進展があった訳ではない。
けれど相変わらず、二人は仲睦まじく同じ時を刻んで来た。
「レナエル」
ダンスを踊りながらクロヴィスが言う。
「卒業したら、うちにおいでよ」
「え?」
「うちで過ごせばいい」
「で、でも、結婚もしてないのにご迷惑に」
「なら、結婚すればいい」
「ええ!?」
珍しく大きな声を出したレナエルの声にクロヴィスが愉快そうに笑う。
「まあそれは追々でもいいけど……君と少しでも長く一緒に居たいんだ」
「殿下……」
クロヴィスの言葉が嬉しい。
しかし、レナエルの胸の内にはやはり大きな不安が生まれていた。
「でも」
「レナエル。君が自分を信じられないのはもうよくわかっているよ。だから」
クロヴィスがレナエルの腰を引き寄せる。
二人の顔が近づいた。
「レナエルとの幸せを信じている俺を信じて欲しい」
彼の頬は僅かに染まっていた。
「誰よりも君を愛している俺を、信じてくれ」
レナエルの中で、クロヴィスは誰よりも信頼できる相手だった。
確かに自分に期待する事は出来ない。
けれどクロヴィスの言葉を信じる事ならば……これまで何度もやって来た。
レナエルは涙ぐみながら頷く。
嬉しかった。そして彼の言う通り、その優しい言葉を信じたくなった。
「ありがとう、レナエル」
「こちらこそ、殿下」
ダンスが一曲分終わる。
その時だった。
「ご機嫌麗しゅう、クロヴィス殿下、レナエル様」
侯爵家の令嬢、シゴレーヌが取り巻きを引き連れて近づく。
彼女は入学当初からレナエルを見下し、嘲っていた者だ。
そして今日も彼女は、レナエルを一瞥して鼻で笑ってからクロヴィスを見る。
「社交の場では婚約関係を結んでいない異性で踊る事もありますでしょう。私とも一曲躍ってはいただけませんか? 少なくとも――俯いて顔を隠してばかりのアクセサリーよりはお楽しみいただけるかと」
愚鈍なお飾りとでも言いたいのだろう。
その嫌味を悟ったクロヴィスが眉根を寄せ、レナエルの前に立とうとした。
その時だ。
「あ、あの……っ」
自分を庇おうとしてくれるクロヴィスの腕をレナエルは引く。
そうして自ら前に出ると、シゴレーヌや取り巻きを見据えた。
「私は、公爵家の血筋を引いた立場の者です」
「ええ、存じ上げていますが」
まさか自ら発言するとは思わなかったのだろう。目を瞬かせたシゴレーヌはしかし、すぐにプッと吹き出して笑う。
「それが何か?」
「では貴族階級の上下を理解した上で、そのような言動をとって、いらっしゃる……と言う事ですね」
ピクリ、とシゴレーヌの眉が動いた。
「し、シゴレーヌ様は、私が殿下のお隣に立っている事が、気に入りませんか?」
「そうですわね。一国を背負うお方のお傍には相応しくないと思われても仕方がないのでは?」
「では……国王陛下の決定に異を唱える、もしくは疑念を持っているという事です、ね」
「……え?」
「なるほど、そういう事だったのか」
時々言葉を詰まらせながらも必死に声を張って話すレナエル。
彼女の言葉の意図を理解したクロヴィスが納得したと言わんばかりに大きく頷いた。
「わかった、貴女やご友人の意見はしかと父に伝えよう」
「え? ちょ、ちょっと」
「結果の報せは後日追って――」
「わ、私は関係ありませんわ!」
「わたくしもよ!」
「ちょっと、皆様……!?」
シゴレーヌの取り巻き達は危険を感じ、シゴレーヌを見捨ててあっさりとその場を離れた。
独りぼっちになったシゴレーヌは悔しそうに顔を歪め、肩を震わせながら頭を下げた。
「で、出過ぎた物言いを致し……申し訳、ありませんでした」
「ああ、何だ。では先の発言は君の本意ではなかったという事だね」
「ええ、で、ですから……」
「勿論。そういう事であれば見逃そう。失敗は誰にもある事だ。だが」
頭を挙げたシゴレーヌは顔を蒼白とさせる。
口に笑みを貼り付けたクロヴィスの瞳が冷たく光っていたのだ。
「二度目はないよ。わかったね」
「は、はい……っ」
そう言ってシゴレーヌは去って行った。
いつの間にか周囲の生徒達はレナエル達のやり取りを見守っていたが、時間が経つにつれて彼らはパーティーの空気に呑まれて視線を外していく。
そして始まった二曲目。
人々が躍る中、邪魔にならないようにとクロヴィスはレナエルを連れて解放された二階のバルコニーへ出た。
閉じられた窓から漏れる音楽を背に、クロヴィスはくすくすと笑った。
「あんなに必死に反論する君の姿は初めて見たよ」
「わ、私も、初めてしました……」
品よく笑うクロヴィス。
その横顔を見ていたレナエルは先のクロヴィスの言葉を思い出す。
――誰よりも君を愛している俺を、信じてくれ。
その言葉のお陰で、レナエルは一歩前へ踏み出すことが出来たのだ。
そして今ならば――もっと前に進めるかもしれないと、自然とそんな勇気がレナエルを包み込んだ。
「で、殿下。その……先程は騒ぎにしてしまって、ごめ――」
「レナエル」
するとクロヴィスはレナエルの唇に自身の人差し指を添え、その声を遮った。
彼は目元を和らげ、微笑んでいた。
「それは、俺達には必要ないよ。気兼ねない関係性こそ、未来の俺達のあるべき姿だろう?」
では何を伝えればいいのだろう。
そう考えたレナエルはしかし、すぐに一つの答えを見つける。
「殿下」
「うん?」
「あ、あ」
何度も言葉が詰まる。
顔に熱が帯びていく。
その中で、レナエルは何とか言葉を絞り出した。
「――愛して、ます」
クロヴィスがゆっくりと目を見開く。
(ああ、どうしてもっと早く、言ってあげられなかったのだろう)
瞳を潤ませ、言葉を詰まらせながら笑みを深める彼を見てレナエルはそう思った。
「レナエル」
クロヴィスがレナエルの腕を引き、自身の両腕にしっかりと閉じ込める。
「俺の方こそ、愛しているよ」
震える彼の声を聞きながら、レナエルもまた潤んだ瞳を強く閉じて涙を耐えたのだった。
やがて二人は見つめ合い、それから顔を寄せ合った。
――これからは、沢山愛を伝えよう。
今まで言えなかった分も、もっともっと。
そう誓いながら、唇を重ねる。
***
拒絶を恐れて育った少女はその後、家を出て王宮へ住まう事となった。
そうして公務を学ぶ婚約者の手伝いをしながら、幸せな時を刻んで行く。
且つて「ごめんなさい」と「愛してる」が言えなかった少女。
彼女は「ごめんなさい」は言えないままに――
――「愛してる」だけが、沢山言えるようになったのだった。
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