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趣味のない男

作者: 大西洋子

着替えようと取り出したその服の襟が、やけに痛んでいた。

「もう、仕方ないわね。賢也くんに似合いそうな服を探してあげるわ」

妻さやかと付き合い出すきっかけとなったその言葉と思い出が、賢也の頭の中によみがえってきた。

――そう、あれは社会人になったばかりの頃だ。同期だけで郊外のキャンプ場に電車とバスを乗り継いで行き、バーベキューのさなか、賢也の服にタレが飛び掛かった。

「わわ、染みになっちゃう!」

「いや、いいよ。高校の時、クラスで揃えたTシャツだし」

「でも、その汚れた服のままだと、いろいろヤバイわよ」

ほら見てと賢也に向けられた手鏡には、胸から肩に向かって飛んだタレが、殺傷事件のそれを思い起こすような模様になっていた。

「あ、ホントだ。確かにヤバイ汚れ方だ」

今から洗って渇かしたら、帰るときには渇いているだろう。そう判断した賢也は、その場で服を脱ぎ、洗い、木の枝に吊した。

それでさやかとの会話は、それだけで終わるはずだった。だが、

「賢也くん、広場でフリーマーケットをやっていたから、そこで着替えを買ったら?と、勧められ、

「なによ、それ。趣味が悪いわ」と横槍が入り、

「もう、仕方ないわね~。賢也くんに似合いそうなのを探してあげるわ」と賢也が手にしていた服よりも、趣味の良い服を見つけだしてくれた。

それがきっかけで、季節が変わる頃になると、さやかと一緒に買い物に出かけ、普段着からお洒落着まで、自分が着る服を選んでもらい、 一同僚から気の知れた友人、さらに恋人へとなっていた。

「婚約指輪もさやかに選んでもらったんだったな」

友人や先輩に、どのようにプロポーズしたのかたずね、プレゼントのお返しに一緒に指輪を買いに行こうとメッセージを添えたという話を真似て、婚約指輪を買うという目的を果たしたのも遠い昔のこと。

結婚、子どもの誕生、お互いの両親の死別。慌ただしい毎日の連続で、気がついたら60の声が聞こえだしてきた。そうなると、退職後の生き方、それに終活という言葉が過り出すのだが、

「あなただけが楽しむ趣味の一つ二つくらい作ったらとどうかしら」とさやかに提案されても、

「パパ、ママが一人が楽しむ時間まで、一緒にいることないんじゃないかな」と、娘に諭されたこともあったが、退職してから考えたらいいかと、のらりくらりと月日を重ねた。だが、

「まさか、君がこんなに早く逝ってしまうなんて思いもよらなかった……」

娘が結婚し、退職という言葉が現実味を覚えた頃、さやかに癌が見つかった。それもかなり深刻な状態で。

賢也はさやかの残り少ない時間を過ごすために早期退職の選び、そして……

「いい? この服がぼろぼろになるまでに、趣味の一つや二つ作りなさいよ」

そう言って、最後の入院生活に入る時、さやかは賢也の普段着も揃えてくれた。

「……なのに俺は、未だに趣味といえるものが何一つない」

仕事が趣味だと公言してきたが、今やその仕事すらない。

楽しみにしているものは、孫の成長だが、そうしょっちゅう会えるものではない。

食事にしても、ただ腹を満たすのが目的になっており、旨いものを食べ歩くという気分すらおこらない。

旧友に元同僚と吞みに行くにしても、年に数えるくらいでしか集まれないうえに、だんだん鬼籍に入ったという便りが届く。

日々の時間の潰しかたと云えば、繰り返し見る時代劇に、少年時代に夢中になったアニメやドラマの再放送。そのどれもが何度も繰り返し見て、再放送の開始してしばらくして、その内容を思い出してしまうほど。

漫画に小説にいたっては、老眼を自覚した頃から、足が遠のいている。

「いつか君が言ったように、趣味の一つや二つ作っておくべきだったな」

襟ぐりが一番まともな服を選び、袖を通しながら、写真立ての中のさやかに語りかける。

「さて、今日は服を買いに出かけるとしよう」

カラリ晴れ渡る空に誘われて、賢也は何時もの場所ではなく、新しくできたショッピングモールに行ってみるかと、心の中のさやかに話しかけた。





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