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【第3話】バックリターン

 直矢の心配をよそに、夜が明けてからも生活は、何事もなく回っていた。学校に行き、授業を受け、部活に励み、家で落ち着いた時間を過ごす。そんな日々はこの宇宙でも変わらない。


 だけれど、直矢の毎日は確かにキラキラ輝き出していた。それは授業も全て理解できて、部活でもできることがぐっと増えただけに留まらない。


 詩織と登下校を共にし、昼休みを圭も交えて一緒に過ごす。外から見た形は変わらずとも、自分が詩織と付き合っているという事実は、直矢に計り知れないほどの喜びをもたらした。隣にいるだけでもワクワクするのに、話していると高揚感はどんどん膨らんでいく。


 直矢の気分は日に日に浮かれていき、長野で起きた事件のことは気にもしなくなっていた。もとよりニュースも二日は続かなかったから、直矢の中では最初からなかったことになっていた。


 黄色が目立つ座席に、勇ましい音楽が流れている。大型スクリーンに流れる映像では、次々にシュートが決まり、詳しくない人でも凄いことだけは分かる。今日の試合を盛り上げる映像が流れていた。時間を増していくごとに高まる期待感。


 部活を終えた土曜日の夕方、直矢と詩織は自分たちの市にあるアリーナに、バスケットボール観戦に来ていた。前々から興味を持っていたらしい詩織が、直矢を誘った形だ。


 映像が終わると照明が落とされ、会場は外よりも一足早く暗闇に包まれる。多くの座席に、ペンライトの黄色い光が灯る。熱っぽく幻想的な光景に、直矢は思わず身体をつんのめさせた。


 選手たちよりも先にコートに入ってきたのは、直矢たちが暮らす地域を本拠地とする千葉ガナッツ、そのチームカラーである黄色い服装に身を包んだチアリーディングチームと、マスコットキャラクター・ガナッキーだった。いくつものライトに入れ代わり立ち代わり照らされながら、アッパーな音楽に合わせて溌溂としたダンスを踊っている。


 チアリーダーがキレのあるダンスを踊る真ん中で、サルをモチーフにしたガナッキーは、手を叩きながらピョンピョンと飛び跳ねていて、そのギャップが直矢の目には鮮やかだった。ペンライトの光も合わさって、試合前からエンターテインメントな空間が演出されている。


 うっとりするような、元気が出てくるような。まだ選手が登場してもいないのに、直矢の心は大きく動かされていた。


 オープニングフライトと呼ぶらしい試合前のパフォーマンスが盛況のうちに終わり、まず今日の対戦相手であるアルバレス東京の選手たちがコートに入場する。敵意や反感さえ客席からは発せられていて、直矢はこれがバスケットボール観戦かと思い知った。


 アルバレス東京の選手たちがコートに並んで立つと、コートを照らす照明はノリのいい音楽とともに、激しく点滅し始める。スピーカーから耳をつんざくほどの音量で「我らが千葉ガナッツの選手たちの登場です!」というアナウンスが流れた。


 客席に灯る黄色いペンライトたちがより大きく振られ、選手入場口の両脇からはスモークさえ焚かれている。


 観客の拍手に迎えられた選手たちが、小走りで二列に並んだチアリーダーたちの間を通っていく。


 ハイタッチをしながらコートに向かう選手たちの名前を、直矢はまだ誰一人として把握できていない。


 だけれど、盛大な拍手に包まれた選手たちの顔は凛々しく勇敢で、試合への期待を直矢に植えつけた。自分たちを信じて見ていれば大丈夫だと言わんばかりの表情が、この上なく頼もしく感じられる。


 両チームの選手は一列に並ぶと、客席に向かってお辞儀をした。温かく、それでも強い熱気を持った拍手が選手たちに再び送られる。その姿に直矢の目は、早くも釘付けになっていた。


「ねぇ、直矢知ってる? あの二番をつけてる小谷野って選手、日本代表にも選ばれるくらい凄い選手なんだよ」


 会場が明転して、選手たちのウォーミングアップが始まると、タイミングを見たかのように詩織が話しかけてきた。


 直矢に教えてあげようという思いが声から漏れていたけれど、実際に直矢はバスケットボールにはまったく詳しくなかったから、「へぇ、そうなんだ」と、思いついた通りの返事をする。


「うん。去年のチームMVPで、今年も全試合に出場してる。スリーの成功率も高いし、スティールもめちゃくちゃ多いよ。ポイントガードって言って、コート上の司令塔みたいなポジションなんだけど、小谷野選手の出来でチームも大きく変わっちゃうぐらい重要な選手なの。だから、注目して見るといいと思うよ」


 それはネットに書いてあることをそのまま写したようで、一夜漬けと呼んでも差し支えなかった。


 だけれど、関心を持って、調べてくれたことを教えてくれているだけで、直矢には喜ばしい。用語の意味はまったく分からなかったけれど、「そうだな。注目してみるわ」と素直に応えられる。


 得意げな表情を浮かべている詩織は、直矢にとってはいくらでも見ていたいものだった。


 コートでは両チームの選手たちが、シュートを放ったり軽くドリブルをしたりしながら、ボールやコートの感触を確かめている。直矢にとってそれは、ただ見ているだけでも飽きなかった。


 選手たちのウォーミングアップが終わった頃には、会場のとうとう始まるという熱気はさらに高まっていた。


 アリーナMCと呼ばれるアナウンス役の男性が、両チームのスターティングファイブを紹介する前に、簡単に応援の仕方をレクチャーする。


 二人も言われるがまま、掛け声に合わせて手を叩いてみた。少し恥ずかしくもあったが、でもそれだけで直矢の気分はより前のめりになる。じっと見守るだけではなく、身体を動かして能動的に観戦するのも悪くない気がした。


 アリーナMCが両チームのスターティングファイブを読み上げると、会場は再び暗転した。


 勇壮な音楽とともに、黄色い照明に照らされたコートに、選手たちが改めて入場する。巻き起こる拍手はこれからの熱戦を予期しているかのようだ。


 二人も客席に向かってお辞儀をする選手たちに、ささやかな拍手を送った。自然と拍手が出るくらいには、直矢は会場の熱気にすっかり当てられてしまっていた。


 両チームの選手がコート上に散らばる。会場全体に、試合開始のカウントダウンが響く。


 一〇秒前から始まったそれは、秒を追うごとに声が大きくなっていき、「ティップ・オフ!!」というかけ声の瞬間に、一気に弾けた。


 試合開始のジャンプボールは千葉ガナッツが制し、さっそく詩織注目の小谷野にボールが渡る。


 小谷野は勢いに乗って攻め急ぐことはせず、まずは味方が敵陣に上がるのを待ってから、近くの選手にパスを出した。千葉ガナッツは落ち着いてボールを回して、相手のディフェンスの突破口を探す。


 二メートルもある外国籍選手がドリブルでゴール下に侵入していくと、相手は複数人で止めに来たから、自然と外側にいる小谷野が空く。


 外国籍選手は冷静にパスを選択し、小谷野は目の前に相手がいない状態で、スリーポイントシュートを打った。


 きっと何度も練習した通りのものだったのだろう。ボールは綺麗な弧を描いて、ゴールに吸い込まれた。


 バサッとネットをくぐる音がして、会場はいきなり歓声に包まれる。二人も自ずから手を叩いていた。


 すぐに相手ボールでプレーは再開されるから、選手たちは控えめに喜ぶだけに留めていたけれど、これだけの観客の前で幸先よくシュートを決められて、さぞかし気持ちがいいだろうなと直矢は思う。


 会場にも、より千葉ガナッツを後押しする雰囲気が生まれている。小谷野は最初のプレーでコートの空気を決定づけていて、さすがは詩織の注目選手だなと直矢は感じた。


 バスケットボールの試合は、クォーターと呼ばれる一〇分間を一つのセットとし、四クォーターの合計点数で競われる。


 ファーストシュートが決まった勢いそのままに、前半の二クォーターは千葉ガナッツが優位に試合を進めた。シュートの成功率も高く、二人の外国籍選手を中心に、シュートが外れた後のリバウンドも強い。


 相手の攻撃のシーンでもボールを奪って、速攻を決めたシーンも何度もあり、その度に直矢は盛り上がると同時に感動していた。一時は一五点差をつけていた瞬間もあり、応援するチームが躍動する姿は、直矢に純粋な高揚感を与える。


 二メートルはある男たちが縦横無尽にコートを駆け巡る姿は、日頃なかなか目にかかれないし、ゴール下での競り合いはそれに輪をかけて迫力満点だ。展開もスピーディーで飽きる暇がなく、点もたくさん入って盛り上がりどころも多い。ここまで初観戦に向いているスポーツはないのではないかと思えるくらいだ。


 非の打ち所がないほど見ていて楽しく、誘ってくれた詩織のセンスに、直矢は心から感謝していた。


 だけれど、二〇分間のハーフタイムを経ると、試合の様相は一変した。


 監督から対策を伝えられたのか、アルバレス東京の選手たちの動きは目に見えてよくなり、千葉ガナッツの攻撃が失敗に終わるシーンも増える。スリーポイントシュートを次々に決め、じわじわと点差を縮めてくるアルバレス東京に、直矢は胃がひりつくような思いがした。


 アリーナMCに先導されて、会場はさらに千葉ガナッツの応援を強めようとしていたが、どこか焦りも生まれてしまっている。


 この落ち着かない感じもスポーツ観戦の醍醐味と言えば醍醐味だけれど、そんなことは初観戦の直矢にはまだ分からない。


 とにかく千葉ガナッツに勝ってほしいと、詩織と二人で手を叩く。二人の手拍子は、試合開始のときから明らかに強くなっていた。


 直矢たちの応援が届いたのか、千葉ガナッツは徐々に持ち直し、最終である第四クォーターは文字通り一進一退の攻防となった。


 千葉ガナッツがシュートを決めれば、アルバレス東京もお返しといったように点を取る。スコアは目まぐるしく回り、どちらがリードしているのか、表示がなければ分からないほどだ。


 両チームの意地のぶつかり合いに、直矢の握る手には文字通り汗が滲んでくる。


 ここまでの接戦はエンターテインメント的に見れば楽しいのだろうが、いざ目の当たりにすると、心臓がバクバクと跳ねてしまう。二人はコートで繰り広げられる選手たちの一挙手一投足から、目が離せなかった。


 それは試合終了の六秒前のことだった。リードされていたアルバレス東京が、起死回生のスリーポイントシュートを決めたのだ。スコアは八五対八七と、一気にアルバレス東京の二点リードに変わる。


 シュートが決まった瞬間、ほんの一瞬だけだけれど、直矢は客席が静まり返ったのを感じた。


 ここから千葉ガナッツが勝つには二点シュートを決めて延長戦に持ち込むか、大逆転のスリーポイントシュートを決めるしかない。


 リーグ優勝は、今日を含めた三試合で争われる。だから、仮に今日負けたとしてもまだ挽回は利く。


 客席は精いっぱい応援を続けていたけれど、「今日は負けか」というムードは拭えていなかった。


 だけれど、千葉ガナッツの選手たちは諦めなかった。


 すぐさま複数の選手が相手陣内に走り出す。もちろんアルバレス東京の選手たちもついてきているから、すぐにはパスは出せない。


 それでも、パスを受けた小谷野は一気にドリブルで前進すると、そのうちの一人にパスを出した。だが、相手選手のタイトな守備に遭って、ゴール下にはなかなか侵入できない。


 小谷野にパスが戻る。時間はもう一秒も残されていない。


 パスを受けた小谷野がシュートを打つのと、試合終了のブザーが鳴るのがほとんど同時だった。


 全員が固唾を吞んで見守る中、ボールはまっすぐリングを通ってネットを揺らす。


 その瞬間、会場の熱気は頂点に達した。それこそ爆発したかのように、誰もが興奮して、勝利を自分の事以上に大喜びしている。


 二人も突き上げてくる歓喜に、思わず立ち上がってしまう。詩織と一緒に直矢も、選手たちにこの日一番の拍手を送った。


 選手たちも喜びを爆発させて、シュートを決めた小谷野は選手たちにもみくちゃにされていた。


 八八対八七。千葉ガナッツはリーグ優勝を決める戦いの初戦を、見事勝利で飾った。


 選手たちが整列しても興奮は冷めるところを知らない。今までの人生でも味わったことのない盛り上がりに、直矢は見に来て大正解だったと感じる。きっと詩織にも、今日の記憶や光景は深く刻まれたことだろう。


 健闘を称え合う選手たちを見ながら、直矢は既にまたバスケットボール観戦に来たくなっていた。詩織とまた心から楽しいと思える経験をしたいと、強く感じていた。





 試合が終わって、最寄り駅への帰り道を歩く途中も、詩織は興奮が収まらないかのようにずっと話していた。


 駅へと向かう多くの観客と同じように、「今日のはブザービーターって言って、一番盛り上がる勝ち方なんだよ!」と、上機嫌に語っている。なかなか目にする機会はないらしく、「私たち運いいよね!」と言う詩織に、直矢も同意した。


 仮に今日負けても、いい体験ができたことには変わりなかったけれど、それでも応援したチームが勝ったことには格別の喜びがある。それは、詩織が大げさに思えるほど嬉しがっているからなおさらだ。


 「絶対また見に来ようね!」と呼びかける詩織は、すっかりバスケットボール観戦に魅了されたようで、次に行くときは千葉ガナッツの黄色のグッズを揃えていそうだった。


 でも、直矢も今日の選手たちの動きや会場の雰囲気に心を掴まれたのは同じだったので、「そうだな。また行こうな」と調子よく応えられる。


 この優勝決定戦を終えたら、今年のリーグ戦は幕を閉じる。だから、新しいシーズンが始まるまで、今日の経験を忘れないでいようと心に決めた。


 鮮烈な観戦体験に引き上げられた二人の機嫌は、家に帰るまで続いた。涼しくなり始めた夜道を歩いていても、会場の熱気が身体の中で渦を巻いているようだ。


 家の前で詩織と「じゃあ、また明後日ね!」と笑顔で別れる。


 明日は部活の大会があるから会えないけれど、またすぐに詩織と会えることを思えば、直矢はたとえ試合に出ることは叶わなくても、どうにか乗り切れそうな気がしていた。


 帰ってからも、直矢の幸せな時間は続いた。夕食は直矢の好きな美津紀特製の鶏の唐揚げで、しょうがの風味が利いた味わいに、ご飯をお代わりするほどだった。


 和やかな空気に会話も弾む。今日のバスケットボール観戦がとても楽しくて感動したという話を、二人は微笑ましく聞いてくれた。


 「そんなに楽しいなら、父さんたちも行ってみようかな」と興味を示してくれた清悟に、直矢は「うん! 絶対行った方がいいよ!」と断言できる。


 それくらい今日の観戦は、直矢の記憶に強烈に残るものだった。


 夕食を食べ終えて、食洗器に食器をセットすると、若狭家には一家団欒の時間が訪れる。直矢は清悟と一緒にソファに座り、隣のソファに腰を下ろした美津紀としばし雑談を楽しんだ。


 テレビは九時のニュースを流していたけれど、やはり直矢には他に見たい番組がない。


 それに今日は九州で行われた祭りの様子や、パンダの赤ちゃんが生まれたといった、平和なニュースが続いている。さすがに毎日は、物騒な事件は起こっていないようだ。直矢もソファに寄りかかりながら、あくびが出るほどリラックスできる。


 暖かな空気が流れるリビング。


 でも、そんなときだった。テレビが報じたニュースに直矢の目が留まったのは。


 それは、ヨーロッパの都市が空爆されたというニュースだった。


 スマートフォンのカメラで撮影したと思しき縦画面の中で、建物が壊され煙が上がる様子が、まざまざと映し出される。犠牲になった人々が、直矢には容易に想像できた。テレビも死傷者は数百人単位に上ると言っている。


 さらに、空爆は今回が初めてではないことにも、直矢は言葉にできないほどの衝撃を受けた。こんな戦争、もとい一方的な虐殺は元いた宇宙では起こっていない。開いたままの口が塞がらない。


 だけれど、ニュースは三〇秒ほどで終わって、すぐさま次の天気予報に移った。台風一号が発生したというニュースが、空爆のニュースよりも長い時間をかけて伝えられていた。


「えっ、何今の……。どういうこと……?」


 直矢には思わず、動揺が声になって表れてしまう。


 でも、二人は何ともないかのようにテレビを見続けていた。ネット記事に現れる広告みたいに、無視を決めこんでいる。


 「直矢、どうかしたのか?」と不思議そうに尋ねてくる清悟が、直矢には信じられなかった。現実として、大勢の人間が死んでいるというのに。


「いや、どう考えてもおかしいでしょ。なんで街が空爆されてんの?」


「なんでって、そりゃ戦争してるからだろ」


 あっさりと言ってのける清悟に、直矢は目眩がする思いがした。そんな戦争のニュースが日常となっている宇宙になんて、馴染みたくはない。


「えっ、本当に戦争してるの……?」


「うん。去年の今頃からずっとね。よくやるなぁって感じだよ」


「そんなに続いてんの……? なんで……?」


「確か最初は、領土問題がどうのこうのって言ってた気がするけど、最近じゃそれもよく分かんなくなってきたよな。戦争を続けるための戦争って感じで」


「それっていつ終わるの……?」


「さあ。俺は向こうの偉い人じゃないから分かんないよ。でも、そろそろいい加減にはしてほしいよな。建物が壊される映像とかも、見て飽きてきたし」


 「それ、分かるわー」と美津紀が乗じていて、直矢は見飽きてきたという清悟とともに、二人の感性を疑ってしまう。感覚が麻痺しているのだろう。表向きは平和だった宇宙から来た直矢は、唖然としてしまう。


 長野の事件のときも思ったけれど、やはりこの宇宙はどうかしている。


「いや、見飽きるとかじゃないでしょ。人が死んでんだよ。それも大勢。いや、数の問題じゃないけど、お父さんたちは見てて心が痛まないの?」


「心が痛むって言っても、所詮は海の向こうのことだしなぁ。別に会ったことがあるわけじゃないし」


「そうそう。今のところは、日本には関係ないみたいだしね」


「いや、関係ないからっていいの? 街が壊されて、人が人に殺されてんだよ? そんなの一日でも早く終わってほしいって思うのが普通でしょ」


「じゃあ何か? この戦争が始まった頃みたいに、街頭に出ていって『戦争やめろ』って訴えかけるのか? そんなことしても戦争なんて終わるわけがないのに? 海の向こうで喚く声なんて届くはずもないのに?」


 清悟に言われて、直矢は言葉に詰まってしまう。


 確かに今起こっている戦争を終わらせるために、自分にできることは何一つない。よくて「今すぐに戦争が終わりますように」と祈るくらいだが、それも明日からも戦争が続けば、何の意味もなさない。


 テレビが人間の脳の不思議を紹介する番組を流し始めても、直矢の頭から今見た短い映像が消えることはなかった。あれだけのインパクトがあったバスケットボール観戦も、既に上書きされて過去のものになってしまっている。


 自分は何事もなかったかのように、明日からも自然に過ごすのか。直矢は心の中でかぶりを振った。


「……いや、おかしいでしょ」


「おかしいって何が?」


「この世界自体が。こんな事件や戦争が日常化してるなんてあり得ないよ。二人もおかしいと思わない?」


 言葉だけでなく、直矢は目でも強く訴える。自分が抱いている違和感に、両親も気づいてほしいと願う。


 だけれど、二人からピンと来ている様子は、まるで感じられなかった。


「いやいや、世界って。スケール大きすぎだろ」


「そうだよ、直矢。今さら何言ってんの。じゃあ、事件や戦争がない別の世界に行けるっていうの? 行けないでしょ。私たちはここで生きるしかないんだから、そんなこと考えること自体が無駄じゃない?」


 二人の反応は至極当然なものだった。だって、二人は世界が、宇宙が一つではないことを知らない。


 でも、だからといってやり過ごすことは直矢にはしたくなかったし、してはいけないように思えた。


 日々起こる事件や戦争に鈍感になって、傷を負うことなく、なかったようにする。そんなことは許されるはずがない。


 最新の脳科学の成果を伝えるテレビも、直矢の耳には入らなかった。現状に対する危機感が直矢の胸の中では、はっきりと芽生えていた。





 目を開いた瞬間、直矢は自分が空白の世界にいることに気づいた。三六〇度どこを見てみても、何一つ影も形もない、完全な白に塗りつぶされた世界。


 再び放り込まれたここが、自分の夢の中だと直矢にはすぐに分かった。


 見渡す限りの白色が広がる中でも、直矢はこの世界の主に向けて呼びかける。


「おーい! バニー・ユース! いるんだろー!」


 あてもなく呼びかけてみても、返事はなかった。まさかここに一人きりでいろと言うのか。


 直矢は俄然不安になって、もう一度より大きな声を出してみる。また反応はない。


 それでも押し寄せてくる不安に負けまいと、直矢はさらに声を続けた。「おーい!」と、三度呼びかけてみる。


 そのときだった。背後から聞き覚えがある低い声がしたのは。


「そんなに何度も呼ばなくても聞こえているよ。若狭直矢君」


 直矢が声のする方を振り返ると、そこには思っていた通りバニー・ユースがいた。銀色の角ばった身体が、どこから当てられているのかも分からない照明に照らされて、輝いている。


 瞳のない目。固く結ばれた口から、落ち着いた声が出る。


「それで今日はどうかしたのかい?」


 バニー・ユースに表情はない。改めて見ると、それは少し不気味でもあったが、直矢は逸る鼓動を抑えるように口にした。


「ああ。お前って対象を、別の宇宙に移動させることができるんだよな」


「そうだよ。君だって、私によって宇宙間を移動したじゃないか。まだ実感が持てていないのかい?」


「いや、それはもう分かってる。だからこそ、今日はお前に頼みたいことがあるんだ」


「ほう、それはいったい何だい?」


 銀色に塗りつぶされた目が、直矢をじっと見ている。


 直矢は緊張している自分を消すためにも、一つ息を呑んでから意を決して切り出した。


「俺を元の宇宙に戻してほしい」


 直矢にしてみれば思い切った決断だ。後に退くつもりもない。


 だけれど、バニー・ユースは動かない口で、「はっはっは」と声を出して笑っていた。軽く身体をのけぞらせてまでいて、直矢はバニー・ユースも感情があるのだと知る。


「いや、失礼。君の言うことがあまりにもおかしくてね。私は、君の思い通りになる宇宙を用意したつもりなのに、君は何か不満なのかい?」


「ああ、不満だよ。あんな宇宙、来るんじゃなかったって思うよ」


「なぜだい? 勉強も部活も、何でもうまくいく宇宙だったのに? その証拠に君は瑠璃本詩織への告白を成功させて、あまつさえデートにまで行ったじゃないか。そのデートもこれ以上ないほど盛り上がって。まさに君が思い描いていた通りの宇宙じゃないか。君だって万能感を抱いて、気持ちよく感じていただろ? いったい何が不満だと言うんだい?」


「あの宇宙は、根本的に間違ってる。毎日のように人が死ぬような事件が起こって、一年以上も戦争が続いて。どう考えてもそんな宇宙が、正しいわけがない。俺だけよくてもダメなんだ。少しぐらい自分に不都合があっても、もっと平和な宇宙で、俺は生きていきたい」


「どうしてだい? 悲惨な事件も凄惨な戦争も、君には何一つ関係のないことじゃないか。心配しなくても、君にはそういったことは起こらないよ。なんてったって、何でも君の思い通りになる宇宙なんだからね」


「そんなの、たとえ無関係だと分かっていても、心が痛むんだよ。人が人に殺されるニュースを聞いて、平常心でいられるわけがない。この先もずっと心を痛めながら過ごすのは、俺には耐えられないんだよ」


「そんなのは、君がニュースを見ないようにすればいいだけの話じゃないか。そうすれば、君の周りには幸せなことしか起こらない。文字通りのシャングリラだ」


「そういう問題じゃないんだよ。そんなことしたって、悲惨な事件やニュースはなくなるわけじゃないんだから」


 言葉にすればするほど、直矢の今の宇宙にいたくないという気持ちは大きさを増した。自分の半径五メートルの外では、目を覆いたくなるような事しか起こらない宇宙には、もういられないと。


 バニー・ユースはかすかに頭を下げた。それは斜め下を向いていて、直矢には、固く結ばれた口から吐かれたため息が聞こえるようだった。


 つまり自分は呆れられたのだ。何を寝ぼけたことを言っているのだと、バニー・ユースの目が語りかけてくるようだ。


「君は何を言っているんだい? そんなの、君が今までやっていた通りにすれば、いいだけのことじゃないか」


「今までやっていた通り?」


「そう。君が元いた宇宙にだって、今の宇宙ほどではないにしろ、惨たらしい事件はあっただろ? 戦争だって過去のものじゃない。あまり報道されないだけで、現在進行形で起こっていたんだ。でも、君はそういったニュースから目を背け続けてきただろ? 見て見ぬふりをして、起きていないことにし続けていただろ? だったら、この宇宙でも同じことをすればいい。至極簡単なことじゃないか」


 「それは……」。直矢には、そこまで言うことしかできなかった。


 確かに遠くの街で起こった事件や、海の向こうの戦争を自分は知らないふりをしていた。SNSで目に入っても、すぐに別の好ましい投稿を見て忘れようと、気にしないにしようとしていた。


 それは無意識の行為だったが、それでも直矢には自分がやってきたことが、途端におぞましく感じられる。目を逸らしても、事件や悲惨なニュースはそこにあり続けていたというのに。


 「今、君が考えていることを当ててみせようか?」。唐突にバニー・ユースが言う。


 直矢は驚いて、小さく頷くことしかできなかった。


「この宇宙がなんでも自分の思い通りになるなら、自分が嫌だと思う事件やニュースを、全てなくしてくれと思っているね? だけれど、それは残念ながら無理な相談だ。世界は、宇宙は好事と悪事の釣り合いが取れるようにできているんだ。分かりやすく言うと、プラマイゼロというところかな。それはどの宇宙も例外ではない。だから、君が今いる宇宙は、君に良い事ばかりが起こる代わりに、君に関係ないところでは、悲惨な出来事がより多く起こるようにできているんだ。バランスが取れるようにね」


 自分が思っていることをピタリと言い当てられ、その上残酷なほどに突き放されて、直矢の身体の中から寒気が湧き上がる。シャングリラと呼べる理想郷は、どうやらどこにもないらしい。


 でも……。もしそれが本当だとしても……。


「もう一度同じことを訊くよ。君はどうして、そんなに元の宇宙に戻りたいんだい? 遠くのことには目をつぶってさえいれば、この宇宙は君にとって完璧な世界だというのに?」


 バニー・ユースは余裕綽々と言った様子で、身を乗り出すことはしなかった。直矢は相変わらず平坦な両目から、圧を感じてしまう。


 それでも、自分の意志は曲げたくない。俯きたくなる気持ちを抑えて、ぐっと顔を上げる。


「ああ。それでも俺は元の世界に戻りたい。顔も知らない誰かが、俺のせいで必要以上に苦しまなきゃいけない宇宙なんて、こっちから願い下げだ。俺も苦しいし、他の人もきっと同じように苦しい。だけれど、明るい兆しだって確かにある。そんな宇宙に、俺は生きていたいんだよ」


 元よりこの世界では、逃げられる場所も隠れられる場所も一つもない。だから直矢にできることは、バニー・ユースの目を見て、はっきりと自分の意志を表明することだけだった。決意は変わらないことを伝えるために、直矢は顔を上げ続ける。


 やがて、バニー・ユースは一つ頷いた。さらに低くなった声が、どこからともなく漏れる。


「分かった。そこまで言うのなら、私は君を、君が元いた宇宙に連れていこう」


 その言葉が思ってもみなかったから、直矢の口からは思わず、「マジで?」という言葉が出てしまう。


 バニー・ユースは、まったく気にしていないかのように鷹揚に応えた。


「ああ、本当だ。元々私は君を、君が望む世界に連れていく多元宇宙の案内人だからね。それでも、最後にもう一度だけ訊こう。元の宇宙に戻ったところで、君は後悔しないかい? うまくいかないことがあったときに、前にいた宇宙に戻りたいとは思わないかい?」


「……正直、それは思うかもしれない。でも、そう思ったとしても、なんとか元の宇宙でやってみせるよ。だって、俺が生きられる宇宙は、元の宇宙しかないんだから。たとえ最高じゃなくても、少しでもマシな世界で生きていくしかないんだから」


「そうだね。元の宇宙での君の人生がうまくいくように、私も陰ながら応援してるよ」


「ああ。でも、もうこういう真っ白な夢は見させないでくれよ。正直かなり不気味だから」


「ああ、分かっているよ。では、若狭直矢君。目を瞑ってくれるかな?」


 言われた通りに目を閉じる直矢。以前と同じように、バニー・ユースの手が両肩に乗せられる。


 相変わらず角ばった手でも、直矢は前よりは恐怖を感じなかった。


「バース・ジャンプ。トゥ・ノーマルワールド」


 バニー・ユースが嚙みしめるように口にすると、直矢は身体ごと強く引っ張られる感覚がした。物理的に自分が亜音速で移動しているかのようだ。


 直矢は目を瞑り続けた。次に目を覚ますときは、自宅のベッドの上がいいと思いながら、ゆっくりとぼやけていく意識に身を任せた。





 導かれるように、ゆっくりと目を覚ます。


 直矢の視界がまず捉えたのは、やはりオフホワイトの天井だった。カーテンから柔らかな日差しが漏れてきていて、身体には軽く疲労を感じる。


 本当に元いた宇宙に戻ってこられたのか、この光景だけでは確証がない。


 それでも、スマートフォンの電源を入れると、日付は数日間巻き戻っていた。それは直矢が詩織に告白してフラれ、傷心のまま眠りについた翌日を示していた。


 直矢は小首をかしげる。あの宇宙での出来事が、一夜の夢だったかのようだ。


 不可思議な感覚を抱いたまま、直矢はリビングへと向かう。既に両親は起き出していて、美津紀が朝食を作り、清悟がソファに座ってテレビを見ていた。


 直矢も清悟の隣に座る。テレビは朝のニュースを流していて、明日に迫ったスペースシャトルの打ち上げや芸能人の結婚の話題など、穏やかなニュースが次々と読まれている。


 悲惨な影は全くなくて、直矢は思わず清悟に今日の日付を尋ねていた。


 清悟が答えた日付はスマートフォンに表示された日付と同じもので、直矢は今過ごしている時間や見ている光景が、自分の夢や思い過ごしでないことを改めて知った。


 家族で朝食を食べ、制服に着替えたところで、玄関のインターフォンが鳴る。誰が来ているのかは、例のごとく直矢にはモニターを見ないでも分かった。


 スクールバッグを手にドアを開けると、そこには予想通り、詩織が立っていた。「おはよ」と言う声が、どこか歯切れが悪い。詩織らしくないどことなく微妙な表情に、直矢は気づく。


 元いた宇宙に戻ったからには、自分が告白して、詩織がフったことはなかったことにはなっていない。


 昨日の今日でどんな顔をすればいいのか、詩織には分からないのだろう。それは直矢も同じで、曖昧な表情で「おはよ」とだけ返す。


 気まずい二人の上で、空は雲一つない青空を広げていた。


「……直矢さ、ごめんね」


 学校へ向かい始めてからも、二人の間に会話はなかなか生まれず、詩織が口を開いたのは、、二人が歩き始めて数分が経ってからのことだった。


 ようやく絞り出したという表現がぴたりと当てはまる声に、直矢は胸に穴が開いたような感覚を抱いてしまう。


「いいよ、謝らなくて。詩織の答えは変わらないんだろ?」


 詩織は小さく頷く。バツが悪くてしょうがないと言うように。その表情はあまり見ていたいものではなかったから、直矢はすぐさま言葉を重ねた。


「だったらそれでいいじゃねぇか。俺ももう、無理に付き合ってくれなんて言わないからさ」


「えっ……、直矢は私と付き合いたいんじゃなかったの……?」


「まあ、それはそうだけどさ、今はそういうのちょっといいかなって思ってる。それよりもまた昼休みにだべったり、昨日までと同じ友達として接してくれた方が、俺は嬉しいかな」


 直矢にとっては正直な提案だ。心から出た言葉だ。


 それが分かったのか、詩織はふっと表情を緩ませた。


 視線の先にはコンビニエンスストアの看板が見える。二人がいつも圭と待ち合わせている場所だ。


「うん、そうだね。私も直矢とこれからも変わらず話し続けるよ。またカラオケ行ったり、一緒に遊んだりしよう」


 詩織の言葉がとびきり素直なものに感じたから、直矢も自然と「ああ、よろしく頼むぜ」と答えられる。付き合えない事実は変わらないのに、不思議と直矢の心には清々しさが生まれていた。


 建物の脇を過ぎると、コンビニエンスストアの前にいる圭を二人は見つけた。


 合流するとさっそく、圭に「何話してたんだよ」と訊かれ、直矢たちは笑ってごまかした。いつものことだから圭もそれ以上突っ込んで訊くことはせず、「まあいいや。行こうぜ」と、三人は再び学校までの道を歩き出す。


 今日の授業怠いわーというような、なんてことのない会話。


 だけれど、それは今の直矢にとっては、とても幸せに感じられるものだった。



(完)

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