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【第2話】アナザーバース

 結局、直矢は切り替えることはできずに、詩織への想いを引きずったまま部活に臨んでいた。


 走り込み中心の練習は、走っている間はともかく足を止めると、どうしても先ほどの光景が頭によぎってしまう。圭に背中を押されて、その気になっていた自分が馬鹿みたいに思える。


 明日詩織と会ったときには、どう振る舞えばいいのだろう。気まずくなりはしないだろうか。


 直矢は恥ずかしさで、身をよじりたい思いに駆られた。告白自体をなかったことにしたくさえなった。


 落ち着かない心境は家に帰っても同様で、テレビを見ていても、風呂に入っていても、家族と夕食を食べていても、直矢はどこか上の空だった。何をしていても、フラれたときのことを考えてしまう。


 そんな状態では勉強に身が入るはずもなく、直矢は試験勉強を早々に切り上げて、普段よりも早くベッドに向かっていた。


 スマートフォンで見るSNSも今は何の役にも立たない気がして、直矢はひたすらに目を瞑って、眠りに落ちるのを待つ。


 脳内にはおかしくなった再生機のように、告白をしたシーンがしきりに流れる。


 でも直矢は、ぐっとこらえて目を瞑り続けた。すると、脳内の情景はぼやけていって、やがて何も映らなくなった。


 直矢はふと気づく。自分が得体の知れない世界に立っていることを。


 そこは見渡す限り、すべてを浄化するような白色が広がっていて、全ての角度を見回してみても、人や物は何一つなかった。自分が地面に立っているのか、それとも空中に浮いているのかさえ判然としない。


 非現実的な光景に、これが夢であることは直矢にはすぐに分かったが、それでもここまで意味が分からない夢は初めてだ。自分は何をすればいいのか。そもそもここから抜け出せるのか。


 ここまで何もないと、たとえ夢だと知っていても、直矢は気が違ってしまいそうだ。


 早く目覚めるか、そうでなければ何らかの説明がほしい。


 背後から声がしたのは、そう思った矢先だった。


「やあ、君が若狭直矢君だね?」


 何の気配もしなかったところから急に差し込まれた声に、直矢は驚いて振り返る。


 するとそこには、直矢がかつて見たことのない何かが立っていた。人の形をしているものの、銀色に輝く角ばった容貌が、それが人間ではないことを決定づけている。


 ポリゴンのように、いくつもの直線的な図形が集まってできた姿は、機械人形と言った方がふさわしい。赤や黄色も表面には混ざっていて、直矢の目には少し派手にも映る。目や口といった顔のパーツもあることにはあるが、動いている様子はなかった。


 「えっ、はい」という声が、直矢の口をつく。否定しようという気が起きる前に出たリアクションだった。


「はじめまして。私の名前はバニー・ユース。多元宇宙の案内人だ」


 バニー・ユースと名乗ったそれの声は、どこから出ているのかは分からなくても、確かに直矢の鼓膜を揺らした。低く重みのある声に、直矢は目を瞬かせることしかできない。


 戸惑いためらう直矢を見て、バニー・ユースは語りかけるかのように続けた。


「さっそくだけど、君はここではない別の宇宙に興味はないかい? 何もかもが思い通りになる。そんな理想の世界に行ってみたくはないかい?」


 表情は動いていないけれど優しい声色に、目の前の相手が自分に好意的であることが直矢には分かった。


 だけれど、どう答えればいいかは相変わらず分からない。かといって、無限に広がる純白の世界に逃げ場があるとも思えない。


 二つの平行四辺形の目から視線を感じて、直矢はおそるおそる応えた。


「あの……、ここは夢の中なんですよね……?」


「そうとも。これは紛れもなく君が見ている夢だよ」


「えっと、じゃあどうやったら起きれるんですか……?」


「それは言えないな。でも一つ言えるのは、私の質問に答えない限りは、君は夢から醒めないということだ。もう一度聞こう。君はここではない別の宇宙に興味はないかい?」


 バニー・ユースはわずかに顔を近づけながら、再び訊いてきた。銀色の目が直矢に圧力を与えてくる。


 でもいくら夢だとしても、この展開は突拍子もなさすぎる。別の宇宙なんて、まるでフィクションの世界だ。


「あの、興味は……ないです……」


「そうかな? 君は現状に満足していないんじゃないかな? 成績は平均よりも少し下。運動神経も芸術的センスもなんら秀でたものがない。まさに普通を絵に描いたような高校生。君だって本当は、自分が何かの主役になれるような人間じゃないって、分かってるんだろ?」


 バニー・ユースは直矢の現状をピタリと言い当てた。


 確かに自分は、今までの人生で目立った経験がない。ほどほどの成績に、まずまずな部活動。どこにいても主役は自分とは別にいた。


 だからこそ、直矢はそこまで言わなくてもいいのではと感じてしまう。胸にかすかな反感が芽生えた。


「……普通の何が悪いんですか?」


「いいや、私は何も君が悪いと言ってるわけじゃないんだ。でも、君は瑠璃本詩織にフラれた。好意を寄せていた相手から『付き合えない』とはっきり言われた。そんな自分で、現状でいいのかい? 私だったら君が主役になれる世界を用意できる」


「俺が主役になれる世界……?」


「そう。君は極めて優れた人間になるんだ。勉強も部活も全部うまくいく。まさに世界が、自分を中心に回っているような万能感さ」


「いや、そんな世界あるわけが……」


「いいのかい? その世界でなら、瑠璃本詩織の返事も変わるかもしれないのに?」


 詩織のことを持ち出すのはズルい。直矢の頭の中の天秤は、俄然ぐらつき始める。心の中を見透かされている感じが少し不気味だ。


 だけれど、それ以上に直矢の心は、バニー・ユースの提案に傾き始めていた。


 勉強や部活はともかく、詩織と付き合えるかもしれない。そう思うとバニー・ユースの言う別の宇宙が、にわかに魅力的に思えてくる。


「いや、たとえそうだとしても、別の宇宙なんて話が突飛すぎるというか……。とても信じられないというか……」


「確かに君がそう思うのも無理はないね。でも、若狭君。宇宙がたった一つなんて誰が証明したんだい? 宇宙は、世界は、それこそ星の数以上にあるんだよ。この世界でしか生きられない。それは君の勝手な思いこみじゃないかな?」


 落ち着いた声も相まって、バニー・ユースの言葉に直矢は説得力を感じた。確かに世界がたった一つだなんて証明しようがない。フィクションの中で描かれる多元宇宙は、もしかしたら絵空事ではないのかもしれない。


 いや、それでも……。


「……本当に別の宇宙があるんですか?」


「ああ、あるよ。君が望むなら、私は君をどの宇宙にでも連れていこう。さあ、どうする? 若狭直矢君」


 直矢の意思を試すかのように、バニー・ユースは再度訊いてくる。メタリックの目が力強い。


 考えるのに時間は必要なかった。今のままは嫌だと、心の奥から声がする。


 直矢は首を縦に振った。


 バニー・ユースの顔は、固定されていて変化がない。だけれど、どことなく微笑んだように直矢には見えた。


「ああ、分かった。では、君を理想郷・シャングリラに案内するよ」


 「では、目を瞑ってごらん」。直矢はバニー・ユースの言う通りにした。夢の中で目を瞑るのは、不思議な感覚がある。


 バニー・ユースは直矢の両肩に手を置いた。硬い感触が伝わってきて、少しすくみ上がってしまう。


「バース・ジャンプ。トゥ・シャングリラ」


 声がした途端、直矢には自分の身体が瞬時に軽くなる感覚がした。重力から解放されたかのようだ。


 風を切るような心地に、自分が物凄いスピードで移動しているのが分かる。目を開けるのがなぜか恐ろしくて、直矢は目を瞑り続けた。どこかへ向かっている感覚が確かにする。


 直矢はただ流れるままに身を任せた。瞼の裏に広がる暗闇に、どこか安心する感じがした。





 直矢が目を覚ましたとき、真っ先に飛びこんできたのは、オフホワイトの天井だった。カーテンから漏れる朝の日差し。枕元には充電器につないだスマートフォン。毎朝飽きるほど見ている景色だ。


 身体を起こすと、温い空気が肌に触れる。本当に別の宇宙に行ったのかと思うほど、直矢の部屋には変化がなかった。


 それはリビングに行っても同様で、テーブルに上がった朝食も、両親と交わす雑談も、全てが今まで通りだった。あまりに普段通りの光景に、直矢は少しがっかりとしてしまう。学校も普通にあるらしい。


 それでも直矢は気を落とさず、身支度を調えていく。


 制服を着たところで、玄関からチャイムが鳴る。誰が来ているかは、直矢にはモニターを見なくても分かった。


 玄関を開けると、そこには案の定詩織が立っていた。軽く微笑みながら「おはよ」と声をかけてくる。


 昨日の今日でどんな顔をすればいいか分からなかったけれど、とりあえず直矢も曖昧に笑って同じ言葉を返した。うまく笑えているかどうかは自信がなかったけれど、詩織は直矢の少しぎこちない態度も気にせずに、学校へ向けて歩き出す。


「ねぇ、直矢。最近さ、スタバに新しいフラペチーノ出たの知ってる?」


「い、いや、知らねぇけど」


「メロンフラペチーノだって。メロンだよ? 絶対美味しいよね」


「ああ、そうだな」


「ねぇ、今度飲みに行こうよ。またテストが終わった後にでもさ」


 機嫌よさげに話す詩織に、直矢は歯切れの悪い返事しかできなかった。こっちはまだ昨日のことを引きずっているのに、詩織はもう切り替えたのか。


 いや、フった方は往々にしてそうなのかもしれない。


「直矢、どうかしたの? 今日、元気なくない?」


「いや、昨日の今日で元気よく振る舞える方がおかしくないか?」


「昨日の今日って? 昨日何かあったの?」


 詩織は心底不思議そうな顔をしていて、何一つ心当たりがないようだった。ここで嘘をつくほど、詩織の意地が悪くないことも直矢には分かっている。


 ということは、ここは本当に別の宇宙なのか。自分が詩織に告白しなかった宇宙なのか。昨夜見た夢は、まったくの絵空事ではなかったのかもしれない。


 考えているうちに直矢の口数は減って、詩織が「本当にどうかしたの?」と訊いてくる。思わず「いや、何でもねぇよ」と答える直矢。


 詩織は「えー、何? 気になるじゃん」と口をとがらせていたが、まさかここでもう一度告白するわけにもいかない。二日続けて告白できるほど、直矢の神経は図太くなかった。


 「マジで何でもねぇから」とだけ答えて、通学路を歩いていく。空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。






「じゃあ、この問題を若狭。解けるか?」


 そう直矢が教師から名指されたのは、二時間目の数学の授業だった。一昨日から間隔が短くないかと思ったけれど、教室は誰も違和感を抱いていない。


 黒板に書かれた数式は、一昨日とは違う。だけれど一目見ただけで、まるでコンピューターが入っているみたいに、直矢の頭は瞬時に解を導き出した。誰か別の人間の頭と入れ替わったようにさえ感じてしまう。


 直矢は前に出て、数式を解いた。書き終わると隣から「正解だ。さすが若狭だな」という教師の声がした。自分になら解けると思っていたようで、直矢は不可解さを感じてしまう。


 だけれど、それも詩織が小さく微笑んでいるのを見ると、すぐに喜びに上書きされた。





「ねぇ、二人とも。今日の放課後空いてる?」


 午前中なんとか持ちこたえていた空は、昼休みに入るタイミングで、とうとう雨を降らせ始めていた。教室にも灰色がかった空気が垂れ込み始めるなか、弁当箱を開いた詩織は、全く気にしていないというように呼びかける。


 その言葉が一昨日とまったく同じで、デジャブかと思ったけれど、直矢は目をかすかに開くだけに留めた。


「俺は今日は塾ないから大丈夫だけど、直矢はどう?」


「あっ、ああ。俺も部活が終わった後なら空いてる。今日雨で練習も短くなるだろうし」


「そう! じゃあさ、部活終わった後にでも、三人でカラオケ行かない?」


 「それ、いいな」と言う圭の横で、直矢は首を傾げたくなった。冗談抜きで、一昨日の会話のリプレイをしているみたいだ。


「いや、カラオケならこの前行ったばかりだろ。別のとこにしようぜ」


「いや、カラオケはまだ今月行ってなくね? いつのことを言ってんだよ」


「ねぇ、直矢。マジでどうしたの? 今日ちょっとおかしくない?」


 詩織だけじゃなくて、圭にまで訝しんでいるような目を向けられて、直矢はごまかすように笑うしかない。「いや、なんか前にも似たようなことあった気がしたけど、気のせいだったわ」と軽い調子で言ってみても、二人はまだ怪しむような目をやめてはいなかった。


 「それよりさ、今日カラオケ行くとして何歌うよ?」と、半ば強引に話題を転換させる。二人は気にしていないように応じてくれたけれど、直矢は心の中で冷や汗をかいていた。





 爽やかな歌声がマイクを通して広がる。人気アニメの主題歌でもある有名曲を、詩織は嬉しそうに歌っている。同じ歌を口ずさんでいる圭の隣で、直矢もまた詩織の歌に乗っていた。


 来る前はまたかと思っていたけれど、いざ来てみればそんなことは関係なく、楽しく感じられる。


 直矢は誰にも邪魔されない、理想的なひとときを堪能していた。門限を過ぎても、まだ詩織や圭といたいと思った。


「九一点かぁ。まあまあだね」


 採点結果を見て、詩織が呟く。直矢からすれば十分すぎるほどの高得点なのに、完全には満足がいっていないらしい。


 「いや、すっげぇよかったって」と言っている圭に、直矢も頷く。詩織をおだてたいわけではなく、ただ楽しい気持ちにさせてくれた感謝からだった。


「二人ともありがと。ねぇ、そろそろ直矢の番じゃない? なんか歌ってよ」


 詩織は、直矢に選曲用のタブレットを渡した。遠慮したい気持ちもあったが、それでも室内に満ちた高揚感に当てられて、直矢は自分も歌いたくなっていた。


 少し迷ったのちに、一昨日歌った曲と同じ曲を選ぶ。詩織や圭には一昨日のカラオケはなかったことになっているようだし、それにこの曲は誰が歌ってもそれなりに盛り上がる。場の空気を悪くすることはないだろう。


 曲に乗ってくれている二人を見ながら、直矢は息を吸って歌いだす。口を開いた瞬間から、直矢は自分の歌が今までとは様子が違うことに気づいた。


 声には自分のものと思えないくらい伸びがあり、音程も一つも外さない。歌うのが少し難しい箇所も、難なく歌える。本当に自分の声なのかと戸惑いもあったが、それ以上にうまく歌えている喜びが直矢の中で勝った。


 サビに入ると二人は手を振り上げてまで、曲を盛り上げてくれた。直矢も自然と頬が緩んでしまう。


 カラオケをしていてここまで楽しいと思ったことは、未だかつてなかった。


「直矢、すっごいよかった! やっぱ歌うまいね!」


 歌い終わるやいなや、詩織が興奮気味に褒めてくれたから、直矢はさらに気分をよくする。「やっぱ」という言葉に、直矢は自分が別の宇宙に移った実感をより強くした。


 画面は曲が終わるとすぐに、採点結果発表に切り替わる。大きく広がった五角形に次々となされる加点。でかでかと、九五点という数字が表示される。


 当然今まで取ったことのない高得点に、直矢は驚きを隠せない。あまりに高い評価を受けると、嬉しいと思うよりも先に戸惑いが来るのだ。


「直矢、お前やっぱすげぇな! 何歌っても大体九〇点以上取るもんな!」


 歌で盛り上がった雰囲気そのままに、圭が称えてくる。この宇宙での自分は、歌もうまいのかと直矢は若干驚きはしたけれど、もてはやされる嬉しさに「まあな」という返事が口をついた。夢の中で言われたとおり、万能感さえ覚えてしまう。


 「直矢って本当何でもできるよね」と詩織におだてられて、心の中でガッツポーズをする。「そんなことねぇよ」と謙遜する声も浮かれていて、説得力がなかった。


「そんなことよりさ、圭も歌えよ。順番的に次はお前の番だろ」


「えー、連続で九〇点台出された後に歌うの、すっげぇプレッシャーなんだけど」


 軽く渋りつつも圭はタブレットを手にして、曲を選び始めた。締まりのない横顔に、直矢や詩織の表情もより緩んでいく。何の心配もない空間にいられることが、直矢にはこれ以上ないほど嬉しかった。


 圭が選んだのは、三人が生まれる前に作られたバンドの曲だった。


 よく知ってるなと思いつつ、アップテンポなイントロに直矢は何も考えずに乗る。詩織も楽しそうに手を叩いていて、この宇宙に来られてよかったと直矢は思い始めていた。





 カラオケは帰宅が遅くならないように、一時間ほどですっぱりと終わった。


 圭と別れた二人は、暗くなり始めた国道を歩く。昼間から降っていた雨は、カラオケが終わるころには止んでいて、道に残った水たまりに車のヘッドライトが反射していた。


 カラオケボックスでの熱が冷めやらないかのように、帰りながら二人の話は弾む。詩織も日中感じた違和感はもうないかのように、好きなミュージシャンや漫画の話をしていた。


 特に漫画の方は直矢も好きだったので、高いテンションを保ったまま、帰途に就けた。好きなシーンも一致して、直矢は最新話が更新される明日が、余計に楽しみになっていた。


 カラオケボックスがある駅前から二人の家までは、歩いて一〇分ほどしかかからないから、話していると二人はあっという間に家の前に着く。二人は道の手前にある、直矢の家の前で立ち止まった。


 瞬く電灯の明かりが二人を照らし、雲が晴れた空には半分に欠けた月が出ていた。


「じゃあ、直矢。また明日ね。今日は楽しかったよ」


 柔らかな笑顔で詩織は簡潔に言って、自分の家へと帰ろうとする。


 だけれど、直矢は何か考えるよりも先に「ちょっと待って」と、詩織を呼び止めていた。「何?」と不思議そうな顔をして、詩織は振り返る。


 自分に向けられた目に、直矢は色々なことを考え出す。でも、考えれば考えるほど、シンプルな答えが大きさを増していった。


「あのさ、帰る前に一つ言っておきたいことがあって」


「言っておきたいこと?」


「ああ。俺、詩織のことが好きなんだ」


 この宇宙では、今のところすべてがうまくいっている。だから、これだって例外じゃないのかもしれない。そんな曖昧な希望に縋るような気持ちで、直矢は詩織に想いを伝えた。


 案の定、詩織はキョトンとしたような、戸惑ったような表情を見せている。


 「えっ、どうしたの? いきなり」と訊き返されても、直矢は挫けなかった。ここで素直に飲みこんでくれたら、それこそ都合がよすぎる。


「別に昨日今日の話じゃない。何なら中学のときから、俺はずっと詩織が好きなんだ。一緒にいると心から嬉しいって思える。嘘じゃない。だから、詩織がよければだけど、俺と付き合ってくれませんか。お願いします」


 そう言うやいなや、直矢は頭を下げた。単なる思いつきではないことを伝えるように深く。


 詩織が「直矢、顔上げて」と言うまでに、少し間があった。


 言われるままに直矢は頭を上げる。詩織は心を決めたのか、穏やかな目をしていた。


「直矢さ、本当に突然だね」


 落ち着きを取り戻した声は、直矢の全身を貫いた。自分が場違いなことを言った気がして、思わず「ごめん」という声が漏れる。


「何謝ってんの。言ったことに嘘はないんでしょ?」


「ああ。俺本気で詩織のことが好きだから。よければ、詩織の気持ちも聞かせてほしい」


「それって今、ここで?」


 即座に訊き返されて、直矢は言葉に詰まってしまう。さすがにすぐ答えを出せるような話ではなかったか。


 軽く目が泳ぎ始めた直矢を見て、詩織は「冗談だよ」と小さく微笑んだ。


 直矢の少し焦ったような反応を見てから、表情を真剣なものに変える。次の言葉が出るまで、今度は時間はかからなかった。


「うん。私も直矢のことが好き。今よりももっと会ってたい。付き合ってくださいなんて、こっちからお願いしたいくらいだよ」


 望んでいたはずの返事でも、実際に言われると直矢はすぐに飲みこめなかった。ほとんど無意識のうちに「えっ、マジで?」と訊き返してしまう。


 詩織は、再び表情を緩めてみせる。先ほどよりもすっきりとした笑みだった。


「マジだよ。この場面で嘘言うと思う?」


 直矢は小さく首を横に振る。詩織の素直な性格は、二年近い付き合いの中ですでに知っていた。


「本当に付き合ってくれんだな……?」


「うん、本当だって。明日からはさ、一緒に学校行って、一緒にお昼ご飯食べて、一緒に帰って。それで予定が合ったら休みの日とかは遊ぼうよ」


 「って今までとそんな変わんないか」。そうはにかむ詩織を見て、直矢は初めて神様に感謝したい気分になった。もしかしたらそれは、夢の中に出てきたバニー・ユースかもしれない。


 まさに至れり尽くせりといった環境に、直矢は恍惚感さえ覚えていた。天にも昇る心地という言葉の意味が、初めて分かった気がした。


 「じゃあ、直矢。また明日ね!」と、とびっきりの笑顔で詩織が言う。それが今までにないくらい可愛くて、直矢の胸はどきりと跳ねた。


 けたたましく鳴っている心臓をごまかすように、「ああ、また明日な」とそれでも笑顔で応える。


 自分の家に入っていく詩織を見送ってから、直矢は強くガッツポーズをした。それは直矢が今までの人生で味わったなかで、一番いい思いだった。





 これ以上ないほど上機嫌のまま、直矢は自分の家に帰っていた。


 ドアを閉めると、暖かな照明と両親からの「おかえり」の声が直矢を迎える。どの宇宙でも変わりない心地のいい声に、直矢の表情には余計に締まりがなくなった。


 母親である美津紀(みづき)がわざわざリビングから出てきて、「雨、大丈夫だった?」と言ってくれる。「うん。帰るころには弱くなってたから大丈夫だった」と答える声は、完全に浮かれていた。


 にやけ顔のまま制服から部屋着に着替え、直矢はリビングに向かう。


 ソファには美津紀が座っていて、後方のキッチンでは父親である清悟(せいご)が夕食を作っていた。鍋からはほのかにカレーの匂いが香り、直矢の気分をまた一段階引き上げる。


 テレビは七時のニュースを流していたが、特に見たい番組もなかったので、直矢はそのまま美津紀の隣のソファに座った。今日の学校はどうだった? みたいなとりとめのない話でも、直矢はごく自然に話せて、リラックスできていた。


 まだ浮かれている心が表情に出ていたのだろう。美津紀に「何かあった?」と訊かれたけれど、直矢は「ううん、何でも」と答える。


 まったくはぐらかせていないことは自分でも分かっていたけれど、美津紀はそれ以上は訊いてこなかったので、直矢は詩織と付き合い始めた喜びを嚙みしめていた。


 スマートフォンで適当にSNSを見ながら、美津紀となんてことない話をしていると、テレビは軽やかな効果音を鳴らした。


 だけれど、入ってきたニュースはまったく軽快なものではなくて、直矢は思わず目を凝らしてしまう。


『長野で無差別殺傷事件 6人けが 3人死亡』


 目に飛びこんできたニュースを、直矢はすぐに受け止められなかった。


 長野県で発生したその事件は、二八歳の男が人の集まる駅前で、子供や高齢者を中心に、ダガーナイフで道行く人々を無差別に切りつけたとのことだった。


 現場の映像が、かつて直矢も一度家族で訪れたことがある駅だったから、その分衝撃も大きい。


 小さくても口を開けっぱなしにしている直矢の横で、美津紀は穏やかな表情を変えてはいなかった。まるで季節の花が咲いたニュースみたいに、関心を持っている様子はない。


「えっ、母さん。ここ行ったことあるよね」


「うん。三年くらい前のゴールデンウイークでしょ。それがどうかしたの?」


「いや、そこでこんな大きい事件が起こるなんて、普通驚くでしょ」


「そう? 別に通り魔なんて珍しくもなんともなくない? ほら、先週だって名古屋で同じような事件あったばかりだし」


 さらっと言った美津紀に、直矢はさらに驚いてしまう。直矢が元いた宇宙では、そんな事件は起こっていない。


「えっ、そうなの?」


「そうだけど、直矢覚えてないの? ねぇ、お父さん。先週名古屋で通り魔あったよね?」


「ああ、あったな。すっかり忘れてた」


 キッチンに向けて声を飛ばした美津紀に、清悟がとぼけたように返す。声には何の感情もこもっていなくて、直矢は少し不安になった。


 テレビも三〇秒もしないうちに事件のニュースを終えて、スポーツニュースに移っている。メジャーリーグで日本人選手がホームランを打ったニュースが、時間をかけて伝えられていた。


「ねぇ、通り魔とかそういう事件って、そんな頻繁に起こってるの?」


「まあ、ちょくちょくあるね。でも、数年前と比べると多くはなってきてるかも。ねぇ、お父さん。今日みたいな事件って今年に入って何回目だっけ?」


「さあ。そんないちいち覚えてらんないよ。でも数えてないけど、多分二〇回は同じこと起こってんじゃないか。今年だけでも」


 淡々と答える清悟にも、直矢は軽く戦慄した。


 まだ一年の半分も終わっていないのに、今日みたいな無差別殺傷事件が二〇回以上も起こっているなんて、どう考えても尋常ではない。


「えっ、多くない? そんなに通り魔起こってんの?」


「いや、でもここ数年は毎年こんな感じよ。去年は隣の市でも、人が殺される事件があったしね」


「えっ、嘘でしょ……?」


「本当本当。三人くらいだったかな、殺されたのは。まあ犯人もすぐに捕まって、今は刑務所にいるからもう心配はないんだけどね」


 身の毛がよだつような話も、美津紀は明日の天気もいいらしいよみたいな口調で言っていた。


 だけれど、直矢は途端に恐怖を感じてしまう。この宇宙の治安がそんなに悪いとは。この調子では明日自分たちの市で通り魔が出たり、殺人事件が起こっても何らおかしくない。外を歩くのが、急に怖くなってくる。


 だけれど、不安に苛まれる直矢をよそにテレビは七時のニュースを終えて、動物の生態を紹介する番組を呑気に流し出す。


 「夕飯できたぞー」と声をかける清悟に、美津紀が「うん、今行くー」と応えている。直矢もひりついた感情を抱えながら、ダイニングテーブルへと向かった。


 好物のビーフカレーを目にしても、直矢はうまく笑えなかった。詩織と付き合うことになって嬉しいという気持ちは、いつの間にか隅に追いやられていた。



(続く)

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