【第1話】ノーマルワールド
「ねぇ、二人とも。今日の放課後空いてる?」
昼休みに入るやいなや、瑠璃本詩織が呼びかける。高く透き通った声は、授業中から二人に話しかけるのを待っていたみたいだ。
スクールバックから弁当箱を取り出して、若狭直矢は正直に答える。
「うん、空いてるけど。吉波はどう?」
直矢が話を振ると、吉波圭はコンビニエンスストアのパンの袋を開けている最中だった。いかにもカロリーが高そうな菓子パンを、一口食べてから返事をする。
「ああ、俺も空いてる。今日は塾もねぇし」
詩織はパッと目を輝かせた。昼食もよそに食いついてくる様子が、直矢には飼い主を見つけて駆け寄ってくる、飼い犬のようにさえ見えた。
「じゃあさ、三人でカラオケ行かない?」
詩織の提案は、直矢でも薄々予想できたものだった。詩織はカラオケが好きでよく行きたがる。歌うのが気持ちいいらしい。
圭が半笑いを浮かべながら、「瑠璃本、またかよ」なんて言っている。直矢も同意だ。
二人の視線を受けても、詩織は何ら恥ずかしがることなく「うん、また」と応えている。窓からの日差しが顔を斜め上から照らして、ただでさえ白い肌をより白く見せていた。
「だってさ、二人とも帰ってもやることないでしょ。だったらさ、カラオケ行ってパーッと歌おうよ」
いや、勉強があるだろ。中間試験、再来週だろ。そう直矢は思ったけれど、満面の笑みを浮かべている詩織を前に、ツッコむ気は起きなかった。何でも要領のいい詩織は、勉強も上の中くらいにはできる。
それに直矢は中間試験に向かう教室の空気を、どこか息苦しく感じていた。
「俺は行ってもいいけどな。入学してから勉強ばっかで、ちょっと疲れてきてるし」
「確かにウチの高校、偏差値高いもんな。授業が進むスピードも速いし」
「でしょ。だから日頃のストレスをさ、歌うことで発散しようよ。勉強はまた帰ってからやればいいし」
簡単に言ってのける詩織に、それができたら苦労しないんだけどなと、直矢は思う。直矢にはそこまでの余裕はない。
でも、だからこそ中間試験に向けて、英気を養いたい。そう直矢は、目先の快楽に負けた自分を正当化した。
「お前もどう?」と言うような目で、圭を見やる。詩織も待望するような目を向けている。
圭は菓子パンをまた一口食べてから答えた。
「じゃあ、俺も行くわ。たまには息抜きも必要だしな」
「でしょー。じゃあ、決定! 二人とも放課後よろしくね!」
明度の高い声で言った詩織に、直矢も圭も頷く。せっかくの機会だ。楽しまなければ損だろう。
それに詩織は歌も上手い。伸びのある歌声は、直矢にとってはカラオケじゃなくても、毎日でも聴いていたいものだった。
「詩織さ、今日何歌うの?」
「えー、ずとまよとか?」
「お前、いっつもずとまよ歌ってるよな」
「いいじゃん、好きなんだから。そういう直矢はヒゲダンとかでしょ? 飽きないね」
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」
「何、ちょっと失礼なんですけど」
昼食を食べながら、会話は続いていく。
詩織は軽く笑うように言っていて、腹を立てている様子はなかった。その表情に、直矢も釣られるようにして笑ってしまう。面と向かって会話しているだけで、楽しく感じてしまう。
圭も交えて、三人は束の間の休憩をリラックスして過ごす。
騒がしい教室に、窓の外に広がる抜けるような青。きっとどこの学校にもある、ありふれた光景だ。
だけれど、直矢はささやかに安心していた。気の合う友人といると、勉強の大変さも吹き飛んでいくようだった。
「じゃあ、この問題を若狭。解けるか?」
教師に指名されたのは、直矢がぼんやりと窓の外を見ていたときだった。「は、はい」と変な声が出てしまう。三〇人もいるクラスから指名されたのは、教師の気まぐれの要素が強いのだろう。
それでも応えないわけにはいかず、直矢は黒板の前に歩み出る。
黒板には数式が書かれていた。でも、数学が苦手な直矢にとっては、異国の言語のようにすら見える。実際に間近で見てみて、チョークを持ったら何か変わるかと思ったけれど、何一つ変わらない。ただ解けない、分からないという現実が、目の前に広がるだけだ。
クラスメイトからの視線が、刺すように痛い。「どうした?」と訊いてくる教師の声が、悪魔のささやきみたいだ。
さらし者にされているような感覚に直矢は耐えられず、「すいません。分かりません」とだけ答える。
教室に直矢を笑う者はいない。だけれど、落胆した雰囲気は確かに漂っていて、直矢は胸を痛めた。代わりに教師に指名された詩織が難なく問題を解いていたことも、直矢の恥ずかしいという気持ちに拍車をかける。
この調子で中間試験は大丈夫なのだろうか。直矢の心に不安の雲が広がる。
カラオケのことを考えて気を紛らわせても、それは一時の現実逃避でしかなかった。
マイクを握って詩織が歌う。溌溂とした歌声がテンポの速い曲に合っていて、カラオケボックスはさながら彼女のライブ会場のようになる。
難易度の高い曲を笑顔で歌いこなす詩織から、直矢は目を離せないでいた。あまり自分からは聴かないような曲でも、詩織が歌うと途端に良く直矢には感じられた。あとでサブスクでチェックしてみようと思える。
来る前は少し渋っていたくせに、圭も上機嫌で曲に乗っていて、カラオケボックスには爽やかな空気が流れていた。
「九二点かぁ。まあまあだね」
採点結果に詩織が示した反応に、直矢は毎度のことながら驚きを覚える。九二点なんて、直矢には夢のまた夢の高得点だ。
「いや、凄ぇだろ。九二点って。もっと喜べよ」
「うーん、でももっと高い点取れることもあるからね。もちろん悪くない点数ではあるんだけど」
「九二点で悪くないってどんだけだよ。カラオケ番組でも出れるんじゃねぇの?」
「いや、私はいいよ、そういうの。恥ずかしい」
「冗談だよ。何、本気にしてんだよ」
「えー、ひどいなー。ほら、そう言ってないで直矢も何か歌ってよ。ただ座りに来たわけじゃないでしょ?」
詩織の歌でハードルが上がりきった状態で歌うのは、直矢には気が引ける。適当なことを言って、ごまかしたくもなる。
でも、詩織だけじゃなく圭の目も「お前が歌え」と訴えていて、この狭い空間でそれを無視するのは、直矢には難しかった。
適当に誰が歌っても盛り上がりそうな、人気バンドの有名曲を選ぶ。詩織からマイクを渡されて立ち上がる直矢。イントロから二人が手を叩いて盛り上げてくれるのが、少し恥ずかしかった。
場を白けさせないように、直矢はできる限りの声を出して歌う。でも、音を外しまくっていることが分かり、本心から乗って歌うことはできなかった。
それでも、どんなに下手な人間が歌ってもある程度は盛り上がるこの歌は、歌自体が持つポテンシャルだけでカラオケボックスの空気を明るくしていた。詩織や圭も乗ってくれている。
それが直矢には少し申し訳なく思えたけれど、せめてもの意地として顔には出さなかった。
採点結果は例に漏れずすぐ出る。七一点というはっきりと悪い点数に、直矢は思わず苦笑いを浮かべた。六〇点台もざらにあるからこれでもまだいい方だが、それでも詩織の後だと、バツの悪さを感じずにはいられない。
「まあ、こういうのは点数じゃないしね。高得点が必ずしも上手いってわけじゃないし」
詩織のフォローも気を遣われていると感じてしまい、直矢は額面通り受け取れない。でも、空気を悪くはしたくなかったので、「ああ、ありがとな」と答えた。
詩織や圭によって、微妙になりかけている雰囲気もすぐに回復していくだろう。自分にできることは、あまり出しゃばらないことだと、直矢はひとり思った。
それからも詩織や圭が数曲歌って、カラオケは続いていく。
ミディアムテンポのバラードを歌い上げると、詩織は「ちょっとトイレ」と、部屋から出ていった。
残された直矢はコーラを一口飲む。コップから口を離すと、すぐに圭が話しかけてきた。
「直矢、今日あまり歌わねぇじゃん。調子悪いの?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど。でも、俺が歌うよりも、お前や詩織が歌った方がいいじゃん。だって俺、歌下手だし」
「別にそんなことないと思うけどな。普通だよ、普通」
圭のフォローに、直矢は「ああ、そうだな」と頷く。心からそうとは思えなかったが、それでも否定して空気を澱ませてはいけないだろう。
「ところでさ、前々から聞こうと思ってたんだけど」
「何だよ」
「お前と瑠璃本って、どんな関係なの?」
圭の言うことが突飛だったから、直矢は思わず訊き返してしまう。そんなことを訊かれる心当たりは、まったくなかった。
「だってお前と瑠璃本って、よく一緒にいんじゃんか。休み時間もよく話してるし。何? お前ら付き合ってんの?」
「ばっか。そんなんじゃねぇよ。前も言ったけど、詩織は中二のときに引っ越してきたお隣さんなんだって。それ以上でもそれ以下でもねぇよ」
「いや、その説明は無理あるだろ。ただのお隣さんってだけで、そんな親しくするか? 高校も同じとこ受ける必要ねぇし」
「それはただの偶然だよ。俺だって詩織が西高行くって聞いたときは、びっくりしたんだから。とにかく俺は中学のときから詩織と仲良くしてるだけだから。お前が思ってるような関係じゃねぇよ」
「へぇ。でも、お前と瑠璃本は、もうクラスの公認カップルみたいになってるけどな。全員、お前たちが付き合ってるって思ってる」
「その全員って、お前も入ってんのか?」
「まあな。だからってわけじゃねぇけど、お前もう瑠璃本に告っちまえよ。正直じれったいんだよ。ただ話したり、一緒に遊んだりしてるだけのお前たちを見てると」
自分と詩織が周囲からそういう目で見られていることは、直矢も薄々気づいていた。でも、いざ言葉にされると、小さな衝撃を受ける。
圭の口調は言葉から受ける印象よりも真面目で、嘘や軽はずみで言っているようではなさそうだ。
でも、だからこそ直矢は、それを正面から受け止められない。
「いや、俺はそういうのいいって。別に今のままでいいんだよ。お前や詩織と三人でつるんでる今の状況で」
「直矢さ、俺を言い訳に使うなよ。いいから素直になれって。大丈夫だって。瑠璃本もお前のことは、悪くは思ってないはずだし」
「いや、それは分かってんだけど……」
「直矢、正直に言ってくれ。瑠璃本と付き合いたいのか? 付き合いたくないのか? どっちなんだよ」
圭は軽く身を乗り出してまで訊いてきた。
直矢は一瞬迷ってしまう。でも、自分の心に訊いたら、何迷ってんだという答えが返ってきた。
「圭さ、その訊き方はずるいだろ。ここで付き合いたくないって言ったら、詩織に魅力がないみたいじゃんか」
「じゃあ、付き合いたいんだな?」
「まあ、その二択ならそうなるけど……。でも、大丈夫かな。今までそういう素振り全然見せてないのに、いきなり『付き合ってくれ』なんて言ったら、詩織引かないかな」
「それなら心配いらねぇよ。だってわざわざ瑠璃本が、好きでもない人間と一緒にいると思うか?」
「まあ、それはそうだけど……」
「直矢、もっと自信持てよ。大丈夫だって。絶対に上手くいく。俺が保証するよ」
お前に保証されても、何の意味もないんだけどな。直矢はそう思ったけれど、口には出さないでおいた。言う前からネガティブに考えるのは、よくないと思った。
ドアが引かれて詩織が戻ってくる。「さて、次は何歌おっかなー」と機嫌よく口にしていて、自分たちの話は聞かれていないようで、直矢は胸をなでおろす。
変化のないカラオケボックスの雰囲気が、今の直矢にはありがたかった。
「どうしたの? 直矢。こんなとこに呼び出して。ていうか部活は? 行かなくていいの?」
不思議そうな目をしている詩織は、直矢に声をかけられた理由に心当たりがないようだった。少しとぼけたような表情を目の当たりにすると、直矢の心臓は早鐘を打つ。
下からは学生たちが、めいめいに騒ぐ声が聞こえる。だけれど、屋上につながる階段の先は、屋上が普段封鎖されていることもあって、二人以外の学生が上がってくる気配はなかった。
「うん、後で行く。でも、今は詩織に訊きたいことがあってさ」
「訊きたいこと?」
この期に及んでも詩織は、直矢の言おうとしていることに気づかない。詩織は鈍いわけではないから、本当に思い当たる節がないのだと直矢は察する。
でも、ここで言葉を引っこめるわけにはいかない。
「詩織はさ、今気になってる人とかいたりすんの……?」
意を決して直矢は尋ねる。でも、直矢の決意に反するように、詩織はあっさりと「うん、いるよ」と答えていた。
考える時間もないほどの即答に、直矢は動揺してしまう。「えっ……、それって誰……?」と訊いた声に、震えは隠せなかった。
「ほら、今度月9に出んじゃん。宇賀玉貴。好きな漫画の実写化で主人公を演じるから、どんな演技するのかはやっぱ気になっちゃうよね」
詩織が自分の言いたいことを察した上でボケたのか、それともただの天然で言っているのか、直矢には判断がつかなかった。安堵していいのかどうかも分からない。
「いや、そういう意味じゃなくて……」とツッコんでみるものの、微妙な表情から出た言葉は、歯切れが悪かった。
「そういう遠い存在の人じゃなくて、もっと近くにいる人で、気になってる人はいないかって意味で……」
「ああ、そういうことね」と詩織が納得したように頷く。普通に考えれば分かるだろというツッコミを、直矢はぐっと飲みこんだ。
「そういう意味だったら、今はいないかな。ほら、まだ入学したばかりで、私も色々忙しいからさ」
淡々と答える詩織を見ると、「帰宅部なのに?」とか「そうは見えないけどな」と言うことは、直矢には憚られた。きっと詩織には詩織にしか分からない忙しさがあるのだろう。ここで機嫌を損ねさせても、いいことは一つもない。
「で、それがどうかしたの?」と、詩織が重ねて訊いてくる。
直矢は一つ息を吐いてから、今一度詩織と向き合った。ずっと目を逸らしていた思いを、ごまかさずに伝える。
「こんなこと言うの急だと思うかもしれないけど、俺、詩織が好きなんだ。ただの友達以上になりたい。だからよかったら、俺と付き合ってくれたら嬉しい」
「お願いします」。直矢は頭を下げた。今まで誰にもしたことがないくらい深く。学生たちの声も、直矢の耳には入らない。
唯一聞こえたのは、詩織の「えっ、いや、顔上げてよ」という、どこか慌てた声だった。
言われたとおりに顔を上げると、詩織の頬が少し赤くなっているように直矢には見えた。
「えーと、何だろ。本当に急だね」
火照った頭を冷ますかのように、詩織が言う。何とか事態を把握しようとしている姿に、直矢は言葉を重ねることはしなかった。
自分の告白は、絶対に届いたはずだ。
「そっかぁ。直矢は私のことをそういう風に思ってたのかぁ。あーなるほどなるほど」
一人ごちる詩織。でも、にわかには信じられないというような反応を見て、直矢は詩織の本心をそれとなく察してしまう。顔を見るのでさえ少し辛くなってくる。
「うん、そうだね。そうだよね。こういうのって変にはぐらかさずに、そのまま言った方がいいよね」
詩織は自分に言い聞かせるかのように口にしていて、直矢の心は擦り傷を負った。その言葉だけで、ここから離れたくなる。
でも、直矢の足は思ったようには動かなかった。ただ立ち尽くす直矢の前で、詩織は唇をキュッと結んでから、精いっぱいの理解を示すように、小さく口を開く。
「ごめんなさい。私は直矢とは付き合えません」
頭を下げる詩織に、直矢は声をかけられなかった。物理的に殴られたかのような、強い衝撃が走る。まともに口も動かせない。
直矢が単なる置物になっていると、詩織は頭を上げてから続けた。
「断っといてなんだけど、直矢のこと嫌いなわけじゃないよ。そりゃ頼りないところはあるし、もっとちゃんとしてほしいなって思うときもある。でも、そんな直矢といると、私は楽しいんだ。他の誰にも負けないくらい。それだけは信じてほしい」
「でも、付き合ってはくれないんだ……」
直矢の口から本音が漏れる。
絞り出すような声に、詩織は最大限の申し訳なさそうな表情をした。そうするのが唯一の正解みたいに。
「うん。本当にごめん。私は今の友達の関係が一番いいと思う。たぶん今の状態が、私と直矢にとって一番ちょうどいい距離感なんだよ。これ以上縮められたら、私は今みたいに振る舞える自信がない。もしかしたら、直矢にもつまんない思いをさせてしまうかもしれない」
「そんなの俺、気にしないよ。その分俺が、詩織に楽しい思いをさせてあげられればいいだけの話じゃんか」
「ううん。それじゃお互い気を遣っちゃうでしょ。長続きしないよ。私は今の関係を続けたい。だってその方が、直矢とより長い時間いられると思うから」
「そんなもんかな……」
「そんなもんなんだよ、私たちはきっと。こんなこと言うなんて、自分でも嫌な奴だと思うけど、これからも私に声をかけてくれたら嬉しい。もちろん私からも直矢に声かけるから、そのときは無視しないでね」
詩織の言葉は、慎重な前置きでも中和されないほどの残酷さを持って、直矢の耳に届く。今の直矢にとって一番聞きたくない言葉だ。簡単には受け入れられなくて、「でも」と言い返したくなる。
だけれど、詩織のかすかに伏せられた目が、これ以上この話をしたくないと物語っていた。
直矢は視線を上げる。たったそれだけでも、小さくないエネルギーが必要だった。
「分かった。そもそも俺が勝手に言ってることだしな。簡単に『はい』なんて言えるわけねぇよな。じゃあ、俺部活行くわ。また明日な」
「うん、また明日」
餞別みたいな言葉を受けると、直矢は踵を返して、階段を下り始めた。
詩織が追ってくる気配はない。一人取り残されて、どんな表情をしているのだろう。だけれど、思いを馳せている余裕は直矢にはなかった。
部活に集中しようと、頭を切り替えようとする。でも、直矢の胸には、まだ詩織の言葉に含まれた棘が刺さったままだった。比喩ではなく、本当にずきずき痛みそうな気がしてくる。昨日までは何ともなかったのに。
明日からも、詩織と今まで通りの関係を続けられるのか。直矢には自信がなかった。
(続く)