『銀灰の魔術師』
フィオナ姫は静かにダージリンを飲み干す。
王家に献上される茶葉の中でも最高級の品種、聖女ダージリアの髪色をもじって名付けられたダージリンの香り。
ほんの僅かな小休止。
国の内部に潜む悪しきものを排除する為に、必要な手順を整理していく。
緊急事態である事を利用して、第十八討伐隊の編成に横槍を入れた貴族がいた。
シュナウザーに媚びを売っていた傘下の一人だろう。
尻尾を出した以上、徹底的に追い詰める。
国母たる王妃から施された手練手管を使う日が来たようだ。
「姫様、あの五歳の子どもに随分と心をお許しになっている理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
侍女頭が恭しくポットから替えの温めたカップに紅茶に注ぎ入れる。
貴族の名家に生まれた三番目の彼女は、生粋の『魔法主義』である。だからこそ、才能があるからといって庶民の子どもに肩入れする貴族学園の職員たちの考えを理解できなかった。
神童と謳われた令嬢や令息が、歳を重ねるにつれて色褪せていくのを間近で見てきたからこそ。
「私も分からないわ。でも、あの子は……そうね、かなりの野心家よ。目的の為なら手段を選ばないだろうし、手段を目的で正当化しない潔さがあるわ。本当に庶民らしい」
大義名分を掲げ、欲を包み隠そうとする者たちを見てきたフィオナ姫の目から見ても、リル・リスタという幼子は歪だった。
「彼女、通信魔術師として働いてきた経験があるのかしら。言葉遣いや抑揚、滑舌は聞き取り易いものだったけれど、表情や仕草、視線のコントロールは未熟。他人を威圧する事にあまり慣れていない。相手の意思を汲み取ろうとする。さしずめ、中間管理職ってところね」
常識的に考えれば、五歳の子どもに軍事的通信機器を操作した経験はないはずだ。
王家の財力を持ってしても量産する事はできず、改良も遅々として進まない。
上に立つ者であれば、他人に利用される事を恐れない。
日常茶飯事だからだ。
賢く立ち回ろうと悪知恵を働かせる。
だが、上に振り回される立場であれば、我が身に降りかかる不幸を恐れて距離を取りたがる。
ちぐはぐな人物像。
だからこそ、正体を掴めるまで距離を取るつもりでいた。
「『新しい時代』……皮肉なものね。あの小さな魔術師は、師の教えに従って夢の為に魔術の新しい価値を示そうとした。平穏に進むはずの改革が、一部の悪意ある者によって波乱を招いてしまった」
「変わる必要はあるのでしょうか? これまで、我々は上手くやってきたでしょう?」
「変わらなければ時代に取り残される。停滞は悲劇を繰り返すだけよ」
フィオナ姫は角砂糖をカップに落とす。
微笑みを口元に浮かべながらも、その頭の中では次々とこれから起こる事への予想を組み立てる。
「貴族学園の改革に乗り出す時が来たようね」
フィラウディア王国の長い歴史の中で、幾度となく分裂と迎合が行われてきた。
平穏の中で生まれた分断を解決しなければ、さらなる災禍が起きるだろう。
学園内に根付く派閥の解体。
それが何を齎すかまでは、フィオナ姫の慧眼をもってしても見抜く事はできない。
「……シュナウザー、馬鹿な男。虚栄心に苛まれて、自ら転落する道を選んでしまうなんて。いえ、人間という生き物の性なのかもしれないわね。破滅の道を選んでしまうのは」
フィオナ姫の脳裏に幼き日の思い出が蘇る。
王城の庭で侍女たちが整えたガゼボで、顔を赤らめて紅茶の品種を間違えた事にも気が付かず、上擦った声で己の名を呼ぶ元婚約者との出会いを。
恋というには淡白な感情だった。
戦友という認識が正しいのかもしれない。
共に国を盛り立て、人々の暮らしを守り、貴族を導いていくのだと無邪気に信じていた。
決闘騒ぎで自分との婚約がダシに使われたと知った瞬間、足元から心の拠り所としていた何かがガラガラと崩れていく感覚に襲われた。
あの穏やかな日々はもう二度と戻る事はない。
血のように赤い瞳、鋭い犬歯と空を抱く翼。
彼が魔物と堕ちた姿を思い起こし、フィオナ姫は唇を噛む。
「……それでも、私はこの国の姫として責務を果たす。万人に理解されなくとも構わない。私は私の信念を貫く」
姫としての責務だけが齢十二のフィオナ姫を支えていた。
ただ静かに、彼が逃げ去った空の向こうを見上げる。
身分に囚われた自分と違って、全てを捨てて転げ落ちた彼の背中を探すが、見つかるはずもなかった。
遥か先には学園都市が見える。
堅牢な城塞に囲まれた白亜の砦は、今日も佇む。
国難を前に粛々と備えているのか、あるいは風を拒んでいるのか。
────空から見た景色は、地上と違うのでしょうか。
空を飛ぶ魔法と魔術はない。
遥かな高みから下々を見下ろしていいのは、魔王だけ。
だから人は地を掘る事はできても、空を飛べない。
フィオナ姫に『あり得たかもしれない可能性』を考える事は許されない。
何もかもを遮るように、背を向けた。
彼女の行く先は、生まれる前から舗装され、生まれた時から決まっている。
疑う余地など、あるはずがなかった。




