09 マリアの秘蹟
何の因果か西暮マリアは十字教会のミサで神に祈りを捧げていた。
マリアは神を信じた事がない。より正確には、神を信じるか、信じないかという問題と向き合い真剣に考えた事がない。だが、祈りは真剣だった。死者復活にまつわる力を持つであろう神であれば真剣にもなる。
マリアは自分を助けて死んだ綾部清明を蘇らせたくて仕方ないのだ。
マリアはいわゆるお嬢様である。
医師や政治家、官僚、将校を多く輩出した一族に連なる名門の家系に生まれ、何不自由なく育ってきた。年間の遊興費、服飾代、食費は一般家庭の十倍では利かない。贅沢な暮らしぶりだ。
その代わりにマリアは物心ついた時から習い事漬けだった。
ピアノ、バイオリン、ダンス、裁縫、料理。習字に絵画に塾まで。部活を終えれば家に帰る間もなく習い事に直行し、一つ習い事が終われば夜まで別の習い事へ。ようやく習い事が終わり、家に帰れば学校と習い事の宿題が待っている。遊ぶ時間はほんの僅かしかない。
同級生の遊びの誘いを断り続ける内に「あの子は習い事が忙しいから」と誘われる事もなくなった。
クラスメイトの何人かはマリアに同情の眼差しを向けた。乾いた毎日だ、可哀そうだ。満足にテレビもネットも見る時間がなく、気軽に遊びにも行けないなんて。
しかしマリアは平気だった。習い事漬けの生活しか知らず、それが当たり前だったから。生来の気性に合っていたというのもあるだろう。問題や課題を与えられ、その達成に力を尽くすのは楽しい。
そうしてマリアは大人でも音を上げるような量の習い事を全てこなしていき、様々なスキルを身に着けた絵に描いたような良家のお嬢様に育ったのだ。
数々の習い事を通し洗練された仕草や容姿、教養は同性異性問わず強く惹きつけるカリスマを醸し出した。控え目に笑っているだけで人が集まり、教室でマリアの周りにはいつも人が絶えない。相談されれば快く応え解決してやり、相談されずとも困っている人がいれば進んで助ける人の良さは誰もに慕われる。
時間に追われる生活ゆえに深い仲の友人こそいないものの、学年一の不良やつむじ曲がりで有名な教師までマリアにだけは一目置いているほどだ。
そんなマリアにも悩みがあった。
目標が無いのだ。
ずーっとアレをしなさい、コレをしなさい、と言われて育ってきたマリアにとって、自分で決め自分で進む大人の世界は暗雲垂れ込める未知の世界だ。
指示通りに課題をこなすのは得意でも、自分で目標を決め自分で進むのは苦手どころか全く理解の埒外にある。将来の夢は? 何になりたい? マリアちゃんならなんでもなれるよ! なんて言われても曖昧な笑みを返すのみ。
マリアには夢がない。夢を持てない。みんなが曖昧にであれ持っている将来像が全くの白紙で、そんな自分が不安で仕方ない。
だからきっとマリアは人の世話を焼くのが好きだった。
アレがしたい、こうしたい、ああしたい。夢や目標を持った人を応援するのが好きだった。みんなは色々できて羨ましいと言ってくれるけれど、みんなの方こそ夢があって羨ましいというのがマリアの偽りない本音だ。いつだって隣の芝は青い。
自分が何をしたいのか、どこに向かえばいいのか分からないのは酷く苦しい。なんでもできるが何者にもなれないまま老いていく虚しい自分を悪夢に見たのは両手の指ほど。
将来は大金持ちだとかYouTuberだとか飛行士とかプロ野球選手だとか、大言壮語を吐きながら何一つ努力をしていない口先だけの人でも、夢を語る口先すらも持てない自分よりはずっと良い。
高嶺の花と憧れ羨まれる全てのモノを持ちながら、華やぐ笑顔の下に惨めな自己嫌悪を隠し、マリアは日々を過ごしていた。
転機が訪れたのは何気ないいつもの下校中の事だ。
横断歩道に突っ込んできた暴走トラックを前に、マリアは体がすくんで動けなかった。合気道も柔術もやったのに、命の危機には物の役に立たない。
そしてマリアは漫画の中から出てきたような白馬の騎士、献身的英雄、綾部清明に助けられた。
衝撃だった。
清明は命の懸かった土壇場でなおマリアに限りない優しさを与えてみせた。優しく、傷一つでさえつかないよう、そっと包み込むようにマリアをトラックの正面から逃がし、代わりに自分は目も当てられない凄惨な死に方をした。
命の火が消えゆく間際、清明が血まみれの顔で安心したように微かな微笑みを浮かべていたのが忘れられない。
こんなにも優しい人が、私を助けてくれた人が、こんな私のために死んでしまうなんて。
マリアは自分を責め、世界の残酷さを嘆き、悲しみに沈み気も狂わんばかりだった。
部屋に引きこもりベッドの隅に枕を抱え座り込み、何時間も何日もぐるぐる回る悲しみに沈んで過ごした。大切に純粋に育てられてきた少女には過ぎた重い事件だった。
やがて長い苦悩の果てがやってきた。マリアは亡霊のようにベッドの隅を離れ、死者蘇生の法を調べ始めた。
アングラネットワークに接触し、溜まるばかりで使い道のなかった小遣いを惜しみなく使い手に入れた「禁忌の魔導書」はまるで役に立たなかった。
書かれた通りに時と場所を選び、墓荒らしまでして生贄を捧げても、清明が生き返るどころか吐息すら感じられない。失望した。
所詮、誰が書いたとも分からない怪しい書物だ。信用した自分が馬鹿だった。ただの少女が金を積んだだけで手に入れられる程度のモノに本物の死者蘇生の法が記されているわけがない……
マリアは魔導書に見切りをつけ、死者蘇生の実例を辿る事にした。
マリアが知る限り、完全に死んだ人間が蘇った例が世界に一つだけある。
その人物は神の子とされ、死んだ三日後に復活し、十字教を啓いた預言者にして救世主だ。
教会を訪ね神父に救世主について知りたいと言うと、神父は喜んで教えてくれた。更に日曜にミサがあって、そこで説法をするから、参加すればより理解が深まるだろうと親切にも勧めてくれた。
説法を聞き、十数人の参加者と一緒に神への祈りを捧げ、ミサの終わりにマリアは一口分のパンと一杯の水を配られた。周りを見ると、大人には水ではなくワインが配られているようだ。
「すみません、これは何でしょう? 私、ミサは初めてで」
隣の席の婦人に小声で尋ねると快く答えてくれた。
「そうなの、初めてなの? 大丈夫、簡単よ。お祈りをして食べて飲むだけだから。救世主様は何もないところからパンを出して、水をワインに変えたっていうお話があるのよ。そんな奇跡を許されるぐらい神様に愛されていたのね」
「へえ」
納得したマリアが改めて手元を見ると、自分が持っているのはパンとワインだった。
「…………?」
瞬きして、首を傾げる。
確かにパンと水を貰ったと思ったが持っているのはパンとワインだ。
奇妙ではある。しかし絶対に水を貰ったと確信できるほどはっきりと水をもらった記憶はない。配っている人が間違えたのだろうか?
「すみません」
手を挙げ、間違えてワインが配られていると申告すると水と取り換えてくれた。
それから他のミサの参加者と神父様のお祈りに合わせて祝詞を唱え、マリアはパンを口に入れ、水を飲んだ。ミサが終わり次第、神父様に救世主復活についてもっと詳しく教えて貰おうと考えながら。
喉に流し込んだ水は口の中で急に香り立ち、芳醇で、甘く、どこか背徳的な、ぶどうの味がした。