07 パワー馬鹿のさんすう
守屋巴とは高校まで一緒だった。
大学進学を機に上京したのは知っていたが、友達でもない相手のその後など知る由もなく。もう二度と会う事もないだろうなと時々思い出すだけの記憶の中の恩人と化していた。
それがまさか再びそれもこういう形で会うとは一体どんな偶然だろう?
驚いたが、幸運だ。話の通じないバーサーカーか幽霊狩りの猛獣かと思っていた謎の退魔師が知り合いだったのは純粋にありがたい。友好的に話ができるだけでどれほど手間が省けるか。
「巴が退魔師だったのはありがたい。昔の誼で俺の頼みを聞いてくれないか」
「昔の誼? 私と清明くんは友達でもなんでもない関係だったはずだけど」
「……確かに!」
眉を吊り上げ断られ納得してしまう。
巴とは小学校から高校までの12年間ずっと同じクラスだっただけの赤の他人だ。学校帰りに遊んだり、休日に時々一緒に映画を見に行って感想(と分析)を語り合うぐらいの薄っぺらい関係でしかない。
お前ら仲が良いなとか絶対付き合ってるだろとか散々周りに言われはしたが、人間関係とは自己認識によって定義される。当の本人がクラスが同じで趣味が合うだけの他人だと思っているのなら他人に相違ないのだ。
しかしこれは困った。交渉材料がない。
少し知っているだけの他人にどうやって助けを乞おうかと悩みはじめると巴は笑って俺の肩を叩いた。軽い動作に見合わない重い衝撃に肩が吹き飛ぶかと思った。
「冗談だよ、私は一方的に友達だと思ってるから。また会えてうれしい」
巴は「一方的に」を少し強調して朗らかに言う。ホッと安心する。一方的に友達だと思ってくれていてよかった。
「君のお願いは聞いてあげたいけど、私もやる事があって……っていうか清明くん、幽霊になってるように見えるけど?」
「巴の目は正常だ。幽霊になっている」
俺は頷いた。幽霊を見る事のできる霊視眼が果たして正常なのかはとにかく、巴の認識は正しい。
巴が困惑しているので「死んで幽霊になって上京した」と簡潔に説明すると、困惑はますます深まった。
「どうして……?」
「どうしては俺が聞きたい。巴は退魔師だったなんて今までずっと気付かなかった」
「それは、まあ、ええと……うん。歩きながら話そっか。詳しくそっちの状況聞きたいし、私の話もしないといけないみたいだから」
そう言って巴はフードを目深に被り、手招きして歩きだした。
乱闘除霊騒ぎが終わった夜の住宅街は静かで、夜空の星灯りを見上げながら巴は饒舌に話し始めた。
曰く、彼女は大学時代にモデルのスカウトを受け、モデル業を始めたらしい。これでも人気で何回か雑誌の表紙になったんだよ、という。俺は当然だと頷いた。
「だろうな。巴を表紙にすれば売り上げが伸びるのは明らかだ。合理的采配と言える。巴は非常に可愛いからな」
「うえっ!? あ、うん。ありがとう?」
「なぜ驚く」
「いやごめんごめん! 嬉しいよ。でも、その、ちょっと意外だと思って」
「何が」
「清明くんは可愛いとか綺麗とか、そういうの分かんないと思ってたから」
「俺の統計データによれば、今まで俺がある程度間近で顔面を観察する機会があった女性1566人のうち、巴は最も整った顔をしている。従って巴は最低でも1566分の1の希少性を持つ非常に可愛い女性であると考えられる」
「言い方……」
巴はなぜか呆れながらもちょっと嬉しそうだ。相変わらず彼女の感情推移はよく分からない。
「それで?」
「え? ああ、それで大学卒業してそのまま事務所に入って上手くやってたんだけど、事務所で心霊現象が起きるようになって」
「心霊現象? しかし」
「いや分かってるよ、心霊現象を起こせるぐらい強い幽霊は滅多にいない。でもその滅多にいない霊が出た。その時はまだ私の霊力弱かったから霧か霞かみたいなぼんやりしたのしか見えなくて」
話しながら巴は住宅街の一角にある洒落たマンションの入り口のオートロックを解除して中に入る。
エレベーターに乗って最上階のボタンを押しながら続けた。
「あちこちに除霊を頼んだよ。幽霊が出たからって事務所は引き払えない。移転もお金がかかるし、悪い噂が立ったら仕事がね。私はとにかく他のモデルの子も怖がって。かわいそうに、事務所辞めるって泣きながら言う子もいて。でも自称退魔師とか除霊師とかお祓い業の人たちはみんな幽霊の影すら見えてなくて、これは私がやるしかないと思った。私が助けるしかない。助けたい」
「なるほど。やはり巴は高潔で、勇敢だ」
俺が賞賛すると、巴はポケットからマンションの部屋の鍵を出しながらはにかんだ。
「私はそんなすごくないよ。でもありがとう。とにかくそれで幽霊を追い払ってやろうと思って殴ったり蹴ったりしたんだけど全然効かなくて。困ったからとりあえず――――」
部屋のドアを開けた巴に招かれ、中に入る。
巴の部屋はトレーニング器具で埋め尽くされていた。
玄関に入ってすぐの廊下には数百キロはあろうかという異常な重りをつけたダンベル器具が置かれ、キッチンにはプロテインが箱で積まれている。
スポーツジムでしか見ないようなお一人様室内逆上がりマシンのようなものや、何度も破れ縫い目で埋め尽くされた跡のあるサンドバッグの間に押し込まれるようにベッドがあった。
「――――霊力を鍛えた。幽霊を倒せるようにね」
それは霊力ではなく筋力と言うのではないか。
その言葉を俺は辛うじて呑み込んだ。
母と祖母以外の女性の部屋には初めて入ったのだが、噂に聞く「女の子の部屋」とは随分と様子が違う。しょせん噂は噂という事なのだろう。俺は間違って覚えていた「女の子の部屋」の一般的データを正しく修正し、ベッドの端に腰かけて質問する。
「ここにあるのはどれも一見して筋力トレーニング器具のようだが」
「そうだよ?」
「筋力トレーニングで幽霊を倒せるようになるのか?」
「なる」
あまりにも力強く断言するのでそうなのかもと納得しかけるが、そんなはずはないと思い直す。俺は考えをまとめ、反論した。
「巴の理屈が正しいと仮定すると、世のスポーツ選手はみな退魔師だ。しかしそんな話は聞いた事がない」
「鍛え方が足りないんだよ。こういう事ができるぐらい鍛えれば幽霊にも腕力が通じるってみんな知らないみたいだね」
そう言いながら巴はフライパンを両手の親指と人差し指でつまみ、紙のように軽やかに引き裂いて見せた。呆れたパワーだ。人間業ではない。どういう仕組みなのだろう?
「それが手品かトリックかという疑問は棄却しよう。巴は嘘をつかないからな。その上で言うが、普通の人間はフライパンを破けるほど鍛えられるようにできていない。ゴリラだって難しいのではないか」
「そんな事ないよ。普通のトレーニングでいける」
「参考までに聞きたい。どんなトレーニングをした?」
俺が尋ねると、巴はタンブラーに水とプロテインの粉を入れてかき混ぜながら記憶を探り探り答えた。
「んー、確か最初は20kgのダンベル上げ始めたんだよね。で、一週間ぐらいで慣れて、重さを25kgに増やした。それも一週間ぐらいで慣れて、次は30kgに挑戦」
「ふむ」
どんな奇想天外で危険なトレーニングかと身構えたが、確かに普通のトレーニングだった。あの異常な運動能力の説明にはならなさそうだが。
「で、一週間ごとに5kgでしょ。だから一年で20+260=280kgダンベル上げできるようになるよね」
「……んん?」
俺は暗算を間違えたのではないかと思って指折り計算する。一年365日は52週間。一週間5kgアップを52週間続ければ……確かに一年で……理論上は……?
何かおかしいぞ。これはいわゆるバカの算数というやつではなかろうか。
「それを四年ぐらいずっと続けて、今は1トンちょっとかな。継続は力なり、だよ」
「?????」
プロテインを飲み、誇らしげに胸を張る巴の言葉が頭に入ってこない。
計算は何も間違っていないのに、何かが間違っている気がしてならない。
「私は頑張ってたくさんトレーニングして、幽霊を殴り倒せるようになった。ボクシングジムに通ってスパーリングして、動体視力上げたら幽霊もハッキリ見えるようになった。それで事務所の幽霊を退治して、悪い幽霊を倒す副業を始めたってワケ。清明は知ってた? 筋力トレーニングは全てを解決するんだよ」
「そ、そうか……?」
「そうだよ」
「そうなのか……」
そうらしい。
人間は体を鍛えると幽霊を殴り殺せるようになる。
俺はまた一つ賢くなった。