18 この計画の成功率は99.9%だ
夜羽竣からオーラを吸って腹を満たした阿久は、彼の地元だという地方都市に漂う奇妙な気配の正体を掴みあぐねていた。
空気感が違うとでも言えばいいのか。
小さい頃、歯科医院に初めて入った時に消毒液の匂いと共に感じたちょっとした異界情緒。
あるいは猛獣の獣道を歩いて感じるヒリついた緊張。
どちらにも似ているようで似ても似つかない。この町には何かがある。漠然とそんな気配がある。しかしそれが何なのかは分からない。
妙な気配は、妙に気にかかった。海外への高飛び計画を変更して正体を確かめたいという衝動に駆られる程度には。
しかしグズグズしていられないのも確かだ。すぐにでもあの恐ろしい腕力退魔師に嗅ぎ付けられるだろう。なにしろ白昼堂々夜羽を襲ったせいでテレビのニュースになっている。
流石は今をときめく有名芸能人のスキャンダル。衆人環視の下、駅の構内で悲鳴を上げて倒れ、悪霊の証拠映像まで残っているとなれば無理もない。
幽霊として力をつけるのも考え物だった。力弱い貧弱な霊だった頃はカメラに映らなかったというのに。
逃げるべきか。留まるべきか。それが問題だ。
頭を悩ませ空港と夜羽が泊まるホテルをいったりきたりしていた阿久は、ホテルの駐車場に入っていく黒塗りの高級車に目を奪われた。
その車は輝いていた。
厳密には車が輝いているというより車の中から光が溢れ出していた。
阿久は黒い光というものを初めて見た。その黒い光は優しく温かく、重く淀んでいて、どうしてかたまらなく心惹かれる。
あの黒い光こそがこの町に香る不可思議な未知の何かの正体に違いない。一体なんなのか? 想像もつかない。しかし決して悪いものではないという直感があった……
まさしく灯りに誘われる蛾のように、阿久はふらふらと車に吸い寄せられた。
車からまず付き人が出てきて、後部座席のドアの前に足踏み台を置いた。別の一人は駐車場からホテル玄関までのほんの短い道のりを素早く箒で掃き清め、階段のスロープの手すりを執拗に消毒する。挙句ガタイのよい男が数名別の車で乗り付け、厳めしい表情を隠そうともせず歩哨に立った。
今時国家元首ですらここまでするかという下にもおかない扱いにどんな大物が出てくるかと思えば、一同に深々と礼拝され車から姿を現したのは一人の可憐な少女だった。
一目見て阿久はかつてない衝撃に貫かれた。
心が、体が魂が己の全てが、感激に痺れ打ち震える。
彼女だ。彼女だったのだ。彼女こそ自分の求める全て。
彼女は誰もが膝を折る鮮烈な神聖さに照らされていた。雲間から差し込んだ一筋の陽光が天使の階段のように聖女にスポットライトを当て、その神々しい光すら霞ませる彼女自身の昏い光が温かくあまねく全てを抱擁するようだ。
「ああ、彼女は。このお方は」
その先の言葉は言葉にならず、阿久は膝をついて嗚咽と滂沱の涙をこぼした。
聖女は絶対的な神聖を纏っていた。彼女が歩けばあらゆる災いは顔を隠し、彼女を見ればあらゆる悪人は恥じ入り行いを改めるだろう。
何かの間違いで天界から降ろされたような、神の寵愛を余すところなく注がれる慈愛の聖女。
時代が違えば国を、世界を救い、幾億の人々に崇敬され語り継がれたと確信できる。
その聖女が堕ちていた。
きっとかつては清らかで透明だっただろう聖なるオーラは重く生温かく、黒く禍々しく染まっている。何人もの人間を殺し、何体もの幽霊を喰らい、オーラを濁らせてきた阿久ですら及びもつかない堕落と邪悪が瘴気として現れている。
彼女は必要なら全人類を眉一つ動かさず地獄に送ってみせるだろう。阿久が思う最悪の悪行を子供の無邪気な悪戯として一笑に付してしまうような、想像を絶する惨劇を描いてみせるだろう。
一目見ただけでそれが分かる。象を見て強いと分かるように。氷に触れて冷たいと感じるように。彼女の黒いオーラに触れ感じれば誰もが理解するだろう。
そんな堕ちた聖女が阿久には涙が出るほど嬉しかった。
これほど神聖な存在が俺より酷く堕ちてくれている。
もし彼女が穢れない聖なる光を纏っていたら、きっとあまりに自分が惨めで直視できなかった。
汚れているからこそ救われるモノがここにはある。こんなにも穢れ切っていてなお彼女は神聖なのだ。こんなにも偉大な崇敬すべき存在が他にあるだろうか?
阿久は全ての感動と情動を一瞬のうちに味わいつくし呑み込んで、魂の奥底からこの絶大な存在に屈服した。
自分は彼女に従い尽くすためにここにいるのだ。自分は彼女の導きでここにいるに違いない。
聖女はすぐに呆然と浮遊する幽霊の存在に気が付いた。驚きに目を見開き、いくらかの沈黙のあと、呟いた。
「そう」
目を閉じ、噛みしめるように頷き、繰り返す。
「そう。幽霊になる人もいるのね? そう、なるほど。死者から立ち昇るエッセンスがこの世に留まる事もある。それならあの方も、もしかしたら……」
「マリア様? 何か不都合がございましたか?」
恐る恐るへりくだる付き人の一人を一瞥し、マリアと呼ばれた少女は言った。
「悪霊がそこにいます」
「は。悪霊……悪霊? 悪霊、ですか。まさか例の? 夜羽様を付け狙って?」
「そのようですね。顔が同じですから。しかしどうあれ彼は有用です。『私に従うように』」
聖女の声に乗り迸る鋭く研ぎ澄まされたオーラは、黒く瘴気滴る鎖となって阿久の霊体を捉えた。
鎖は強大で、オーラや霊についてかなりの研鑽を積んだ阿久をして全く未知のものだった。生きとし生ける者、死んだ者さえこの『命令』からは逃れられないだろう。
しかし逃れるつもりなど毛頭ない。
阿久は体に食い込み溶け込んでいく鎖を祝福とし、喜びに震え受け入れた。
そうして阿久は素晴らしき聖女マリアの下僕になる光栄を授かった。
ついて来なさい、と命じられ、阿久はマリアの目を汚さないよう背後につき距離を空け、影のように追従した。
マリアは威光をもってホテルを歩いた。聖者の行進のように人は道を空け、マリアに尋ねられたホテルの従業員は白痴のように言われるがまま夜羽の部屋番号を吐いた。
そんな聖女の下僕の末席に連なる名誉を授かったのが阿久は誇らしく嬉しかった。
エレベーターに乗り、廊下を渡り、夜羽の部屋の前に近づくとドアがひとりでに開いた。静々と部屋に入ったマリアはそこのベッドに腰かけ衰弱しぐったりと目を閉じていた夜羽に指を触れ、オーラを吹き込んで起こす。
どうやら阿久が襲った夜羽竣は自分と同じマリアの使徒だったらしい。阿久は衝撃を受けただちに自裁しようとしたが、他ならぬマリア自身が手振り一つでそれを制した。どうやら安易な自死は許されないらしい。
活力漲り目を覚ました夜羽はマリアの来室に気付いて慌てて傅き、通り一遍の挨拶や礼を済ませてから直言した。
「マリア様。駅での事ですが、私は悪霊に襲われたように思います。あるいは悪霊に準ずる何かに。見えませんでしたが、感じたのです。不吉な存在を。奴が御身に何かしないとも限りません、つきましては警備を」
「夜羽さん」
夜羽はマリアの柔らかな声で名を呼ばれ。ただちに口を閉じた。
「その悪霊は今、ここにいます。二人の間で何か誤解があったようですね」
「ここに? それに誤解ですか? ……いえ。私は感じました。確かに奴は悪意をもって、」
「誤解を解くために私は二人の口から事のあらましを聞く事にしました。二人とも私の大切な子です。誤解さえ解ければわだかまりなく協力して私に尽くしてくれると知っていますよ」
どうやら全ては誤解だったらしい、と阿久は理解した。
誤解のはずがない故意の襲撃だったとしても、マリアがそうだと言えばそうなのだ。
夜羽の指示で他の付き人と護衛が退室し、部屋の前で見張りに立ってドアを閉めるのを見ながら、阿久は命じられるがまま自分の些末な物語を語った。
二人から順番に一通りの話を聞いたマリアは、考え込みながら阿久に尋ねた。
「幽霊が視えると言いましたね。この町で他の幽霊に会いましたか? 若い男性の霊です。優しさがあふれ出るような」
阿久は首を横に振った。この町では他の幽霊に会っていない。東京でなら若い男の幽霊を何人か見たように思うが、阿久は餌や道具の顔をいちいち覚えていない。
昔は覚えていた気がするが、オーラを吸い上げ強大な力を身に着けるにつれ、取るに足りない木っ端幽霊の顔は記憶に残らなくなっていった。
「そうですか。残念です。では、退魔師に追われていると言いましたね。守屋巴さんでしたか。彼女は正義感が強いそうですね? 悪を討つために体を張る気概のある素晴らしい方だとか?」
阿久と夜羽は頷いた。
阿久は痛いほど(痛すぎるほど)知っていたし、話によれば夜羽もあの腕力退魔師といくらか交流を持ち、警戒心を抱いて距離を置いているようだった。
「守屋さんと私が掲げる善行には違いがあるようですね。彼女が私を知った時、ちょっとした揉め事が起きるかも知れません。避けられる揉め事は避けるべきであり、そして私は先手を打ちたいと考えます」
聖女マリアは限りなく優しい慈愛の微笑みを浮かべ、美しく囀るような美声で二人に言った。
「もう貴方がたは自分がやるべき事を知っているでしょう」
阿久は主君の耳を自分の声で汚すのが畏れ多く、黙って伏し拝み了承の意を示した。
阿久はすぐさま主君の心配の種を取り除くため一計を案じた。
オーラ所有者……聖女マリア曰くエッセンス所有者である夜羽竣は霊媒として優秀だ。阿久が取り憑く事で超人的パワーを発揮できる。
あの馬鹿げた腕力に対抗できるかは怪しいところであったが、木っ端幽霊を守るために悪霊を取り逃がすぐらい人のいい女が無慈悲にも夜羽ごと悪霊を捻り潰すとは思えない。十中八九、無傷で取り押さえようとするだろう。その隙を突けばあるいは……それにいくら強くても人間だ。やりようはある。
相手が夜羽にそして夜羽の中に潜り込んだ阿久に危害を加えられない以上、失敗しても何度でもやり直し、いつかは殺せる。
そうした魂胆のもと、二人は守屋巴を探し、見つけた。
阿久は夜羽に取り憑き、トラックを運転させる。
そして阿久遼操る夜羽竣が運転する必殺の爆走トラックは、腕力退魔師に撥ねられ吹っ飛ばされた。




