10 聖女と使徒
十字教のミサに参加してすぐ、西暮マリアは己の異常性に気付いた。あるいは神性、神秘性とも呼ぶべきものに。
神父が語った救世主の秘蹟のほとんどをマリアは再現できたのだ。
砂浜から波打ち際へ、海の上へ、そして対岸へと、沈む事なく海面を歩いた。
病院へ行き待合室の患者にそっと触れると、たちまち元気になり首を傾げながら帰った。
リンゴの木に「今から後いつまでも、豊かに実るように」と命じると、翌朝季節外れのみずみずしい果実が鈴なりになっていた。
奇跡は無自覚では起きない。「このような奇跡がある」「こうしよう、ああしよう」と願うのがトリガーとなる。儀式や呪術の品はかえって煩わしく、邪魔になった。マリアは身一つ言の葉一つで奇跡を起こす。
神父の言葉を借りれば「かく在れかし」という意思を持つ事で奇跡は成るのだ。
ただし奇跡には制限があった。
大雨の日。曇天を仰いで「静まれ」と命じると、雨雲は薄まっていったが、同時に恐ろしい勢いで自分の中の何か重要なものが消費されていくのを感じた。命の危険を感じ中止しようとしたが既に遅く、マリアは気を失い、意識を暗闇に墜とした。
玄関先で小雨に打たれ倒れているマリアを見て母は悲鳴を上げ、動転して119番通報した。救急車で運ばれた先で受けた診断は「重度の衰弱」だ。医者の見立てによれば全身の筋肉や内臓に短期間のうちに非常に大きな疲労が蓄積されたらしく、血液の数値にまで異常が見られたようだった。肌は荒れ、かなりの脱毛もあった。
マリアは近頃心労が激しかった、と説明し、母はその説明を真に受け娘を掻き抱いて慰め、医者は一連のやりとりと母の説明で納得していた。
マリアは点滴を受け間もなく素晴らしい回復力を発揮し退院したが、しばらく安静にするよう厳重注意され考えた。
奇跡には限界があり、制限がある。
消費されたのは体力ではない。血よりも精神力よりも重要で本質的で根源的な人間の精髄だ。
身に余る強大な力を振るおうとすれば(それこそ天候を広範囲に渡って激変させるなどすれば)、己のエッセンスを消費し尽くし衰弱死するだろう。
マリアは大雨を鎮めてからその足で墓に行き綾部清明の復活を試みようとしていた。
結果的には九死に一生を得たと言える。雨が降らないまま墓に直行していれば墓石が一つ増えていた。
聖書や神父の話によれば、救世主は数々の奇跡を己の身一つで成し遂げている。
その奇跡の力はマリアと同質であり、しかし救世主が保有するエッセンスの総量はマリアとは比べ物にならないほど莫大だったに違いない。
聖女であるが救世主級ではないマリアでは、死者を蘇らせようとすれば干からびて死ぬだろう。寝れば回復するけれど、エッセンス保有総量は増えないようであるし。
奇跡の力には目覚めた。しかし悲願は叶わない。
落ち込むマリアは、自分をしきりに心配し、何くれと無く世話を焼き、煩わしいほどに付きまとい気遣ってくる両親を見てふと思った。
己のエッセンスで足りないなら、他の人からエッセンスを貰えば良いのではないか。
幸いマリアには人徳があり、尽くしてくれそうな人が多い。
そういった人達から少しずつエッセンスをもらえば死者蘇生に必要な量にきっと届く。
マリアは両親に「疲れるかも知れないが良いか」と断りを入れ、快諾した父母からエッセンスを貰おうと試みた。
試みは半分成功し、半分失敗した。
例えるなら掃除機で空中を吸っているような感覚だった。
確かに吸引はできた。だが何も吸い込めていない。何も無いところからは何も吸えないのだ。両親は奇跡に必要なエッセンスを一滴も持っていなかった。
ショックだった。
エッセンスを持っているのは自分だけ。では最早どうしようもないではないか? 力が足りず、力を補う方法もない。綾部清明は生き返らない……
失意の底に沈みかけたマリアは一縷の望みに縋った。
いいや、そんなはずはない。
救世主がいた。自分がいる。エッセンスを持つ人間が二人いたなら、三人目も四人目もいるに違いない。そう、いなければならない。
マリアは体調を戻し、学校に復学した。
心配し、復学を喜ぶ学友の奥底をマリアはじっと観察した。彼ら彼女らはエッセンスを持っているか? 私の役に立つのか?
内心を隠し、楚々とした無害で優しい仮面を被るのにマリアは慣れていた。焦りと失望にじわじわと蝕まれながら、マリアは油断なく観察と調査を進めた。
天が味方しているかのように、マリアの忍耐は間もなく実った。
奇跡の行使を通して磨かれた神秘への鋭い感性は、下校途中にある喫茶店に座る若い男が帯びたエネルギーを捉えた。
見間違いではない。確かにエッセンスを帯びているのが視える。自分よりもずっと貧弱だが、彼は自分と同じ根源的な精髄を持っている!
マリアは興奮を隠し、すぐにでも飛び出していきたい自分を必死に抑えた。事は慎重に進めなければならない。
「あなたには特別な力があります。私に力を貸して下さい、恩人を生き返らせたいんです」
などと素直に頼み込んだところで悪質な宗教勧誘か気狂いかと思われ逃げられるのがオチだ。
説得が必要だった。見ず知らずの少女を信じ、力を貸そうと思うだけの説得力を提示しなければならない。
マリアは喫茶店に入り、男の隣の席に座った。男はちらりと見てきたが、沈んだ様子で目を逸らす。近づいて気付いたが、男性の顔に見覚えがあった。
去年の大河ドラマで助演を務めた人気俳優の夜羽竣だ。
彼はマリアと母校を同じくする郷里の有名人で、夜羽様とすれ違った! と自慢するおっかけクラスメイトの話を聞いた事がある。芸能活動で忙しいであろう彼と高校生が下校中に立ち寄るような普通の喫茶店で会うのは珍しいけれど、特別おかしな事でもない。
里帰りだろうか? 正月や盆の時期ではないが。
メニュー表で顔を隠し、横目でそっと観察する。悲しそうな様子でスマホで何かやりとりをしているが、覗き込み防止フィルムが貼られていて内容が分からない。
「見せなさい」
ひっそりとマリアが呟き命じると、盗み見するまでもなく夜羽のやりとりの相手と内容がよく視えた。
事情を知り、これは上手く使えそうだと嬉しくなる。
マリアは礼儀正しく、そして優しく話しかけた。
「弟さんのお見舞いのために仕事を断ったそうですね」
「!?」
突然話しかけられた夜羽は驚いて肩を跳ね上げ、マリアを見た。
「…えーと、君とは初めましてだよね? 俺の事知ってくれてるみたいだけど、ごめんね、プライベートの話はちょっと」
流石名優というべきか、夜羽はよく観察していても見逃しそうなほど素早く驚愕と嫌悪を消し、女が見惚れる完璧な愛想笑いを取り繕った。
しかしマリアは夜羽が思っているような好奇心が過ぎる迷惑なファン、あるいは礼儀を弁えない三流記者とは違う。
席に置かれている店舗アンケート用紙を一枚手に取り、その端を白く細い手首に滑らせる。赤い一筋の血が手首を伝って垂れた。
「弟さんの病気、Gr型イス症候群でしたか? 症状の進行で昨日意識不明に陥ってしまったようですが――――」
「な、さっきから一体なにを? 君は、」
「――――私なら救えます。信じるか、信じないかは貴方次第です」
手首の傷が見る間に塞がり、血の跡までもが消えるのを見て夜羽は目を丸くして沈黙した。
マリアには手に取るように夜羽の驚愕と希望、躊躇いが分かった。
不治の病に侵された弟をこんなに都合よく助けてくれる奇跡があるだろうか? それなりに長い芸能キャリアの中で、彼は旨い話には必ず裏があると身に染みて理解しているはずだ。
しかし手品や詐欺ではあり得ない奇跡が目の前で起きた。裏があっても頼みたくなるほどに彼は弟想いで、切羽詰まっている。
マリアは自分の容姿に感謝した。初対面であれ、相手が男性ならまず好意的に話を進められる。詐欺師然とした容姿や声音では早々に交渉は破綻していただろう。
「……君は、」
「私も暇ではありません。信じないのなら、私はこれで」
長い沈黙と躊躇の後、質問しようとした台詞に被せ、マリアは席を立った。
「待ってくれ! 信じる!」
夜羽は慌てて引き留め、信じると口にしてからしまったという顔をする。簡単な交渉術にすら引っかかってしまう狼狽ぶりを哀れに思いながら、マリアは微笑んだ。
「そう。良かった。信じる者は救われると昔から言いますからね」
「あ、ああ。そう、そうだね。そう願ってる。もう手がないんだ。時間がない。でも本当に、本当に弟を? 君が?」
「大丈夫ですよ。私は弟さんが快気すると知っています。私を信じて従うなら、ですが」
「……信じる。なんでもいい、やってみてくれ。弟が本当に治るならどんなお礼もする。でも俺も付き添わせてもらうよ。弟の病院に行くならだけど」
「ええ、行きましょう。自己紹介がまだでしたね? 私はマリアです」
「俺は夜羽竣」
軽く握手して、マリアは夜羽が呼んだタクシーで彼の弟の病院へ向かった。
病院では夜羽の付き添いとして特に不審に思われる事もなく病室に行く事ができた。
病室には夜羽竣の歳の離れた小さな弟が眠っていた。正確には昏睡だ。
声にならない呻き声を上げ、夜羽は震える手で弟の額に優しく手を置いた。
「ああ、どうしてお前が。俺が代わりになれたら……」
「いいえ。誰も代わりになる必要はありません。幸運にも。今回は」
それは置いていかれる誰もが抱える切なる願いなのだろう。マリアも身に覚えがある。
マリアは少年の細くやつれた手にそっと触れ、万物の精髄を吹き込み命じた。
「目覚め、起きて、歩きなさい」
すると少年は目覚めた。
起き上がり、ベッドから降り、昏睡から目覚めたばかりとは思えないしっかりした足取りで数歩歩く。
目を瞬かせ不思議そうに自分を見上げ名を呼ぶ弟を、兄は涙と嗚咽でぐしゃぐしゃになりながら力強く抱きしめた。
様子を見に来た看護師が驚いてシーツを取り落とすまで、ずっとずっと抱きしめて泣いていた。
こうして夜羽竣はマリアに絶対の忠誠を誓い、彼女の一人目の忠実な部下になった。




