01 デスタート
小学生の頃、学校の階段で足を踏み外した。
奇妙に引き延ばされた時間の中で、嫌な浮遊感と共に頭から落ちて行き幼心に死ぬというのはこういうものなんだと恐怖と諦めの中で悟った。
しかし死ななかった。
慌てたクラスメイトが俺の下に滑り込み抱きかかえて一緒に転がり落ちてくれたおかげで、頭を強かに打ち付けて首の骨を折る苦しい死に方は防がれた。
俺もクラスメイトも全身アザと擦り傷だらけになったが、後遺症もなかった。
騒ぎを聞きつけ血相を変えてやってきた先生に保健室に連れていかれ、手当を受けながら俺はクラスメイトに聞いた。
「助けた理由を教えて欲しい」
と。
すると彼女は
「友達だから」
と笑顔で答えた。
俺は君と友達になった記憶は無いと言ってまず誤解を解いてから、笑顔を凍り付かせ変な顔をしている変人に真剣に尋ねた。
彼女は俺を助けて全身打撲を負った。ケガをするのは損だ。
俺を助けて彼女は損害を負った。無茶な助け方をしたせいで死んでいたかも知れない。
理解不能だ。
自分に損の無い範囲で助けるのなら分かる。人助けは気分が良い。だから楽しくなるために、自己肯定感を得るために助ける。これは全く合理的な行動だ。
しかし捨て身の人助けとなると話が違う。リスクとメリットが釣り合っていない。非合理的だ。命がけのスリルを楽しむ狂人にも見えない。
では一体なぜ彼女は身を挺して俺を助けたのか? 考えても分からない。この謎の答えを教えて欲しい。
俺の説明を聞いた彼女はポカンと口を半開きにして俺を見つめ、何言ってるのかわかんない、と困惑しきった様子で答えた。
ガッカリした。よく聞く台詞だったからだ。
俺の喋る言葉は「生意気」で「小賢し」くて「子供らしくない」らしい。
同級生や上級生と会話が成立した試しがない。先生や親、親戚の大人と話しても嫌そうな、あるいは面倒臭そうな反応をされる。
俺は喋るだけで人を不愉快にする異常者なのだと突き付けられるようで毎回悲しくなる。
答えは得られなかったが、命の恩人に厚く感謝を述べ(言葉が難しいらしく半分も伝わらなかった)、俺は彼女を見習う事にした。
理解はできないが、彼女はすごいと思ったからだ。
命懸けの人助けほど非合理的で、崇高で、英雄的な行為が他にあるだろうか?
俺はそれを体験した。浅学非才の身に詳細な理屈は分からなかったが、とてもすごくてカッコイイのだという事だけは分かった。
それから俺は誰かが死にそうになっていたら命賭けで助けようと心に決めた。
やがて小学生だった俺は中学生になり、高校生になり、大学生になり。
社会人になった俺はこの決心には二つの問題がある事に気付いていた。
一つは人の死に際に出くわす機会なんて滅多にないという問題だ。一生に一度もないのではなかろうか。
死体なら葬式とかいう古代のマナー講師が考え出した無駄極まりない非効率的儀式の時に数年に一度は見る。
だが死亡して尊重すべき人間からただの肉の塊になった死骸に価値はない。助ける事もできない。
最近は金を貯めたら人がよく死ぬ地域に移住しようかと真剣に悩んでいる。
二つ目の問題は本当に命を賭けて人を助けられるかという問題だ。
崖から落ちそうな人がいるとして。助けようとすると自分まで落ちるかも知れない。
俺はそんな時迷わず助けられる人間でありたい。
が、本当にできるだろうか? 人助けをしようと心に決めていても、いざその時になったらビビって怖くなって自分の命惜しさに見捨てるかも知れない。
だって死んだら終わりだ。死ねば全てが消える。恐ろしい。天国だの地獄だの幽霊だのあの世だの、死後の世界なんてものは全て死んだら無になるという残酷な真実を恐れる人間の哀れな妄想に過ぎない。
誰だって自分の命は惜しい。その惜しすぎる自分の命を賭けてまで誰かを助けるからこそ価値があるのだが。
俺は彼女のように英雄的な救命活動ができるだろうか? 怪しい。とても怪しい。
俺は知性と効率化には大いに自信があるが、勇敢さと慈愛にかけては赤子同然だという自信も同じぐらいある……
俺は自分を疑い、周りにも疑われた。主に正気とか精神的健康とか。
誰かのために命を賭けてみたい、という願望は異常に分類されるらしい。自分の命を大切にしろとか、もっと別の目標をもった方がいいとか余計なお節介を言われる。
しかし余計なお節介にも一理ある。
一生巡ってこないかも知れない自分の高潔な精神を証明するチャンスを待ちぼうけるなんて、高潔な精神からはほど遠い矛盾した行為だ。もしかしたら自分の惨めな臆病でひ弱な精神を証明してしまうチャンスになるかも知れないし。
誰かを助けるいざという時が来て、その場の恐怖に流されて逆にその人を犠牲に自分が助かろうとあがくような真似をしてしまったらきっと心がへし折れる。
大人になっても当時連立方程式も分からないただの小学生に過ぎなかった彼女の足元にも及ばない。
そうして暇さえあればぼんやりつらつらと一円の得にもならない人生哲学について頭を悩ませていたせいだろう。
ある日買い物に出かけていた俺は横断歩道に突っ込んでくる暴走トラックに気付くのに遅れた。
しかし手遅れではない。二、三歩下がれば安全に避けられるだけの余裕があった。
周りの横断者たちは悲鳴や怒号を上げながら潮が引くように道を空けていく。俺も彼らにならって冷静に暴走トラックから避難しようとして、転んで横断歩道の真ん中に取り残された少女の存在に気付いた。
気が付いたら俺は少女を突き飛ばし、身代わりになって車に跳ねられていた。
全身の骨が砕ける初めての感触を味わいながら、自分が全く何も考えずに人を助けた事に心底驚いた。
何メートルも吹っ飛ばされコンクリートをバウンドして転がりながら、心底安堵した。俺は自分の命を賭けて誰かを助けられる心を持っていた。生意気で小賢しい口先だけの頭でっかちではなかった。
急速に遠のいていく意識の中で、心底恐怖した。ああ、これで終わりなのだ。全ての人間に訪れる無慈悲な幕引き。脳内電気信号の終焉。死の後に待っているもの、無だ。
俺は複雑な感情を闇に溶かし込み、意識を手放した。
そして幽霊になった。
幽霊になって五日が経ち、俺は自分の葬式に列席していた。
交通事故でぐちゃぐちゃになって見れたものではない死体を綺麗に整えたり、葬儀に参列する親戚の集まりを待ったり、縁起を担いだ日にちに葬儀を合わせたりしたせいで魂の無いただの肉塊の処分は五日も延期されていた。
全く理解に苦しむ非効率だ。人は死んだら何も考えられないし、何も生み出さない。死んだらさっさと刻んで畑の肥料にするとか海に撒いて魚の撒き餌にするとかすればいいのに。死骸を無暗に弄ぶ無駄な葬式費用を医療費に回せばどんなに多くの人が救われるか。
しかし非効率の改善を訴えようとしても幽霊になっているから誰の耳にも届かない。
そう。
幽霊だ。俺は幽霊になっている。
死んだら無になるものとばかり思っていたのに幽霊になったのは非常に、めちゃくちゃ、途轍もなく、すんごい、どんな語彙を尽くしても足りないほど興味深い驚天動地の新事実だが、助けた少女が心配でそれどころではない。
俺が命懸けで助けた少女も葬式に参列しているのだが、ひどく憔悴しやつれきっていた。
俺の死骸が入った棺の前で線香をあげる手は震え、泣きはらして真っ赤な目からはまだ大粒の涙がこぼれ、口からは聞き飽きた俺への謝罪の言葉が無限に紡がれる。
「ごめんなさい。貴方を犠牲にして私が、私だけが……本当にごめんなさい――――」
この五日間観察して得た情報から察するに、彼女はどうやら俺を犠牲にして生き残ってしまった事を悔やんでいるらしい。
理解不能だ。
一体どういう事なのかさっぱり分からない。
なぜ泣く? なぜ悲しむ? 助かったんだから素直に喜べばいい。
死ぬはずだったけど偶然助かった。ラッキー。ああ良かった、ありがとう。それでいいのに。
これが家族が死んでしまったとか、自分の過失で死んでしまったなら悲しんだり悔んだりするのも分かる。でも俺は見ず知らずの他人で、頼まれてもいないのに勝手に命をかけて死んだだけだ。泣いて悲しむ要素が見当たらない。
目の前で人が死んだのがショックならちょっと高めの焼肉でも食べに行って気分転換すればいい。そして毎週楽しみにしているドラマの続きを見て、お気に入りのぬいぐるみを抱っこしてぐっすり眠って、起きればスッキリしているだろう。俺ならそうする。
ところが現実問題、目の前で俺が助けた少女はこの世の終わりのような悲壮感を漂わせ悲嘆に暮れている。ひょっとして後追い自殺でもするのではないかと邪推してしまうほど沈み切っている。それを見ている周りの参列者も気の毒そうだ。
これは不条理だ。
助けた相手が苦しみ悲しんでいては助けた事にならない。彼女は明るく笑って楽しく生きていかなければならない。
これは単純な「さんすう」だ。一人死んで一人生き残ったのだから、生き残った彼女は人生を二人分楽しまないと計算が合わない。
こんな簡単な計算もできないとは少女の今後が心配になる。
意味不明な悲嘆に暮れる彼女から原因を聞き出し、問題を解決し、さっさと切り替えて幸せに生きていく手助けをしたい。そうして初めて俺の命懸けの人助けは完遂する。
しかし問題はまさに命懸けの人助けだった事で。もう死んでしまったから文字通り手も足もでない。物に触ろうとしてもすり抜けてしまうのだ。
これには困った。
死んだら全て終わりだと思い込んでいたから、死後の世界や幽霊、怨霊の類について真面目に調べた事がなかった。今更調べようにも本にもパソコンにもスマートフォンにも触れず人に聞く事もできない。幽霊が物に触ったり生者と話したりする方法をどこかで知れたかも知れないのに。
「お坊さん。お坊さん? お坊さん!!!!!」
もう一度読経中のお坊さんの耳元に大声で話しかけるも効果なし。
死者を葬送する仕事をしているのにこんなに死者に鈍感でやっていけるのだろうか。
幽霊に効果アリと噂の線香の煙を思いっきり胸いっぱいに吸い込もうとしても体が無いから口も肺もない。
お坊さんの数珠玉にも何も感じないし、お祓いによく使われる塩を食べようとしても体が無いから舌もない。
もちろん読経を一曲聞き終えても何も感じなければ歌詞の意味も分からない。
死者のためと銘打った葬式がざっと終わり、火葬場で死体が焼かれる。
すっかり骨になった俺の残骸を見て少女はまた泣いている。参列者は俺の骨を見てまだ若かったのに、気の毒に、などと言っているが、今そこで泣いている少女の方が1000000倍気の毒だ。いや1000000倍気の毒は大袈裟か。年齢や性別、様々な状況を考慮するに精々2~2.5倍程度だろう。
気の毒度を再計算している内に葬儀が済んで参列者が解散していく。
結局死者を送る儀式を全て見終えても成仏しなかった。いよいよもって困ってしまう。
ありえないと思っていた幽霊があり得たのだから、無駄の塊だと思っていた葬儀にも何か意味があるかも知れないと少しだけ期待していたのに、何もなかった。
このままずっと何一つできないまま嘆き悲しむ少女にヤキモキし続けるしかないのだろうか。
少女の心の傷が時間で癒えればいいのだが、どうも自然に癒えそうには見えない。むしろ時間と共にどんどん思いつめ陰が濃くなっているように見えた。
せっかく助けたのに思いつめた挙句命を断ったりはしないだろうな、と気が気ではない。
心配だ。これが噂に聞く「幽霊の未練」というヤツなのだろう。
このままでは死んでも死にきれない。
俺はしばらく考え、葬式や仏教による解決を諦め、聖職者や街角占い師、エクソシストなど、なんでもいいから霊を見たり霊と話したりできそうな人を探す事にした。