彼女の幸福な食卓
「嬉しい。来てくれると思ってたわ。ものすごく久しぶりね」
扉の向こうから顔を覗かせた彼女は、ほんの少し明るい栗色に染めた髪を緩く巻き、優しい色合いのチェニックにレギンスを合わせている。
わたしと会うからなのか、それともいつもそうしているのか、化粧は控えめに見えるけれど実に丁寧にしてあるのが女同士の目からはわかる。
独身の女の一人暮らしにしては贅沢な部屋 ―― 彼女のお父様の持ち物らしい ―― はきれいに片づいて、インテリアも安物でないことがいやでも感じられた。
そして居間にはウェディングドレスが飾られている。白いカラーの花を思わせるほっそりとしたシルエットは実に品よく彼女に似合いそうだ。
これを着て彼女は結婚するはずだった。大学時代にサークルで知り合った共通の友人と。
《なんだか疲れたよ》
彼がわたしにそう打ち明けたのは半年前、二人が式場を探している最中だった。
《なんていうかさ。できあがっちゃってるんだよ彼女の周りの世界って。その中に本当にオレの居場所ってあるのかな。たまたま今は仕事も順調だからいいけど、もし、ちょっとでも躓いたらあっさり放り出されるんじゃないかって時々不安になるんだよね》
親族を呼んだ豪華なホテルでの式と、友達だけでの手作りのガーデンパーティー。オーダーのウェディングドレス。オリジナルの引き出物。
結婚後はとりあえず恵比寿にマンションを借りて、いずれはご両親の住む松濤の近くに一軒家を建てるのだそうだ。
同じ都内の人気私立大の卒業生といっても、彼女は幼稚舎からの生粋のお嬢様で、彼やわたしは大学で入った外様にすぎない。学生のころから住む世界の差は感じてはいた。
もちろんそんな世界に憧れる人もいるのだろうが、彼は居心地の悪さを感じてしまったようだ。
愚痴を聞くはめになったのは、彼にとってわたしが男友達と同じような存在だったからだろう。他に言いやすい女友達もいないし、かといってサークル内でダントツに人気のあった彼女をゲットしておいて他の男連中に愚痴っても素直に聞いてはもらえない。
そう。だから最初はただの……
「今ね、お料理教室に行ってるの。ほらわたし今までちゃんと習ったこと無いでしょう。家庭を持つなら基礎からやっておきたいって思ったから。この前はビーフシチューを習ってきたのよ。前の晩からつけ込んでおいたお肉で作るの。ママの教えてくれたのも美味しいけど、本格的に作るとほんとうにお肉がトロトロになるのよ。知ってた。せっかくだから特別なお肉で再現してみたんだけどよかったら試食してくれない?」
彼女は一つだけランチョンマットとスプーンとフォークがセッティングされたテーブルにわたしを座らせると、いそいそとシチューをよそう。
「あんまりお腹空いてないから」
「じゃあ味見だけでもして。ちゃんと美味しくできてるか不安で」
わたしは形だけ口をつけてお愛想を言った。正直何を食べても味なんてわからないのだ。
もう三日、彼から連絡が来ていない。
このひと月は毎日のように先のことを相談していたのに。
《彼女にあってちゃんと話さないとね》
そういった矢先のことだった。
そして昨日になって彼女から急な誘いがあった。何も知らないかのように快活な声で結婚前にみんなで会いましょうよ。と。
けれど、みんなが来る様子はやはりない。
わたしはスプーンを置く。
「ねえ、みんなを呼んだんじゃなかったの」
彼女は振り返った。今まで見たことのない顔で。
急にわたしは不安になった。
わたしは勝った。でも、だったらなぜ連絡が無いのだろう。
強気と不安とが交錯する
「今日、来られるのはわたしだけなのかしら」
「わかってたくせに」
「なにを」
「泥棒!」
いつも微笑みしか見せたことのない彼女の顔が醜くゆがんでいる。
「知ってるんだから、あなた大学のころから彼のことが好きだったのよね。でも、全然相手にされなかった。それで結婚間近で彼が不安定になってたところにつけ込んだのよ。友達のふりして。なんて汚ない」
彼女の怒りがわたしに余裕を与えてくれた。
「しかたないじゃない。あなたと一緒に生活する自信が無くなったって言うんだから。わたしと彼は似たもの同士なの。あなたはあなたにふさわしいクラスの人をまた見つければいいでしょう」
彼女の顔が大きくゆがむ。
「幸せになるはずだったのに。もうすぐ二人で一緒に。このウェディングドレスを着てみんなに祝福されて。それなのに……。あなたのせいで」
しゃくり上げながら、かけてあったドレスを引きずり下ろす。そして抱えたままこちらに近づいてきた。
ばさりと、長くのびた裾をテーブルの上に投げ出す。そこにはどす黒いシミがついていた。
「あなたのせいで……彼はもういない」
絞り出すように彼女が囁く。
「いない?」
「シチュー美味しかったでしょ?」
そういうと彼女はわたしを見据えた。目が血走ってすわっている。半開きの口はぴくぴくと震えていた。
突然。何かがスパークした。
彼女に会いに来たあと突然連絡を絶った彼。彼女からのこの呼び出し。
そして、前の晩からつけ込んだ特別なお肉。
「まさか……」
にやりと彼女が笑う。いつも見せているよくできた微笑みじゃない。底知れないどす黒い笑い。
胃の辺りから嫌なものが上がってくる。口から先ほど食べたシチューがあふれてくる。肉を吐き出してもまだえずきはとまらない。胃液が上がってくる。苦しくて目には涙がにじむ。
どこかで奇妙な音が聞こえた。
これは笑い声。彼女が笑っている。心底おかしそうに。
「馬鹿じゃないの。彼のお肉だとでも思った。そんなことをするわけ無いでしょ。残念ねそれは彼にごちそうしようと思ってA5ランクの”特別に”いいお肉で作ったシチューよ。わかった」
目尻にたまった涙を指でぬぐうと彼女はわたしをにらみつけた。
「あなたになんか彼はわたさない」
わたしは彼女を睨み付けたまま手と口の周りをウェディングドレスでぬぐい、それを思い切り投げつける。
そして迷わず背を向けた。大きな音をたててマンションの扉を閉める。
一瞬でも動揺した自分が歯がゆい。
彼がわたしを選んだことは間違いないのだ。連絡が来ないのはなにか理由があるのだろう。心配する必要なんて無い。
友人……、だと思っていた女を見送った後、彼女は寝室の扉を開いた。そして凍えるような冷気が満たす中、ベッドに横たわるものにそっと寄り添う。
「ねえ、見たでしょ。あの子。あなただと思ったのに吐いたの。その程度の気持ちなのよ。わかったでしょ。でも、ばかよね。わたしがあなたを自分以外の人に食べさせるはずなんてないのに。大丈夫。わたしはそんなことはしないから。ちゃんと全部食べてあげる。全部わたしの中に。ずっと」
それからかすかに腐臭の漂いだしたものに優しく口づけた。