(5)
晃牙の死後、周囲の妖が活発化している。それ自体は想定の範囲内だが、どうも何か違和感がある。先ほど戦った黒い靄にも同じ不自然さを感じ、追って来てみたが見失った。脳裏にどうしても露珠の顔が浮かぶ。悲鳴を上げ、傷を負った痛々しい姿を思い出すと、つい力が入る。
露珠が攻撃で怪我を負ったと認識した瞬間も、危うく加減を誤って真白への影響を考えずに力を揮うところだったし、適度に弱らせ調べる予定の妖も殺してしまうところだった。怪我なら屋敷に白露があるし、それまでの痛みについても、高藤が適切に対応することはわかっていたにも関わらず、だ。彼女を他者に傷つけられることが、あんなにも腹立たしいことだとは知らなかった。
怪我をする直前、真白を見て呆然とした様子だったことも思い出す。半鬼である乱牙のことは好ましく思っているようだったが、半妖は苦手だっただろうか。母親がヒトやその血の入った半妖を毛嫌いしていたことから、表面上それに倣っていたが、父親同様、凍牙も種族に関して大した好悪の感情はない。鬼以外はみな弱い、その程度の認識で、その中に区別はない。
露珠の反応を見たくなくて、離縁を高藤に言付けた。彼女にとって悪い条件ではなかったはずで、わざわざ会いに来たのには驚いた。
露珠の気配と角が別の場所にあるとは、早い段階で気がついていたが、会いに来たのは角を返すためだったかと思い至る。持っておけばいいものを、律儀なものだ、と感心する反面、変わるものを得たから、望まず妻となった夫のものなど持っていたくないということか、と変わり身の早さを嘲る気持ちもある。
まだ若い凍牙は角の再生も早く、一度折ったことなどわからない状態に戻っている。銀露に渡すために凍牙よりも先に角を折った晃牙は、晩年まで元には戻っていなかった。
鬼の角はそのままでも大きな力を持っているが、本人が意図すればさらに力を籠めることができる。その状態で折れば、力を保持したまま角はそこにあり続ける。そして、これは鬼でも知っているものは少ないことだが、角に込めて切り離した力は、完全には回復しない。要らぬというなら、またその力を取り込むことができる。
「真白。何を持っている」
戻ってみれば、角は真白が持っているらしいことが察せられたが、凍牙を内心狼狽えさせたのはそのことではなかった。
真白から、露珠に渡した自分の角だけでなく、紅玉を見せられ、動揺から力の制御が乱れる。凍牙から漏れ出した殺気とも怒気とも言える妖力は、周辺一里内の弱い妖を死滅させるほどのものだった。
高藤もその場で堪えるので精一杯、真白は角を持っていなければ即死だっただろう。
「真白、それを寄越せ」
おずおずと差し出されたそれを受け取るのと、凍牙が二人の目の前から消えるのはほぼ同時だった。
★
真白から角と紅玉を取り上げた凍牙は、そのまま真っ直ぐ大雪山に来ていた。外部からの訪れを拒むような吹雪を抜け、山の中ほどまで来た凍牙は、何もない空間を前にまるで壁があるかのように立ち止まった。
見ることは出来ないが、凍牙の前にあるのは晃牙の角の結界だ。
その手前に立ち止まり、指先を結界に触れ、軽く力を流す。そのまま暫く結界の前に立っていると、結界の異変に気がついた銀露の男が一人、凍牙のもとへやってきた。
「これは、凍牙、様、でいらっしゃいますか」
初老の銀露は、丁寧な態度で凍牙に問いかける。
凍牙を見たことはないが、この大雪山を尋ねてきて、結界に干渉できる鬼など他に考えられない。晃牙が亡くなったことは知っていたし、その死によっても結界の力が弱まらないことを確認し、一族は安堵していたところだった。
ここに凍牙が来ている、というのがどういうことか、銀露は最悪の想像をしながら、慎重に言葉を選ぼうと内心身構える。
「露珠は、来ているか」
しかし、どの想像とも違う問いかけに、銀露は考えていたことも忘れて声がでてしまう。
「露珠、ですか?」
露珠。数年前に、一族の束の間の安寧と引き換えた娘。
殺されているか、死ぬより辛い目に遭っているかと覚悟していたが、まさかその名を鬼から聞くことになろうとは。凍牙の嫁にする、とは当時晃牙が告げたことではあったが、銀露側はそれを信じてはいなかった。
だが、凍牙が彼女を探してここに来た、ということは、彼女はまだ生きているということか。露珠は本当に貴方と夫婦になったのですか、と出かかった言葉をすんでのところで飲み込む。
「いいえ。あの日以来、露珠がここに現れたことはありません。露珠は、今……」
貴方から逃げたのですが、と聞きかけて、これもまた飲み込む。
一族を裏切ってまでも逃げたい、と露珠が願ったのなら、恨みはすまい、と思っている。しかし、目の前の鬼は無表情ではあるが、怒っているようには見えない。どちらかと言えば焦りさえ感じられる。逃げた露珠を追っている、というのとは少し違うように思えた。
「そうか」と短く告げ、銀露の中途半端な問いに答えることはせず、凍牙は踵を返す。
当初とは違った不安に襲われて、銀露は凍牙を呼び止めようとするが、それより先に凍牙が振り返る。
「紅玉を失うとどうなる」
ひゅ、っと銀露が息を飲んだ。
一度はその死を覚悟したとはいえ、今、生きていると希望を見出したばかりで、またその死が濃厚に漂う。
「紅玉は、銀露の命です。失えば、もちろん」
「知っている」
決定的な単語を吐く前に、それを遮られる。
「知っている。失って、どれくらい持つ」
★
外が騒がしい。
必死な様子で腕にしがみつく露珠を落ち着かせようと、つかまれているのとは別の手で露珠の腕を取る。
外からは悲鳴のような声が聞こえる。
「銀の、鬼が……」
乱牙の耳がその声を拾ったのと、戸が周囲の壁ごと崩壊し乱牙が吹き飛ばされるのはほぼ同時だった。
「なっ、てめー、いきなり何しやがる」
血を吐き捨てながらも、瓦礫の中から立ちあがり、乱牙がその相手を睨みつける。今まで乱牙がいた場所は、土間と板敷を境にきれいに土間側だけが崩壊している。
「衝動も抑えられぬ半鬼が」
「うるせぇ。てめーだって、露珠をこんな状態で放り出しやがって」
露珠の血を飲んだことを遠まわしに非難され、気まずさがそのまま怒りに転化される。
気配を感じた乱牙によって、間一髪板敷に逃がされた露珠は無傷だが、状況が呑み込めていないようで、突然現れた凍牙と殴り飛ばされた乱牙の間で視線が定まらない。
もう会うことはないと思っていた凍牙が現れたことに動揺したが、少しもこちらに視線を向けることのない様子に、露珠の存在に気が付いていないか、最早路傍の石と同様の扱いなのだろうと思うとそれも治まった。はじめに乱牙を殴り飛ばす時点で、露珠を追ってきたとは思えない。凍牙は乱牙を探していて、たまたまそこに自分がいた、というのが最もそれらしい。
凍牙は真白と出会ったときにしていたという兄弟喧嘩をまだ続けるつもりなのだろうか。
そこまで考えて、乱牙が今の攻撃で怪我を負っていることに気が付く。彼が幼い頃はいつもそうしてあげていたように、その怪我を治そうとふらつきながら立ち上がる。
「ダメだ、露珠。来るな!」
それに気が付いた乱牙の制止と、露珠の隣を凶暴な風が通り過ぎるのはほぼ同時だった。
確実に急所を狙ったその攻撃を抜いた刀でぎりぎり受け止める。
「その気があるならさっさと角を渡せ」
痛みが怖くてできないならば代わりに折ってやろう、と凍牙の鋭い爪が額に迫る。
「うるせー!お前が邪魔したんだろうが」
断られた、とは口に出したくない。
強さが桁違いである2体の鬼の攻防は露珠を含めた他のものには目で追うことも難しい。時々訪れる攻撃の「間」で、それぞれの状態を辛うじて確認できるだけだ。そして、その「間」の度に、乱牙の傷が増えていく。一方の凍牙ははじめに現れたときと変わらぬ涼しい顔をしており、乱牙が一方的に押されているのが露珠にもわかる。
幾度目かの攻防の末、地面に膝を着いて次の攻撃態勢を取れずに荒い呼吸を繰り返す乱牙に、少し手前に着地した凍牙がその刀を抜いて振り上げる。
とどめを刺さんとするかのようなその状況に、露珠がその身を割り込ませた。
乱牙に背を向けて膝をつき、凍牙に相対する。
「どうか、これ以上は」
お許しください、と目を伏せる。
乱牙を背に庇うその姿に、凍牙は露珠が屋敷へ来た頃を思い出す。
妾とその息子のこととなると取り乱す母親の目を誤魔化し、乱牙が幼い頃は喧嘩に見せかけて、戦い方を教えた。その上、妾はともかくその息子にはあまり興味のない父親が何もしない分を補うため、戦う中で他の様々なことを教えていた。あの頃から露珠は母に冷たくされている乱牙を気にかけ、凍牙との『喧嘩』で怪我をした乱牙をこっそりと治してやっていた。
白露をすべて凍牙、もしくは晃牙に献上していた露珠は、その度に自分を傷つけてその血を乱牙に飲ませていた。もちろん、そうしていることを母が知れば、露珠もただでは済まない。凍牙はそれが露見しないよう、露珠が乱牙を手当している間は母親の元を訪れるようにしていた。
乱牙のためではない。半分であっても鬼の血が入っている乱牙は、凍牙が手加減してつけた傷など数日のうちに治るはずだった。それでも露珠を止めなかったのは、露珠自身が乱牙と触れ合うことを楽しんでいる節があったからだ。
二人が互いを名前で呼び、良く庭で遊んでいるのは凍牙も知っていた。屋敷内にいる時の凍牙の耳には、「露珠」「乱牙」と互いを呼び、楽しそうにしている二人の声が聞こえていたからだ。
ある日、同じように露珠と乱牙が庭で過ごしている時に、晃牙が凍牙の部屋にやってきて、露珠と乱牙がいるであろう庭の方に視線を投げながら、「なんだ。あれを乱牙にくれてやるのか」と問われたことがある。その時の答えを、凍牙は頭の中で繰り返した。