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(3)

 できるだけ遠くへ。凍牙が去った方向とは別の、全くゆかりのない土地へ。身体を傷つける枝や葉を無視して走る。


 押し付けるようにして渡した物を、真白は驚きながらも受け取ってくれた。頬の傷を心配しながらも、そこに触れられたくない、という露珠の気持ちも汲んで世間話をしてくれる、聡くて優しい娘だった。

 高藤から初めて話を聞いたとき、凍牙の腕の中に庇われる姿を見たとき、そして、彼女が何の半妖か知ったとき、露珠は確かに真白への害意を抱いた。そんな自分と彼女との差が、きっと今の境遇の差なのだと、思わずにはいられない。


 期待できる要素など何一つなかったのに、それでも、凍牙が追ってこない理由を作りたくて、露珠は走った。どうしても期待してしまう、そんな期待を打ち砕くために、できるだけ遠くへ。


 少しの間話しただけの真白を思い出す。あれは妖狐とヒトの半妖だった。

 妖狐であり、銀露である露珠よりも、狐の半妖の真白の方を、凍牙は選んだのだ。自分に似ていれば似ているほど、そして相手が劣っていればいるほど、属性ではなく自分の中身に魅力がなかったのだと突きつけられる。


 先ほどの黒い靄との戦いで、すぐ傍に居た露珠を完全に無視して、真白を庇った凍牙を思い出す。心配してきてくれようとした高藤を制止して、真白の保護を命ずるほど、凍牙にとって真白が大切で、露珠はどうでもいい。

 走りながら何度も、それらの短い光景を思い出しては、精神的な傷を確めることをやめられなかった。


 凍牙が去った方向とも、屋敷とも別な方向へしばらく走り、見知らぬ湖のほとりで、露珠は立ち止まった。体中に細かな切り傷ができているが、欲しい痛みには到底足りない。


 私があれを手放したことを、きっと凍牙様は気付いてくれる、そして、心配して追ってきてくれる、そう希望をもつことくらい許されるだろう。それでも彼が現れないのは、露珠の居場所を突き止められないからだ。

 そう思わせてほしい。

 はっきりと拒絶されたのに、なんて愚かなのだろう。

 それでも。


「勝手に想うのは、自由でしょう」


 水に手を浸し、湖面に映る自分の顔を見る。先ほどの攻撃で焼かれた頬はそれなりに見苦しく、さらに気分が沈む。


 着物が濡れるのも厭わず、ひざ下まで水に入れる。足の傷に水が沁みるが、もはや気にならない。


 そう、あの時遊びたかったのは、こんな風に凍っていない湖だった。氷の神様、と当時は思っていた者と出会ったときを思い出しながら、水中の足をゆらゆらと泳がせる。


 神様じゃなかったかもしれない、と一度は思ったけれど、結局、露珠のあの願いは完璧に叶えられたのだ。凍牙と露珠が離縁した今でさえ、大雪山の銀露は晃牙の角と凍牙に守られている。


 何も、悪いことなどなかった。ただ、露珠が失恋しただけだ。


 半ば自棄になって水の中で足をばたつかせていると、昔のことを思い出す。屋敷に連れてこられたばかりで、凍牙の気持ちも、影見との距離感も、全てが分からなくて不安だった露珠が、唯一楽しかったのが屋敷の庭に出ることだった。


 屋敷の庭は広く、池まであり、それは綺麗に整えられていた。聞くと、屋敷もその庭も、乱牙の母のために作られたものらしかった。ヒトであった彼女は、鬼や妖である晃牙や影見のように、山や森で暮らすには弱い。家を作ってそこに住まわせ、その周りには凝った庭を作ることで、ヒトである彼女が屋敷とその庭だけで生活できるようにしたという。


 大雪山でしか過ごしたことのなかった露珠には、その庭の木々も、生き物も、凍っていない池も、何もかもが珍しかった。晃牙や影見、そして凍牙もあまり露珠を構うことはなく、特に禁止事項もなかったため、初めの頃の露珠は、昼間のほとんどの時間を庭で過ごしていた。

 特にその大きな池が露珠のお気に入りで、池の周りを一周するように散歩するのが日課だった。


「お前、誰だ」


 いつもの様に池の周りを歩いていて、屋敷の影になっている辛夷の木の下を通った時だった。警戒の滲んだ、少年特有の少し高めの声が降ってくる。周囲を見回して声の主を探す露珠の目の前に、彼は降りてきた。楊梅色の明るい髪に、胡桃色の目。晃牙そっくりな色彩を持つ少年は、露珠が初めて見た時の晃牙の様に、1つだけの角を頭部に持っていた。

 その見た目から、少年が何者であるか察した露珠は、膝をついて視線を合わせる。


「私は、露珠と申します。最近こちらに……その、凍牙様の」


 初日以来ほとんど会っていない凍牙を夫と呼んでよいものか。ためらいがちな露珠の言葉を、その少年が引き取る。


「あぁ、兄貴の嫁さんか」


 兄貴、などと呼ぶ割に、視線を逸らしどこか自信なさ気な様子に、露珠はその少年の置かれた立場に思い至る。


「乱牙様、でございますね。凍牙様の弟君の」


 この屋敷での乱牙の微妙な扱いは、ここに全くなじめていない露珠にも感じ取れていた。影見が妾の存在を今なお憎んでいることは察せられたし、屋敷全体が乱牙とその母の扱いを決めあぐねている雰囲気があった。露珠に乱牙の存在を知らせはしても、紹介されていないことも、その状況を物語っている。


「露珠、さ、ま」


 言いにくそうにする乱牙に、一度だけ聞いた影見との会話を思い出す。姿は見えていなかったけれど、あの時の相手は乱牙だったのだろう。


「兄貴、ですって?凍牙様、とお呼びなさい、この半鬼が!」

「は、い。影見様。申し訳ありません」

 直後、バシリ、と何かを叩く音と「ふん、可愛げのない」という影見の声がしたのだった。


「敬称はいりません。どうぞ、露珠とお呼びください、乱牙様」


 その前に跪いたまま、露珠は乱牙の目を正面から見つめた。妾の子ではあるが、晃牙の血を引いている半鬼の乱牙と、物々交換でやってきただけの望まれていない妻である自分、どちらが上位であるかは、露珠にとっては明白に思えた。


 露珠の申し出か、跪いていることか、それともその両方か。驚いた様子で目を見開いた乱牙は逸らしていた視線を真っ直ぐ露珠に向けた。


「俺も、乱牙で、いい」


 この屋敷に来て、初めて普通に交流が持てそうな気配を察して、露珠は頷き、微笑みとともに乱牙の手をとった。


 屋敷内で孤立していた乱牙と露珠は、それぞれ今までの寂しさを埋めるように、良く会うようになった。乱牙は庭を案内し、食べられる木の実を教えた。露珠は本当の弟に接するように、自分が親や一族から教わったことを教えた。


 意外なことに、露珠の次に乱牙に構っていたのは凍牙だった。凍牙は時たま庭に出てきては、なんだかんだと乱牙を煽り、その挑発に乗った乱牙が凍牙に殴りかかって喧嘩が始まる。当の乱牙や、それを静観していた影見がどう思っていたかは分からないが、露珠にはそれが喧嘩に見せかけた兄弟の交流に見えていた。更に言うなら、影見が不快に思わないように偽装した、戦い方や周囲の情勢についての講義のようだと露珠は思っていた。


 大して昔のことでもないのに、ずっと過去のことのように懐かしく思い出されて、露珠はふっと頬を緩めた。

 交わした会話なら夫より、乱牙が一番多い、というくらい、凍牙は寡黙だった。表情もほとんど動かない凍牙は、乱牙とやりあっている時は少し楽しそうで。それを見ているのが好きだった。

 思えば、甘い言葉ひとつかけられた訳でもないのに、離縁の申し出に動揺し、新しい女ーーそれも少女ーーの姿を見て嫉妬して、こんなみっともない行動をとるほど好きになっていたことに、今更ながら驚いてしまう。屋敷の整理などして冷静になってつもりでいたけれど、逆上していたのだろう。


 そういえば、「銀露は、皆このように美しいのか」と以前、一度だけ凍牙が露珠の容姿に触れたことがあった。あれはこの見た目を褒めてくれていたのだろうか。だとしたら、最後に傷をつけてしまったのは惜しかったかもしれない。

 無駄な処置だとは思いつつも、ピリピリと皮膚を溶かし続ける傷口の毒を湖で流そうと、何度か水を掬って頬を流す。


 銀露の血は多くの妖にとって甘美な匂いがする。それを水で流すということは、水の中にまでその匂いが広がるということだ。先ほどから浸している足の傷からの出血に加えて、更に頬からの血が湖に広がっていく。


 水面に、線状の波紋が現れる。

 その異変に気がついた露珠の前に姿を見せたのは、大蛇だった。


「影見、さま」


 つい、亡くなった義母の名を呼んでしまう。

 しかし、それにその大蛇が反応した。


「かがみさま、だと?影見を知っているのか。お前……銀露が影見とどういう関係だ」


 妖の間に明確な優劣は存在しない。神に近しい存在である鬼ならばともかく、妖狐が影見に敬称をつけて呼ぶのは、はたからみて不自然だ。


「影見様は、義母、でした」

「義母。では、お前は影見の息子の嫁か」


 微妙な過去形を、目の前の妖は影見が亡くなっているからだと解釈したようだ。


「あいつ、鬼なんかに惚れて押しかけて。やめておけと何度も言ったが聞きはしなかった。あまりにも早く死んだのも、あの鬼のせいかと思っていたが……。そうか、息子に、嫁まで」


 鎌首をもたげた大蛇が、その炎のような色の目で露珠を覗き込むように顔を近付ける。


「では、あの銀の鬼が、影見の子なのだな」

「銀の……そうですね、凍牙様は、影見様のご子息です」


 大蛇はその顔の位置を変えないまま、露珠を中心に湖面にとぐろを巻くように身体を滑らせる。


「あの鬼が死んで、かなり広範囲で妖の動きが活発化している。中々きな臭い状況だが、なぜお前はこんなところにいる。お前が力を貸さねば、あの鬼の息子一人でこの状況を平定するのは難しいのではないか」


 先が二つに分かれた赤い舌が眼前でちろちろと動く。

 こちらのことを心配しているような言葉ではあるが、全く温度を感じない。完全に露珠をその胴で作った輪の中に収め、するっと露珠の身体を撫で上げる。


「銀露の血。少し、試させてもらいたいものだな」


 ★


 今日はやけに妖が多い。


 狩りのついでに森を見回っていたヒョウはいつもとは様子の違うのを訝しく思い、小さな妖を退治しながら村への道を引き返していた。


 いつもより騒がしく、小さな妖が多い。その妖たちも、もっと強い妖にやられたのか、死骸だったり瀕死だったりするものが多い。何か良くないことが起こるのでは、と村の結界の強化を村長に進言しようと決め、足を速めた。


 村に程近い社の境内を通ると、ご神木の洞に白いものが見える。寄ってみると衰弱した様子の狐が丸まって休んでいる。

 狐を神の使いとする地域もあるようだが、ヒョウの村は違う。


 ご神木に入り込んだ不埒な白狐を、後で毛皮にして売り払う気持ちで、ヒョウは今日の獲物とともに担いで村へと急いだ。

 


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