(8)
「申し訳ございません。凍牙様。露珠様を守りきれず、このような――」
傷だらけの状態のままで、高藤は屋敷に戻った凍牙に跪く。朱華が露珠を連れ去って程なく、凍牙は屋敷に戻ってきた。見た目に分かる消耗はなく、いつもどおりの無表情で高藤の報告を聞いている凍牙には焦りも怒りも見えないが、高藤には周囲の空気がパリパリと爆ぜているのが肌で感じられる。
額を地面にめり込ませる勢いで頭を下げた高藤を、支えるように凍牙が起こした。
「不意の遭遇ならともかく、あのような形で露珠と真白を守りながら戦っては、私でも勝つのは難しかっただろう。真白」
高藤の後ろで白露を持っておろおろとしていた真白は、凍牙に呼ばれて駆け寄る。真白が露珠から託された白露を渡そうとしても「凍牙様がお使いにならないものを私が使うわけにはいきません。貴女が使いなさい」と頑なな高藤に困っていたのだ。
「真白。傷は?」
「お薬を塗ってもらったので、痛くないです。高藤様の怪我のほうが酷いから」
真白の怪我は幸いか狙ってか、眼球に傷は付いておらず、目蓋を薄く切っただけのもので、既に血は止まっている。真白が差し出した白露を凍牙が受け取り、高藤に「口を開けろ」と命じる。「ですが」と抗弁しかけた高藤の口に、白露を投げ入れた。
「――っ凍牙様!!」
「朱華を追う。お前が戦える状態でないと困る」
「……はい」
口元を袖で抑えた俯く高藤の外傷は既に治りかけている。もう一度凍牙に深く一礼した高藤は、白露の効果に内心驚いていた。消耗した力すべての回復には至らなかったが、通常の戦闘であれば十分力を発揮できる程度には戻っている。以前、露珠から血を奪った時のような急激な高揚とは全く別の穏かさで高藤の全身に作用しているようだ。
「それより先に、片付けなければいけない件がありそうだな」
凍牙が屋敷の奥に目を向けつつ、真白を引き寄せ背後に隠す。高藤に目線で真白を連れて離れるよう指示して、視線の先へ歩を進める。
「お帰り、凍牙」
廊下の影から露霞が顔を出す。裏切った相手に向けているとは思えない、いつもどおりの表情と声音に、凍牙の片眉が上がる。周囲の空気の震えが大きくなり、青い火花が散っていて、表情よりも余程凍牙の怒りを表している。
「義兄上、どのようなつもりで」
酷く怒っている様子なのに、言葉遣いも語調も常と変わらず聞こえる。その感情を殺したような様と周囲の状況の不一致に、露霞が不適に笑う。
「焦るのだな、最強の鬼でも。なのになぜ、初手で俺に襲い掛かってこない?従者の報告を信用してないわけじゃないんだろ」
問答無用で殴りかかって来い、と凍牙を煽る。
今更その程度では感情にさざなみ程度も立たないが、この場では相手に乗ってやるのが早い。そう判断した凍牙が一気に距離を詰めて、露霞の左わき腹から薙ぐように左手を払う。間一髪後ろに引いた露霞の衣が、真一文字にすっぱりと切れている。
驚いた表情を浮かべた露霞が、何かを言おうとするが、凍牙はそのまま右手で刀を持ち、抜刀の勢いで露霞を切る。避けきれない切っ先が露霞の髪を切った。
いつもの様に茶化す余裕をなくした露霞も攻撃に転じたことで、屋敷の庭は凍牙と露霞の攻防でみるみる荒れていく。
そう長くはないやり取りで、勝敗は付いた。
凍牙は露霞を地面に組み伏せて顔の脇に刀を突き立てる。
「さ……っすがに、ホンモノは強いなぁ」
なぜか嬉しそうに、地面に大の字になって凍牙を見上げる露霞が言う。凍牙が刀を抜いていたわりに、露霞には切り傷はない。身体のあちこちが痛むのは、凍牙の妖気による損傷と打撲だ。対する凍牙も無傷ではないが、腕と肩についただけの傷は軽い。
「ホンモノっていうか、お前が強いだけか?」
「そこまで本気ではなかったようですが」
「買い被り過ぎだ。本気出しても厳しいな、と思い直したし、こっちが本気ださなきゃ殺されはしないかと打算もあった」
仕方ない、とでも言うように凍牙がため息をつく。
「露珠と約束してしまったので、ここまでにします」
「殺しとかなくていいのか?何度でも露珠を裏切るかもしれないけど?」
「あなたに関しては、決めるのは露珠です」
本心でそういっている様子の凍牙を見て、今度は露霞が深くため息をつく。
「……なあ、凍牙。露珠のこと、怠惰だと思ったりしないか」
「怠惰?」
露珠の形容としてはおよそ相応しいとは思えない言葉に、訝しげに凍牙が聞き返す。
「相手に尽くそうとするとき、血と、涙と、そういうものを積極的に提供してくるだろう。身を削るっていうと健気に聞こえるが、その実なんの労力もいらない、持って生まれたものを渡してるだけだ。そういうところが怠惰だと」
もう一度、露霞がまるでため息の様な深い呼吸をして、意を決したように凍牙を見る。
「そう言われたんだ。俺が喰った、俺に、この力をくれた鬼に」
想定外の告白に、流石の凍牙も目を見開く。露霞は、鬼の力を得ることになった顛末を語る。
大雪山を出た、まだ幼年の露霞を保護したのが、その鬼だった。穏かな若緑の瞳に、それよりも落ち着いた色の髪をしたその鬼は、鬼と言うよりもむしろ森の化身のようだった。その鬼の守護の下、露霞は成長し、時折その鬼の下を離れることはあっても基本的には共に過ごしてきた。その鬼の縄張りは広くなく、特に縁者もいなかったようで、時折他の鬼や妖と戦闘になっては、傷を負って帰ってくることがあった。幼少の露霞は一緒に戦うことも出来ず、血と白露をその鬼に渡そうとしたところ、諌められた。長じてからは露霞も共に戦えるようになり、鬼の怪我の回数も減ったが、それでも時折負う怪我に対して露霞が白露を渡そうとすると「怠惰だ」と詰られる。
そして、その鬼の死の間際、露霞は紅玉を使った。寿命による死を受け入れていた鬼は、露霞の紅玉と引き換えの蘇生を望まなかった。互いの必死の説得の末、露霞は渡した紅玉ごと、相手の鬼を取り込み、結果、鬼の力を手に入れた。
「露珠も、そういう感じだろ?お前に。俺はあいつにしか、血も、白露も、紅玉もくれてやる気はなかったが、露珠はもっと……」
「で、もう気は済んだんですか?」
「まあ、そうだな」
鬼の力を得た経緯については、凍牙にとっても驚きだった。通常鬼を倒して喰らったとしても、その力が捕食者側に移行するとは聞いたことがない。紅玉の効能のように思えるし、露珠のために気になることではある。しかし、既に戦意を失い、恐らくもう露珠への手出しもしないと思われる露霞にこれ以上構っている時間はない。
「で、お前はいつまでそこで見てるつもりだ」
庭の木の上に向かって、凍牙が声をかける。
「いや、兄貴が苦戦してるの珍しくてさ、つい」
木から飛び降りてきたのは、凍牙と露霞の戦いの最中に屋敷に戻ってきていた乱牙だった。状況はわからないまでも、劣勢になるようだったら加勢しようと様子を見ていたらしい。
「弟……?半鬼か?」
地面に座ったままの露霞が、凍牙と乱牙を見比べる。
「父上とヒトの間の子だ。乱牙、露珠の兄で、露霞と言う」
「は?露珠の兄貴?」
なんだって露珠の兄と戦ってたんだよ、と混乱する乱牙に、凍牙が状況を説明する。
「別の鬼に露珠が攫われた。その手引きをしたのが義兄上だ。露珠を助けに行く。付いて来い」
「説明足りなすぎんだろ!てかこいつこの程度でいいのかよ?」
刀に手を掛けながら、乱牙が露霞に詰め寄る。
「やめろ、乱牙。この後どうするかは露珠が決める」
珍しい凍牙の言い様に、乱牙が呆気に取られる。凍牙が少し嫌そうに顔をしかめると、「露珠と約束している」と言い訳のように言って顔を逸らした。
★
屋敷に高藤と真白を残し、凍牙と乱牙、そして露霞が朱華に連れ去られた露珠を追う。露霞は朱華が去った方角を覚えていることと、朱華の気配を多少追える事から途中までの道案内を申し出た。凍牙は露霞を信用してはいないものの、このまま放置していくとなれば、万が一のために乱牙を屋敷に置いておく必要がある。置いていくよりは目の届く範囲にいてもらったほうがいいという判断からその申し出を受けた。ある程度近付けは自身の角のありかは分かることを考慮すれば、そこまで大きな賭けではないはずだ。
先頭を行く露霞、その後ろを行く凍牙を最後尾から眺めながら、乱牙は、『兄弟』という視点で自分と凍牙との関係を考えていた。説明が足りなすぎる凍牙に詰め寄って、ここまでの道のりで、露霞と今追っている朱華と言う鬼が来た辺りからの状況をある程度聞かせてもらっている。露霞は露珠に対して、助けてやりたいと思ったり、朱華に加勢して連れ去られてみたり、どうにも複雑な感情を抱いているようだが、自分はどうだろう。
それというのも、話の途中で露霞が「君達兄弟は、仲が良さそうだね」などと言うからだ。続けて「必要であれば、互いに角の融通くらいはするだろう?」と露霞がいい、それに間髪いれずに凍牙が「まさか」と答えたため、乱牙は答える機会を逸したものの、なんとなくそれを考え続けてしまっていた。
凍牙との仲が良いとは、家族含め誰も思っていなかっただろうが、乱牙は異母兄を嫌ってはいない。あからさまに敵意を向けてくる影見や、無関心な晃牙に比べ、凍牙は乱牙に構ってくれる唯一の家族といってよかった。喧嘩のたびに手ひどくやられるのは堪えたが、おかげで半鬼ながら鬼と対等に戦う力を持つことが出来た。言葉足らずのところや露珠の扱いについては色々言いたいことはあるが、ある意味では最も信頼しているといっていい。本人に言うつもりは決してないが。
露霞の問いかけの角についても、凍牙のためとは言わないが、ヒトのためにも半妖のためにも、強大な力を持つ者が居たほうが都合が良い。それに。それを頼んでくるのは凍牙ではなく露珠になるはずだ。そうなれば、乱牙に拒否する選択肢はない。例え話だろうから角の用途はともかく、それに類する力を銀露の血や紅玉が代替できるなら、露珠は迷わずそれを使うに違いないのだ。
考える対象が凍牙とのことから露珠に変わったことで、乱牙の頭が切り替わる。わざわざ攫っていく辺り、露珠にすぐに命の危険があるとは思えないが、やはり心配だ。おっとりしていそうに見えて、意外と無茶をしがちなのはこの前の騒動で身にしみた。
先頭を行くのが露霞から凍牙に変わってから少しして、牙鬼の縄張りから抜けた森の中、洞窟の前に3人は立っていた。
この洞窟の中に、少なくとも凍牙の角と朱華がいることは間違いない。恐らく露珠も。
「さて、俺はここまでだ」
洞窟に入ろうとした凍牙と乱牙の後ろで、露霞が立ち止まっている。
「朱華との戦闘には参加しないよ。戦闘中また裏切るかもしれないし?」
露霞はおどけたように言うが、彼の思惑どおりには凍牙も乱牙も受け取らない。二人が洞窟へ入って行った後、屋敷に戻って高藤や真白を狙われるのは避けたい。眉をひそめて、露霞の発言の真意を探ろうとする凍牙に、露霞が「いや、もう何もしないって」と両手を挙げてひらひらとさせてみせる。
「って言っても、信用できないよねぇ。これ、渡しとく」
ひらひらと振っていた手をくるりと回して、手を握りこむ。その拳を凍牙の前に突きつけて、パッと開いて見せた。
そこには――
「紅玉」
驚きと共に、引き起こされる記憶に凍牙が苦い顔をする。
「露珠を助けられて、俺が死ぬ前だったら返してよ。もし、露珠に間に合わなかったら、露珠に使ってくれたらいい。朱華に加勢したときからそのつもりだった」
だから、ある程度の無茶ができたのだ。銀露がほしい棠棣があっさり肉体ごと消滅させるわけがないと、露霞は確信していた。
★
「いいね、こんな大量の白露、見たことないよ」
床に散らばる白露に興奮している棠棣は、部屋の戸が開いたのを認識しても振り向かずに、それを拾っている。
「朱華?遅かったね。こっちはすごく順調だよ。ねえ、今度は屋敷から、半妖の子連れてきてよ、こいつの前で刻んでやったら、もっと白露が――」
言い終わらないうちに、背後ですさまじい力がぶつかりあった余波によろめき、白露を拾う手を止めた棠棣が振り返る。
棠棣の目の前には朱華の背中があり、その朱華は、凍牙の攻撃を受け止めている。
拘束され、片足を血で濡らし、首には絞められた痕、片目は酷く充血して光を映していない様子で、何より床に散らばる無数の白露。露珠が何をされていたか把握するまでの数瞬の後、凍牙が棠棣に切りかかったのだった。
咄嗟に棠棣を庇った朱華に防がれたものの、押し負けている朱華ごと棠棣を切り捨てようとさらに力を込める。
「冷静じゃないね、凍牙サマ。今この子は角を持ってないよ。そんなに力を解放したら、弱ってるこの子は僕より先に死んじゃうんじゃないかな」
ようやく状況を把握した棠棣が、煽るような軽い調子で朱華の後ろから顔を出す。
朱華を刀で押した状態のまま、棠棣の言葉の真偽を確めた凍牙が力を抜く。自分の力からも露珠を守りながら戦うために、後ろから来る乱牙を待つ。
「どけ、朱華」
露珠に力の余波が当たらぬように刀を引きながら朱華を蹴り飛ばして、一足飛びに露珠と棠棣の間に割り込んだ。
露珠を拘束する靄を倒すためには、繊細な力加減が必要だが、棠棣と朱華を前にして、その余裕はない。露珠を背後に庇いつつ、棠棣に標的を絞る。
「さすがに、晃牙亡き後の当世最強の鬼、か。手負いの妻を庇いながらでも、朱華と僕を簡単に殺せそうだね。怖い怖い」
おどけるように言うその目に、恐怖の色はない。
「でも、どんなに強くても、自分の角からできた妖には、さすがに苦戦するんじゃないかな。朱華から作った妖と、朱華と……全部同時に相手ができる?」
「角から、妖を作る?」
鬼の角から妖を作れるなど聞いたことがない。棠棣の言いようだと、朱華に関しては角以外の部分からも妖を作ったように聞こえる。棠棣を後ろに隠すように、自分の周りを囲んだ妖を見て、屋敷周りの得体の知れない妖の正体がなんだったのか、凍牙は悟った。
棠棣の最も傍にいる赤い獣、周りの妖に比べて明らかに妖気の格が違う。朱華の角から作った妖に間違いないだろう。他には、屋敷周辺に出没していた得体の知れない妖達と同種と思われる妖がちらほらと見られる。強かったものも含まれるが、どれも凍牙を脅かすには至らない。
その中で、一際異彩を放っている妖がいる。青みがかった白銀の鱗をもった大蛇――もはや龍に近いそれが、自身の角から作られたものであることは、凍牙には理屈抜きで理解できる。瞬発的に力を放出させそうになって、凍牙がそれを堪える。既に十分冷静でない自覚はあったが、その龍が露珠の血の強化を受けていることを察して、まだ怒れる余地があったらしいことを思い知った。




