(1)
今日も、帰ってきてはくださらなかった。
露珠は開け放たれた障子から庭の池を眺め、ため息をついた。
夫である凍牙が屋敷を出てからもう二月。凍牙の側付きである高藤からは時折便りがあるものの、凍牙本人からは一言もない。
そもそも、なぜ出て行ったのかもわからない。
露珠に不満、はあったことだろう。凍牙の父であり、最強の鬼であった晃牙が強引に決めた結婚で、そこに二人の意思が介在する余地はなかった。しかし、同じ強引な結婚であっても、露珠にはこの婚姻で得るものは多く、恐らく凍牙には何もなかった。この婚姻を調えた晃牙が亡くなって間もない時期に出て行ったのが、それを裏付けているようにも思える。
凍牙の母も既に亡い。自身を縛っていたものが無くなった凍牙は、露珠からも離れ自由になりたいのかもしれない。
それでも、と、露珠は着物の胸元にそっと手を触れ、しばらく会えていない夫を想う。始まりに互いの気持ちはなかったとしても、夫婦としてあった時間を通して、多少なりとも心を通わせることができていたはず。今までにない長期の外出ではあるけれど、きっと帰ってきてくれる。
「奥方様、高藤様がお戻りです」
凍牙様から何か言伝があるかもしれない、という期待と、今回もまた高藤だけ、という落胆で心が乱される。
ここに通すよう答えると、それほど間をおかずに障子の端で跪く青い影が見えた。
高藤は凍牙の遠縁で、幼少期には共に育ったと聞いている。晃牙が亡くなる少し前に屋敷に戻って凍牙に仕えており、主従の関係にはあるけれど兄弟のような存在だ。頭部に2本の青い角を持った鬼で、いつも短く揃えられている青い髪は、頭を下げた高藤の頬にかかり、小さな影を作っている。
「お帰りなさい。高藤」
顔を上げた高藤の表情に、いつにない緊張の色があるのを露珠は見て取る。凍牙に比べて表情豊かではあるものの、恐れや緊張といった心の動きを見せるのは珍しい。そんな高藤の様子に、露珠は嫌な予感を覚えた。
「奥方様。ただいま戻りました」
手元には書状を携えているのが見え、それが高藤の異変の理由だと悟る。その中身は恐らく、露珠にとって良いものではないのだろう。高藤の様子から言い出しにくいのだろうと想像し、露珠からその書状に触れる。
「高藤。それは、凍牙様から?」
「はい。奥方様へと、預かってまいりました」
差し出されたそれを受け取る。凍牙からの初めての手紙だ。早く開いて中を読みたい、よくない内容を知りたくない。相反する気持ちを落ち着かせるように、ことさらゆっくりと開く。挨拶もなにもない、用件のみのそれを読みながら、露珠は指先がすっと冷えるのを感じる。鼓動は早くなっているようなのに、頭に血がまわらない。
しばらく出かけるとは言っても、帰ってくると思っていた。それを自分は待っていていいのだと。
それなのに、手紙に書かれていたのは露珠との離縁、屋敷やその他すべての財産を露珠へ、という短い文章、そして『牙鬼と銀露の契約はそのままに』という一文であった。
露珠にとって、最高と言える条件だ。晃牙と銀露一族との取引によって、半ば強引にこの屋敷に連れて来られ、凍牙に嫁がされた露珠にしてみれば、一族を裏切ることなく自由になれ、その上牙鬼一族の財産を得られるという、この上ない話に違いない。
しかし、嫁いで幾年、凍牙と多少なりとも心を通じ合わせ、本当の意味で夫婦となれた、なりたいと思っていた露珠にとっては、予期しない内容であった。指先だけでなく、全身からも血の気が引くような気がして、露珠は寄懸に体を預ける。心臓の鼓動がうるさい。冷静に、と頭の中で繰り返して、もう一度読み直す。
「高藤。内容は知っているのよね。凍牙様はなにか言っておられた?」
書状を露珠に渡した姿勢のまま、頭を下げていた高藤が、気遣わし気な表情で顔を上げる。
「はい。私も考え直すようご意見申し上げたのですが、ご意志は変わらぬご様子でした。それから……」
高藤が言いよどむのを、露珠が穏やかに促す。「それから、凍牙様は、半妖の女と共に過ごしておられます」
今度こそ露珠は目を見開き、驚きを隠せなかった。
晃牙の妾であったヒトも、その子である乱牙のことさえ嫌っていた様子の凍牙が、半妖と共に過ごすなど想像もできない。常であれば、半妖などその目の前に現れた時点で殺しているはずだ。
「それは、一体なぜ……女?女と言ったの、高藤。それは、つまりそういうことなの?凍牙様が、半妖の女と?」
「いえ、女とは申し上げましたが、まだ子供です。今のところ、凍牙様にそういったおつもりがあるようにはお見受けしませんが……」
高藤がはっきりと断言できないのもわかる。乱牙の母を、晃牙が見初めたのも少女の時だったはずだ。何の妖かにもよるが、おしなべてヒトの血が入っている半妖は成長が早く、寿命が短い。離縁を言い渡すくらいなのだから、そういうつもりで、そして、その者の寿命が短いとしても、誠実に向き合うつもりなのだろうか。
強い衝撃が続き過ぎて、逆にすっかり落ち着きを取り戻した露珠が高藤に話の続きを促す。
「その者には名前がなく、凍牙様が真白と名づけられました。孤児のようで、妖に襲われていた真白を凍牙様が御助けになり、以後伴っている次第です。お怪我に触れさせる等、憎からず思っているご様子です。」
「怪我?凍牙様が?他人に手当てですって?」
聞きなれない言葉が多すぎて、思考がついていかない。
元々強い種族である鬼の、その中でも最強の部類に入る凍牙が怪我をし、ましてや自力で回復できずに手当されるなど、理解ができない。
一体なにがあったのか、白露を使わなかったのだろうか。
「実は詳しい経緯は私も知らされておらず。その時には凍牙様の遣いでお傍を離れておりまして。怪我については乱牙様と少々やりあったようにお聞きしております」
なるほど、乱牙とやりあったのであれば、いかな凍牙とて無傷というわけにはいかなっただろう。ただ、そのことと、その真白なる半妖を伴っていることになんのつながりも見いだせない。
「凍牙様は、もう白露をお持ちではないの?」
「いえ、実際に見たことはございませんが、使われているところを見たことがありませんので、まだ残っているかと存じます。」
ではなぜ、白露を使わず、真白とやらに手当されることになったのか。
それとも真白と出会う前から、露珠との離縁を考えていたのだろうか。白露を使うのを戸惑うほどに。
露珠は胸元に手を当てる。
「凍牙様は、もうわたくしには興味がありませんのね。」
★
「お前が露珠か」
自ら大雪山に露珠を迎えに来た晃牙は、進み出た露珠を品定めするように眺め、片側の口角を上げて皮肉気に笑った。
晃牙は楊梅色の明るい髪に、胡桃色の目、そして黄金の角を持った美しい鬼だった。その色彩と感じられる圧倒的な力は、雪ばかりの銀の世界で、まるで太陽のようだった。
露珠と引き換えの角を、銀露の長の目の前で折って見せたため、頭に2つある角のうち、右側が見えなくなっている。角を折るのは激痛を伴い、鬼同士の争いでは相手の誇りを傷つけるために、勝ったほうが相手のものを折るといったことも行われるときく。
普通に侵略しても銀露を難なく得られるだろう晃牙が、ここまでする理由が未だつかめない。
露珠の視線が1本だけになった角に向いているのを察した晃牙が、ずい、と顔を近付ける。
「気になるか、これが」
「い、いいえ」
恐ろしさに声が震える露珠を見下ろして、晃牙が笑う。
「せいぜい凍牙に気に入られることだな。あいつが要らんというなら、俺がお前を貰う。狐との間に子をなした鬼など聞いたことがないしな、面白そうだ」
恐ろしいことを言われているのだろうが、凍牙にさえ気に入られればそれ以上はない、と暗に示されて、露珠は希望すら感じていた。
(思ったよりも、酷い扱いは受けないかも知れない)
意外にも、晃牙は露珠とその家族の別れのための時間を長くとってくれた。
晃牙を刺激しないよう、言葉は少なく、内容も選び、それでも想像していたよりもずっとしっかりと、別れの挨拶を交わす。今生の別れになるだろうことは双方覚悟している。
露珠は、家族と銀露の一族が、外敵に怯えることなく続いていくことを祈り、大雪山と一族の姿を目に焼き付けた。
「随分と、長く別れを惜しむのだな」
大雪山を離れ、晃牙と露珠は二人きりで黒虎の牽く車の中に向かい合うように座っていた。御者として晃牙の従者が一人いるだけで、大雪山へは晃牙一人で来たらしい。牙鬼一族の頭であり、最強の鬼でもある晃牙には、身を守るという意味での付き人は不要であるし、露珠を連れることを考えなければ、屋敷から大雪山までなどものの距離ではないらしい。今回の晃牙の申し出を、銀露側がどう受け止めているかを知っているのかいないのか、露珠には読み取れない。
「ご不快でしたか。申し訳ございません」
即座に謝罪する露珠をみて、つまらなそうに目を細めた晃牙だったが、背もたれに寄りかかろうとして何かを思い出したように身体を前に傾ける。
「そうだ、お前。凍牙を知っているのか」
「凍牙様、ですか。申し訳ございません。大雪山にこもりきりで、あまり外の事を知りません。今回のことで、晃牙様のご子息だということを聞いております」
自分の夫となる、ということを口にして良いのか判断できず、無難なことだけを答える。銀露には凍牙の妻として、と言ってはいたが、実態が違う場合、ここで露珠がそれを口にしては不興を買う恐れがある。
「姿を見たことは?」
「まさか。大雪山から出たことはありませんし、銀露以外の種族と、私は会ったことがありません」
望んだ答えではなかったのだろうか。晃牙は、そうか、と小さく答え、今度こそ背もたれに寄りかかり、腕を組んで目を閉じた。
あまりに無防備に見えるその様子に、この状況でさえ、自分を害することができる者はいない、という晃牙の強さへの自信を感じる。晃牙が自身の力を角に込めて折ったことで、今はその大半を失っていることも、そのために抗い難い眠気に屈したことも、露珠には思いもよらないことだった。
牙鬼の屋敷へ着くと、晃牙の妻である影見がそれを出迎えた。しかし、夫が片方の角を失っていることと露珠の存在に大いに驚いたことで、露珠はこの一連の取引が牙鬼一族の間では全く知らされていない、晃牙の独断であったことを知った。
影見は細身の美しい女だったが、今はその鬼灯色の目を吊り上げている。
「その角はどうしたことです。それに、この女は一体なんなのです」
「凍牙の嫁にしようと思って連れてきた。銀露だぞ、珍しいだろ。角はこいつを貰ってくるのに銀露にくれてやった」
内容の重要度に比べて短すぎる説明に、影見の眉が更に吊り上がる。
その頃、屋敷内に居た凍牙は、父と母のやり取りが常とは違うことを感じ取っていた。もれ聞こえる言葉から察するに、また父が新しい女を連れ込んだようだ。異母弟である乱牙の母を連れてきた時の、影見の狂乱を思い出した凍牙は、話がこじれる前にと二人の下に出向くことにした。
「二人とも、一体何事です。屋敷中に声が響いていますよ。母上」
「「凍牙」」
晃牙と影見の声がかぶる。
「お前の嫁を連れてきた。銀露だぞ」
「私は認めておりませんよ!角と引き換えだなんて信じられない。そんな価値がその女にあるものですか」
「順番に聞きます。父上、なんと仰いました?私の嫁と聞こえたのですが。それに……銀露?一体どうやって」
凍牙が場を取り成すことで、やっと晃牙がここに至るまでの説明を妻と息子にする。その間露珠は戸の付近に立ったまま、3人のやり取りをみていただけだった。
「いきさつは分かりましたが……なぜ、何の相談もなく凍牙の嫁など。銀露だって、脅せば角など与えなくとも生きた娘の一人や二人、献上したでしょうに」
影見の不満は、銀露の疑問そのものでもあった。しかし、晃牙はそれには答えず、凍牙に向かって問いかける。
「まあ、少々脅しはしたな。断ることは出来なかっただろうが、悪い取引じゃなかったはずだ。で、どうする、凍牙。お前が要らぬなら、この銀露は俺がもらう」
「なりません!」
凍牙が答えるより先に、影見は晃牙に妾が出来ることを拒絶する。息子が急に結婚することへの反発よりも、未だに晃牙に惚れている影見にとっては妾がいる生活をすることの方が耐えがたかった。消極的にではあるが、影見は露珠が凍牙の妻になることを許した形になる。晃牙は改めて凍牙に問うことはしなかったため、結局、凍牙の意志はその場で確認されることなく、相手の名前すら知らぬまま妻を娶ったのだった。
★
「もう興味がない」なんて、随分と見栄を張った言い方をしたと思う。凍牙が露珠に興味も持ったことなど一度でもあったかどうか。
嫁いだころは、御館様とヒトとの間に生まれた乱牙様に辛く当たる御方様を見ていて、なにもそこまでしなくとも、と思っていた。けれど、それは当事者ではなかったからだと、今になってわかる。許せない。せめて能力や血筋が良いのならともかく、これでは純粋に彼の者を好いているということではないか。
そして、許せないと思ったところで、できることなど限られている。
御方様は晃牙様の手前、妾となった乱牙の母を害すことも、乱牙を亡き者にすることもできず、乱牙の母亡き後に乱牙をこっそりと虐げることしかできなかった。
露珠の選択肢も同様に狭い。
凍牙に泣いて縋るか、真白を殺すか。
泣いて縋って頼んでも、恐らく眉一つ動かしてはくれぬであろうし、あの方の庇護下にあるものを害することなどできるはずもない。精々が、御方様のように辛く当たるので精一杯だ。
そして、あの方が戻らぬ今となっては、それすらもできない。
きっと帰ってきてさえくれないだろうあの方に、私ができることなどなにも。
せめて、こちらの気持ちを伝えることくらいか。
どうか、帰ってきて欲しい、と。
屋敷のほぼ全ての者に暇をとらせた。
古くからいる使用人のうち幾人かは、ここから離れるのを嫌がった。
特に忠誠心の篤かった、先々代から仕えてくれていた家令は「ここを追い出されてはいくところがない」と訴え、屋敷に残ることを懇願するので、屋敷と財産の管理を任せ、凍牙か乱牙が戻った時にその判断を仰ぐように命じた。
人気のなくなった屋敷内で、露珠は荷物を整理する。自分自身の持ち物はほとんどないが、凍牙が戻ってきたとき用に、彼のものを少しまとめておきたかった。屋敷も財産も全て露珠に、ともうここへは戻らないような手紙だったので、見てはいけない物もないだろう。そう思って、今まであまり入ることのなかった凍牙の書斎に入り、多くはない荷物を整理する。
天袋の中に小さな箱を見つけ、それを開けた露珠は息を飲んだ。それは、露珠がここへ来てからずっと、凍牙に渡していた白露だった。
高藤は、怪我の治療に白露を使った形跡がない、と言っていたけれど、そもそも持ち歩いていなかったのだろう。恐らく、露珠が作った白露の全てがこの箱の中にある。
一度も使っていない。
一度も。そう、一度も、露珠は凍牙の役に立ったことなどなかったのだ。
ただ、偉大な父に望まれた結婚相手であった、というだけで。何一つ。
凍牙に会って、気持ちを伝えたい。離縁を避けられないとしても、せめて直接告げてほしい。そう思っていた気持ちと決心がしぼむ。考えたら立ち上がれなくなってしまう。そう直感した露珠は、片づけを諦め、そのまま高藤から聞いた凍牙の滞在場所へ単身で向かった。
一人で屋敷からでるのはいつ振りだろう。
元々が人質のようなものであったから、屋敷から出ること自体が極端に少なかった。
それでも、そこに凍牙がいてくれたから、露珠はそうしてこれたし、苦痛に思うこともなかった。
きっと、露珠が一人で出かけたいといえば、凍牙はそれを止めはしなかっただろうが、露珠が凍牙の傍から離れたくなかったのだ。