(5)
露霞が謎の妖の心当たりを調べに出た後、新たな妖の接近もなく、屋敷は落ち着きを取り戻しつつあった。凍牙も少し前からまた外に出ており、そろそろ戻ってくるころかと、真白を筆頭にその帰りを待っている中、屋敷を訪れたのは一人の女だった。
朱華と名乗ったその女は、頭に一本の赤い角を持つ鬼だ。朱華は対応に出た家令に凍牙との面会を求めたが、不在であることを家令から伝えられると、会うまで帰らない、とその場に居座る。
相手が鬼故に対応に困った家令が相談に来たのだが、高藤が対応するというのを止めて、露珠が朱華の前に出た。
「私、凍牙の妻で露珠と申します。朱華さん、とおっしゃいましたか。生憎夫は不在にしておりまして、私がご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
最低限の礼を尽くしつつも鬼相手に臆するところのない露珠の対応は、朱華には意外だったらしい。一瞬不快気な表情を浮かべて、朱華が立ちあがる。
「あんたが、露珠」
全身を値踏みするように朱華の視線が露珠のつま先から頭の先までを滑る。その好意的でないのを隠す気のない様子に、場の緊張が高まる。と、朱華がふっと笑って露珠から視線を外した。
「凍牙がいないなら、まずはあんたでいいや。凍牙と番いたい。凍牙との子ができるまで、ここに住まわせてもらう」
胸をそらせるようにしてそう宣言する。想定外の発言に固まる露珠に、朱華はその肉感的な身体を押し付けるように近づいて見下ろす。
「凍牙があんたで満足できるとは思えないし、鬼の身体は鬼のほうが良くわかる。それに、銀露なんて薬として飼っておけばいいだけで飾りの妻にもなりゃしないでしょ」
露珠から見ても蠱惑的な赤い唇が、目の前で弧を描く。朱華の言い分の前半部分については露珠自身も思うところがあったが、後半部分に関しては発言者の意図とは違うところが引っかかる。
明らかな侮辱に反応しない露珠に、自身の発言が的確に相手を動揺させたと判断した朱華が、満足げに身体を離す。
「大層なものをもらってるみたいだけどね」
自然な動きで身を翻した朱華が、一瞬で胸元から取り出した小刀で露珠を切りつける。角の効果を確認する前に、控えていた高藤がそれを弾き、そのまま朱華への攻撃に転じた。
★
「どう、なさいますか」
部屋で凍牙の肩によりかかりながら、露珠が問いかける。
真剣な話をするのにふさわしいとは言えない姿勢だが、触れ合っていないと不安でまともに話ができそうにない。凍牙も露珠のそんな気持ちを察しており、肩を抱き寄せてやる。
昼間の高藤と朱華の戦闘は、凍牙が戻ってそれを止めるまで続いていた。
高藤は、露珠や屋敷の者に被害が出ないよう加減をしていたし、朱華も高藤をいなすばかりで本気ではなかったが、それでも屋敷の一部と周辺の森に被害が及んでいた。
鬼同士が本気で試合えば、間違いなく死者がでる。
凍牙によって強制的に引き離された後、朱華は露珠にしたよりは幾分丁寧に、来訪理由を告げ、それを凍牙が断ると、叶わないなら全力で暴れる、とほぼ脅迫に近い物言いで、屋敷への滞在を強行したのだった。
「目的がわかるまで、力ずくで対応するのは避けたいが」
耐えられるか?と暗に問うてくる視線に、露珠は頷く。
いかな凍牙とて、鬼を相手に軽く追い出す、というのは難しい。ましてや相手は、そうなれば全力で暴れる、と宣言していて、いわば凍牙以外の者すべてが人質のようなものだ。
最悪、角を持っている露珠は無傷かもしれないが、それは露珠も望むところではない。
「本当に、凍牙様とのお子が欲しいだけということはないのでしょうか」
朱華が本心を述べて乗り込んできた可能性を、露珠自身は低く見積もってはいない。
「どうかな。朱華とは昔何度か顔を合わせたことはあるが、私にこだわる理由がない。あれの周囲には他の鬼もいるはずだ。そもそも、父が珍しかっただけで、鬼は基本的に子孫を残すことに興味がない」
鬼同士は子ができにくいようで、凍牙は鬼同士から生まれた子の話を聞いたことがない。
鬼同士でなくても、片方が鬼だと子はできにくく、相手が違うとはいえ凍牙と乱牙、二人の子を持った晃牙は異例中の異例だ。
朱華が望むように凍牙が対応したとしても、その命が尽きるまでに子を生せる可能性はほとんどないように思う。何か他の目的があるのでは、と凍牙は考えていた。
「どうしようもなくなれば、殺してでも追い出す。だが、本当の目的がわからないままでは少々不安もある。不快ではあろうがしばらく我慢してくれるか。もちろん、あれの要望に応えるつもりはない」
今すぐにでも抱いてくれ、と高藤から引き離された朱華が凍牙に迫った時の様子を思い出し、露珠の表情が曇る。
顔を隠すように少し俯いた露珠の頤をとらえて上向かせ、凍牙が口づけを落とす。
お前だけだ、と耳元で囁いて、凍牙は露珠をやわらかく褥に押し付けた。
★
「凍牙様。少し、聞きたいことがあるのですが」
凍牙の腕を枕にして暫く、ようやく息を整えた露珠が控えめに声をかける。凍牙が露珠の首を支えている方の手で肩を引き寄せてやり、先を促した。
「最近、長く外出されることが多いように思うのですが、何をしにお出かけなさっているのか教えていただきたくて……。その、お帰りになられたときにいつもお疲れの様なので」
差し支えなければ、と露珠が遠慮気味に問う。昼間の朱華の言葉で、露珠が気にかかっていたのは、「薬扱い」というところだった。朱華は、「妻ではなく薬としてしか役にたたない」と言う意味で罵ったつもりだったのだが、露珠としては「銀露としての力を全く使ってもらえない」ということに、いつも申し訳なさと寂しさを感じていた。朱華に罵られて、白露と血に頼らずに凍牙の役に立つことを考えなければいけなかったのだ、と気がついたときに、凍牙のやることへの詮索や口出しをしてはならない、という思いが強すぎて、夫が今何をしているのかを聞くことすらしてこなかったことに愕然としたのだ。
凍牙は、自分の行動について露珠が聞いてきたことに、彼女の変化を感じて密かに喜ぶ。何事も控えめで主張をしない露珠は、凍牙の思考や行動を中断させることをほとんどしない。とにかく不興を買わないように、と気を遣って過ごしてきた期間が長く、自然にそうなっているようで、凍牙にはそれが歯がゆかった。露珠がもっと気を抜いて自分にわがままを言ってくれればいい、と常々思っているのだが、それを上手く露珠に示せない。今回のはわがままとは違うが、今までだったら聞いてこなかったであろうことを、遠慮しつつではあるが言ってきたことが嬉しい。
「牙鬼の縄張りの再確認をしていた。父上が死んでから、縄張りを引き継ぐつもりがなかったゆえ、特に遠隔地の一族の鬼については放置していた。だがやはり、力は強い方が良いと思い直した。しばらく放置していたものだから、やむを得ず切り離す縄張りもあったが、基本的には力を示して縄張りを維持している。父上の代の縄張りが最大だったから、全て回るのに時間がかかっているが、あと少しだ」
露珠を手放すつもりだったから、積極的に広大な縄張りを維持する必要も感じていなかったが、露珠と真白を守るためには圧倒的な力があった方が良い。
「力を、示す?」
「一族の鬼と戦うということだ。それで、少し、疲れている」
少々歯切れが悪いのは、露珠に白露や血を使わせないように、屋敷の近くで一旦休み、ある程度力を回復してから戻っているからだ。それで必要以上に外出期間が長くなっているのだが、露珠に伝えるつもりはない。
「血を、とは申しませんが、白露をお使いくださいませんか。血ほど消耗いたしませんし、気軽にお使いいただきたいのですが……」
「そんなにも泣けることがあるのか」
からかう様子ではあるものの、その中に凍牙の不満が感じ取れる。離縁を言い渡されたことを思い出して、とは言えない露珠が口ごもった。
「前にも言ったが、お前をそんな風に使うつもりはない。気にするな」
もう休め、というように髪を撫でられ、露珠は目を閉じる。「何かお手伝いできることはないのでしょうか」という小さな呟きに、返答はなかった。
★
朱華は屋敷に寝泊りし、気安い客人か、まるで元からの住人のように振舞っていた。凍牙を見かけると「子を作ろう」などと声をかけるものの、適当に追い払われて気にするそぶりもない。夜に寝所に忍び込むようなこともなく、どこか言い訳めいている。
二、三日もすると、庭の木の上や座敷で昼寝をし始め、さらに後には真白と一緒に台所にも立つようになって、すっかり屋敷に馴染んでいた。露珠も、朱華のその様子にあっさりと警戒を緩めてしまって一緒に台所仕事に混ざったりするので、女三人の楽しそうな声が時折聞こえる、奇妙な同居生活になっている。
凍牙と高藤は、朱華が来た当初と同様の警戒感を持ってその様子を見ていたが、力ずくで追い出すことをしない以上、取れる手段は限られている。何をどう切り出したところで探りを入れていることは明白なので、あえて接触せず、露珠や真白とのやりとりを遠目に伺うに留めていた。
朱華が屋敷に滞在して数日。昼間に酒でも調達しようと一人台所に来ていた朱華が、外の人影に気がつき身構える。
「誰だ」
「それは俺の台詞でもいいと思うんだが。まあ、いいか。露珠の兄だ」
戸口から、酒の入った器を傾けながら露霞が姿を現す。酒を飲みながら戸口に身体を預ける姿はヒトのならず者のようだが、薄く笑みを浮かべて酒を呷る露霞は妖美ですらある。妹と同様に美しいが、清らかな印象の露珠とは大分趣が異なる。
「お前が銀露?そうは見えないが」
「だろうね」
鼻で笑う露霞に、朱華が眉根を寄せる。
「銀露じゃないのか」
「さあ?」
まともに答える気のなさそうな露霞に、朱華は問いを重ねる。
「鬼かと思ったが、違うのか」
「鬼に見えるのか、俺が」
「いや、鬼には見えない」
傍からみれば会話をする気がなさそうなやり取りだが、露霞と朱華は何かを探り合うように互いを見つめている。
「鬼には見えない鬼のようなやつ……俺以外にも、ここらで最近良く見かけるな」
視線を外さないままゆっくりと近づいてくる露霞の言葉に、朱華が表情を固くする。
「初めは同類かと思ったんだが、俺とは違ったな」
――どちらかと言えば、お前に近い
すれ違い様に囁かれ、朱華がばっと振り返る。
「――っ、気づいて」
朱華が驚きを隠せずに言うが、露霞はそれ以上朱華には反応せず、戻ったことを告げるべく露珠の元へと向かう。
「おう、戻ったぞ」
「お帰りなさいませ、お兄様」
露珠が当然の様に正面以外から出入りする露霞を違和感なく迎え入れる。同じ場所にいた高藤は屋敷の主である凍牙よりも態度の大きい露霞に眉をひそめるが、凍牙に視線で宥められた。
「義兄上殿。妖についてなにか」
「少しな。俺が調べて来たことよりも、今ここに戻ってきて見たことのほうが余程大きい手がかりみたいだが」
どかっと座敷に腰を下ろして胡坐をかいて露霞が座る。
「それはどういう……?」
「まあ待て、順に話す」
酒を一口飲んで露珠に言う。
「とりあえず、牙鬼の縄張りの範囲内ならもうある程度調べてあると思って、その外側で話を聞いてきた。東方からこちらに来る途中で聞いた噂の中に気になるものがあったからな」
都より東方であれば、多少土地勘がある。東方からこちらへ来る途中で聞いた噂の中に、『神鹿の住む森から妖が出てくる』というものがあった。噂の出始めは数年前のようだったが、その森の周りで話を集めてきた。話をまとめるに、どうやらその妖は今回ここの周りで発生している妖と同種の様だ。
「神鹿の森?あんな妖を発生させている森で、神鹿はどうしている」
個体差の大きい妖の強さだが、鬼に近い気配を持つあれらの妖に、神鹿はどう対応しているのか。凍牙はその神鹿とは面識がないが、そんなにも強い妖だという認識はない。縄張りに隣接するため、鬼に対応できるほどの力がある妖が居れば、晃牙も放っては置かなかっただろう。神鹿は、神性は強いものの神ではなく妖の一種で、力はさほど強くない。社内<やしろない>で神の加護を受けていれば別だが、件の神鹿はそうではなかったはずだ。
「それが、どうも妖が出てくるようになるより更に前に、神鹿は死んだという話だ」
「神鹿の森をその妖が乗っ取ったということなのでしょうか」
その状況を想像したらしい露珠が顔をしかめるが、いや、と露霞が続ける。
「その前に、鬼がその森に出入りしていたという話があって、事の前後関係は分からなかった」
「その鬼と、あの妖の鬼への近さは関係が……?」
「俺もそう思って調べに行ったが、そこはわからなかった。一度ここに戻ってこの話をした後、改めてその森に入ろうと思っていたんだが」
一度言葉を切って、露霞がにやりと笑う。
「朱華というあの鬼、あの妖たちと同じ気配がする」
「朱華と?」
朱華への警戒をほとんど解いていた露珠は、この場にいない真白のことが急に心配になる。立ち上がると、高藤を伴って真白のところへ向かう。
露霞の報告を聞いた凍牙は、驚いた様子は見せないものの、表情が険しい。その険しさが、どうやら朱華ではなく自分に向けられているらしいことを露霞は感じ取る。
正面から自分を見る露霞を見つめ返した凍牙は、固い声音で問う。
「義兄上殿。我々鬼よりも、鬼の気配に詳しくていらっしゃるようですが」
露霞のこれまでの振舞いにも常に淡々と、義兄としての敬意をもって対応していた凍牙の珍しく真剣な雰囲気に、露霞も茶化さずに答えることになる。
「後天的に鬼の力を手に入れると、小さな違いにもよく気がつけるらしい。元からの鬼は強すぎて、微弱な変化には気がつけないのかね」
★
何事もなく庭で遊んでいた真白を見つけて、露珠がほっと息を吐く。朱華の出現に始めは動揺していたし、凍牙も高藤も警戒していたのに、最近では気を許してしまっていた。朱華が、言葉は悪いものの初めの印象ほどは酷い態度ではないのも理由の一つだが、何よりも――
「朱華は眠りすぎだわ」
思わず口に出してしまった呟きに、地面にしゃがみこんで絵を書いていた真白が振り返る。
「朱華ちゃん?よくお昼寝してるよねー」
「真白も、そう思う?」
「うん。だって、夜も真白と同じくらいの時間に寝るのに、真白が起きてる時間にも木の上とかお座敷でよく寝てるよ」
良く眠っている、という状況で露珠が思い出すのは凍牙の父、晃牙のことだ。晃牙が亡くなる直前の様子が、まさにそうだった。睡眠時間が徐々に長くなり、最後は文字通り眠るように息を引き取った。その眠りが長くなった初期の頃に、今の朱華の状態が似ている。
どこか具合が悪いか、力そのものを失いつつある。そう感じるから、つい朱華への警戒が緩んでしまう。そういえば、朱華の状態について凍牙と話したことはない。当然気がついているだろうと思っていたが、先ほどの兄の報告を受けて凍牙が朱華に何か仕掛ける可能性もある。一応話しておこう、と決めて、露珠は真白の遊びに加わった。
★
「飲むか?」
縁側で月見酒を飲んでいた露霞が、通りすがった朱華を誘う。昼間からずっと飲み続けている露霞は上機嫌だ。露霞の誘いが意外だった朱華は一瞬驚いた表情を見せるが、すぐにいつもの取り澄ました顔を作って露霞の横に立つ。
「露珠から私のこと聞いたんでしょ?妹が夫を寝取られるかもっていうのに、随分と楽しそうなのね」
仕掛けているのは自分だというのに、妹を心配するそぶりのない露霞に朱華がつい絡んでしまう。
「楽しそうか?まあ、面白いことになっている、とは思ってるが」
「妹なんでしょう?気にならないの?」
「兄妹だからって、友好的とは限らない。常に味方とも限らない」
拍子をとるような口調は酔っているようにも思えるが、見上げてくる目は理性的で、朱華は興味をそそられてその場に腰を下ろした。
「妹が嫌い?」
それは、今までの会話と、凍牙や露珠から聞いていた話から露霞が想像していた朱華からは出て来ようもない真剣な声音で、思わず露霞が隣を見る。
「なんでお前がそんな顔をする」
一瞬泣いているのかと思うほど、朱華は思いつめた表情をしていた。露霞の視線に気がついた朱華が表情を取り繕う。
「別に。随分と薄情な兄だな、と思っただけ」
「薄情ねぇ。あいつが居なければ、と思ったこともなくはない。今さらだからもうどうでもいいんだが。少し痛い目を見ればいいくらいには思ってるな、今も」
「どうして」
まるで言われているのが自分かのような必死さで、朱華が露霞に問うた。
「鬼の出来損ない」
「え?」
急に話を変えた露霞に、朱華が怪訝な顔をする。
この辺りに現れる、朱華と同じ気配の妖。それを『鬼の出来損ない』という言葉で表現したのは露霞だが、その言葉に関しては、発した露霞自身思うところがあった。今、自らの身に宿している鬼の力。鬼そのものではない露霞を表現するなら『鬼の出来損ない』も外れてはいない。
「俺は銀露の出来損ないだ。だから――」
銀露の出来損ないで鬼の出来損ない。
「少し羨ましかった。妹が」




