(4)
「お兄、さ――」
両手を後ろ手につかまれ、身体と顔を畳に押し付けられた露珠は、それでもどこか気遣わしげに兄を呼ぼうとする。
そんな露珠の反応に眉一つ動かさず、露霞は掴んだ腕を更に背中に押し付け、もう片方の手で彼女の襟を引き、強引に肩と背中をあらわにした。
ここは凍牙の屋敷の露珠の部屋で、部屋の中には露霞と露珠の二人きりだ。
宣言どおり再訪した露霞は、表面上は凍牙と義兄らしく挨拶を交わし、真白も交えて食事をともにした。凍牙に対してはそれなりに礼儀正しく、話題にも事欠かない露霞を中心に食事は和やかに進んでいた。その会話の中で、前回の訪問時から今日まで特に拠点を持たずに過ごしていたと聞いた露珠が誘う形で、露霞の屋敷への滞在が決まったのだが、今は湯殿か客間に居るはずの彼は、何故か露珠の部屋に来ていて妹を組み敷いている。
肩に触れた露霞の指の冷たさに、露珠がびくりと身体を跳ねさせるが、続いた首筋の痛みに苦しげな声が漏れる。
露珠の反応には頓着しない様子の露霞は、その牙で傷つけた首筋から流れる血を舐めとる。
「お兄様。血を、お求めなのでした、ら、いくらでも」
露珠が全てを言う前に、痛みを与えるためだけに、その背中に再び牙を立てる。
「っですから――どうか、このようなやりかた、は」
止めて欲しい、とまで言わせずに、既につけた傷を牙で抉る。
そこまでされてなお、痛みに身体を強張らせはするものの、抵抗らしい抵抗をしない露珠に、露霞の中に黒い気持ちが湧き上がる。
「なんだ?いくらでもくれるというのなら」
傷口を舌で弄びながら、露霞が鼻で笑う。
「やり方が気に入らないか?正面から、お前を優しく抱いてやればいいとでも?」
痛みと、軽蔑を滲ませる兄の言葉に、露珠は当惑する。抗わねばならぬ状況なのか、判断がつかない。
「優しくであれば、お前の夫はそれを許すのか」
凍牙のことを言われて、露珠はさらに混乱する。
「ふん、考えたこともなかったか」
先ほどまで、そうと誤認させようとする気配はあったものの、男女間のそれとは違った触れられ方だったものが、途端、男女のそれに変わる。
「いや、やめて……お兄様っ。ご冗談でしょう?」
震える声に、初めて焦りが滲む。嘲る気配を隠さず、喉の奥で露霞が笑う。
「だからお前は、俺に畳に押し付けられた時点で、助けを呼ぶべきなんだよ。血ならいくらでも、なんて言ってないで。あの、お前に惚れてるらしい鬼を」
疑い、罵り、抵抗して見せてほしかった。そうすれば、銀露への思いを断ち切れる――そう思っていた。
この、異常とも思える自己犠牲的な――露珠に限らず、銀露全体の――性質が、露霞を苛立たせる。本人はそんなつもりはないのだろうが、安易に身を削りすぎる。露霞の目にはそれが怠惰に映るし、多くのものにはそれが痛ましく映る。基本的に、銀露内では相手を大切に思えば思うほど、文字通り身を削ることになる。
涙を、血を、紅玉<命>を、その想いに応じて与える物が変わるだけで、身を削ることに変わりはない。相手も自分も、という思考回路にはならないし、そのための努力すらするそぶりがない。
こんなふうだから、弱い妖でもないのに、数を減らすことになるのだ。
今だって、血を求めた時点で、露霞が銀露ではないことを疑って、問いただすべきところだ。なのに、露珠は露霞が銀露ではない前提に立ってなお、血ならいくらでも差し出すなどという。その上、自分が襲われる危険など考えもしない。
その様がやけに腹立たしくて、酷い目に遭わせて思い知らせてやりたいと思うのに、そうしたところで、自分への視線に軽蔑が混ざることはないとわかる。恐怖と悲しみで白露を作りながら、それでもこちらを気遣ってくる予感がして、露霞はこれ以上なにもできなかった。
★
露珠を部屋に置き去りにして、露霞が廊下に出ると、曲がり角に凍牙が立っている。
「なんだ、部屋に殴りこんでくるかと思ったんだがな」
「義兄上殿、あまり露珠をいたぶらないでいただきたいのですが」
特に気が立っている様子でもない凍牙を、露霞はおもしろそうに観察する。
「よくわからないな、お前達。あいつもお前を呼べばいいのに呼ばないし、お前はお前でここまで来てぼーっと突っ立ってたのか?」
「殺されたかったというのなら、今からでも遠慮なく」
唐突に剣呑な言葉を放つ凍牙に、露霞が苦笑する。
「まさか。まあ、数発は喰らうかと思っていた」
凍牙は露霞の方を見ず、庭の方に目をやる。
「露珠が、望んでいなかったようなので」
凍牙が立っている廊下の角、そこは、露珠が自分を中心に張った結界の境になっていた。
露珠の結界は弱く、凍牙にとってはないも同然だったが、露珠が屋敷内で結界を張る理由などない。少なくとも「助けはいらない」という露珠の意志を感じることはできた。露珠の異変を察知して助けに来た凍牙だったが、この結界に気がついて、手前で様子を伺っていたのだった。
露珠が助けを求めるか、凍牙が看過できないと判断するまでは。
「なるほどね。……どっちも甘いな。露珠も、お前も」
露霞が凍牙の前を通り過ぎ、与えられた客間の方へ向かう。その露霞を凍牙が呼び止める。
「義兄上殿」
返事の代わりに露霞は立ち止まるが、振り返らない。
その後に続いた凍牙の質問には答えずに、露霞はその場を離れた。
★
「露珠、大丈夫か」
結界が消えたのを感じた凍牙が、部屋の外から声をかける。
「はい、凍牙様」
衣の乱れを直した露珠が、返事と共に障子を開ける。
「あの、お待ちいただいてありがとうございました。その……結界に、気がついてくださって」
「危うく切りかかるところだった」
物騒な言葉とは裏腹に、苦笑いしてみせて露珠を抱き寄せるように二の腕に触れる。
「怪我は?」
「……少し。でも、すぐに治る程度です。もう血も止まっていて」
着物の上から、傷のある肩にそっと手を触れた露珠が一瞬顔をしかめたのを凍牙は見逃さない。
「やはり、腕の一本でも切り飛ばしておけばよかったか」
「凍牙様!」
凍牙が物騒な言葉を真顔でつぶやくので、露珠はつい制止するように名前を呼んでしまう。自分の口から出たその声音が、思いのほか非難の色を孕んでいたことに、露珠が動揺して一瞬視線を彷徨わせる。
対する凍牙は、若干本心を含んではいたものの、半分以上は戯れのつもり――表情を露珠仕様にやわらかくすることを忘れてはいたが――の発言に、露珠が間髪いれずに抗議してきたことに、新鮮な驚きを味わっていた。
真白を巡る一件で二人が想いを確かめ合うまで、露珠にとって凍牙は逆らうことのできない主人だった。凍牙の言葉に意を唱えたり行動を止めたりすることはもちろん、それをほのめかされたことさえ、凍牙は記憶にない。
最近は凍牙に対しても昔に比べて寛いだ様子を見せるものの、乱牙や真白に対するほど気を抜いてはいない事は感じられていて、少し物足りなく思っていたところだった。
露珠は、自分の言い様に少し驚いた様子の凍牙を見て、眉を下げる。謝罪しようと口を開きかけたのを、凍牙が遮った。
「すまない、冗談だ。余程のことがなければ、お前の許可なしに義兄上に攻撃はしない」
謝るつもりが逆に謝られて、露珠が慌てる。
「そんな、許可なんて。私への加害は、どうか目をつぶっていただければと思いますが、それ以外に凍牙様を煩わせることがあるようでしたら、その際には、私への配慮は不要です」
急に畏まった言葉遣いになる露珠に残念な気持ちを抱きつつ、凍牙がそれに頷いてやると、露珠は目に見えて安堵する。
「――だが、緊急時でなければ、お前にも相談しよう」
なにがどう、とは言わないまでも、大丈夫だ、と凍牙が請負った。
★
露珠に無体を働いた後も、露霞は屋敷に滞在していた。露珠を試すような言動は鳴りを潜め、妹とその夫に会いに来た兄らしく振舞っており、凍牙との関係も良好だ。
座敷で談笑している三人を、高藤は廊下に控えながらちらりと見る。兄妹が並んでも全く似ていない。凍牙と三人でいるところを見ると、むしろ凍牙と露珠が兄妹か、逆に凍牙と露霞が色を反転させた兄弟の様にさえ見える。
初めて屋敷を訪ねて来たときからずっと、露霞に良い印象を持っていない高藤だが、一点だけ共感できるところがある。露霞が時折見せる、露珠への感情――苛立ちとかすかな蔑み――の理由が、高藤にはわかる気がしていた。
自分が狙われがちな種族だと理解しているはずなのに、露珠にはそういった警戒心が感じられない。いや、むしろその血と紅玉を狙われて来たからこそ、初手で襲い掛かってくる以外の害意を、相手が持っている可能性を欠片も考えていないように見える。それに輪をかけて自己犠牲的な挙動が、高藤や露霞を微妙に刺激するのだ。
高藤のそんな思考は、屋敷に近づく不穏な気配とそれを察知した凍牙の動きによって中断された。
ゆっくりと立ち上がった凍牙が中座の非礼を詫びようとすると、露霞も立ち上がる。
「俺も行こうか。話題のアレだろう」
短い間隔で頻繁に、来歴の分からない妖が牙鬼の縄張り内で発生していること、それらがそれなりの力を持っていることの不審を、凍牙と露霞は何度か話し合っていた。しかし、露霞からの助勢の申し出に、凍牙は数瞬迷う。
凍牙は、露霞を露珠の兄として尊重はしているが信用はしていない。この男に背中を任せてよいものか。通常の妖であれば背後を狙われてもなんの痛痒も感じないが、この男、妖狐にしてはおかしな妖気をまとっている。正面からぶつかって負けることはないだろうが苦戦しそうな気配がして、底が見えない。
「後ろから襲ったりしないよ、凍牙サマ。そんなことする理由もないし。それに、この妖、随分と特殊な気配だね?露珠に害為すかもしれないし、ここは共闘しよう」
凍牙の逡巡を見抜いたように露霞が言う。立ち上がった夫と兄を不安そうに見上げる露珠の視線を感じた凍牙は、戦闘中には敵と思しき妖だけでなく露霞の様子も探ることになるのを内心織り込んで、それを受け入れた。
「高藤。屋敷に残って露珠を守れ。明らかにここに向かってきている」
高藤が承知の意を示し、凍牙と露霞は視線を合わせて頷き合うと座敷から直接外へと出ていった。
★
「やはりこれは、ここに来る途中に見かけた奴らと同類に見えるな。屋敷に近づくに連れて多くなるように思えて、気になっていた。見かけはどれもバラバラだったが、纏う妖気はどれも似ている」
山の中をほとんど一直線に屋敷に向かっていた妖を観察しながら、露霞は足止めするように軽く攻撃を仕掛ける。
「そうですね。父が亡くなって以降、時折現れるようになりました。最近は特に数を増やしているようですが、強さが増しているようでもありません。徐々に強いものが出てくるというよりは、個体差が大きいようです。」
露霞の攻撃でバランスを崩したところに、凍牙が一太刀叩き込む。様子見のそれはお互いが想定したよりも相手に損傷を与えた様子がない。
「今回は、それなりに強い方か?」
「そのようです」
もう一体現れた同様の妖に凍牙が一瞥をくれると、露霞の右肩が凍牙の左肩に触れた。
「背中を、とは言わないが、こっちは任せろ」
視線は新手の妖から外さずに、口元をにやりと引き上げる。そのようすを横目に見て、凍牙は頷いた。
★
「大丈夫ですよ、露珠様」
ゆったりと真白の相手をしているように見えて、その実ちらちらと外の気配をうかがう露珠に、高藤が苦笑混じりに声をかける。
「あら。ごめんなさい、私」
そわそわしているのを見破られたことを恥じた露珠が膝上の真白を抱きしめる。抱きしめられた真白が「ろしゅさま~」と腕の中で楽しそうにもがくので、露珠が悪戯心を出して更に強く真白を抱きしめる。「くるしい~」と楽しそうに悲鳴を上げる真白と戯れていると、出て行ったときと同様に、縁側から二人が帰ってくる。
「お帰りなさいませ。凍牙様、お兄様。お怪我はありませんか」
さっと膝の上から退いた真白の頭を一撫でして、露珠が二人に駆け寄る。
「ああ。義兄上に助けられたよ」
凍牙の言葉を彼流の世辞だと受け取った露珠が、安堵の笑みを浮かべる。凍牙の隣に立つ露霞に視線を向けると軽く右肩をすくめて「足手まといにはならなったと思うよ」と凍牙に目配せをする。大分親しげに見えるそのやり取りに、今度は露珠と高藤が顔を見合わせて笑うので、その場は思いの外和やかな空気になる。
露珠や高藤を挑発することはあったが、露霞は初めから真白には優しい。構ってくれる大人が増えたことが嬉しい真白は、過ごした時間に比べて露霞に良く懐いている。周りの和やかな雰囲気を感じて、真白が露霞に走りよる。
「露霞兄様、強いの?」
「ん~?実は結構強いよ」
「凍牙様より?」
「そうだな~、そう簡単には、負けないと思うね」
足に抱きついてきた真白を抱き上げて、露霞はその身体を肩に乗せる。それは子どもの扱いに不慣れな凍牙はしない動きで、真白が歓声を上げる。肩の上の真白をあやしながら、露霞が表情を戻す。
「あの妖たちは、明らかにここを目指していた。今までの話と俺が目にした物を合わせると相当な数だ。そろそろ積極的な対応が必要そうだと思うけど」
自分の言葉に、凍牙が同意を示すのを確認した露霞は
「……確証はないが、少し心当たりがある。何か分かったら知らせに来る」
と言って、肩の上の真白を凍牙に向かって放り投げる。危なげなく真白を抱きとめた凍牙が何か言う間もなく、露霞はそのまま庭から出て行く。
「お兄様!」
呼び止める露珠に片手を上げて応えて、露霞はそのまま屋敷から去った。




