(2)
今日は風がない。
数日ほど降り続いていた雪は、庭を白く染めている。未だ静かに降り続ける雪を、露珠は雪見障子越しに眺めていた。
故郷の雪ほど暴力的ではないそれは、露珠の目にはまるで別物のように見えた。ヒトのように、木と紙で作られた温かい室内から見ているからかもしれない。
障子越しにふと外を見た後しばらくそのまま雪を見ている妻を、凍牙は視界の端に捉えていた。庭の雪よりももっと遠くを見ているようなその様子が少し気にかかる。積もった雪は、凍牙にも露珠の故郷である大雪山を思い出させる。
「露珠」
凍牙の呼びかけに、はっとした露珠が、視線を室内に戻す。先ほどまでの表情を失ったような様子からは一転し、凍牙を見て微笑みを浮かべた。
「すみません、少しぼんやりしていたみたいです」
「いや、いい。大雪山へ、帰るか?」
「え?」
突然の提案に、露珠は自分がぼうっと雪を見ている間に、凍牙に適当に相槌でも打っていたかと記憶を辿る。露珠が混乱しているのを察した凍牙が、足りない言葉を補う。
「ずっと雪を見ていたようだから、故郷を思い出しているのかと思った。一度も帰してやらなかったから、帰りたいのではないかと」
露珠を探しに大雪山へ行ったときに出会った銀露を思い出す。露珠の名を聞いて驚いていたようだった。銀露からすれば、露珠の消息はわかっていないままのはずだ。
露珠にとっては思いもよらない申し出だったらしい。目を見開いた露珠の少し青みがかった銀色の瞳の上を、長い銀色のまつげが何度も往復する。
しばらくその様子を観察していた凍牙が、堪えきれないといった風にくっと笑い声を漏らす。
「そんなに驚かれるとは思わなかった」
「いえ、大雪山へ帰るなんて、考えたこともなかったものですから」
「里帰りの提案にそんなに驚くような状況にしていたのは、私か。すまなかった」
「凍牙様!そんなつもりでは……。大雪山を出るときに、もう二度と戻、らないつもりでしたから。雪を見ていたのも、暖かい部屋で、凍牙様と一緒にいられるのが幸せだと、そうしみじみ思っていたからです」
露珠が、二度と戻「れない」と言いかけて寸でのところで言いつくろったのを、凍牙は気がつかないふりをする。
「自由にしてよいと、もっと早く言ってやればよかった。大雪山にも、それ以外にも、行きたいところに、行きい時に出かけて構わない。出来れば事前に知らせて欲しいし、可能な限り共に行きたいとは思うが」
今までずっと、露珠を屋敷に縛り付けていたという自覚を持った凍牙は、できるだけ露珠の好きにさせたいと思っていた。しかし、露珠の安全を考えるといつでもどこへでも一人で行って構わない、とは言ってやれない。
角を持たせているとはいえ、全ての妖が露珠に近付けないわけではないし、何よりほんの少しの切り傷から大事に発展する可能性が大いにある。妖狐が一般的には強い部類の妖であることは凍牙も知識として理解はしていたが、傷一つ負ってはいけないという条件付きで露珠が戦えるとは思えない。
凍牙が考えるほどには、外に出たいと思ったことがなかった露珠は、突然の許可――しかも場合によっては事前に許可を得なくても許されそうな――に、再び瞬きを繰り返す。
それでも、凍牙の言葉が露珠を慮ってのものだと気がついて、じわじわと心のうちに喜びが広がる。
「ありがとうございます、凍牙様。でも、私は凍牙様のお傍にいるのが一番幸せです。外には……時々一緒にお出かけしてくださったら、嬉しい」
一緒に出かけたい、と少し恥じらうように言う露珠に、今度は凍牙が少し驚く。
「では今度、大雪山に共に行くか。私は結界の前で待っているから、里の者に顔を見せてくるといい」
晃牙の結界に護られた銀露の里には、たとえ凍牙であっても容易く入ることはできない。二人で大雪山へ行ったとしても、結界より先、銀露の里へは露珠しか進めない。
凍牙としては当然の申し出だったが、夫を外で待たせて里帰り、と言う提案に露珠はうろたえる。
「凍牙様をお待たせして一人で行くなんて……」
「構わぬ、久しぶりに山を一回りして、掃除でもしておく」
その上、待っている間に銀露に害となりそうな妖を排除しておく、という。
「露珠。望みがあれば遠慮せず言って欲しい。私の気が利かないのは、もうよくわかっていると思うが」
そんなことはない、と露珠は思う。鬼と妖狐では常識が違いすぎて、思いが至らない部分が多いだけなのだ。お互いに。
「凍牙様はいつも私を気遣ってくださいます。そうでなければ私は、こんなに凍牙様のこと……」
好きになっていない、と続けようとして詰まる。普通の会話でさらりとこの手のことをいうには、まだ羞恥が勝る。
途中で言葉を途切れさせたことを不快に思った風でもなく、凍牙は露珠を見つめ、そして、追い詰める。
「私のことを?」
明らかにからかっている、と分かる笑みを浮かべている凍牙を直視できなくて、露珠は視線を彷徨わせる。以前の露珠なら即座に頭を下げて謝罪し、それを受けた凍牙の落胆した表情に気がつかずにいたことだろう。今はもう、ここが謝るところではないと露珠にもわかる。
「恥ずかしいので、お許しください」
しっかりと見つめ返すことはできていないが、顔を上げて答えると、凍牙が「おや」と表情を変える。
「今度ゆっくり聞かせてくれるか」
左手で自分の隣を示し、露珠を呼ぶ。大人しく従った露珠を片手に抱いて、凍牙は機嫌よく雪見酒を呷った
★
「いってらっしゃい、乱牙」
「ああ」
玄関で、露珠と真白が乱牙を見送る。気をつけてね、と続く露珠の言葉に、お前のほうこそ、と軽口を叩いて、乱牙が手を伸ばす。露珠の髪に向かいかけたその手は、途中で方向を変えて、真白の耳の間にぽす、と乗る。
「お前もな。いい子にしてろよ」
「やめてよー!真白いつもいい子だよ!」
ガシガシと乱暴に頭を撫でられて、真白が抗議の声を上げる。
「いや、冗談じゃなく。凍牙も留守にすることが多いだろうし、俺も早めに戻るつもりだが――」
言い募ろうとする乱牙を露珠が遮る。
「ありがとう。大丈夫よ。もうあんな無茶はしないから」
ね、と真白を諭すときの様に言われた乱牙が苦笑する。
「わかったよ。じゃあ、行ってくる」
背中越しに片手を軽く上げて出て行く乱牙を見送って、露珠が中に戻ろうとするが、真白は乱牙が出かけていったほうを見たまま動かない。
「真白?」
露珠が声をかけると、視線を逸らさないままの真白から小さな声が聞こえる。
「乱牙、すぐ帰ってくる?」
もちろん、と答えかけて、露珠は言葉に詰まる。
寿命が大きく違う露珠たちと真白では、時間の感じ方も同じように違う。露珠や乱牙にはすぐでも、真白には酷く長く感じられるのかもしれない。一緒にいるときでさえ、露珠たちと真白の時間感覚の違いから、よく退屈させてしまっている。
「できるだけ早く帰ってきてくれると思う。乱牙が帰ってくるまでは、凍牙様や高藤に頼んで外に遊びに行きましょう。近場だったら私と二人でもいいし、ね?」
晃牙が亡くなって以後、その勢力圏の維持に特に興味を示していなかった凍牙だが、露珠との誤解が解け、改めて共に暮らすと決めた後からは積極的に動くようになっていた。
そのための外出が多く、真白を屋敷の外に連れ出すのはほとんど乱牙だった。
屋敷の中だけでは退屈しがちな真白が、乱牙の不在で屋敷の外に出られなくなることを残念がっているのだろうと、露珠が提案する。
「凍牙様と?」
ぱっと振り向いて期待に目を輝かせる真白に、この切り替え具合を見たら乱牙がちょっと悲しむんじゃないかしら、と乱牙を気の毒に思いつつ、露珠は頷いた。
「悪いが、これから出る」
露珠と真白の会話が聞こえていたのだろう、乱牙の見送りには来なかった凍牙が、玄関先まで来ていて、露珠の後ろから声をかける。
「今からですか?お戻りはどれくらいに?」
「半月はかからぬ。高藤は置いていく」
「凍牙様は、お一人で?」
不安気に聞く露珠に、微かな笑みを返して安心させると、そっと露珠の髪を撫でる。
「出来るだけ早く戻る」
髪を撫でた手が、そのまま頬に滑る。添えられた凍牙の手のひらに、露珠が目を細めて頬を寄せた。
「お戻りになったら、真白とお出かけくださいませ」
凍牙と露珠の様子を見ている真白の表情が、乱牙を見送った後のように曇っている様子を目に留めた露珠が凍牙を見上げて言う。真白に視線を移した凍牙が、返事をしながらその頭を優しく撫でた。
「それまでは、露珠と出かければよい」
直近の外出の許可と、凍牙との外出の約束に、真白は気を取り直して笑顔を作る。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
少しの懇願を滲ませて、噛み締めるように露珠が言う。
以前は、凍牙の外出を見送るときにこんな気持ちになることはなかった。最強の鬼の無事を祈る必要があるとは――無事でない可能性があるなんて――露珠は思いもしなかった。それがどうだろう。凍牙の強さは変わっていないし、それを疑ってもいないのに、何事もなく帰ってきてくれるように、という気持ちが、見送りの度に心を占める。
ここ最近、見送りの時に露珠が「気をつけて」と言ってくれるのを、凍牙はいつも新鮮な気持ちで聞いている。自分だけに限らず、晃牙や乱牙、高藤など、鬼の安否を気遣う見送りなど、ここではされたことがない。母親でさえ、幼少の凍牙がどれほど強くなるかは心配しても、無事に帰ってこない可能性など露ほども考えていなかったように思う。
強さを疑われているわけではないことはなんとなく分かる。言葉だけでなく、心底そう願っている、という様子でそう口にする露珠を見るのはまんざらでもない。
つい先ほど乱牙を見送った場所で、二人は凍牙を見送った。
★
「露珠様!見て!」
雪の積もった山の中、真白がウサギを追いかけている。
「高い方から下に向かって追うのよ」
ヒトの姿では難しいだろうと思いつつも、後ろから露珠が声をかける。
屋敷近くの山に、露珠は真白を連れてきていた。
牙鬼の屋敷の近くであれば、弁えている妖が多いし、凍牙や高藤が定期的に「掃除」しているため危険も少ない。ヒトの居住地に意外と近い場所ではあるが、ヒト相手であれば露珠でも十分自身と真白を守ることができるだろうし、今は冬。ヒトがわざわざ冬の山に登ってくることは多くない。
小さな崖を下って、真白がウサギを川べりに追い詰めている。
足が水に濡れて、動かなくなったウサギを真白が抱き上げようとしたとき、付近の森の中から怒号の様な声と物音が響く。
「真白」
ぴたりと動きを止めていた真白が、声を聞いてぱっと露珠の元に駆け寄る。
断続的に聞こえる音の方を注視していると、森の中から川原に数人のヒトが大きな荷物を抱えたまま転がり出てくる。それを追うように、後から数体の妖がゆっくりと姿を現した。
小さな包みを胸に抱え、先頭を走っていた一人が、川原に居た露珠と真白を見て、逃げてきたはずの森の方へ一歩下がる。
一歩後ろに下がったのは、義明という役人だ。この山を越えた先の村で起きている異変に対応すべく、酒樽と都の神職が祈祷した品々を携えてきた。
都に近い場所でのことで、対応が急がれたため、高僧から魔よけ札を授けられてきたが、思いのほか多い妖に札を使いきってしまっていた。この山を越える前に麓の村で気休め程度の魔よけを行ったが、都から追加の魔よけ札を受け取るまで待つわけにはいかなかった。この山は元々妖の数が少なく、都の守り神の居所とされていたため油断していたこともある。魔よけ札なしに山越えをした結果、山中で贄を狙った妖怪に襲われ、ここまで逃げてきた。
義明は、背後を気にしつつ、目の前の女を観察する。見た目は人だが、雪山でこの軽装。そして人とは思えないほどの美しさ。人を襲っている妖を見て特に動じた風のないその姿は、義明の目から見て明らかに異様だった。
追ってきている妖と、目の前の妖と思しき女、どちらがより危険度が高いか、義明は必死に考える。ふと、女の足元にしがみつくようにしている幼子が目にとまる。人であれば5つか6つくらいに見えるその幼子は、明らかに半妖と分かる特徴を有している。これが、この女と人との子であれば、万に一つ、人に味方してくれる可能性があるかもしれない。
「は、半妖……!」
義明が考えをめぐらせている間に、従者の一人が、真白を見て声を上げる。追ってきている妖への恐怖と憎悪を、そのまま半妖への罵倒として口にしようとするそれを、義明は慌てて制止する
「よせ!」
そして、露珠へ向直り川原の石に額をこすりつけるようにして、懇願する。
「どうぞお助けくださいませ!!私は都の役人で、義明と申します。末黒へ行くためこの山を通らせていただいておりましたところ、そこな妖に襲われました。私は帝の遣い。もしお助けいただけましたならば、必ずや都に戻ってこの恩をお伝えし、お奉りいたします」
妖である打保は、川原に逃げたヒトが、そこにいた妖に助けを求めるのを見ながら、出て行くか迷っていた。何体かの眷族はヒトを追って既に川原に出ているが、今は動きを止めるよう指示してある。打保もまた、自分以外の妖との不意の出会いに驚いていた。
半妖はともかく、その隣の妖は得体がしれない。連れている半妖とつながりがあるのであれば、妖狐なのだろうが、傍に近づくのが酷く恐ろしい。何がしかの結界か守り札の類のようだが、まるで鬼の力だ。そこまで考えて、この辺りを縄張りにしている牙鬼のことを思い出すが、目の前の女が牙鬼とはとても思えない。
相手が鬼だからと言って、尻尾を巻いて退散するつもりは毛頭ないが、牙鬼の縄張り内でその関係者とことを構えるほど愚かではない。
どうするか悩んでいる間、この妖がヒトをどうするつもりなのか森の中から眺めることにする。
露珠には、この義明なるヒトにも、それを襲ったという妖のどちらにも肩入れする理由がない。妖のほうも凍牙との関係性がわからないし、下手に手を出して凍牙を困らせる事態は避けたかった。義明も妖も、露珠と真白に対して攻撃を仕掛けてくる様子はない。このまま何もせずに立ち去るのが賢明か――。
「露珠様」
真白が、露珠の衣の裾をひく。
「あの、ね。助けてあげてほしい……です」
「真白」
凍牙と出会う前はヒトとともに暮らしていた真白から、遠慮がちに請われた助命を無下にすることはできず、露珠は森の中に向かって声をかける。
「そこの。この者達を見逃すわけにはいかないの?これらの連れを、既に何人かは獲ているのでしょう?」
目の前の妖を無視して、森の中に声をかける露珠に、義明は息を呑む。追ってきていた茶色と紫の植物のような妖はいまや動きを止めていて、露珠が見ているほうに本体があるらしいことがようやく彼らにも分かった。
呼びかけられた打保は、自身と連れの半妖を害されることはないと確信を持っている様なその言い方が気に食わない。ヒトが抱えているその荷物がなんなのかもわかっていないだろう露珠に口出しされていることがそもそも不快だ。森から走り出ると、眷族の触手を踏み台にして露珠に飛び掛った。
「偉そうに!!」
目を細めた露珠が、真白を庇うように一歩進み出る。振りかざした鞭のような腕が露珠の顔に到達する前に弾かれ、打保は勢い余って川の中に派手に水しぶきを上げて着地する。
「ムカつく」
水の中で立ち上がった打保が、待機させていた眷属にも露珠を襲うよう念じる。川原の石の隙間から延びてくる触手を、露珠がその妖気で枯らす。真白を後ろに逃がして直接術をかけてしまおうか、と露珠が更に一歩前に踏み出そうとした時、冷ややかな声がその場に響いた。
「騒がしいな。何事だ」
決して大きくはないのに、はっきりと聞こえるその声は、その場の全員を声の主に注目させた。川の対岸の崖から、銀色の髪とその間から角を覗かせた鬼がひらりと降り立った。
「これは……!」
「――っ!」
義明たち人は、その額の角を見てひれ伏す。ヒトにとって鬼は、神でもある。この山に住まう神として、牙鬼は信仰の対象なのだ。
打保も、牙鬼の関係者かどうか判然としない露珠とは戦っても、牙鬼本人と戦うつもりはない。露珠相手に既に劣勢であることを感じていた打保は、全ての眷属を戻して戦意がないことを示し、露珠からも鬼からも距離をとる。
「我が妻になにか用か、打保」
「……いいえ」
名を知られていることと、その芯まで凍りそうな口調に戦慄し、打保はその場に膝を着く。弁解の言葉を考えるが、何も出てこない。
「去れ」
一層冷ややかなその声に弾かれるように、打保はその場から姿を消す。
「お前達は、そのままもとの道に戻れ。元の道なりにいけば、もう妖に遭うことはない」
それを聞き、義明はあらん限りの感謝の言葉を述べてその場を後にした。
その鬼が打保と義明たちを相手にしている間、露珠は角をこっそりと真白に渡して、自分の後ろに庇う。
「真白。私が合図をしたら、それを持って屋敷に戻って。そして高藤にこの場所を伝えて。お願いね」
視線を鬼に向けたまま、小声で真白に言い含める。露珠の緊迫した様子の理由が分かる真白は、両手に角を握り締めたまま、無言で頷く。
ヒトと妖、どちらもこの場から去らせた鬼が、露珠を振り返り、先ほどまでの冷ややかな様子とは打って変わった笑みを浮かべながらゆっくりと露珠に近づく。身体を強張らせた露珠が、少し身体を引く様子を見てより一層笑みを深くする。
「我が妻よ、なぜそうも警戒する?お前の望みどおり、ヒトも妖も害することなくこの場を去らせてやったのに」
穏やかな口調を崩さずに首をかしげてみせるその様子に、さらに恐怖が増す。
「あなたに妻と呼ばれる覚えはありません。――誰なの」
露珠が、こっそりと出した尾で背後の真白を押した。




