前日譚1(後編)
「露珠。来い」
高藤に追いつく前に凍牙が帰宅し、玄関近くまで来ていた露珠は思惑どおり、その帰宅に遅れることなく凍牙と晃牙を出迎えることができた。しかし、凍牙は玄関から入ってくるなり真っ直ぐ露珠のところへきて、その腕を掴んで引き摺るようにその場を離れた。
凍牙の歩く速さに、怪我をした足では対応できず、露珠は手をつかまれたまま足をもつれさせる。
「足か」
呟いた凍牙が、露珠が答えるより早く彼女を抱き上げる。
「あ、あの」
めまぐるしく変わる状況にまともに声を発せなかった露珠も、部屋に下ろされ着物の足元を肌蹴けさせられて、何とか声を出す。
「これは、私の不注意で罠にかかってしまって。高藤が見つけて手当てをしてくれました」
「罠?どこにあった。出血は止まっているのか」
矢継ぎ早に問いかけながら、凍牙は巻かれた包帯を解いて傷を確認する。骨が見えるほど引き裂かれ、更にかき回されたような傷口を見て、顔をしかめたが、手当ての状態を見て納得したように包帯を巻きなおした。
「痛みは?」
「ありません。高藤の薬が良く効いていて」
「あの薬は痛みを無くすが、傷を治しているわけではない。痛まないからと無理をすると治りが遅くなる。暫く動くな。出迎えも必要ないし、他の……いや、なんでもない」
「は、はい」
珍しく口数が多い凍牙に圧倒されて、露珠は上手く返事もできないでいる。
「顔色が悪いが、罠にかかっただけか」
「……はい。中々抜け出せず、難儀したもので」
高藤を庇う気持ちが半分、もう半分は保身で、露珠が失血の理由をごまかす。
「出血が多かったのか。……明日からの食事は考える。今日はもう寝ろ」
瞬く間に用意された布団に押し込まれ、露珠は目を白黒させながらもそれに従う。
露珠がおとなしく布団に入ったのを見て、凍牙は部屋を出た。
仄かに香った血の匂いを思い出すと身体がざわつく。本当なら、あの傷を焼き固めてしまいたかった。そうすれば血の匂いを完全に消せるが、痕も残るしなにより苦痛を伴う。
晃牙はともかく、影見でさえこの血の誘惑に勝てるか分からない。使用人では、凍牙に殺されるとわかっていても、その誘惑に抗えない可能性があった。香りに乱心する使用人が出ないよう注意する必要がある。屋敷内での露珠の安全のために、銀露の血の誘惑に抗える者を見極めるまでは、彼女に他の者を近づけるわけにはいかない。
高藤は――。
恐らく大丈夫だろう。露珠がどういうつもりで報告を躊躇ったのかは分からない――高藤を庇ったのか、もしくは無断で血を与えたことを責められると思ったか――が、高藤は理性を取り戻せたようだと、露珠と手当ての状態から察せられた。何も言わずとも、二度同じことはしないだろう。
帰宅するなり妻の腕を掴んで部屋に下がった凍牙を、面白そうに見送った晃牙は、同じように出迎えた高藤に話しかける。
「随分と過保護だな。お前の主人は」
「……はい」
経緯を知っているために歯切れの悪い高藤を、晃牙が笑いを含んで見遣る。
「気に入らないか、露珠が」
「いえ、そんなことは」
「ほどほどにしておいてやれよ」
晃牙の言葉の意味を読み取った高藤が頭を下げ、承服の意を示す。
「しかしまあ、過保護だが優しさが足りないな、あれは。抱き上げてでもやればよいものを」
なんと返したものか高藤が迷っていると、先ほど出て行ったはずの凍牙の気配が近づいてくる。
「どうした?一日離れていただけで妻が恋しくて、顔を見るなり部屋に連れ込んだのかと思ったぞ」
晃牙のからかいには反応せず、凍牙は少し前に父親が持ってきた南方の食材を露珠に分けてもらいたいと頼む。
好奇心旺盛な晃牙は、鬼では興味を持つ者が少ない食事にも積極的で、ヒトの調理法や珍味などもわざわざ調べて取り寄せたりしている。影見は食事より酒が好きだし、凍牙は鬼の例に漏れず食事そのものに興味がない。乱牙の母は晃牙が持ってくる珍しい食材に目を輝かせ、一緒に色々な調理法を試したりして楽しんでいたようだが、彼女が亡くなって以来、晃牙のその趣味に理解を示す者はいなかった。
そんな凍牙が、露珠のために「血の素」ともいわれる南方の食材を晃牙に乞うているのが面白いらしく、晃牙が目を細める。
「構わないが、お前も一緒に食べてやれよ」
「はい。ありがとうございます」
晃牙との話をそこで切り上げて、凍牙が高藤に向き直る。
「高藤、罠があった場所に案内しろ」
「かしこまりました。こちらです」
露珠が罠にかかっていた庭の隅に凍牙を案内する。
凍牙はその場で露珠の血を確認すると、その辺りの土ごと高火力で焼く。
「放っておくと屋敷内といえども面倒なことになる。洗い流すより焼き切るほうが簡単だな」
独り言のように呟く凍牙を前に、高藤が跪いて頭を下げる。
「凍牙様。申し訳ございません」
凍牙が高藤を一瞥し、次の言葉を遮る。
「なんの件だ。露珠からは、罠にかかってお前に助けられた、と聞いている。お前が気がついてくれてよかったと、私も思っている」
凍牙の言葉に、自分が何をしたかを知られていることを悟る。そして、露珠は高藤が血を奪ったことを凍牙には言っていないということも。露珠が庇っていることも含んだ上で、不問にすると、凍牙は言っているのだ。
「なんて顔をしている、高藤。罠を仕掛けたのがお前だったというなら、続きを聞いてやってもいいぞ。露珠を、殺してやろうとでも思ったか」
「いえ……」
「お前があれにいい感情を持っていないのは知っていている。私が望まぬ結婚をしたと思っているのだろう?そうではない。牙鬼と銀露では、確かに銀露に利がある取引だっただろうが、私と露珠では、一方的に私に利のあるものだった」
はっと、高藤が顔を上げる。
「では、凍牙様は、露珠様を……」
「高藤、露珠を頼むぞ」
返事の変わりに、高藤は深々と頭を下げた。
露珠の怪我から数日。
風は冷たいが日差しが温かい日で、露珠は障子を開けて部屋から日の当たる庭を見ていた。
罠があった庭の端は、部屋からは見えない。罠は屋敷のある周りの山に設置されていたものを回収し、処分するはずが適当においておいたものに、運悪く露珠がかかってしまったものらしい。あんな庭の端まで、まさか凍牙の妻が行くとは思うはずもない。事態を知らされ顔面蒼白だったという使用人の助命を請うたのは露珠だった。
凍牙の妻としてふさわしいとはいえない庭遊びに、逃走を疑われかねない状況。自分の落ち度が大きすぎたこともあり、少し怠惰だっただけの使用人が命まで奪われるのは露珠の望むところではなかった。
しかし、使用人の処遇に口を出すのも越権行為の自覚があった露珠は、怪我をしてからの日々は、今までより一層、凍牙や屋敷の者の意向に逆らわぬよう、おとなしく過ごしていた。
ここ数日、露珠の食事や行動を凍牙が事細かく使用人に指図しているのを知っている。怪我のせいで動きにくいのもあるが、それ以上に、露珠はできるだけ部屋から出ずに過ごすようにしていた。
開けていた障子に影が映る。廊下から部屋をのぞいた凍牙は、部屋で寄掛りにもたれながら庭を眺める露珠が、片足を少し横にずらしているのを見て、声をかける。
「変化を解いてはどうだ。治りも多少早くなるだろう」
凍牙の勧めに、露珠は戸惑う。鬼はそもそも人型で、本性が大蛇の影見も夫や息子に合わせて常に人型を取っている。屋敷内は使用人も含めて全て人型で生活しているのに、ここで変化を解くのは憚られる。
露珠が迷っていると、父と母に会うときだけその姿に戻ればよいから、となおも勧められる。確かに、人型を維持するのに微力ではあるが妖力を使う。変化を解けば、その分の妖力を傷の回復にあてることはできるだろう。そこまで考えて、怪我をしてから夜に凍牙が部屋を訪れることがなかったと思い至る。怪我など気にせず好きにしてもらって構わないのに、と思いつつも、怪我に気を遣ってくれているのなら、できるだけ早く治せるようにするのは、露珠の務めだと思いなおした。
初めは逡巡した様子の露珠が、凍牙の再三の勧めに折れて、狐の姿に戻る。包帯を巻かれた怪我が、後ろ足の広範囲にわたることが良く見えて、凍牙が少し眉をひそめる。片足を持ち上げたままひょこひょこと歩く様子は痛々しいが、人型でいるときよりも余程動きやすそうだ。
呼ぶと近くまで来たのを、前足の付け根に手をいれてぶら下げるように持ち上げると、わたわたと後ろ足をばたつかせる。常の露珠にはない表現が面白くなり、更に顔近くまで持ち上げる。すると、凍牙が下ろすつもりがないのを感じたのか、ばたばたと抵抗するのをやめ、少しの緊張を感じさせる姿勢のままぴたりと固まる。
凍牙を伺うような上目遣いと少し後ろに伏せられた耳を見て、いつになく感情がそのまま見えているのがかわいらしく思えて、怪我に触らぬように抱きかかえ、縁側に腰を下ろした。
胡坐をかく凍牙に抱きかかえられた露珠は、どうしたものかとちらちらと凍牙を伺う。会話ができないため、問いかけることもできない露珠が、腕のなかでそわそわしているのが感じられて、凍牙がため息のように笑いを漏らす。
胡坐の中に露珠を下ろして、その背を撫でてやる。
「少しここで寝ていろ」
丸めたときの身体にぴったり合う感覚は心地よいが、場所が場所だけに気まずい。丸まりながらも少し顔を上げて凍牙の様子を伺うと、手のひらが降りてきて耳の後ろや首筋を撫でられる。場所も手つきも気持ちがよくて、首を伸ばしてその場に落ち着いてしまった。
胡坐の中にすっぽりと納まっている露珠が、くあっと小さくあくびをしたのをみて、凍牙は満ち足りた気持ちを感じる。本人は無意識であろうそのしぐさは、人型をとっている時には決して凍牙に見せないものだ。
呼吸の度に身体が膨らむ律動に合わせて撫でてやる。
露珠がここへ来て暫く経つが、未だ凍牙や屋敷のものへの怯えを見せるのを少々不満に思っていた。しかし、手元の白銀の手触りに、かつて狩り、身にまとった銀露の毛皮を思い出した凍牙は、それも仕方のないことか、と思い直す。あの毛皮の持ち主は、露珠の知己だっただろうか。
たとえ全く知らない相手であっても、露珠は悲しんだのだろう。凍牙は、己に一族の安寧を願った少女の姿を思い出していた。




