前日譚1(前編)
高藤は、棄てられた鬼だ。
物心ついたときには既に、周りには誰もいなかったし、何もなかった。親と思しき鬼も妖も、その力の根源となるヒトからの信仰も。
基本的には、他の生き物や妖に比べて強い力を持つ鬼であっても、本当に「なにもない」状態で生き延びるのは難しい。
何者とも結びつかない高藤は、刻々と失われる力を補充する術もなく歩き回り、力尽きてうずくまっていたところを凍牙に拾われた。
凍牙のとりなしで、晃牙に牙鬼一族として迎えいれてもらうことで、ようやく鬼としての力を発揮できるようになった。
高藤の熱望により、高藤は凍牙を主として、鬼同士としては異例の主従関係を結んでいる。
高藤は、露珠が気に入らない。
凍牙を主と仰いでいる以上、その妻である露珠にあからさまな敵意を見せることはしなかったが、彼は露珠を良く思っていなかった。
そもそも、婚姻の経緯を影見や家令から聞いた高藤は、それが凍牙の望んだものではないと考えていて、それだけでも露珠に良い印象はない。その上、初めて会った露珠の前に跪き、「露珠様」と呼びかけた挨拶を、当然のように受け入れ、「こちらこそよろしくお願いします」と微笑んだのを見て、高藤は不遜な女と認識した。
凍牙と高藤の関係は特殊で、通常鬼は他の誰であれ、完全な従属を示すことはない。牙鬼一族を従える晃牙に対する家中の鬼でさえ、高藤が露珠にしたように、跪いて忠誠を誓うような形はとらない。ましてや、鬼でもない貢物扱いの妻など、逆に高藤に対して伏して挨拶するくらいでも驚かない。現に、晃牙の妻である影見は、ある日息子が従えてきた鬼である高藤が、「凍牙様の母君」と目の前に跪いたのを見て大いに慌てたものだ。
挨拶に対する露珠の返しに、憮然とした高藤を見ていたらしい晃牙が、後から笑いながら「あれは元々銀露の姫だからな。周りが自分に傅くのに慣れているんだろう。というか、銀露しかいない閉ざされた場所だからな、あれより立場が上だったのは親くらいだったろうさ。鬼はおろか、他の妖も見たことがないといっていたぞ。……つまりあれだ、常識がない」などと説明したものだから、高藤はますます露珠を快く思えなかった。
それでも、凍牙が露珠を疎んじている様子もなかったので、主君の妻を表立って蔑ろにする理由もない。あえて近寄る理由もなかったので、高藤は露珠とはほとんど顔を合わせずにいた。
その日、高藤は、晃牙と凍牙と共に出かけていたが、別の用事をこなすため、帰りは別の道で屋敷へと戻ってきていた。
戻った屋敷には晃牙と凍牙の気配はなく、二人より先に戻れたことを知る。ところが、帰ってきた高藤を出迎えたのは使用人たちばかりで、露珠の姿はない。凍牙様を出迎えるつもりもなかったのかと、更に露珠への心象を悪くした高藤は、文句の一つでも言ってやろうかと、彼女の姿を探して屋敷内を見回った。
しかし、屋敷内のどこにも露珠の姿はない。
晃牙と凍牙が揃っての不在を見計らって逃げたのか。見つけたら、許可を得ずとも、少々手荒にしても許されるのでは、などと殺気だった高藤が、縁側でふと足を止める。嗅いだことのない、甘い香りが庭の方からかすかに漂っている。そのまま無視することができないほど、その香りは高藤をいつになく落ちつかない気持ちにさせた。直前までの荒々しい気持ちに更に燃料を投下されたように、興奮度合いを高めた高藤は、その香りの元を探して、少し日の翳った庭に下りた。
庭の端、屋敷からは最も離れた辺りの草むらに、その濃い香りの元はあった。
狐が、後ろ足をヒトが使う狩猟用の罠に捕らわれて、その白い毛並みを赤く染め、時折きゅうきゅうとか細い声を漏らしている。
香り元を見つけた高藤が近づくと、それに驚いて身体を跳ねさせた狐が一瞬のうちに人型を取る。
「露珠……」
敬称をつけることも、逆に思っていたように怒鳴ることもできなかった高藤の言葉は、人型を取ったために更に食い込んだ罠に露珠が上げた悲鳴に遮られた。
「何をやっているんです」
狐から人型になったら余計食い込むことくらいわかるでしょう、馬鹿ですか、と今までの態度からは想像もつかない言葉を浴びせられて、状況が飲み込めていない露珠が目を見開いて高藤を見上げる。高藤の豹変にあまりに素直に驚く露珠が可笑しくて、先ほどまでの荒々しい興奮が落ち着いた高藤は、外してやろうと血塗れの足に食い混む罠に手を伸ばす。
途端、濃厚な芳香に刺激され、手についたその血を思わず舐めてしまう。甘美な味と、身体を駆け巡る力、一瞬で消えたその感覚が惜しくて、もう一方の手が無意識に、罠が肉を裂いているその部分に指を差し入れ抉る。
「――――っ!!!」
声にならない悲鳴を上げた露珠が、咄嗟に足を引こうとしてさらなる痛みに身体を伏せ、耐えるように手元の草を土ごと掴む。その様子に、このまま続けてはまずい、と思うものの、新たに流れ出た血を手に受けて、それを啜ってしまう。
「これが、銀露の……」
恍惚と呟く高藤の声が聞こえているのかいないのか、露珠は伏せたまま小刻みに震えている。
こんなものでは足りない、直接そのまま吸い尽くしたい。露珠が感じる痛みには配慮せず、罠を力ずくで外して適当に放り投げると、高藤はその傷口に唇を寄せて血を飲む。傷ついた片足を持ち上げられ、舐められている状態の露珠は、抗ってよいのか図りかねて身動きがとれない。これが晃牙や凍牙からの仕打ちなら、露珠は何をされても耐えるだろう。では、この高藤にはどうしたらいいのだろう。抵抗が、牙鬼への裏切りとみなされるのか、露珠には判断がつかない。
このまま食べてしまうのでは、という勢いで露珠の足にむしゃぶりついていた高藤が、出血量が減ったのに気がついて、ようやく口を離す。まずい、と思いつつも衝動を抑えられなかった後ろめたさが、逆に露珠へ向かう。
「少しくらい抵抗したらどうなんです。力のない妖でもないでしょうに」
「あ、はい……ごめんなさい」
痛みから解放された途端に非難された露珠は気の抜けた返事をしてしまい、高藤がさらに眉根を寄せて不快そうな顔をする。牙鬼一族から与えられるものは、それが何であれ受け入れる。そういうつもりであった露珠は、これは嫌がってよかったのだと認識を改め、次回があれば控えめに抵抗しておこう、などと考えていた。
妙な謝罪を寄越したきり、掴まれたままの足を振りほどくでもない露珠に、高藤はため息をついて、足を離し、身体を起こしてやる。
「で?なんだって、こんな、狩猟用の罠にかかっていたんですか。まさかここから逃げようとでも?」
「まさか!そんな、逃げようだなんてとんでもない」
逃げる、という言葉に反応して、露珠が勢い良く首を振る。
そのあまりに必死な様子に、露珠の立場に改めて思い至った高藤は、苦いものを飲んだような気持ちになる。高藤の暴挙にひたすら耐えていたのは、抵抗によって晃牙と銀露の契約が反故にされることを恐れていたからだ。高藤に何をされても、凍牙からの明確な許可がなければ、露珠は嫌がらないだろうと思い知る。
「庭を、散策していて、ついうっかり……。岩の影になっていたこともあって、足元を見ておりませんでした。お見苦しいものをお見せして申し訳ありませんでした。助けていただいてありがとうございます。あの、凍牙様ももうお戻りに?私、お出迎えにも上がらず――」
そのまま立ち上がって歩き出しそうな露珠を見て、高藤は今までもやもやとしていた露珠への不快感が消えていくのを感じる。
「露珠様、そのまま歩くのはまだ難しいかと」
「はい、え?」
急に今までどおりの口調に戻り、自分を抱き上げる高藤の変化に、露珠はついていけずに間の抜けた声を上げてしまう。
「凍牙様はまだお戻りではありません。私だけ別件で先に戻ってまいりました。そろそろ戻られるかと思いますが、先に手当てをいたしましょう」
縁側から室内に戻り、高藤自らが露珠の手当てをする。手当ての道具を運んできた家令には、罠が置かれた経緯を調べるように頼む。
「傷は酷いですが、毒や妖気を含んだものでもないので、暫くすれば直るでしょう。少々不便でしょうが、身の回りの世話はいつもどおり使用人にさせてください。凍牙様には私から――いえ、露珠様からご報告ください。血を、失った影響はどうですか」
高藤が暗に、血を奪われたことを露珠から凍牙に報告するよう促す。
「いいえ。獣用の罠にかかるなんて恥ずかしくて自分の口からはとても。報告が必要なのでしたら、高藤から、凍牙様に。お願い」
自分の血を飲むことが凍牙の不興を買う恐れがあるなら、報告しなくてもよいのでは、と含ませて高藤の様子を伺う。
ふ、と頬を緩ませた高藤が「ではそのように」と言い置いて退出する。
畳に怪我をした足を投げ出して、高藤が巻いた包帯を見る。骨が見えるほどの怪我だったというのに、痛みはほとんどない。痛みをとる軟膏を塗ってもらったのだが、鬼の妙薬であろうか、すごい効き目だ。しかし、痛みはなくとも、力が入らず不安定で上手く歩けない。誰かを呼ぶのも面倒で、露珠は何度か転びながら、上手く身体を安定させる支え方を探った。
それにしても、と露珠は思う。鬼というのは自制心と理性が強いものらしい。通常、銀露の血を飲んだ妖は、その銀露が息絶えても血を飲むのを止められないものが多い。その辺りが弱い妖だと、血の匂いにつられてやってくる自分より強い妖の接近に気がつかずに、血を飲みながら殺されることもままあると聞く。白露を狙って銀露を拷問にかける、ということがほとんど行われないのはそのためで、長期間に渡って白露を得ることよりも、目先の血のほうが何倍も魅力的なのだ。
凍牙と晃牙が、銀露の血に理性を失うことはないことは知っていたが、それはあの親子が特別なのだと思っていた。だから、露珠は罠にかかっても、声を上げて屋敷のものを呼ぶことができなかった。来るのが凍牙か晃牙でなければ、より酷いことになる。自力で罠を外すこともできたが、外さない方が罠それ自体で傷が塞がっているため出血は抑えられる。罠を抜けたあとの出血で、屋敷中に血の香りをばら撒かないように、上手いこと止血しなくては、などと考えているうちに高藤に見つかってしまった。
高藤。彼には――と言っても、この屋敷のほとんどの者にだが――良く思われてないのは分かっていた。凍牙への忠誠が強い分、主が望まぬ結婚を強いられたことが不満な上、露珠の何かが彼をいらつかせていたようだとも。罠にかかっているところを見つけられた時、彼の出方次第ではこのまま殺されるかもしれない、とさえ思った。
実際は、血を飲まれはしたものの、助けてもらい、痛みがないよう手当てもしてもらった。必要以上に手荒にされた感はあったが、それは彼の露珠への心情を思えば妥当なものだったのだろう。血を流しているところを見つけられて、あれだけで済んだのは奇跡的だったと思う。
そういえば、まだお礼を言っていなかった。凍牙を出迎えるにしても、この足では時間がかかり過ぎる。高藤を追いかけて、そのまま凍牙が戻るまで玄関近くに控えていよう。
露珠は障子や柱に半身を預けながら、部屋を出た高藤を追いかけた。




