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はじまりは数百年前に遡る。
この国の王族である狼は血統を重んじるあまり数を減らし、王家は存亡の危機に瀕していた。
種族の異なる獣人同士が番った場合、その子供はどちらの性質を持って生まれてくるかわからない。王族に別の種族の獣人が混ざる、それは誇り高き狼にはとても受け入れられないことだ。
そして、狼は一夫一婦制。番以外は受け入れられない。これも動かせない性だ。
ここまで数を減らしてしまっては、もはや相手を見つけることは難しい。
そこで彼らは思い出した。
遠い昔この地にいた「人間」のことを。
獣人と人間が番えばその子供は必ず獣人側の性質を持って生まれてくる。
だから、すでにこの国に純粋な人間は残っていない。十分に獣人と混ざり、取り込まれてしまった。
もはやどこにいるかわからない、この世界にいるのかもわからない。しかしどうにかして人間を連れて来なければならない。
それが例えどんなに非道な行いでも、彼らに迷っている時間はなかった。
国中の術者とありったけの魔石を集め、召喚の儀は行われた。
王城から溢れ出た光はこの世界の隅々まで広がったが、目的の物は見つからない。行き場を失った強大な力は一直線に天へと向かい、空を割った。
そして、青空を歪に切り裂いた亀裂から、一人の人間が落ちてきた。
かくして彼らの悲願は果たされる。
闇色の亀裂は現在も見上げた空に横たわり、時折怪しく蠢いては異世界から人を攫ってくる。
「見えるか?君はあそこから落ちてきたんだ」
泣き疲れたのか少女は暴れることもなく大人しく俺の腕に納まっている。
顎をしゃくり視線を上げるよう促すと、異様な光景を晒す空に呆然と目を見開いた。
「あの割れ目から君みたいな子がたまに落ちてくる。前は7年前だったか……それで、その、帰してやる方法はないんだ」
できるだけ優しい声を出すように努めるが、そんなことで残酷な現実が変わるわけではない。それでも騎士団から預かってきた手前、必要な情報は伝えなければならない。
「とりあえず今日はこのまま俺の家に行く。ちなみに、俺の名前はエタン」
「……エタン」
王家が落ち人にかけた2つの魔法。
そのうちの1つ、翻訳の魔法は少女と最初に出会った時から問題なく働いている。
「うん。そう。君は?何て呼べばいいかな」
「……わたし、は」
そして残りの1つ、忘却の魔法も同様に。
「わたし……わからない……名前、思い出せない……」
少女は愕然とした様子で記憶を探っている。小さな唇に触れた細い指が震えていた。
忘却の魔法は強力だ。壊れた記憶の輪郭は思い出そうとするたびに崩れ、遠ざかっていく。
そのうちに、手を伸ばすことも忘れてしまう。
「そうか。大変な目に遭ったからな。仕方のないことかもしれない」
「……うん」
この魔法は過去の落ち人が元の世界に帰れないと知って絶望し、自害してしまったことから追加されたものだ。落ち人に関わる一部の者以外には知らされていない。
表向きは落ち人を安全に保護するためとされているが、自分でも気づかないままに記憶さえも取り上げられるというのは、それはそれで残酷なことだろう。
だが、確かに俺には都合が良かった。
「名前がないと不便だから、俺がつけてもいいか?」
「うん」
「リラ」
「……りら?」
「そう。リラ。君と同じ、やわらかい香りのする花の名前だ」
「リラ」
「そうだ」
リラ、リラと口の中で確かめるように繰り返す様子が可愛らしい。
泣きすぎて目の周りが赤くなっているが、少しずつ気持ちが落ち着いてきたようだ。
家に帰る途中、リラは目に入る何もかもを食い入るように見つめていた。
時折風が長い髪を揺らして、甘い香りが鼻をくすぐる。
このまま真綿でくるむように大切に大切にしてやりたい。
例えリラに感じる気持ちがこの胸に巣食うどす黒い欲望を源にしているとしても、君に優しくすることは可能なはずだ。