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「エタン、エタン、起きて」
「んん……」
「エタン」
「……おきる」
「1分だけね」
「ん」
腕の中のやわらかい体をぎゅっと抱え直す。
細い首筋に顔を埋めればサラサラと流れる長い髪から甘い香りがする。すりすりと感触を楽しんでいるとくすぐったいとリラが笑った。身じろぎしたはずみに赤く染まる小さな耳が視界に入って自然と口角が上がる。ああ、食べてしまいたい。
リラ、リラ、花のような君。
君のいる朝はあたたかい。
◇
その日非番だった俺は街中で偶然巡回中の同僚に会った。相手もちょうど昼休憩を取るつもりだと言うのでそのまま連れ立って定食屋に行き、二人で豪快に盛られた肉にかじりつく。王宮騎士のことは知らないが、ほとんどが平民出の警邏隊の騎士達は総じて大喰らいだ。
角の花屋の娘が可愛いとか、そう言えば隊長がまた剣を折ったらしいとか、くだらない話をしながらがつがつと食べ進め、最後の一枚に取り掛かろうというところで同僚が口を開いた。「今日、東の森に落ちるらしい」と。
店を出て見上げた空には亀裂が走り、その隙間から蠢く闇が覗いていた。そう言えばいつもより開いているかもしれない。
「時間は?」
「わからん。中央は今日としか言ってこなかった」
「そんなもんなのか」
飽きるほどに見慣れた街を歩いているのに晴れた空から降る光は場所によって唐突に陰り、昼と夜が混在しているかのような不思議な光景が作り出されている。いかにも何か起きそうだ。
森の入口に着くとすでに同じ隊の騎士達が到着していて、野次馬根性丸出しな私服の俺を笑った。
どうやら"落ち人"はすでに奥にいるらしい。
「怯えて話ができない。お手上げ状態だよ」
ここからでも声が聞こえているらしい同僚達の耳が頭の上でへにょんと垂れていた。
「交代でアタック中だ。お前らも行って来い」と言う先輩の言葉に従って森の中へ進む。奥から聞こえてきたのは悲鳴のような嗚咽混じりの拒絶だった。いやだ、来ないで、近づかないでとただひたすらに繰り返す声。恐怖にまみれた叫びはあまりに哀れだ。
皆が集まる場所に着くと数人の騎士が声の主と交渉中で、すでに敗れたらしい者達がその後ろから成り行きを見守っていた。
まだ少女とおぼしき影を取り囲んで立ち尽くす男達は一様に耳と尻尾が垂れてしまっている。
じりじりと距離を詰める大男達の中に少女はひとり、座り込んで悲壮な声を上げていた。あれはまずい。
「隊長、ちょっとだけ下がっててもらえませんか?
多分、俺が一番近いと思うので」
突然わけもわからないまま姿形の違うでかい男に囲まれたらそりゃ怖いだろう。帯剣してるのも確実によくない。
この場で騎士服を着ていないのも一見少女と同じ外見なのも俺だけだ。
涙で顔をぐしゃぐしゃにし、座り込んだまま後ずさる少女の前に片膝をついた。
両手を上げ、武器を持っていないことをアピールする。
少女はなおも涙を流しながら俺の頭上をじっと見つめた。
「俺は君に何もしない」
「……に、んげん?」
「違う」
ぐしゃりとまた少女の表情が歪む。
期待させてしまったかもしれない。悪いことをした。
それきり黙って俯いた彼女はやはり周囲のすべてを拒絶しているようだった。
「俺達は獣人と言う。この国、というかこの世界に人間はほとんどいない。
でも、俺達は君を保護するために来た。人間から見れば恐ろしいナリをしているかもしれないが、君を傷つけるつもりはない」
「……」
「ごめんな。本当に何もしないから、落ち着いたら話をさせてくれないか」
そう言って少しひとりにさせてやろうと立ち上がると、うなだれていた彼女が俺の服の裾を小さく掴んだ。細い指先が震えている。真っ白で小さな手だ。
「どうした?」
出来る限り優しい声で話しかける。生まれてこの方そんなことをした試しがないので上手くできているかはわからないが。
「………………おいて、いかないで」
小さな小さな声。泣きっぱなしで掠れてしまい、それでもまだ不安に濡れている。
この細い手を振り切るなどできるはずがなかった。
「ずっと着いててやる」
触るぞと声をかけてスカートから覗く足に上着を掛けてやり、抱き上げた。
恐怖で立てないのかと思ったが、観察しているうちにどうやら落ちた時に足を傷めたらしいということに気が付いた。
武器もなく逃げられもしない状態で囲まれればパニックにもなろうというものだ。
「隊長、俺が預かります」
「……そうか、わかった。」
一度触れてしまえばもう離せないとわかっていた。獣人は他の雄の匂いがついた雌には近付かない。
でも、同じことだと思ったのだ。
このまま騎士団で保護しても彼女は修道院に預けられ、面会を希望する雄と見合いをし、そのうちの誰かに引き取られる。
間をすっ飛ばして俺のものにしたからと言ってこの腕の中の少女以外に責められる謂れはない。
俺には誰もいない。君と同じだ。
ずっと着いててやる。