廃屋、地縛霊
僕は幽霊だ。世間一般的に人が死んだ後になると言われている、あれだ。
僕はそれを自覚している。誰に教えてもらったとかじゃない、僕がそう思う確証がいくつかあるからだ。
僕が幽霊として目ざめたのは…いつだったか、忘れてしまったけど、気づいたら僕はどこか分からない廃屋の縁側で横になっていた。それ以前の記憶は全くないのに僕は違和感も感じず、毎日、過ぎる時間を眺めて、流れる季節を感じて日々を過ごしていた。
ある日の夕暮れ時だったか、蝉の鳴き声が酷くうるさかったのを覚えている。そんな僕の耳に風でも小動物でもない、何かが動く音と話し声が聞こえてきた。この時の僕は少なくとも数年はこの家にいたというのに、自分が目を覚ましたこの畳部屋から動いたことがなかったから音がどこから鳴ったのかさえも分からず、しばらくその場で硬直していた。
しかし次第に足音や話し声はゆっくり、ゆっくり、こちらに向かってきていた。僕はどうすればいいか分からず、部屋の隅に蹲った。理由は分からないけど、この時の僕には人間が恐ろしく思えていた。
次第に軋む廊下の音が近づいてきて、話し声も耳を澄ませば、何となく聞こえる程。人数はおそらく二人、どちらも男だろう。
襖をゆっくりと開く時の擦れた音がして、僕は体育座りのまま、膝に顔を填めた。そんな僕を他所に男二人は小さな声で話しながら中に入ってくる。
「なぁ…もういいだろ。帰ろうぜ?肝試し以前にこれ不法侵入だしさぁ…」
もう一人の男の後ろをキョロキョロ辺りを見渡しながら、その臆病そうな男は帰宅を勧める。
されど、前を往く男は意気揚々と笑って歩くのを辞める気配はない。
「今どきお前みたいにビビるのも珍しいよ。肝試しに来て言うのもなんだけど幽霊なんて居ないんだからさ。こういうのはツチノコ探しみたいな心で挑まないと!」
「そうは言ってもなぁ…」
「まぁまぁ、肝試しもこの部屋で最後だしちょっとそれらしいものでも探してみようぜ!」
そう言うと、先頭を歩いていた男は襖やタンスを見境なく、開けて、叩いて、めくって。彼らは何かを探しているらしい、僕の存在は蚊帳の外。
次第に最初に現れた恐怖は薄れて、彼等に対する怒りが現れた。説明するまでもない怒りだ。自分の居場所に急に現れて勝手に荒らされたら誰だっていい気はしない。
暫くは黙って蹲っていた僕だったが、やられてばかりで黙って居られない。僕はどうやって仕返しをしてやろうかと考え始めた。ただ声を掛けて出ていくように促しても面白くないし、真面に話を聞いてくれないかもしれない。なら、こちらも真面な方法で出ていくように言う必要は無いんじゃないか。そもそも勝手に入ってきたのはそっちだ。
そう考えはじめた僕にはこの時、妙案が浮かんでいた。幸運にも僕がいることはまだ此奴らにバレていない、ならばそれを利用しない手はない。
驚かせてやるんだ。あいつらはどうやら肝試しに来たらしいから僕が後ろからちょっと大声を出してやれば漫画みたいに飛び跳ねて、一目散に逃げていくに違いない。
その姿を想像して思わず笑ってしまいそうになるのをこらえて、僕はゆっくり彼らの背中に近づいた。そしていきを大きく吸った後に「わあ!!!」っと思っいっきり叫んでやった。
すると彼らは僕の方を振り返り目を丸くしたと思えば「ぎゃあー!」とか「うわぁ!!」とかそれぞれの悲鳴をあげて僕の目の前から逃げて行った。
数秒その逃げていく背中を眺めた僕はついに堪えられなくなって、さっきの声とは比にならないほど大きな声で笑い転げた。
僕のたった一声で人間がプライドとかを忘れて情けない声を漏らし、何ふり構わず駆け出す姿。こんなのを見せられて笑わずにいるなんて、僕には無理だった。
ひとしきり笑って僕は、またいつもの静かな日常に戻った。途端に心は空っぽになって、また、夜の六畳間でぼーっと時間を過ごした。
さっきまで現れていた喜怒哀楽も周りが静かになると途端に凪いだ海のようになる。今思えばそれも僕が幽霊なのだからなのかもしれない。
次の日から僕の日常は文字通り、音を立てて崩れていった。それによって、いいことも悪いこともあった。
まず、そのふたつに共通すること。僕の居場所であるこの家に、人がよく来るようになったことだ。
会話を盗み聞きした限り、どうやら僕がやったイタズラが広まって、この家には本当に幽霊がいると思われてしまったらしい。なんて迷惑な話、悪いことということはそのまま、人間が頻繁に来ることになってしまったことだ。
じゃあ、いい事とはなんだと聞かれれば、それもまた人間が来るようになったことなんだから混乱してしまうのも仕方ない。
僕にとって人が来るのはプライベート空間を侵されるのが嫌だからなのだが、ついこの前、僕がとった軽率な行動で知ってしまった。
人間を驚かす楽しさを。
つまり、いい事というのは人間が来ることによって僕がそいつらを驚かせたりして暇を潰せるということ。
表裏一体であるこのふたつだけど僕にとっては良い側面の方が強い。確かに一人で静かに過ごす日々も良かったが、それは人間を驚かす楽しさを知ってしまった僕にとっては僅かな心残りでしかない。今は寧ろ、早く次の鴨が来てくれはしないかと笑いながら待つ僕がいる。
そんな僕が自分自身を幽霊だと気づいたのは、それから数日しなかった。夏の匂いも深けてきた夕暮、この時間帯から肝試しに来る人間が増える。この日も男女四人組くらいの人間が中に入ってきた。僕はいつもの六畳間で奴らが逃げ惑う姿を想像してほくそ笑みながら身を隠す。
もう新たな日課となりつつあるそれは、もう自分自身の存在を消してしまっているかと自分で思ってしまうほど板に付いていると自負できる。
その証拠に僕は今の今まで、驚かす前に姿を見られたことがないのだ。まさに天性の才能!前世はきっと忍者だろう。…なんて、この時は呑気に思っていた。
静かな廃屋に軋む床と内緒話のような声が聞こえてくる。もう思ったより近くまで来ているらしい。急いで部屋の隅に踞る、驚かすのは奴らがこの部屋に入ってしばらくしてから。
「なぁ、こんな所に幽霊なんか本当にいるのかよ」
気だるそうな男の声。
「ほんとだって!私の友達も見たって言ってるし学校でも結構噂になってるんだから」
「ふーん、まぁどうでもいいけどさ。早く済ませて帰ろうぜ」
廊下からその声が聞こえて次の瞬間、襖が勢いよく開けられた。
「ちょっとお前、いくらなんでも大胆すぎるだろ」
「なんだよ、ビビってんのか。幽霊なんかどうせ居ないんだから、そんなんじゃかっこ悪いだけだぞ」
もう何回聞いたか分からないその台詞も僕の前ではお膳立てに過ぎない。何度その台詞の後、僕の声に驚いて逃げる様を見てきたか。まぁ、そのギャップが面白いんだけど。
しばらくして、やっぱり幽霊なんかいないじゃないかと全員の意見が纏まってきた時が僕の出番。
今回は大声で驚かせるのではなく、幽霊っぽくおどろおどろしい雰囲気で行ってみようと思い声を出した。
「僕はここだよ…」
低く静かに、でもしっかりと聞こえるように出した僕の声は彼らにちゃんと届いたようで彼、彼女らはお互いを押し退けるようにみっともなく逃げ去った。
僕はその様子でまた笑いそうになったが堪えた。それは目の前に逃げ遅れた…というか驚きすぎて腰を抜かした男が一人、畳の上で震えているから。
いつもとは違う状況に内心、混乱していたが、どうせならもっと驚かせて人間も蟹みたいに泡を吹いたりするのか確かめてみようと悪戯心に火がついた僕は彼に近づいて笑いながら。
「逃げ遅れちゃったね…」
そう言いながら彼に手を伸ばす、このまま首根っこでも掴んでやればこんな怖がりの彼の事だ。泡の一つや二つ出してくれることだろう。
そんな期待に心躍らせながら手を伸ばす。僕の目には段々と恐怖に染っていく彼の顔が見える、ただ、ごめん。そんな顔をされたぐらいで辞める僕じゃない。
彼の顎の下に手を伸ばして首に手が付くくらいまで来た所で思いっきり、彼の首を握った。
が、僕にその感覚はなく、実際、僕の手も彼の首を掴んではいなかった。もっと詳しく言うと掴めなかった。すり抜けたんだ、蜃気楼でも掴もうとしているんじゃないかってほど彼の感触は僕の指には何一つ伝わって来ず、彼の体にめり込んでいる手だけがそこにあった。
僕がその結果に唖然としているとその様子を見て腰を抜かした彼は正気を取り戻したのか叫び声と共に走って逃げていってしまった。
いつもなら笑いながら見送る僕も今はそんな余裕はない。目の前で起きた事にまだ、脳が追いついていっていない。
何故、僕は彼を触れなかったのだろう。僕の夢?彼は陽炎かなにかだったのだろうか?
いくつか理由を考えては見たけど的を得ていそうな気はしなかった。最後に考えた理由は、彼が幽霊だった。とか言う見苦しい程の知らん顔。
この時既に、いや、もう初めて人間を驚かせた時から薄々気づいていた。僕はひょっとして生きていない…幽霊と称されるものじゃないんだろうか、と。
そう考えるための役は揃っていた。振り返ってみれば僕が今までしてきたことは幽霊のそれだし、僕の思い出も来歴もからっきしだし、並べたらどうだろう。そこには幽霊しかいない。
こうしてその事実を突きつけられた僕は、疑う余地がないことを理解していながら、いまいち納得できず、本当に幽霊なのが確かめたくなった。
そうと決めて僕はすぐに行動に移す、廊下を駆けて玄関の扉を開けた。その景色に僕は思わず顔を手で隠した。久方ぶりの夕暮色の空がとても眩しく見えたからだ。
それもじきに目が慣れて、裸足のまま外に出る。何をしようとしているのか?
もちろん、聞きに行くんだ。
何を?
もちろん、僕が幽霊かどうか。
とっても簡潔でわかりやすいだろう?今までは驚かすことしかせず真面なコミニュケーションもとってなかったが話をしてみれば案外、僕はちゃんと人間かもしれない。
家の飛び石を渡って目の前にアスファルトの道が横たわっている。周りを見渡してみると、どうやらここは住宅街らしい。そんなことも今知った。
嫌な予感を振り切って、誰でもいいから人を探そうとアスファルトに足を踏み入れようとした時、僕の足は地面とくっついてしまったかのように動かなくなってしまった。
何故かわからず、今度は手を伸ばそうとしてみるがそれもできない。逆に後退しようとするといとも簡単に出来るんだから、もう僕がこの先に行けないようにされているのは手に取るように分かった。
でもそれで「そういうものか」と納得してやれないのが僕だ。どうにかして脱出出来はしないかと抜け道を探していると、抜け道ではなく、アスファルトの道から足跡が聞こえてきた。
すぐにその音の方を見ると背広を着た男の人間がこちらに歩いてくるのが見えた。
なんという僥倖だろう!彼に僕の存在を聞いてみれば白黒はっきりする。彼がこちらに来るのを待ってやっと彼の顔の輪郭が夕日でくっきりと見えるほど近づいていた。そしてついに僕の家の目の前に差し掛かって、僕は躊躇わずに声をかけた。
「あの!」
…
「すみません!!」
……
「お聞きしたいことがあのですが!!」
………
まるで虚空に向かって話しかけているかのごとく、僕の声は彼の耳に届かなかった。それとも届いていて無視をしているのか知らないけど。
そのどちらでも僕は酷く、苛立ってしまったことには変わりない。もう聞こえていないと言わせないために僕はいつも人を驚かす時と同じくらいに息を吸って精一杯の声を出した。
「わぁ!!!」
すると背広の男は疲れきった顔から突然、こちらを向いたと思えば、次の瞬間には幽霊でも見たかのように驚いて、暮れる道を走り去ってしまった。
それはもう決定的と言ってもいいかもしれない。どうやら僕はこの家から動けない「地縛霊」と言うやつで、僕から人間に干渉出来ることは大声とか驚かそうとする言葉だけ。それ以外は僕の姿も見えないらしいし声も届かないらしい。
夜に染る廃屋で一人考えながらため息を吐く。別に落ち込みとか後悔とかではなく、ずっと気づかなかった自分自身に呆れたため息。
これからどうするかとかまだ分からないけど、一つ確かなのは、僕にできることなんて一つ無いこと。
成仏とかどうでもいい、今の生活に不満もない。もし不満があったとして、成仏したかったとして、僕は何をすればいいのかも分からない。
なら、もう割り切って今を楽しく生きて…もとい、過ごしていればいいんじゃないかって最近、思い始めた。それが今の僕。
なんだかんだ、この地縛霊生活も悪いものじゃない。夜は縁側からよい月を一人で眠らず眺めて、朝は野鳥のさえずりに耳を傾けてみたり、昼から夕方は肝試しに来る人間達を追い返す作業に精を出して。ここに人が来るようになってから僕の生活は急に色がついたように思えた。
きっと今の生活は僕が生きていた時よりも充実しているに違いない。もしも充実している人生を送っていたのだとしたらこんな廃屋で地縛霊になっている訳がない。
別に、僕の人生がどんなだったとかは今更知りたいとは思わないけど、もしも死んで幽霊になってしまうような苦しい人生だったのなら、今の僕がその人生を覆すほど楽しい生活をして人間だった頃の僕を報いてあげないとあまりにも可哀想。天国でも地獄でも、行くのは今の僕が満足してからでいいだろう。
そう割り切ったら心が軽くなった。何にも縛れれずに好きに過ごしていいんだ。今までもずっとそうだったけど、初めてそれを実感したのは今だった。
次の日からの僕はとても清々しい心地で幽霊業に挑んだ。声を出すだけじゃ飽き足らず、皿を割り、窓を叩き、果てには入口の戸を閉じてやったり。その度に絶望し恐怖に染まる顔を見ると馬鹿らしくて仕方ない。
だって目の前で腹を抱えて笑っている僕がいるのも知らず、都合のいい時に頭に浮かぶ神様とやらに「助けてくれ」と懇願して、日頃の行いを急に謝り出す。これを滑稽と言わずしてなんという。笑うなという方が無理な話だ。
そうして日暮れまで笑い疲れるほど楽しんだら、もう何回目かも分からない夜が耽ける。僕は先程までは打って変わり、据わった目で畳の上にあぐらをかいた。実は最近になって夜が少し苦手になってきている自分がいた。
硝子越しに月を眺めても、夜風に靡く夏草を見ても、満たされない。いつしか僕は、部屋の隅の闇をただ無心に眺めている。理由は、分からない。
分からない…無性に孤独が恐ろしくて、騒がしい夕暮れが恋しく思うのも、分からないんだ。
ただ、実を言うと夜だけじゃない。朝も昼も、ふと油断をするとこの感情が僕を支配する。虚しくてたまらなくなる。
だからかもしれない。最近、やけに人を驚かすのが執念深くなっているのも。大声で笑っている時だけは幸の感情だけが僕を包んでくれる。
でも結局、その場しのぎでしかない。一息ついたら急に周りが暗転したように心が虚しくなる。いくら他人を驚かしたって僕は一人だ。なんて滑稽なんだろう、そんなことで悲しくなっているなんて。
幽霊なんて往古来今、孤独な存在だろ。地縛霊だったら尚更だ。それを受け入れて自由に生きていこうと思ったのもつい最近。それなのに僕は絶えない孤独によって、心の穴が広がっていくばかり。これならまだ神様に祈って謝る方が誠実でいい。
変わっていく心をどうにかして元に戻そうと、孤独を情けないと、寂しさをくだらないと、何度も自分に言い聞かせては見たけど徒労に終わった。そして僕は結局この孤独も割り切ることにした。
そんな僕に変化が起こったのはそれから二日後のこと。最近は人間を驚かすのも消極的になって、天井のシミを眺めているだけの生活になっていた。また、喜怒哀楽を忘れていく。
今日も柱の木目をなぞって暇を潰していると表から話し声が聞こえてきた。珍しくもない、日が傾くと湧いてくる物好きな人間たち。
今のでは無視することも珍しくはなかったが、この時は久しぶりに気が乗ったのか、玄関まで行って様子を見てみようと思った。
長い廊下を進んで玄関に着く。戸は開いており学生が数人群がっているのが見えた。一人その集団から距離を置かれている人間も。それはどうやら女子のよう。
「おい、早く行ってこいよ!お前そういうの平気だろ」
「えーさすがに怖いよぉ」
「何言ってんだよ、驚かされた皆の仇を取るって意気込んでたのはお前だろー」
「大丈夫だって!お前なら案外幽霊と気が合うかもしれないぞ」
「あはは!確かに!地に足がついてないところとかね」
彼女の自虐ネタと思われるそれで、他の学生らに笑顔が咲く。その自然な様子は普段からそんな会話をしているんだろうと思わせた。
笑い声が一頻り続いてから彼女が背筋を伸ばし右手で敬礼をしながら。
「では今からこの幽霊屋敷の探索に行ってまいります!」
その道化らしい行動でさらに彼らに一笑を買われる。彼らもまた笑いながら「武運を祈る」と敬礼を返す。
彼女はそれに手を振ってから背中を向けて、こちらに向かってきた。顔に満面の笑みを浮かべながら。
それを見た僕は急いで畳の部屋に戻る。久しぶりに僕の悪戯心に火がついた。ああいうお調子者が恐怖に溺れ慄く姿が何より見ていて楽しいのだ。
定位置に隠れて彼女が来るのを待つ。やがてさほど待たずに足音が聞こえてくる。その音がやけに子気味好い足音だったのが謎に思ったが、どうでもいい。
今回はシンプルに大声で驚かせてやろう。襖が開くのをじっと待って、次の瞬間、襖から光が漏れる。きた…!
僕は部屋の隅から思いっきり体を跳ね、彼女の前に飛び出て叫ぶ。
「わぁ!!!」
……
僕は彼女と目が合った。眉ひとつ動かさない、凪いだ目がそこにある。最初に彼女が動かしたのは口。
「あ、ごめんね」
叫び声でも泣き言でもなく、それは謝罪。言い終えると彼女は目の前にとび出た僕を通り過ぎて部屋の中に入っていく。
僕は何が起こったか分からず、飛び出した時の笑顔が固まったまま、戻せずにいた。暫くしてゆっくりと後ろを振り返る。そこには畳の上で体を横にして寝ている彼女の姿があった。
今までにない事で僕は混乱する。そこ中で見つけた答えは簡単なものだった。
もしかしたら彼女にはさっきの声が聞こえていなかったのかもしれない。たまにいたんだ、そういう人間も。霊感とかか知らないけど僕のことが見えなかったり声が聞こえない人間が。
そういう人間に対して僕は直接的な恐怖ではなく間接的に攻める方法を持っている。まずは台所に向かって皿を割る、窓を割る、床で地団駄を踏む。これをすると僕が見えない人間も僕という存在を意識し始めて顔が青ざめていく。彼女も例外ではないだろうと畳の部屋に戻ると、彼女はさっき見たまま、畳の上で眠っている。
ああ、そうか。眠っているから聞こえないのか。ならもう一度耳元で叫んでやるしかない。
目一杯息を吸って寝耳に直接僕の叫び声を送ろうとした。でもその時、寝ていると思っていた彼女が急にこちらを向いて、顔を顰めながらこう言った。
「ちょっとやめてよ、うるさくするのはさぁ。あなたの居場所なのは分かるけど、すぐ出ていくから数分だけ寝かせて」
そういうとまた顔を伏せて寝息を立て始める。吸った息は行き場を無くして、ゆっくりと外に逃がした。その次に僕はどんな行動をとるか、普段なら無意識のうちにやっていることも途端に分からない。
僕に対して目を合わせて話しかけてきた、まだ驚かせていないのに。今までにないことが立て続けに起こった衝撃からそれ以上のことを考えられずに思考は環状線のように回り出す。果てには彼女は幽霊なんじゃないかと疑い始める。
有り得ないとは思う。でもその可能性がない訳では無い。気になって仕方ない僕は彼女に直接、聞いてみることにした。
「あ、あのー…」
彼女は僕の声を聞こえているのかいないのか、何ひとつも反応を示さない。でも一方的なコミニュケーションは慣れているからそのまま問いかける。
「あなたは幽霊ですか?」
濁さず真っ向から聞いた。返事を待つ僕は、さながらビンゴゲームでリーチになった時のような緊張感があった。
言葉にしたくないけど、きっと僕はこの孤独から救ってくれる同族を期待していたんだ。
そんな醜い僕と彼女の間には暫く静寂があった。やっぱり僕の声は人間には届かないんだと思い始めていた時、目の前の彼女が僅かに肩を震わせているのが見えた。なんだと思ってしばらく見ていると「ふふふふふふ」と押さえつけたような小さな声も聞こえる。もしかして笑いを堪えている?
僕の予想は数秒後に正解だとわかる。ついに彼女は大きな声で笑いだしたのだ。そのまま笑い続けて一山超えた辺りで体を起こしてこちらを向いた。
その時、確かに目が合った。彼女は目頭に涙を浮かべてニヤついている。
「それ、君が言う?」
確かに僕に向けた言葉だった。だからこそ戸惑った。一方的な言葉は得意だが、会話のキャッチボールなんて幽霊になってから初めての事で、しばらく目を泳がせてから返事をさがした。
「えっと、だって、貴方、僕の事見えるみたいだし…驚きもしないから」
彼女は微笑を作ったまま僕の拙い言葉のボールを受け取ってくれた。
「驚かないよ、幽霊よりも生きてる人間の方が怖いって知ってるからね」
僕は突然言われたその言葉の意味を掴めなかった。でも無意識の内に首を縦に振っていた。
「それで、貴方は幽霊なの?」
「いいや、残念。私は人間なんだ」
「そっか」
あからさまに落胆が顔に出る。彼女にもそれが伝わってしまったらしい。僕の心臓を射るような言葉が彼女の口から出る。
「寂しいの?」
そう聞かれて口が詰まる。正直に言うか?まだ自分自身認めたくないこの感情を。幽霊が孤独を恐れているという情けない話を。
…とてもじゃないが言えるわけない。
「いや…そんな訳ないよ」
その語気といい、何も無いわけないことは自分でも分かってはいるがこれ以上の誤魔化し方を地縛霊の僕は知らないから仕方ない。今は反省会よりも先に、彼女が僕の拙い誤魔化しに、どんな言葉を返すかが僕の心臓の鼓動を早める。それに反して落ち着いた声が僕の耳に届いた。
「私は寂しいよ」
その言葉を彼女は笑いながら言っていた。声だけ聞けば今にも泣き出してしまいそうなのに彼女は笑っている。顔と言葉があまりにも矛盾しているから本当に彼女は寂しいと思っているのかと疑わざるを得ない。
「嘘。じゃあなんで貴方は笑ってる?」
遠慮せずに今度は僕が彼女の心臓を射ってやろうと放った言葉の矢は、僅かだが彼女の笑顔を崩した。でも直ぐに作り直した笑顔で答える。
「それはね、そうしていないと私は人間でいられないから」
そう言うと彼女は急に「もう行かなくちゃ」と焦った様子で立ち上がった。引き止める理由もないので僕は部屋から逃げるように去っていく彼女の背中を眺めた。しばらくすると玄関の方から彼女のものであろう大きな笑い声と、彼女の友人らの声が聞こえた。
同時に「そうしないと人間でいられない」と言った彼女の言葉が頭を反芻する。
幽霊の僕は人間の感情を深く理解出来ないから、そういうものなのかと思うしかないが、幽霊だからこそ、彼女の言葉を聞いた時、孤独に苛まれる僕に邪な考えが浮かんだ。
孤独が耽ける夜は、僕のその感情をさらに教唆しているようにも思えた。
『人間でいられない』『寂しい』なら全部捨てて幽霊になってしまえよ。なんて。
朝になってやっと、僕が考えていることの異常性に気づく。僕は暗闇に置かれると霊的な側面が強くなるらしかった。考え方も、人に向ける感情も。
だからもう、この際人間なんて来なくなればいいと思った。彼女は特に。
僕はこのまま、この廃屋で寂しく過ごすから、孤独と共に感情を忘れて朽ちていくから、それでいいから。誰かを幽霊にしようなんて思わせないで欲しい。
僅かに残った良心が僕をそう思わせたが、もうそんなものでは誤魔化せないほどに僕の心は霊的感情に毒されてきている。ふとした瞬間にはどうやって人間を幽霊に貶めようかと考えている僕がいる。目を逸らせないほどにその感情は僕を支配し始めているから、僕が出来ることは人間がこの家に来なくなるようにと祈るだけだった。
でもそんな祈り、誰にも届いていないんだ。
また今日も太陽が暮れ始める。僕が恐れていたことが早速、目の前に現れた。
軽い足音、床が軋む。昨日聞いたばかりの子気味いい音は確かに僕に近づいてきて、襖を開ける。
「やあ、昨日ぶりだね」
昨日見たばかりの笑顔で彼女が僕の目の前に現れた。
「なんで、来たの?」
「んーなんだか居場所がなくてさ。ここが丁度いい気がして」
「辞めなよ、こんなホコリ臭いところ居たって、しょうがないよ」
心そこに在らず、僕の本心はそんなんじゃない。
でも、言わないと駄目だ。
「えぇ、いいじゃん、私好きだよここ。もし幽霊になったらこんな所に住みたいなぁ」
だったら……違う。
もう、彼女の言葉全てが幽霊の僕の感情を表に出そうとする餌としか見えない。
硝子戸から斜陽が入る。それによって僅かに残った人間味が没落していく。
これ以上はきっと僕が僕でいられないと思ったから、急いで目を瞑って口を閉じた。それを見て彼女は「どうしたの?」「どこか痛いの?」と見当違いのことを聞いてくるが僕はとにかく知らん顔を突き通す。
やっと彼女は黙って、前のように畳に寝そべった。僕はひとまず安堵の溜息を零すが、それを彼女の聞かれてしまった。
「ねぇ一つだけ聞かせてよ」
窓の向こうの家の屋根に沈んでいく太陽が見えた。もう、今の僕は肯定も否定もしちゃいけない。そのどちらでも関係ない、今の僕が口を開いたらきっと、そのどちらでもない言葉が漏れる。
「答えないなら勝手に聞くよ?」
僕の苦労も知らないで、彼女は話を進めようとする。僕が返事をしない時間は刻々と斜陽を深める。
このまま行けば、日が暮れて、僕は僕でなくなってしまう。だから早く彼女を帰さないといけないのに、既に僕の口からは良心の含んだ言葉を出せる自信はない。今、口を開いて出る物は彼女を貶めるためだけの言葉。
己の孤独を埋めようとする利己的な言葉だけ。
もう、口を閉じるしか方法はない。
「ねぇ…」
部屋の東側から闇が迫ってくる、西日はもう、消えかかっていた。
斜陽が落ちる。
彼女が次の言葉を発するために一息吸う間に部屋は暗転した。暗澹たる顔の僕がいる。
何かが崩れる音がする。
『ああ、そうだった。僕は幽霊だ』
日の落ちた部屋で彼女が聞く。
「幽霊って楽しい?」
「うん、楽しいよ」
僕は笑って即答した。濁りの無い言葉で彼女に答える。
「貴方は寂しいんだっけ?」
「まぁ、そうだね。誰と話してもさ、結局、私を分かってくれる人なんていないんじゃないかなって」
僕は深く頷きながら彼女の話を聞く。
「人前で笑顔でいるのも、もう疲れたんだ。でもね、そうしていないと私に居場所はなくてさ。人間でいるって大変だね」
「そうだよね、人間って生きてるだけで辛いよ。逃げ出したくなったって君は悪くない」
僕の言葉で彼女の笑顔が僅かながら光を取り戻している気がした。
「そう、だよね。ずっと自分を押し殺してたら苦しいだけだもんね」
「そうだよ、だからさ、逃げればいいんだよ」
教唆。誰かがそういった気がした。でも違う、これは処世術を教えているだけだ。
「でもさ、どうしたらこの苦しみから逃げれるのかな」
彼女が漏らした苦悩の汁を啜る。腹の中で僕が笑った。
「それは君が一番分かってるはずでしょ?」
彼女は首を傾げる。仕方がないから、笑って教えて上げた。
「幽霊になればいいんだよ」
「…え?」
「だってそうでしょ?幽霊になれば君が思う煩わしいことなんて何一つもない、自由な暮らしができるんだよ」
「でも…それってさ」
その時初めて、彼女の顔から一瞬だけ笑みが消えた。
「私に死ねって意味だよね」
「別に僕は死ねって言ってるわけじゃないよ?ただ、生きて苦しむのか、死んでから自由になるのかだったら君はどちらを選ぶって話」
「でも私は…」
そんな煮え切らない、甘ったれた言葉を零そうとする彼女に僕は追い打ちをかける。
「何をそんなに悩んでるの?そもそもさぁ、幽霊と人間の違いって生きているか死んでいるかだけなんだよ?他は全部同じ。それなら楽な方を選んだ方がいいのは簡単な話でしょ?」
彼女は遂に下を向いて黙り込んでしまった。こんなんじゃ駄目だ、もっと深く傷口に入り込まないと。
「君はさ、居場所がないって言ったよね?きっとそれは君が誰にも愛されてないって事の裏返しなんじゃないかな」
その時の彼女の顔と言ったら。恐らく、ずっと目を逸らし続けてきたものだったんだろう。それを僕が目の前に引きずり出してやった。
でも僕はちゃんと救いの手も差し伸べる。
「もうさ、生きていても苦しくて誰にも愛されてないなら、幽霊になりなよ。ひとりじゃない僕がいる。僕は君が何よりも必要だと思ってる」
「私は…」
「幽霊になってさ、夜、一緒に月を見ようよ。春には蝶を目で追ってさ、夏は蝉の音に暑さを思い出すんだ。秋には落ちる葉を数えてね、冬は降る雪をただ眺めているだけってのもいい。ずっと一緒にさ」
「私…」
さあ、もうすぐ。命火が揺れて、消えるまで。
「死んでしまえよ」
「…うん」
彼女は重く、首を縦に振った。それで決心が着いたのか急に顔を上げて。
「私、死んで幽霊になる」
と宣言した。僕はその言葉を聞き逃さない。急いでキッチンに駆けていって包丁を一本取ってきてやる。
僕はそれを彼女の前に差し出した。
「痛いのは一瞬だよ。すぐに意識が途切れて、目が覚めたら僕と一緒の世界だから」
「うん、すぐ行くから、待っててね」
ぎこちない笑顔でそう言われたから、僕は満面の笑みで返してやる。
「もちろん!」
震える手で彼女は包丁の柄を握った。暗闇の中で包丁が鈍く光る。それを彼女が自分の手首に包丁を当てようとするから僕は優しく教えてあげた。
「駄目だよ手首は、すぐ血が止まっちゃうからね。切るならここ」
僕が指さしたところは首。頸動脈がある。
彼女は僕が教えた通り、包丁を首に当てた。それだけで、もう既に呼吸が荒くなっている。
そんな調子で彼女は数分、包丁を首に当てたまま、一向に切りつけようとしない。僕は彼女に触れないから彼女が自分で刺すしかないのが何とももどかしい。
彼女の震えは時が経つほど大きくなる。呼吸も不安定なものになり、恐怖を含んだ笑みがずっと彼女の顔に描かれ続けている。
そんな彼女が口を開いた。
「ね、え。ゆう、れいってさ。どんな、の?」
時間稼ぎか、冗長に言葉を発しているだけだと思ったが優しい僕はその質問に答えてやる。
「楽しいよ。ずっと自由だ」
「ね、え。私って、ほんと、に。あいされて、いないのかな」
「残念だけど君の行きずらさがそれを物語ってるんじゃないかな。僕だけは違うけどね」
彼女は顔を伏せた。今度はどんなことを言い出すのかと思っていたら、暗闇の中でも確かに、彼女から水滴が落ちるのが見えた。
次の瞬間に顔を顔を上げた彼女は泣きながら笑って。
「ねぇ。私、本当に死んでいいのかな?」
その時何故か言葉が詰まった。急に言葉が何一つ出なくなった。胸の奥、何かがつっかえて言葉が出ない、その代わりに頬を何かが伝う。
何も言えないから、何かがつっかえるから、何かが頬を伝うから、その情けない顔で僕は首を縦に振った。
彼女は僕が首を振り終えた後、とっても嬉しそうな泣き顔で笑って、包丁で首を切りつけた。
真っ白な肌に真っ赤な血が地面に向かって落ちていく。一瞬で畳は血の海と化した。彼女はその上に倒れ込む。
頭の中でデジャブがあった。僕はこの景色を知っている。僕は一度、この海に溺れた。
目の前に微笑を浮かべる人がいるの覚えている。
彼女の赤い唇は青く、肌はきっと冷たい。
傷口からは絶え間ない流血、彼女は笑っている。
僕は泣いている。これはきっと僕の心に残った僅かな良心だ。
いくら僕が寂しかったからって君を幽霊にしようとしたのは流石に悪いとは思ってる。でも、君も寂しかったんだろう?
苦しみから逃げたかったんだろ?
なら、悪いことなんてひとつもない。教唆なんてどこにもない。真実だけを僕は言っていたんだよ。僕は君とずっと一緒。
お互いの孤独が今、合わさって無くなったんだよ。
ああ、満足だ。僕はやっと、ひとりぼっちじゃないんだ。やっと。
満たされた心があった。彼女から血が溢れる度に僕の心が埋まっていく。その時、僕の体は彼女の血の海に体半分、沈んでいた。それはどんどん僕の体を飲み込んでいく。
ついに全身、血の海に飲み込まれて、その後は深い洞穴にでも落ちているかのよう。
一瞬なんだろうと思った。でもそれはすぐに分かる。
ああ、そうか。
僕は満たされてしまった。
だからもう、幽霊でいられない。
遠のいていく君が笑っているのが見えた。君が目を覚ます時、そこには僕はいない。
僕はなんて愚かなことをしたんだと今更にほかならない気づきを持って、深い、地獄に落ちた。
私は幽霊だ。世間一般的に人が死んだ後になると言われている、あれだ。
私はそれを自覚している。
いつも一人で真っ赤な畳の上、硝子戸越しに四季を眺める。その景色を語り合う友はない。
夜になるといつも私は孤独に怯える。
いつしか私は孤独に飲まれる。仲間が欲しいと嗚咽する。
人間を幽霊にするために包丁を研ぐ夜が今日も耽ける。
こんな小説で君は泣かないだろうけど。