#3 『起こり』
この森での我の食物は精々、鳥や袋で飛ぶ獣が叩き落としたり食い残したりした木の実や、低い木の果実、苛烈な縄張り争いにでも敗れたのであろう力なく横たわる獣などだ。
豊かな自然というのはそれだけ殖える者たちによる縄張り争いが行われている。十分に足りているからこそ殖え、殖え過ぎるからこそ不足し奪い合う。歩きすらできぬ仔のために小さな領域を巡って、糧を巡って、明日を巡って……貪る。食い合う。叩きのめす。
所詮は微小な小競り合いだが、どこもかしこもそれが絶えない。この険難な森の中に在って何故ここには他の動物が寄り付かぬのかと、か細く入ってくる外の光を見ながら考えていた。
森の南西にある、我が死前の真の肉体が入る程の大きさの洞窟。周囲三長(約210m)に及んで虫一匹すら見たことがない。奥行きの最も深いところで我は今、――――
――草を練っている。遊んでいるのではない。平たい石の上で握った手ほどの石を滑らせるようにして、その間で薬草を擦り潰しているのだ。
要点は徐々にやること。徐々に、徐々に、薬草ではなく平石を削るようにやると最も順調に糊状になる。
これを先程枝の先に引っ掛けてできた傷に掌で掬って塗り込む。塗り込む。
ぷくッ――ぶくぶく
ズクズクと焼けるような感覚が淡く傷口を包む。成功したらしいな。
もはや慣れたものだ。都合八度目ともなれば。
✕ ✕ ✕
この体を得てからおそらく五日目。とりあえず分かったことは、この体がどうしようもないほどに脆弱だということだった。
まず当然のことながら肉体に対するあらゆるものの尺度が大きくなっている。我が体長(約69m)と比較したアキの樹木の比長や土の粒子に混ざるガラス質が肉眼でもここまではっきりと確認できたことから間違いない。まあ別世界に転移したとあれば話有り得る話だが、それが出来るほどの魔力は無いし、それが出来るような術ではなかった。
と、あれば我が同じ世界に生まれたこと、我が魂がこの忌々しい弱者の枷に掛けられたことはすぐにわかることだった。
我を殺したあの憎き直立歩行型の知性崩れどもと似たような体格。あのカスどもよりは贅肉は少ないが、その分膂力・耐久力も薄弱なものと見える。ああ、忌々しい。忌々しい。忌々しい。忌々しい。
ガッ…!!!
薬草の糊ごと固く手を握って平石に振り下ろした。柔らかい手の肉がぺちと弾けた音と少し擦り剝けて薄い表皮が毛のように立ち上がり、ジンジンとえづいて痛みを訴えているようだった。反対に叩かれた石板の方は黙って何事もなかったような冷静さがあるように見えた。そこらへんで拾った石にすら見下されているような気がして、もう何度目かわからない激情と無力感とに苛まれた。
そうなのだ。何より鱗がないのだ。我の真の肉体を覆っていた鎧たる竜鱗がなく、些細なことですぐに出血する。小石一つに躓いて手を付いただけで手が内部外部で血を噴く。
知性の欠片もないような魚どもにさえ鱗があるというのに偉大な鱗獣よりもあとに地上に湧いたという毛獣どもは愚かしいことに自ら鱗を脱ぎ去ったらしい。その毛で何が守れるというのだ。まこと、愚かしい。
悪態をつきながら今しがた余った薬草糊をひり、と痛む手に擦る。感情に流されて怪我を増やした己に余裕が無いことが思い出され、冷静になるためにと、二度深く吐いて吸った。
………我も我だ。この体の弱小ぶりを忘れて八度も体をぶつけた。平衡を保つ感覚が鋭すぎるが故に勢い余って洞窟の壁や樹木に何度も衝突してしまう。一足の距離が違うために思いがけず平衡がズレて転ぶ。我が真の肉体よりも体が軽く動くのもあるだろう。どうにも反射が速く、加減ができない。
体性感覚が鋭く、軽く、比率の全く異なる体。おそらく慣れれば不利ではないが、時間を要する。
それまではのそのそと生まれたての獣のような緩慢さで地を這うしかあるまい。
外に目を遣れば、はぐれた川のようだった細く弱い光がいつのまにか勢力を増して洞窟の半ばまで黄色く照らしていた。
1日がようやく終わるか。これで、おそらく我が目覚めてからの五日目が過ぎる。
先程からソレが「おそらく」と言っているのは、二度目の気絶があったからだった。
ソレは起きてすぐ、己の境遇を悟った後、憤怒のままに叫び続けた。意識などとうに無く、怒りを発露するだけのもはや動物とすら呼べぬような地獄から這い出た牙の生えた芋虫の化け物のような甲高い絶叫をするだけだった。
この『今』を受け入れる儀式にどれほどの時間を要したかが分からないのである。覚めた後には数日寝たような鈍く暗い重たさがあったし、それを鑑みれば叫ぶのにも二日は使ったかもしれない。その後数日の記憶には海水を乾かして残った塩ほどの体力をどうにか足に集めながら木の実と肉質のある何かを食べたことが不均一に残っている。霞む目、朧げな耳、空に浮いては槌で地面に打ちつけられているような足取り、どこまでも追ってくる血の香り。それが自分の口内と擦り傷だらけの体表から漂ってくるものとも知らずに、獲物を貪った恐ろしい獣に付け狙われているような空気配で警戒心を張り続けながらも、どうにかここまで回復したのだ。忌々しい。忌々しい。忌々しい。
…………………。
………………。
…。
受け入れなければならない。
時間だ。
この苦痛の時代を耐えねばならん。
魔力は時間で伸ばせる。
体力もだ。
全てを失ったわけではない。
龍としての生が確かにあるのだ。
我が歴史は脳にある。
――力をつけることが最合理だ。