#1 無魂叫呼
ポタッ…ポタッ…
雨だろうか、顔に落ちた水滴を、何か大きく柔らかいものが拭っていく。
開いた目の先には見知らぬ生き物の顔がある。おそらく雌だ。どうやらこいつの涙が、我にかかったようだ。雪も降っているが、粒の当たった重さから涙だと確信した。
――どうした、なぜ涙を流している。そもそも何故我が抱えられている?
額に、そっと唇を押し付けられた。
――何をする、なんだというのだ!
彼が暴れるとそれは目を細め、微笑みとを漏らしながらも、なぜか潤んだ目で笑いかけてきた。
――なんだ…?なんだこれは…
雪降る景色の只中に佇んでいるはずだというのに…
それはもう一度唇を押し付けてきて、覚悟の決まった顔で我をどこか暗い場所へとゆっくり置いた。
そして背を向け、降りしきる雪をかき分けて歩いて行く。
――待て、待て!どこへ行く!!我を置いて行くのか!?待て!待ってくれ!!ま、
「イカナイデ!!」
バキィィイイン!!!
目が覚めると、そこは暗い洞穴だった。どうやら夢を見ていたようだ。
なんだあれは、記憶か?あんなものを見た覚えはないのだが……。
やけに鮮明に映し出された映像に戸惑いながら、それは考える。
あれは一旦置いておくとして、ここはどこだ?これは……我は……?我の名は…?
…………竜。そう、我は竜だったはずだ。名は…いかん、思い出せん。
それは自分の名を忘れていた。言葉は覚えている。術に関する知識も失ってはいない。しかし、それ以外、己が如何なる過去を持ち、如何なる未来を展望していたのか。存在そのものともいうべき生の積み重ねがそれの中から取り去られていた。
しかしこれだけは覚えている…術は発動した!!我は死を!忌々しい死を裏切ってやったのだ!!
それは歓喜に満ち溢れた。死を謀り、運命を捻じ曲げ生き永らえた。もし次に死ぬようなことがあろうとも、何度でも何度でも生を繕える。そう思うだけで700年という歳月が少し報われた気がした。
しかし不思議だ。体はどこから発生したのだろうか。この青白い透明な卵のような……それにしては見事な球体だが。
それは浅い洞窟の最奥に置かれていた。薄いが硬く、叩くとポーンといった音がする。金属ではない。これが世に聞く“がらす”なのだろうか。飛び起きたときに割れたようで、破片が遠くまで飛び散っている。
我はここから生成されたのか?我の体と何か関係が?それともまた別の体なのか?ここが死んだ場所とかけ離れた光景であるということを考えるに…
ぐぅぅぅぅううぅぅうぅぅぅ。
ムゥ……まずは食と住だな。とりあえず外に出ねば。おそらく巨大な洞窟なのだろう。前腕で壁に触れていればいずれ出られよう。
どれほど長い時間眠っていて、体がどれだけ弱っているのかもわからない。慎重にだ。魔法も使うな。慎重に…。慎重に………。
慎重に歩く。先ほど自らがぶちまけた卵の殻の破片を踏まぬよう、掴み切れぬ体の感覚をいたわる様に歩く。
先程は興奮しすぎて気にならなかったが、ザザーっと多量の雨が地を打つ音がする。
少し斜面のある洞窟を遡り、少し明るい世界が見える。
もう少しだ。どうか食物のある場所であってくれ。
それは祈った。
今度こそ雨が降っているのが見えた。
それは理由もわからず走り出した。自然現象をその身に感じることで、味わいたかったのかもしれない。手放さざるをえなかった生というものを。
浮かれていたのか、或いは無意識か、走る勢いのままに、洞窟の作る暗闇と雨雲が映す大地の陰の境目を大股で飛び越えた。まるで今までの己と決別するかのように、新たな生を祝福するかのように。
そうしてそれは雨に溺れた。身体を打つ大粒の雨が心地良い、天を仰ぎその雨粒が喉を通り抜けるのが心地良い。
それはしばらくそうして生というものに歓喜し酔いしれていた。
雨で白月が見えずどれ程の時間が経ったかわからないが、少なくとも1日の12分の1はそうしていた。
ふと、今度は足元を見た。
目の前に大きな水たまりがある。
体の状態を確かめようと覗き込んだ。何か異常があっては大変だと思ったからだ。
竜の体ではなかった。
己を殺した憎き二足歩行の魔物たちと見分けがつかないような姿だった。
それがヒトという種族だと知るのはその日からちょうど2年後のことであった。