第七話 これからも楽しいことしましょうね
月曜日。学校から帰宅したあと、いつもどおりはかどらない勉強に悶々としていると、とんとんとノックの音がした。
返事をする。ドアが開くとそこに大きなスポーツバッグを肩にさげた琴吹さんが立っていた。
「お邪魔します」
と、言って彼女は俺の部屋に足を踏みいれた。
――……?
違和感があった。
前は、
『先輩、わたしと楽しいことしましょう!』
などと無駄に元気よく言ってやってきたのに、今日は声に張りがない。
「琴吹さんでもお邪魔しますって言うんだな」
「出会い頭のディスりに驚きを隠せません」
などと言って両手をぱっと広げたが、やはり表情は冴えない。
「いや、ディスじゃなくて、前とセリフが違うなあって」
「なんだ、しつけを受けてない野生児呼ばわりされたのかと思いました」
胸に手を当てて「ほっ」と息をついた。
俺はスポーツバッグに目をやる。
――今度はなにを持ってきたんだ……?
迷惑に思う気持ちのなかに、ほんの一さじだけ期待感がある。
バッグを床に置く。「どさ」とも「どん」とも音は鳴らない。
なにも入ってないのだろうか。いやまさか、琴吹さんが手ぶらでやってくるなんてちょっと考えづらい。なにか軽いものが入っているのだろう。
――軽いもの……。それでいてスポーツバッグが必要になるほどの嵩があるもの……。
脱脂綿? いや、持ってきてどうする。
羽毛……、枕か。ありそうだ。
あとは、スナック菓子とか。
琴吹さんがファスナーの引手をつまんで移動させた。俺は首を伸ばしてバッグのなかを覗きこむ。
バッグの口を広げる。そこには――。
――……?
なにもなかった。バッグの底板が見えるだけだった。
やはりなにも持ってこなかったのか? いや待てよ、そうか――。
「空気を持ってきたのか」
「先輩なに言ってるんですか?」
「それともトンチをきかせて虚無を持ってきたとか」
「先輩、いったん深呼吸しましょう」
俺は言われたとおり深呼吸した。脳に酸素が送られ、冷静になる。
「なにも入ってないな」
「正気にもどってくれて安心しました」
「つまり琴吹さんがバッグに入るんだな?」
「わたしの安心を返してください」
俺は首を傾げた。琴吹さんは噛んで含めるように言う。
「なにも持ってきていません。バッグだけですし、なんの仕掛けもありません」
つまり一番最初の予想が正解だったらしい。しかし正解にたどり着くことで疑問がかえって深まった。
琴吹さんはなんで空のバッグなんて持ってきたんだ?
表情に出てしまっていたらしく、琴吹さんは、
「持ちこんだものを持って帰ろうかと」
と、説明した。
それは俺が望んでいたことだった。だから「そっか」と相づちを打てばいい。なのに俺は、
「なんで?」
と、問いただすように訊いてしまっていた。
「いえ、その……、迷惑かと思いまして……」
琴吹さんはうつむき、プリーツスカートの折り目を指でつまんでいじっている。俺がなにか言うのを待っているようだ。
しかし俺は言葉につまっていた。「助かるよ」と一言そう言えばいいだけなのに、その言葉を彼女にかけるのがためらわれた。
「と、とにかく、持って帰ります」
沈黙に耐えかねたように言って、琴吹さんはたこ焼き器を鞄に仕舞った。つぎに、漫画をバッグの底板に敷きつめるように片付けていく。
少しずつ片付いていく部屋に、俺の気分は清々としていく――と、思ったのだが。
本が一冊バッグに仕舞われるたび、なにかが欠けていくような寂しさが募っていく。それは手つなぎ鬼の胃をさいなむような孤独感ではなく、胸を刺すようなちくちくした痛みだった。
琴吹さんが最後の小説を手にとったその瞬間、俺は声をあげていた。
「まだそれ読んでないから!」
琴吹さんは顔をあげた。背筋を伸ばしてきょとんとこちらを見る様子が、なんだか日向ぼっこをするミーアキャットみたいだ。
俺は咳払いをしてから、もう一度言った。
「まだそれ、読んでないから」
「読んでたんですか?」
「これから読む」
琴吹さんの顔がひくひくとしはじめる。溢れそうな感情を必死でせき止めているときの顔だ。
「しょ、しょうがないですね。じゃあ小説は置いていかないと」
いったん仕舞いこんだ本をとりだして積む。
「漫画も……」
「え?」
「漫画も、まだ読んでない」
顔の痙攣がさらに大きくなる。
「じゃあこれも置いていきましょう」
小説の隣に漫画の塔が復活した。
「あとさ、梨子にたこ焼きを食べさせてやりたいんだよ。だから」
「はい、じゃあたこ焼き器も置いていきますね」
俺の部屋はすっかり前の状態にもどった。
琴吹さんは演技がかった調子で言う。
「貸してあげるだけですから、また返してもらいに来ないといけませんね」
ちらと期待するような目で俺を見る。
「そう、だな」
「でも、またなにか持ってきちゃうかもしれませんよ?」
「うん」
「先輩の部屋、もっと散らかしちゃうかも」
「うん」
「足の踏み場もなくなるかも!」
「うん」
「……いいんですか?」
俺は言った。
「いいよ」
その言葉は案外すんなりと出すことができた。
「~!!」
琴吹さんは弾かれたように両手で口元を覆い、子犬が甘えるような声をあげた。目が泣いているみたいに潤んでいる。笑っているようだが、やっぱり顔を見せてはくれない。
隠されると逆に見たくなる。俺は琴吹さんの顔を覗きこんだ。彼女は視線を避けるように顔を伏せる。空のバッグを肩にさげ、逃げるように戸口へ向かう。
去り際、立ち止まり、顔を伏せたまま言った。
「先輩、また楽しいことしましょうね」
そして脱兎のごとく帰っていった。
――惜しい。
もう少しで希少な表情を見られるところだったのに。
あそこまでがっちりガードされると、なんとかして見てみたいという気持ちと、ちょっとだけ『悔しい』という気持ちが湧いてくる。
俺にだけガードゆるゆるな琴吹さんが、俺に見せたくない顔。
琴吹さんはどんなふうに笑うんだろう。いつか彼女が俺に笑顔を向けてくれる日はくるんだろうか。
「まあ」
俺はうずたかく積まれた本やたこ焼き器を見た。
――ゆっくりでいいか。
俺は漫画を一冊手にとって読みはじめた。
これにて序章終了です。
次回からこのお話の肝とも言える『おうちデート』が始まります。甘さと癒し増量でお届けしますのでお楽しみに!